崇永記   作:三寸法師

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◆4

〜1〜

 

 

 貞和三年(西暦1347年)九月十七日、室町幕府軍と楠木正行(まさつら)軍の競り合いがもう間も無く佳境に入ろうかという時分となり、俺は総大将・細川顕氏(陸奥守)による戦勝祈願の式に顔を出すべく、誉田八幡宮を訪れていた。

 決戦を前に何を悠長なと思わないでもない。しかし、豚カツ(細川顕氏)との関係が拗れかけている今、あながち無碍にできないのも確かだ。

 更に言ってしまえば、進んで参加すべき理由は他にも存在する。

 

 

「おお。六角殿、心配しておりましたが無事お越しのようで」

 

 

範資(赤松信濃守)殿……誉田八幡宮での決起式となれば、佐々木惣領として参加するのは当然の事。()()村上源氏の貴殿も御同様でしょう?」

 

 

「ふふ。()()は余計ですなァ。さりながら、これは武将同士一致団結するための好機ですぞ。ゆめゆめお忘れあるな。宇多源氏きっての武門の御当主として、足利一門の顕氏(細川陸奥守)殿をお立て申し上げよ」

 

 

「……」

 

 

 連合軍として決戦を前に大将格が決起集会を行う。これ自体に異論はない。まして俺と豚カツ(細川顕氏)の間に距離が生じ始めたのだから。

 足利一門における従来の細川家の序列の低さはこの際目を瞑る。今や豚カツ(細川顕氏)は北朝で従四位下であり、足利庶流でも屈指の位置付けである。鎌倉時代の北条氏でも、最後の得宗の高時など従四位下が精一杯だった。豚カツ(細川顕氏)が足利庶流にしてそうした地位に就いている事実は、直視せざるを得ない。内心では多少釈然としないところがあるにせよ、実力で勝ち得た地位を態度では認める必要がある。

 

 

「分かっております。それより……確認ですが、佐々木惣領としての誇りは捨てなくて宜しいのですね?ここは容易く譲れませぬ」

 

 

「ええ、勿論。足利幕府は外様を見下す政権ではない。佐々木惣領を適切に遇してこそ、源氏諸家を代表して征夷大将軍になられた尊氏公の地位は盤石となり、細川家など足利庶流の時めきに繋がる。その道理は顕氏(陸奥守)殿も重々ご承知の筈。程なく示してくださろう」

 

 

「……ならば安心です」

 

 

 十数年以上前の六波羅探題勤めの北条一門ですら尊重しなければならなかった時代を思い出す。一族郎党の安全のため、平姓の北条一門に対し、表向き従順な姿勢を示さなければならなかった屈辱的な時代だ。あの頃に比べ、現幕府がどれだけ真っ当である事か。

 細川氏は庶流は庶流だが、足利一門。つまり、源氏の端くれだ。

 江戸時代(徳川幕府)の親藩のようなものと思えば、腹の虫も収まろうか。

 ()()()()()()()()事への抵抗感はずっとマシだ。当然、足利庶流の細川氏自身が、外様──例えば宇多源氏の佐々木惣領──をリスペクトしている事が前提ではあるが、そこに関しては差し障りないようだ。誉田八幡宮の決起集会というのが、源氏の心を(くす)ぐる。

 

 

範資(信濃守)殿。私はこれから顕氏(細川陸奥守)殿が何を話すおつもりなのか、おおよそ分かっております。誉田八幡宮の由緒だけではないでしょう」

 

 

「ほう……流石は西国武将の六角殿だ。武勇だけでなく知力もまた我が父円心に劣らず、一級品と見えますなァ。是非お聞かせを」

 

 

「些か褒め過ぎですが……ゴホン。範資(赤松信濃守)殿も源氏武将。八幡大菩薩が源氏の氏神である事、しかとご承知であられよう?この誉田八幡は応神天皇陵の隣にあり、我が国最古の八幡宮であるとか。源氏武将が多い幕府軍の士気を高めるために最適な地と申せましょう」

