崇永記   作:三寸法師

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▲9

〜1〜

 

 

 ここでかなり先の話をしよう。室町幕府の三代将軍・足利義満は謂わゆる明徳の乱*1で山名一族の勢力を大幅に削ぎ落とし、真の全国支配を確立。翌年の南北朝合一に踏み込む事になるのである。

 その山名氏は元々、河内源氏でも足利一族より新田一族に近い血筋であった。しかし、山名時氏(出雲守)が最終的に室町幕府より領有を認められた美作国、因幡国、伯耆国、丹後国、丹波国に加え、その没後も但馬国、和泉国、紀伊国であったり、備後国、出雲国や隠岐国であったりを得て、全盛期にもなると計十一ヶ国を支配する桁外れの巨大勢力に成長していた。これに由来する用語「六分の一殿」は、高校日本史を履修していれば、何処かしらで小耳に挟むだろう。

 然して貞和三年(西暦1347年)時点ではどうか。後の最盛期に比べれば、まだまだ発展途上と言える。とはいえ、時氏(伊豆守)は当時から既に複数の守護国を任され、幕府武将たちでもトップクラスの高評価を得ていた。

 

 

「良いか、息子よ。我ら山名氏は今でこそ将軍家のお陰で人並みに暮らせているが、元弘以前はただの民草のようであった事をゆめゆめ忘れてはなるまいぞ?世渡りは辛く険しいもの。戦もまた難しいものだ。驕ってはなるまい。足元を掬われたくなくば、尚更に」

 

 

(……またこの話だ)

 

 

 これとほぼ同様の時氏(伊豆守)の言葉を、後の今川貞世(了俊)著『難太平記』が載せている。かなり冒頭にあることから、貞世(了俊)にとっても子孫に教訓を残す上で、興味深い発想だったのだろう。時氏(伊豆)の生母が足利(上杉)()()()叔母(息女)であるため、発言内容の信憑性について疑問は残るが。

 何はともあれ、楠木正行(まさつら)討伐という使命を帯び、名将・細川顕氏(陸奥守)にも並ぶ幕府軍大将に任じられたという事実は、山名時氏(伊豆守)にとって相当重かったに違いない。山名一族の更なる発展が、この合戦に掛かっている。そんな父時氏(伊豆守)の思いを嫡子の師義(左衛門佐)は実感していた。

 

 

(父上は私に言い含めるようでその実、御自身に言い聞かせようとしているのだ。赤松氏はまだしも、佐々木六角氏や土岐一族ほどの外様の名家を指揮するのは父上も初めての御経験。着任して一月以上が経っているが、そう簡単に慣れるものではない。特に氏頼(大夫判官)なぞは尊氏公の烏帽子子。その武力同様、御気性も到底並ではない)

 

 

「父上。氏頼(大夫判官)殿の事、やはり気にされておいでですか?」

 

 

「……結局、この時氏(伊豆守)には従わなんだ」

 

 

「あれはもう意固地になっております。父上が譲歩されたと申しますのに、氏頼(大夫判官)殿は『戦術は臨機応変を良しとするが、戦略の朝令暮改は容易からず』と言い張っておられました。しかも、弟の直綱(四郎)殿にこの戦で指揮を代行せよと明言してしまったらしく。少なくとも正行(まさつら)戦で氏頼(大夫判官)殿を縦横に使い熟すのは無理かと。余りにも我が強過ぎます。自己判断を重んじ、将軍の御命でも無視しかねません」

 

 

「ハァ」

 

 

 冷や水を掛けられたような思いとなり、時氏(山名伊豆守)は溜め息を吐く。

 従来の耐久作戦を覆してでも数日以内の南下を決意し、顕氏(細川陸奥守)の天王寺残留部隊と時氏(山名伊豆守)の住吉方面進出部隊をそれぞれ編成しようとした矢先である。積極策の急先鋒のような存在であった、氏頼(大夫判官)の掌を返すような宣言は寝耳に水であった。士気にも影響しかねない。

