崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 現代の藤井寺(葛井寺)には()()()()()なるものが残されている。細川顕氏(陸奥守)たちの幕府軍を倒した後、楠木兄弟(正行たち)が集い、「非理法権天」という旗を松に立て掛けたとされる。守護大名たちの連合軍であった室町幕府軍と違い、志を同じくする楠木軍の結束は非常に固かった。

 しかし、南朝軍という視座で捉えた時、果たして同じ事が言えるのだろうか。関東の一部豪族で南朝派に鞍替えする動きが出始め、九州では懐良親王の勢力が蠢動し続けていた一方、信濃国では宗良親王をはじめ南朝勢力の肩身が以前にも増して狭くなっていた。

 それもその筈。信濃国の南朝軍の主力を張るべき筈の諏訪頼継が幕府に降っていたからである。しかも、頼継は貞和三年(西暦1347年)九月三日に北朝政権(持明院統)から信濃権守の官位を授かっただけで飽き足らず、正式な信濃国司にするよう求め、実現させるような政治巧者であった。

 

 

「ね、祢津殿!今何と!?」

 

 

「……そこの弧次郎について一旦我らにお預け頂きたい。そう申しているのです、若君。信濃国における諏訪氏復権のため、何卒」

 

 

「ええ……?」

 

 

 かつての中先代こと北条時行(相模次郎)は信濃国の拠点で酷く狼狽した。

 無理もない。時行(相模次郎)は聞いていた話と違うと叫びたくなる思いで一杯になった。どうして今更、己が右腕の猛将・弧次郎を手放さなくてはならないのか。諏訪氏の北朝帰順がこんな形で響いたのか。

 幾ら弧次郎の育て親にして諏訪三大将の一人・祢津頼直がわざわざ時行(相模次郎)たちの潜伏地まで出向いての頼み事とはいえ、すんなり納得するのは土台無理な話である。今でさえ時行(相模次郎)は盟友であった筈の諏訪頼継の北朝恭順姿勢に、釈然としない思いを抱いているのだ。

 代わりに要求対象の弧次郎本人が口を開いた。勿論、弧次郎も俄かに納得し難い。遥か昔(十二年前)の勝長寿院での別れを思えば尚更。また、本当の父親らしき工藤高景の因縁から、北条家の人間であるという自覚をより強固なものにしつつあっただけに、戸惑いは一入(ひとしお)だ。

 

 

「訳を……せめて訳を聞かせてくれねェか?祢津様」

 

 

「……小次郎が京に呼ばれた。足利幕府の副将軍・直義公から内々の招聘だ。実質的に頼継様が、代理でも何でもない信濃国司になるための交換条件に近い。はっきりとそう言われた訳ではないが」

 

 

「「!?」」

 

 

 あの足利直義が祢津小次郎をマークしているらしい。幾度も小次郎の影武者として戦場で軍功を挙げた弧次郎は勿論、時行や玄蕃の頭にも不安が過ぎる。弧次郎はかつて直義の義弟・渋川義季(刑部大輔)を戦場で倒した過去があるのだ。無論、その手柄は弧次郎というより小次郎のものとして記録*1されているだろう。直義の意図とは一体。

 しかも、渋川義季の遺児・幸王丸は成長して近い将来の幕府重鎮になるものと期待されているに違いない。更に重要なのは、幸王丸改め直頼(中務大輔)の姉妹である。方や足利義詮(次期将軍)の正室・幸子、方や吉良満義(左京大夫)の嫡男・満貞(上総三郎)の妻である。渋川氏は今も足利一族の名門なのだ。

 

 

「小次郎は今も体調不安。長く京に居続ければ、必ずボロが出る。逆に影武者を送ったと思われ、元より北朝や足利幕府にとって疑わしい筈の頼継様の信用が地に堕ちてしまう。それでは困るのだ」

 

 

「そうスね……直義はオレが影武者だなんて知らないでしょうし」

 

 

