崇永記 作:三寸法師
〜1〜
完全に不意を突かれてしまった。佐々木惣領の俺は楠木軍の急襲に驚き、これ以上ないほど歯噛みした。応神天皇陵、もとい誉田御廟山古墳を伏兵の配置場所に使うとは奇想天外にも程があった。
確かに古墳が戦に活用される事例は知らないでもない。後の戦国時代に上杉謙信や石田三成が拠った丸墓山だ。しかし、誉田御廟山古墳は埼玉県の丸墓山古墳と違って、皇室の陵墓なのだ。仮にも官軍を自称する南朝方の楠木軍が軽々に用いて良いものではない。
第一、応神天皇と八幡大菩薩の関連性を思えば、正行軍のしでかした作戦は、八幡大菩薩……ひいては我ら源氏の一門や尊氏様への愚弄でしかない。俺は怒りで頭に血を昇らせ、地団駄を踏んだ。
「何という畏れ知らず!
「源氏の八幡大菩薩への崇敬を逆手に取られましたなァ。正成殿の御子息の才に偽り無し……六角殿、早急に立て直しましょうぞ」
「ッ……応!」
事ここに至り、同じ幕府軍の武将である
総大将はこれもこれで実績のある
しかも、
俺は自軍を藤井寺に置いて此処に来てしまったいたため、ひとまず総大将の
「応神天皇陵はこの摂河泉において仁徳天皇陵に次ぐ大きさを誇っている。楠木軍の動員兵力を鑑みれば、思うに伏兵の数は数百騎といったところでしょう。何の。慌てず粛々と立て直すが宜しい」
「……数百騎」
湊川の戦いを思い出す。当時、足利軍は五十万騎とも言われた大兵力だった。四国勢をして楠木党を新田軍と切り離して孤立させ、名将たちに狙い撃ちさせた。しかし、それでも正成は寡兵で繰り返し奮闘して、軍神らしい武名を遺した。ではその嫡男の
先には畠山軍に勝利し、今日は誉田八幡の謂れを完膚なきまでに利用して幕府軍の不意を突いている。八幡宮にいる武将や最精鋭はまだ良いが、すぐ近くの河原の北朝兵三千余騎がいつ恐慌状態に陥るか知れたものではない。はっきり言ってかなり危機的状況だ。
「六角殿。分かっておられようが、くれぐれも」
「……
「六角殿?」
目先の激戦に当てられ、俺の心拍数は急速に上がる。向こうの叫び声で、村田だか村上だかいう兵卒たちだの、
見たところ、楠木軍は実に精強だ。この俺がまだ斬り込んでいないとはいえ、幕府軍の精鋭を押している。だが、単純な強さだけではない。
「
「……成る程。確かに姿が見えない」
「チッ……この戦場にもはや甲斐はないか」
「六角殿、幸い馬は我が弟・貞範が手を回して無事にござる」
「……ならばまだ逆転の余地はある」
一瞬だけ元後醍醐軍の赤松家を疑ったが、やはり無用だ。彼らは武士を使い捨てる
先ほど
何はともあれ、こんな原因分析は一旦程々にして、切り替えるべきだろう。今すべき事は何か。浮かんだのは六角党たちの顔だ。
「
「……御武運を。
「直ぐに兵を連れて戻ります。それまでどうにか粘って頂きたい」
「心得申した。できる範囲でやってみましょうぞ」
少しでも早く最も信頼できる郎党たちと合流したい。藤井寺まで馬で駆けるついでに