 

 

「興福寺周辺で囁かれているという馬鹿げた噂は伝えたのか?」

 

 

「はい。しかし、氏頼(大夫判官)殿は一笑に付されておいででした。興福寺に南朝勢力が入り込んでいる証左ではないのかと。あの者は近江国守護である故、どの武将よりも南都北嶺への嫌悪感が強いらしく」

 

 

 興福寺金堂僧の日記『細々要記』には極めて荒唐無稽な噂話が収録されている。楠木正行(まさつら)が密かに京都に上り、足利兄弟の館を急襲したというのである。この後、『細々要記』は足利兄弟が防戦できずに近江国へと退去したため、正行(まさつら)も河内国に帰ったと続ける。

 勿論、『太平記』等にそんな話は見られない上、日記そのものがこの記述を「云々」で締めている事からも、事実性は限りなく低いと考えられる。とはいえ、この噂話は、軍神の再来・楠木正行(まさつら)が世間からそれだけ畏怖されていた証拠と見做すには足りるだろう。

 

 

「つまり、氏頼(大夫判官)殿は……興福寺の噂、南朝が人心を動揺させるために仕組んだ情報戦術ではないか。そう申しておられるのだな?」

 

 

「如何にも……父上とてお考えになられたと存じまするが」

 

 

師義(左衛門佐)よ。興福寺に南朝の手が延びているとなれば、それこそ問題なのだ。まして九年前、春日顕国(中将)は男山を急に制した。南朝に京都急襲の択があっても可笑しくない。そうでなくとも、世情に斯様な出鱈目が流布される事態はあってはならん。我々の慎重さが一時的に誹られるだけなら挽回できよう。だが、将軍家の御威光が直接貶められるとなると……勝ったとて、責苦を負わされかねまいぞ」

 

 

「はい。ともあれ、父上。討伐軍は南進で決しました。氏頼(大夫判官)殿の武勇に頼れずとも、他にも武将は数多在籍。我ら山名勢は知将・勇将の類に事欠きませぬ。赤松兄弟とて居られます。心配無用かと」

 

 

「ああ……しかも、当主が不貞寝ないし不在なれど、六角党や土岐党の精鋭自体は居る。野木与一殿の存在も心強い。顕氏(陸奥守)殿はこれまでの戦績、楠木軍との相性の悪さを鑑み、暫く天王寺で留守を預かる運びとなるが……それこそ氏頼(大夫判官)殿が何とかしてくれるだろう」

 

 

氏頼(大夫判官)殿が?」

 

 

 師義(左衛門佐)は怪訝に思う。九月の合戦より、顕氏(細川陸奥守)氏頼(大夫判官)の組み合わせがあまり効果的ではないと睨んでいるからだ。特に藤井寺の戦いでは顕氏(細川陸奥守)の立て直しが失敗してから六角軍が反撃に出るも、当主実弟の光綱(佐々木六郎)の戦死のために敗走というチグハグな結果に終わっている。

 しかも、今の氏頼(大夫判官)は童のように不貞腐れ、すぐ下の弟の直綱(六角四郎)に指揮を代行させると放言する始末だ。使い物になるとは思えない。

 

 

「氏頼殿はああ見えて味方の窮地となれば、必ず何とかしようと試みくださる御仁よ。たとえ他家の、細川家の武将でも同じ筈だ」

 

 

「はて……あの御様子では、いざという窮地で皆を見捨て、自分だけ独り、何処ぞの山奥に隠れかねないようにも見受けましたが」

 

 

 確かに氏頼(大夫判官)は後の戦で、細川顕氏(陸奥守)の従兄弟甥・清氏(相模守)*2という武将を助けるために奮闘するが、それはまだまだ先の話に過ぎない。

 この時の師義(左衛門佐)の言葉は、得も言われぬ程の信憑性を帯びていた。

 果たしてその理由は先ほど氏頼(大夫判官)本人との面談を終えてきたばかりであるせいなのか。時氏(伊豆守)嫡男(山名師義)の据わった目を見て暫く黙った。

 