 はっきり言って、弧次郎が義季(刑部大輔)の仇である事を承知で京に乗り込んだところで、肩身の狭い思いをするのは避けられないだろう。

 時行(相模次郎)は思う。直義の狙いは、自派の武力強化と諏訪頼継に未だ中先代の未練がない証を立てさせる事にある筈と。なれば、上洛してから騙し討たれる心配はない筈だ。とはいえ、直義は合理的に割り切ったとしても、周りの者たちは冷たい視線を送るに違いない。

 

 

(勿論、弧次郎は……それで思い悩むほど神経は細くないが)

 

 

「なぁ。疑問なんだが、最近の幕府は楠木の倅に手を焼いているって評判らしいじゃねェか。なのに何で諏訪が下手に出て、小次郎を差し出すような真似をしなくちゃなんねェんだ?おかしいだろ」

 

 

「玄蕃。祢津殿がはっきりそう言われた訳ではないと申されたじゃないか……だから簡単には突っ撥ねられない。そうですよね?」

 

 

「若君の仰せの通り……頼継様は小笠原家が貞宗から政長に代替わりして尚、風下に置かれ続けるのはマズいとお考えです。故に京で密かに起こり始めている直義(副将軍)派と師直(将軍執事)派の対立に乗じ、幕府の副将軍の懐に入って北朝の信濃国司にならんと。同守護の小笠原政長と対等に近い立場にならんとしておられる。幾ら楠木軍が勢いを増して幕府が動揺しようとも、この方針をそう簡単に曲げる訳には」

 

 

 幕府の中枢で骨を折り続けた京都諏訪家*2の顔にあまり泥を塗る訳にもいかない上、天下の諏訪大明神が朝令暮改のような真似をできる筈がない。大義の面でも大徳王城の戦いより遥かに難しい。

 仮にも日本国で三つある内の現人神だからこそ、判断の重みに気を遣わざるを得ないのだ。在りし日の後醍醐天皇の振る舞いは置いておくとしても。ともあれ、安易に南朝有利の気配がある故と御託を並べ、帰順したばかりでありながら北朝との縁を切り、後からそれが失敗だったと分かるとどうなるか。間違いなく失笑ものだ。

 もし天下の失笑を買えば、今度こそ諏訪大社は終わりであろう。

 

 

「今年五月に小笠原貞宗が逝き、やっと諏訪に復権の機が巡って参りました。早くこの機を活かさねば、諏訪は小笠原に劣るという今の序列が不動のものになってしまいます。若君、どうかお察しを」

 

 

「確かに……諏訪の皆には育てて貰った上、乱で率先して天下へ推してくれた恩義があります。頼重殿や時継殿は私のために死んだ。祖父や父を奪ったと頼継殿に思われても仕方ない。なのに頼継殿は大徳王城で確かに御助力を。既に北朝に降ってなお、私の信州住まいを黙認してくれている……もう天下を狙える立場にない私が迷惑を掛けるのは心苦しい限り。祢津殿、一旦と申されましたね?」

 

 

「その通り、向こうで何かあれば居続ける事はなく。若君におかれてはあくまで頼継様が明確に小笠原政長を超え、北朝や直義の庇護を必要としなくなるまでの一時的措置であるとお考え頂きたい」

 

 

「であれば」

 

 

「……若」

 

 

(そんなの、いつの話になるか分からねェじゃねえか……!)