 

 

「お続けください」

 

 

「ええ。では敢えてここで結論から申しましょう」

 

 

 老将(赤松円心)の後継の範資(赤松信濃守)の聞き上手に流され、俺の舌は快調そのもの。

 しかし、俺も俺とて佐々木惣領だ。弁舌の術は人並み以上に心得ているつもりである。一拍置いて話し相手(赤松範資)の注意を引き付ける。

 

 

「良いですか?範資(信濃守)殿。落ち着いて聞いてくだされ。この氏頼(大夫判官)が愚考しまするに──尊氏公こそ八幡大菩薩の化身であらせられる」

 

 

「……ん?」

 

 

 宇多院の後胤・佐々木一族の本家に生まれて二十余年が経った。

 昨年(貞和二年)八月に先代当主(六角時信)と死別したが、依然として外様トップクラスの家格を誇る佐々木惣領らしく、室町幕府軍に名を連ねている。

 その俺が言うのだ。間違いない。そんな自信に満ち溢れていた。

 

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 誉田八幡宮での戦勝祈願の儀式直前、佐々木惣領の俺は同じ幕府軍の将にして名将(赤松円心)の嫡男・赤松範資(信濃守)と立ち話の真っ最中である。

 これでも範資(信濃守)の方が歳上なのだが、俺は名門の出としての自負であったり使命感であったりに駆られて、嬉々として喋っていた。

 

 

「前に今川家の御曹司より聞いたのです。尊氏様の御祖父、家時公が御自害に至った経緯(いきさつ)を。ほんにお気の毒な事でいらっしゃる」

 

 

「六角殿、御口挟み失礼を。今川家の御曹司というと範氏*1殿?」

 

 

「いえ、その弟の貞世*2殿です……話を戻しましょう」

 

 

 家時公御自害。この件の背景に霜月騒動があったのではないかと考える者は多い。当時既に有力御家人の安達氏が敗れ去り、得宗家や御内人の増長傾向が強まろうという最中、奇しくも当代の足利兄弟と同じく、北条氏ではなく上杉氏が生母の家時公は、心許ない立場にあった。そうした折に家時公は自害し、北条氏出身の正室との間に生まれた子どもが家督を継承。如何にも裏を感じる顛末だ。

 もし生母が上杉氏の尊氏様が甘んじて北条氏による鎌倉幕府の私物化を見過ごしていた場合、家時公(その祖父)と同じように腹を召し、母が北条一門の赤橋家出身の義詮──当時の千寿王──に家督を譲る羽目になっていたのではないか。そう思わせるに足る剣呑さがある。

 このように考えれば、義時泰時贔屓の生真面目な直義(弟殿)が、鎌倉幕府を一旦潰してでも、北条氏滅亡に前向きであった事に説明は付くだろう。直義の兄想いも()()……本物だからだ。実際、後醍醐天皇や護良親王、楠木・赤松両氏その他大勢の武装勢力が北条氏を滅さんとしていた機運に、直義もまた足利軍の幹部として関わった。

 しかし、それだけが理由ではない。いや、むしろそれ以上の重大な理由がある。源氏の誇りに関わる事である。事の発端は、家時公よりずっと前に遡る。誰もが知る英雄・八幡太郎義家公である。

 

 

「源義家公といえば──確か家時公より七代ほど前の」

 

 

「ええ。どうやら足利家に受け継がれていたらしいのです。七代後の子孫に生まれ変わりて天下を取らん。こうした義家公の御意思を示す文書が。足利家時公は、御自分の代では源義家公の宿願を果たせそうにないため、自ら命を断って三代後の子孫に生まれ変わり、悲願成就をと願ったそうです……それが御自害の真相のようで」

 

 

 確信めいた口調を保ち続けたまま、俺は心の内で思う。この話を今川貞世が知っているという事は、いずれ『難太平記』に記されるに違いない。足利の天下掌握の妥当性を示す論拠の一つとして。