騎乗状態となって名刀「綱切」を構える。楠木党はどう調練したのか知らないが、一人一人が精強そうだ。とはいえ、今の俺の武勇は彼らよりも異次元だ。風穴を開けてやる程度は十分できよう。
こうして、後の世で「藤井寺の戦い」と呼ばれる戦が始まった。
〜2〜
暖簾に腕押しという言葉がある。単騎で
流石にカチンと来たが、今は手勢との合流が先だ。悪党の息子が名門の出の俺に対してほざいてくれた、身の程知らずな物言いへの落とし前は、後でもできる。まず藤井寺に向け、疾くと駆けた。
「はッ……はッ……どう!美濃部!」
「は!」
「今すぐにでも誉田八幡に引き返して正行をギッタギタにしてやりたいのは山々だが、後だ!直ぐにでも藤井寺から我が六角党を動かさねばなるまい!お前は向こうの
「承知!殿、どうかお気を付けて!」
「分かっておる……さて」
忍びを東へ放ち、俺は西の藤井寺の方を睨んだ。どうやら楠木軍の別働隊の同時攻撃を受けているようである。敵将は
俺が暴れて追い払えば済む話なのだから。騎乗のまま、刀を高く構えて一呼吸置く。それからカッと目を見開き、全力で駆けた。
「我が精鋭なる配下たちよ!大儀である!氏頼が戻ったぞ!」
「「「!!!」」」
「ッ……氏頼がお出ましだ!退け!退けェ!」
「正時……いや、今は捨て置くべきか」
楠木軍別働隊は、俺の姿を見た途端に藤井寺への攻撃を中止し、素早く撤退し始めた。判断が迅速極まりない。臆病風に吹かれたというより、
一瞬、敵は藤井寺の六角党が当主の俺を敷地内に入れるための開門を狙ってワザと退却する振りを……とも考えたが、その線はどうやら無さそうだ。敵の撤退を確認した上で、俺は門を開かせる。
「兄様!お戻り嬉しく存じます!」
「
「それが……敵の矢に当たり、暫く足が使えそうにありません」
「何?」
話を聞いて俺は息を呑む。楠木軍は常習的に糞便を利用する集団である。軍神・正成から正行に代替わりして、そうした印象は薄れているものの、平地戦でも糞便が鏃に塗られていた場合、毒矢に匹敵する脅威になり得る。後遺症を含む懸念が生じてしまうのだ。
六角党は他家の軍に比べ、特に弓矢防御に長けているとはいえ、後継代理の
目を瞑って逡巡する。然して長考するだけの猶予はない。こうする間にも、俺は小姓から受け取った自らの頬当てを付けていた。
「……反省は後だ。
「兄様?」
「
既にはっきりしている。楠木
しかし、俺とて尊氏様の烏帽子子だ。一騎当万の土岐頼遠亡き後の外様筆頭武将としての自負がある。このまま黙って引き下がろうものなら、
「殿!」
「美濃部……もう向こうの、
「は!
我々が藤井寺において手早く出立せんとする間にも、すぐ東の戦況は目まぐるしく変わっているようだ。救援が間に合わない可能性を頭に入れなければなるまい。だが、それでも諦観は御法度だ。
我らの前から姿を消した敵軍・正時隊も間も無く南から通る形で誉田八幡宮へ押し寄せるだろう。そうなれば、名将の子である赤松
俺は周辺地図を脳裏に浮かべる。目指すは逆転勝利ただ一つだ。
「聞いたか?