 

 

 三大将の頼直の言い分は事実上の無期限勧告にも等しかった。

 祢津家で育てられた身として異を唱えづらい弧次郎だが、主従がそんなに長期間離れて良いものなのかと時行(相模次郎)に目で問い掛けた。

 

 

「弧次郎。このまま信濃国で燻っているのは不本意だろう?私の代わりに足利幕府の力の程を見極めて来て欲しい。それと……尊氏は十二年前の例がある。だけど、執事の師直は別だ。暗殺が狙えそうならサクッと殺って来るんだ。弧次郎なら十分できるだろう?」

 

 

「はぁ……そういう事なら」

 

 

 近年、高師直(武蔵守)室町幕府(足利政権)きっての剛腕の将として名高い。このままいけば、北畠顕家を討った名将として後世まで威厳が残り続けるだろう。ただ、逆にそれ程の武将が居なくなれば、足利政権は大きく弱体化するに違いない。秦国が王翦を失うようなものである。

 結果、やはり渋々ではあったものの、弧次郎は戦場に出ていた時と同じように小次郎として京という表舞台に立つ事を承諾した。

 古典『太平記』を読み進めていくと、祢津小次郎という人物に京都滞在期間がある事が分かる。それも緊張状態の京に居たのだ。

 果たして病弱な武将にそんな危ない真似ができたのであろうか。

 

 

「若君。応じて頂き、痛み入ります……詫びと言っては何ですが、幾らかの金品を御用立て致す。今後の生活にお役立て頂きたい」

 

 

「……ありがとうございます。ですが、祢津殿。私は決して何もかも諦めたという訳ではありません。直義派が師直派に勝った後は必ず尊氏との力関係が崩れて軋轢が生じ、私ども南朝方がつけ入る隙を見せる。そう判断して弧次郎を遣わすものとお考えください」

 

 

(どうなってんだ。弧次郎まで。これじゃ残りの逃若党は俺と──)

 

 

 まるで手切れ金のやり取りだ。玄蕃は狐面の裏で顔を顰めた。

 さては頼直は、甥の弧次郎がこのまま潜伏生活の時行軍に身を置き続け、天下の騒乱に関わる事なく一生を終えては不憫だと思い、こんな話を持って来たのではなかろうか。北条軍から祢津弧次郎という猛将がたとえ一時的であっても離脱するリスクは重かろう。

 そもそもあの宗良親王がこの話を聞いて良い顔をするだろうか。

 懸念事項が次々頭に浮かび、風間玄蕃は嗜めるように言った。

 

 

「おい、坊。良いのかよ。大体、その説明が親王に通じるか?」

 

 

「どうあれ、頼継殿の協力無しに挙兵は無理だ。是非もなく御納得頂くしかない。ただ、祢津殿。弧次郎の京行きについては出来る限り日延べできませんか?楠木軍の行く末が明らかになり次第という方針にして貰いたく……正行(まさつら)殿の大願成就の際は無かった話に」

 

 

「……頼継様にそうお伝えしておこう」

 

 

(斯く言ったが……私は楠木正行(まさつら)殿が大願を果たせると思えない。きっと楠木殿は御父上に負けない力を付けている。だけど、それ以上の力がそのすぐ東に。どれだけの将器があっても関係ないんだ。楠木殿も顕家卿もその大いなる力には抗えなかった。親房卿の東国でのお振舞いの噂が本当なれば……現在の南朝も昔と同じように)

 

 

 ずっと昔(顕家軍在籍時)に拝謁の機会を得た後村上天皇──当時、義良親王と名乗っていた──の姿を思い出す。無論、そうあって欲しいと思っている訳ではない。だが、不安は尽きない。吉野の公家衆がどんなであったか。()()()()が未来永劫消えないからこそ、顕家の死を誰より悔やんだ後醍醐天皇が、()()()()()を記したのではないのか。

 また、師冬(高播磨守)の関東統治についての情報を集めた副産物のようにして耳にした話もある。親房(北畠准大臣)は武士の扱いがあまり良くないとか。

 だから結城親朝(宗広の子)が北朝に寝返った。こんな話も無い訳ではない。

 一体全体、南朝の気風が今どうなっているか。時行は不安げに東南の空をチラと見る。不安が言い様のない程、増した気がした。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 十月に入り、室町幕府軍と楠木正行(まさつら)軍の戦線は膠着しつつある。