 何はともあれ、結果的には貞氏、高義(尊氏様の兄)と続いた後、尊氏様が天下人となった。途中、建武政権というノイズはあったが、過渡期と見做せば良い。尊氏様の天下取りは道理に適う事だったのである。

 家時公は自害の際、八幡大菩薩に祈ったという。これ即ち、尊氏様の天下は八幡大菩薩に寿がれているのである。そう思うと俺ではなく尊氏様の神力こそ、応神天皇と同一の存在である八幡大菩薩の御威故ではないか。こう考えるのが妥当だろう。考えてみるに我が力は佐々木大明神──宇多天皇をはじめとする四座五柱──が根源なのではなかろうか。ここまで考えを巡らしたところ、範資(赤松信濃守)が源氏の自覚が足りないのか、迷った末といった様子で疑問を溢した。

 

 

「……しかし、どうしてまた足利家に?足利家の祖は、義家公の三男の義国公の子、義康公でいらっしゃった筈。御子孫は他にも多く流れが……ああ、いえ。決して御話を疑う訳ではありませぬが」

 

 

「そら、他の主だった源氏が次々滅んだからでしょう。足利氏は北条氏に近かったからこそ、逆に安全、いえ、家時公の件を含めても()()安全な立場にあった──それだけ源氏が危機的状況にあったとも申せましょうが──義家公は八幡大菩薩への崇敬特別篤い御方であったが故、足利氏の繁栄を見通していらっしゃったのではないでしょうか。それに足利家の祖・義康公は、源為義公の従兄弟であらせられたのですぞ?しかも義康公は頼朝公の従姉弟との間に後継ぎの義兼公を設けられ、義兼公は頼朝公の義妹を娶られたのです」

 

 

 つまり、足利家は源平の時代から、後の初代将軍・源頼朝の系譜と密接な繋がりがあったのだ。不幸にも頼家・実朝が命を落とし、足利氏は頼朝肝入りの北条氏との縁戚を保って残ったが、尊氏様の代になって遂に長い長い()()()の期間を終えた。八幡大菩薩が尊氏様に宿ったからこそ、平姓の北条氏の天下を終わらせ、大覚寺統の建武政権を壊滅させる事ができたと考えるのが道理に違いない。

 また、義家公から数えて六代目の河内源氏の棟梁が鎌倉幕府最後の源氏将軍・実朝である。北条氏がお飾りにするために据えた摂家将軍や親王将軍を無効と考え、足利家時公を仮想的に実朝の後継として考えてみよう。これもまた七代目である。ひょっとすると八幡太郎義家公には不完全ながら神力があったのではないか。それで足利氏に志を託したのではないか。こんな考えすら浮かんでくる。

 

 

「これは不躾な質問を致しました。六角殿、ひらに御容赦を」

 

 

「いえ。八幡大菩薩の御神威を分かって頂けたのであれば、何よりと存じまする。範資(赤松信濃守)殿。北条氏が滅び、続く建武政権も崩壊して、遂に尊氏様の天下となった。この思いを皆が共有する限り、我ら源氏は一つにござる。顕氏(細川陸奥守)殿も源氏の御大将。幕府の正統性について人一倍思いを致しておられる。だから八幡宮を集会場に選んだ」

 

 

「つまり……顕氏(細川陸奥守)殿の思いは六角殿と同じ」

 

 

「まさしく。この氏頼(大夫判官)を副将に据える器量をお持ちならば必ずや」

 

 

 足利の天下の背景にある源氏の悲願。誉田八幡宮で集会しようと呼び掛けるとは、豚カツ(細川顕氏)が源氏として我が六角氏や赤松氏を仲間と思っている証左を示したに等しい。粋に感じて然るべきだろう。