「は……他に北朝で言うところでは
「如何にも」
「しかしながら……定詮は、兄様が勝つ。そう信じております」
次弟・山内定詮の純真な言葉に、俺は力強く縦に頷いて見せる。
ここからは楠木
この瀬戸際から勝負をひっくり返そう。算段は既に付いている。
〜3〜
足場は全く問題ない。ここから再戦だ。俺は東に移動し、決意を新たにした。一旦、頬当てを外して
勝てる。そう思って口角を上げる。本格的に乱戦が始まる前に高らかに叫びたい。勝つのは我々六角軍。将軍の烏帽子子なりと。
互いに許容できる時間は長くない。だから簡潔に言い放った。
「ゴロツキどもを排除する!」
「尊氏の前座を討ち取る!」
「「掛かれェェェ!!!」」
この九月十七日の合戦は最終局面へ移行し始める。後に佐々木一族の間では、東に通じる道で六角軍と楠木軍の乱戦が始まったと語り継がれ、軍記物語『太平記』の一部にその成果が収められる。
尤も、今の俺にとってそんな事は知らぬ存ぜぬ。ただ目の前の合戦に集中した。尊氏様のため、幼馴染の
鎌倉時代はとうに終わった。今時分の主流は乱戦だ。俺は決して乱戦が不得手という訳ではない。むしろこんな白兵戦が得意だ。
「目賀田、もっと前に押し出せ!青地、左翼を厚くせよ!」
「「御意!」」
これでも平地戦の嗅覚は幕府武将たちでも抜群の部類に入る。
あたかも空の上から盤面を俯瞰するように、臨機応変に指揮して戦を進めていく。だが、俺は違和感を募らせるばかりであった。
続けて忍びから報告が入る。俺は刀で敵兵を斬り払いながら忍びの声に耳を傾けた。
楠木軍の数百騎は顕家軍の幾万騎に勝る。どうやら楠木家当主が代わっても尚、この認識を念頭に置かなければならないらしい。
「殿!敵の数が次から次へと増しておりまする!」
「おのれ……各所に散った楠木党が集まっているのか」
楠木兵一人一人の歯応えは軽視せざるものだ。どこでそんな力を手に入れたのやら、高軍や桃井軍の精鋭すら上回るに違いない。
並大抵の武士団であれば、我が武を誇示するだけでも軽く蹴散らせようが、今回は相手が相手だ。そう簡単に問屋が下ろさない。
かと言って、近江国から多くの兵を連れて来ていればという簡単な話でもやはりない。此方が寡兵だからこそ、敗因になり得る隙を見せずに戦えているが、敵もまた精鋭であるが故に決め手を欠いているという状況だ。しかも、楠木軍は数が増えているといっても、その数は二千騎に届いてない。そのため、敵軍に馳け破れそうな隙が見当たらないのだ。しかし、勢いは当然、細川軍や赤松軍を破ったばかりの楠木軍にあり、対して我ら六角軍は中々逆転できない状況にヤキモキしている。誰よりも俺が痺れを切らしつつあった。
あくまで軍と軍で決着を付けなければならない。しかし、このままでは六度だか七度だかの鍔迫り合いで遂に敗走の赤松兄弟の二の舞を演じてしまうだろう。何か、何かが足りない。そう思った。
「太守様、申し訳ござらぬ!お留守の間、正時どもに
「謝罪は良いから敵を討て、小太郎。それにしても、
これもまた幼馴染の郎党、粟生田小太郎を嗜め、続けてもうそろそろ天王寺に辿り着く頃合いの三弟・光綱に思いを馳せた。確かに光綱は負傷したが、既に自力で熊を倒せる程に強くなっていた。
成る程、足りないピースは
「兄者!この楠木正時、及び和田賢秀が参りました!」
「……やったか!正時!?」
「はい!……六角軍よ、これを見ろ!佐々木光綱らの首である!」
「「「!?」」」
どうやら楢崎太郎左衛門ら、齢十三の
方々で細川軍や赤松軍を追撃していた筈の楠木軍の兵が、方向転換して
「我が弟を……この匹夫どもがァァァァァァァ!」
「兄様!?」
「何という威圧感……だが」
「今だ。賢秀」
「応よ」
やり場のない感情で堪らず咆哮を上げた途端、視界の隅に目掛けて黒い塊が瞬く間に通り過ぎる。何が起こったのか、直ぐには分からなかった。武勇を極めし筈の俺に敵の矢が当たるなぞ、近年想像だにしていなかったのだから。だが、異変は遅れて身に沁みた。
頬が熱を帯びている。力が抜けるような感覚がする。どうして。どうしてこうなったのか。尊氏様の御尊顔を思い浮かべ、同時に前後不覚となる。混乱が馬に伝わる。そこからは無我夢中だった。