 現在、幕府軍の主将は山名時氏(伊豆守)、細川顕氏(陸奥守)、赤松範資(信濃守)、そして六角氏頼(大夫判官)といった守護大名たちである。紀伊国守護の畠山国清(阿波守)は本国へ戻り、楠木軍に背後への警戒を強いている。藤井寺や教興寺の連勝で天下に名を馳せた正行(まさつら)にしても、決して一筋縄で勝てる敵たちではない。綿密に準備をやり直した上で、初めて快勝が望める。

 後の観応の擾乱、もしくはそれ以降の戦績を鑑みても、今挙げた幕府武将たちは綺羅星の如き面々であった。一人一人、並の武将が勝てる相手では決してない。そんな強敵たちを正行(まさつら)軍は一手に引き受け、破らなければならないのである。しかも、その後に控えている決戦──恐らく出て来る総大将は高師直──を見据えながら。

 勿論、他にも考慮しなければならない事はある。南朝の総本山、吉野朝廷の意思である。戦術面は現場の正行(まさつら)たちに一任されているにしても、戦略面は果たしてどうか。北畠親房の匙加減一つだ。

 

 

正行(まさつら)様!本当ですか!?再攻撃を来月末頃に延ばせとは!」

 

 

「真だ。賢秀……十一月下旬に至るまで拮抗を保ちつつ、山名時氏(伊豆守)らとの戦に向けて力を蓄え直すべし。それが親房卿のお考えだ」

 

 

「何と……これだから御公家が戦略に口出しすると碌な事にならぬのです!南朝の公家衆は、湊川の戦いが起こる前に千種忠顕卿がしてくれた余計な口出しをお忘れか!しかも、よりにもよってあの顕家卿の御尊父が……任せると決めたからには全て現場の我らにお任せ頂ければよいものを!戦を知らぬ者の口出しはもう沢山だ!」

 

 

「口を慎め。賢秀……言い過ぎだぞ。親房卿は十一月末頃に勝敗が明らかになれば、幕府や北朝が年末年始に大慌てとなり、行事に手が回らず権威を低下させる。ここまでお読みで命じておられる」

 

 

「ハ!お公家様は我らと視座が違っていらっしゃるようで!これなら北畠顕能卿(親房卿の御子息)はさぞかし東の敵軍を脅かしてくれましょうなあ!」

 

 

「……賢秀。我が従兄弟なれば、そんな皮肉は止してくれ」

 

 

「しかし!」

 

 

「もう決まった事だ。これ以上の反発は士気を下げるだけと知れ」

 

 

 実のところ、九月下旬の教興寺合戦以来、室町幕府軍と楠木正行(まさつら)軍が再び全面衝突するまで二月もの空白期間が生じる事になる。

 幕府軍は軍神の再来・楠木正行(まさつら)への警戒心を強め、天王寺周辺で慎重な構えを堅持していた。古典『太平記』によれば、幕府軍の警戒心はかなりのもので、睡眠への影響を噂されるほど夜灯を明るくしていた。敵の夜襲で教興寺合戦の轍を踏む事を危ぶんだのか。

 

 

「案ずるな。山名時氏(伊豆守)は確かに統率力抜群らしい。しかし、あの夜灯にも副作用がある。何十日もまともに眠れなければ、将兵の質も相当落ちる。誰より影響あるのはあの氏頼(大夫判官)だろう。あれは変なところで神経質な男だ。安眠妨害で不貞腐れるのが目に見えている」

 

 

氏頼(大夫判官)……そう言えば、あの後結局生きているので?我が弓の腕前は弘法大師が筆を選ばぬが如く、矢を選びませぬ。されど、悪神祓いの矢と聞きましたが故、折角なら仏法守護の加護があればと放ち申した。もしや……あれこそ仏神である故、効かなかったとか」

 

 