 尊氏様の天下も完全ではない。擾乱で直義と師直がぶつかる前に南朝の有望株・楠木正行(まさつら)を滅ぼす。これも尊氏様の御為だ。そう思えば相応のやる気が湧く。誉田八幡宮の社を前に決意を固める。

 これだけでも戦場祈願に足を運んだ甲斐があった。この時、俺はそう思って舞い上がっていた。後にどうして誉田八幡宮と目と鼻の先の古墳・応神天皇陵の木々の静けさを訝しまなかったのかと悔やむ事になるとも知らず、源氏の氏神の厳粛さに魅せられていた。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 幕府軍の武将が誉田八幡宮の境内に集結している。総大将の細川顕氏(陸奥守)に有力武将の俺や赤松兄弟(範資や貞範)などだ。勿論、無名ながら精鋭の名に恥ずかしくない武士たちも、列挙し切れないほど姿が見える。

 その人数に合わせてか、数千もの土器(かわらけ)が用意されているようだ。

 

 

「ッ……細川様。あれが?」

 

 

「応よ。近江国守護の佐々木六角殿だ」

 

 

「……顕氏(陸奥守)殿。この佐々木六角氏頼(大夫判官)、只今罷り越しました」

 

 

 見覚えのない武士を隣に控えさせている豚カツ(細川顕氏)に挨拶をする。

 八尾城攻撃部隊や天王寺残留部隊などを除き、誉田八幡宮での戦勝祈願に顔を出すべき武将は、これにて一通り集まったらしい。

 

 

顕氏(陸奥守)殿。六角殿は八幡宮というのが余程嬉しかった様子。水を得た魚の如くでござった。さて、これで主な者は皆揃いましたな」

 

 

「ブヒヒ。六角殿のお越しを嬉しく思うぞ。八幡様にお祈り申すのに佐々木惣領が不在では片手落ち故な。ブヒ、そうじゃ。紹介しておこう。地元武士の誉田殿だ。この者のお陰で抜かりなく此度の戦場祈願の準備ができた……さて、誉田殿。早速式を執り行おう」

 

 

 この戦勝祈願式が終われば、いよいよ幼馴染(楠木正行)との決戦である。

 正直なところ、気持ちが昂っていたせいか、式を通して豚カツ(細川顕氏)の祈願の口向上は、全くと言って良いほど耳に入ってこなかった。

 ただ八幡大菩薩──尊氏様の神威に圧倒されつつ、在りし日に思いを馳せていた。尊氏様に加えて、新田・楠木らの英雄たちが御新政の名の元、京に集っていた時代だ。あの時はあの時で、希望に胸を膨らませて前途洋々だった気がする。北条氏が滅び、もうすぐ建武政権も傾き、本当の意味で源氏による武家政権が誕生すると。

 正行(まさつら)を討てば、程なくして直義と師直の対立が本格化して、幕府の大名たちばかりか、衆目にも広く明らかになる筈だ。その先にこそ本当の尊氏様の天下が待っているに違いない。そんな事を思っている間に、戦場祈願は宴もたけなわだ。北朝武士がそれぞれ土器(かわらけ)を手に持って、同じタイミングで一気に酒を飲み干す運びとなる。

 

 

「では、六角殿。乾杯の音頭をお頼み申す。ここは八幡宮故な」

 

 

顕氏(陸奥守)殿……承知致した」

 

 

 守護大名が複数参加の幕府軍らしく、源氏の連合である事を改めて明確にしておこうという趣向だろうか。総大将の豚カツ(細川顕氏)直々に音頭のお鉢が回された。戦を前に歩み寄ろうという心遣いだろう。

 無碍にはできない。俺の土器にも景気付けの神酒が波々と注がれている。溢さないよう注意しつつ、俺は皆の前に立った。建武大乱から十年以上が経ち、とっくに少年武将ではなくなった。こんな仕事も涼しい顔で引き受ける。佐々木惣領は健在なりと示すのだ。

 

 