 中世を生きる者にとって加護は単なる加護ではない。現代のアスリートたちでさえ、中には本気でオカルトに傾倒する者も居る。

 では、名将・楠木正行(まさつら)の場合はどうか。古典『太平記』では後に正行(まさつら)が危機を前にして、廟前で配下の結束を固める描写が在る。

 たとえ名将であっても、冷静に神仏の効果を利用する心と畏れ敬う心は、十分に両立し得るものだった。あの合理主義者の高師直(武蔵守)でさえそう(尊氏信者)なのだ。むしろその境界線は非常に曖昧なものである。

 戦前に至るまで人々に持て囃され続けた正行(まさつら)なら尚更であった。

 

 

「どうあれ変わらぬ。氏頼(大夫判官)は動揺し、身体に神祓いの矢を受けたがため一敗地に塗れた。もうあいつは前のような無敵に非ず。あの合戦以来、江州人からの信望は多少なりとも損なわれた筈。同族は別だろうが、それだけで十分に成果だ。今はやはり山名時氏(伊豆守)たちの方が気になる。恐らく山名氏の実力はあの高一族にもそう劣るまい」

 

 

「そうなのですか?……所詮、高一族の前座かと」

 

 

「賢秀。その認識は危険だ。今すぐ捨てよ。足元を掬われるぞ」

 

 

「……何と。そこまで言われますか」

 

 

 楠木正行と和田賢秀は従兄弟同士である。方や軍神・楠木正成の息子で、方やその弟の正季の息子という間柄だ。湊川の戦いで共に父親を失い、それ以降ずっと雪辱を晴らさんと志を同じくした。

 故に気心はお互いかなり知っている。それだけに驚きは大きい。

 

 

「もし山名氏と高一族の間に違いがあるとすれば、仮に当主が敗れた時に幕府(足利政権)がどれだけ揺らぐかだ。山名時氏(伊豆守)とて数ヵ国の守護を務める大物だが、現状の武名はまだまだ高師直(武蔵守)に及ぶまい。実力自体はそう変わるまいが……いや、高師直の名が突出し過ぎているというべきだな。師直は九年前、顕家卿を討って天下に名を轟かせた。同じ高師直でも、矢作川などで敗れ、主君(足利尊氏)の出陣で何とか持ち直した頃とは格が違う……だが、それが必ずしも良い事とは限らん」

 

 

「要は……今の高師直が一度でも負ければ、幕府そのものの武威が疑われる。鎌倉幕府(北条政権)は幾度も大軍を出動させながら楠軍征伐に失敗して堕ちたが、尊氏が師直(将軍執事)を行かせ敗れた場合、ただの一戦で」

 

 

「そう。今でさえ細川・赤松・佐々木連合軍の敗退で威信が傷付いているんだ。その点、流石に師直(将軍執事)程の実績はない山名の方が、まだ万一の挽回が効く。敵はよく考えてる。藤井寺や教興寺で負けたからと安易に量より質の方針を転換して尚も我らに負ければ、北条の二の舞だと即座に気付いた。まぁ、次も我らが勝てば、流石に足利幕府も一戦に捲土重来を期し、大軍を送って来るだろうが……」

 

 

(まだ姿を現さぬ敵将で真に万人を率いるに値する者は足利兄弟や高兄弟、斯波(尾張)高経(修理大夫)らで残り少ない。尊氏は近年深刻な貴族化傾向で直義は弱将。斯波(尾張)()()()()の一件で尊氏と遺恨があるという。やはり二戦目に高兄弟が出て参る。だが、まずは山名を討たねば)

 

 

 残り二つ。残り二つ勝てば積年の悲願が達せられよう。正行(まさつら)はそう睨み、次の合戦に思いを馳せる。この際、次の戦までどれだけの日数を要そうとも構わない。大事なのはいざ戦が始まれば、二戦目の師直(高武蔵守)に情報利用されないよう、短期間で勝ちに持ち込む事だ。

 迫り来る山名時氏(伊豆守)たちとの合戦の日付は十一月二十六日である。

*1
なお、古典『太平記』で渋川義季は自害したものとされている。

*2
諏訪円忠など。天龍寺造営に携わるなど活躍著しかった。

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