「総大将たる顕氏(陸奥守)殿の御言葉により、この近江国守護・佐々木六角氏頼(大夫判官)が音頭の役を引き受けた……今になって思い出すのは、やはり京を出た時の将軍の御尊顔である。尊氏様は安寧を守る事をお望みであった!正行(まさつら)との早期決着を願っていらっしゃった!あれから一月近く、遂に賊将を討つ機会がやって来た!まさに幸甚なり!」

 

 

「「「……」」」

 

 

「さぁ、尊氏様のため、敵を討とう!幕府軍の将兵たちよ、尊氏様は軍功にきちんと報いてくれる御方だ。正行(まさつら)以下、楠木党を須く滅ぼすのだ!殊勲を立て、京に凱旋する!その日は近いぞ!呑め!」

 

 

「「「ウオオオ!!!」」」

 

 

 やけに将兵たちの呼応の叫びが大きい。一瞬そんな馬鹿げた考えを持ってしまった。眼前の皆々も面食らっているようだ。一体誰がそんな大声を張り上げたのか。ただの雄叫びではないようだと。

 冷や水を掛けられたような思いとなって、俺は平静に帰った。

 するとどうした事であるか。酒の匂いの異質な事に気が付いた。

 同時に、外から兵が急ぎ駆け込む。尋常ならざる血相だった。

 

 

「敵襲!敵襲!墳墓の森から敵の伏兵が押し寄せて参ります!」

 

 

「「「!?」」」

 

 

 合戦の火蓋は不意に切られた。ここに居た武将も、後になって聞いた武将も、源氏の心を持っていれば皆思った。事もあろうに応神天皇の墳墓を戦に利用するとは何事かと。罰当たりが過ぎると。

 しかし、敵は楠木軍である。正行(まさつら)は軍神の(正成)と同じく、型破りな戦法で幕府の実力者たちを撃破できる。混乱し始める幕府軍陣営において、俺も豚カツ(細川顕氏)たちもその事を如実に叩きつけられていた。

*1
伯父の一人に、相模川の戦いで戦死の今川頼国。範氏は駿河守護となり、その血脈は戦国時代の義元・氏真親子に受け継がれた。

*2
後の今川了俊。室町時代初期を代表する武将の一人。『難太平記』の著者としても知られる。六角氏頼と同じ嘉暦元年(西暦1326年)の生まれであった。




長文注意!できれば最新刊読了後にお読みください
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 原作最新刊で松井先生が『太平記』についてコラム的なものを書いていらっしゃいましたね。敢えてこの場で一読者として補足させて貰うとするなら、一口に『太平記』と言っても様々な伝本・写本(西源院本、南都本、神田本etc.)があります。それはもう沢山。
 それぞれ記述の違いが大なり小なり見られます。例えば、同じ合戦でも赤松軍が頑張った、佐々木軍が頑張ったみたいに記述が別れるケースです。有力大名が一族の関係する箇所に関して書き換えるよう動いたのではと考える向きもあります。別の切り口から例を挙げると、佐々木氏が「天正本」で活躍を盛ったのではないか等。
 それと『難太平記』の存在は指摘しておきたいです。受験日本史でご存知の方も少なくないでしょう。『太平記』の記述はいかがなものかと今川了俊が考え、筆を執ったなんて言われるものです。
 『太平記』を扱う専門家にも、史学系の方もいれば国文学系の方もいます。松井先生以外にそうした方々にも頭の上がらない人間としては、自説云々の話は因果が違うのではないかと思う訳です。
 勿論、エンタメ作品として面白さのために各種史料を恣意的に摂取するのは自由だと思っています。ただ史学系は一次史料と矛盾しない範囲で自説の参考にして当然でしょうし、国文学系は各媒体の違いを突き詰めて考えるもの。必要に応じて逆も然り。両者とも先行研究の殻を破るため、先のものに過剰な肩入れはせず、距離を置いて考えて然るべき。こんな風にあれこれと愚考した次第です。
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