 

「……どちらが正しいか、いずれ天がお示しくださろう。師義(左衛門佐)よ、この戦は時氏(伊豆守)にとっても跡継ぎのお前にとっても極めて重要な戦である事、今更言うまでも無いだろう。山名氏の栄達のため、互いに気張ろうではないか。楠木正行(まさつら)が何ぞ。南朝が何ぞ。武将がいざ戦うと決めれば、恐れは無用。さぁ、もう寝よう。床に着くのだ」

 

 

「は!」

 

 

 息子の師義(左衛門佐)が就寝のため下がり、時氏(伊豆守)は手元の兜を見た。()()()()()という通常なら不名誉な文言の前立を見て、時氏(伊豆守)はいつものように自戒の念に囚われる。決して奢るな。あの民百姓のような暮らしを忘れるな。そう夜毎寝る前、自分自身に言い聞かせるのだ。

 その上で、昼間は将兵たちの前で気後れせず、堂々と振る舞う。

 時氏(伊豆守)は育ちこそあまり良くなかったが、血筋に違わぬ精神の持ち主であった。一族郎党からの信望篤く、山名氏が稀代の守護大名へと成長する礎を築き上げていった大人物である。観応の擾乱以降、更なる脚光を浴び、一時は直冬軍の主力武将の座に収まる事に。

 そんな名将でさえ、間もなく始まる正行(楠木帯刀)との合戦では極めて苦しい辛酸を舐めさせられる。悲惨な運命が間近に迫りつつあった。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 貞和三年(西暦1347年)十一月二十六日、室町幕府軍が南下し始めた。細川顕氏(陸奥守)は天王寺に残留したまま、山名時氏(伊豆守)たちが住吉大社に布陣した。

 これに対し、楠木正行(まさつら)の対応は早かった。古典『太平記』が記すところによれば、正行(まさつら)は天王寺だけでなく住吉にまで敵の城郭を築かれては厄介と踏んだ。これらを攻めれば神仏の敵と見做されるに違いないと踏んだのである。正行(まさつら)応神天皇陵(誉田御廟山古墳)()()があった。

 

 

「正時殿。そもそも住吉大社と申せば──」

 

 

「ああ、賢秀。あの応神天皇の御母・神功皇后が祭神の一つになっていらっしゃる……されど、兄者。今日すぐ動くとなると親房卿が仰せの攻撃期日より些か早いのではありませぬか?それを破ってまで動かねばならぬとは。やはり住吉というのがいけませぬか?」

 

 

「……そうだ、正時。八幡大菩薩自体は春日卿の男山(岩清水八幡)急襲の例があるから、南朝軍の我々が応神天皇*3の陵墓を戦に利用しようと誰も兎や角言えまい。だが、住吉大社は別格だ。矢を放てば、神仏の敵と謗られるのは避けられない。そうなっては我ら楠木氏の名声が地に堕ちる。天王寺も同様に畏れ多いんだ。何とまぁ厄介な……」

 

 

 異常な合理主義者・高師直(武蔵守)のようにキッパリと割り切っている場合はまだ兎も角、この時代の武将、特に官軍を自負する武将にとって神仏の敵と非難される事態は致命傷を招きかねない。とりわけ楠木正行(まさつら)のように寡兵を率いる立場で、近い将来多くの兵を集めて京攻めに移らなければならない武将は尚更である。勿論、模範的中世人のマインドも起因している。純粋に畏れ多いという気持ちだ。

 しかし、敵将の時氏(山名伊豆守)たちが布陣してしまった以上、致し方ないのも事実である。そこで正行(まさつら)は軍神の再来らしく、一計を案じた。

 

 

(細川顕氏は気丈に見えて、九月の連敗のため、我らに恐怖心を抱いている筈。住吉の山名勢さえ討ってしまえば、意気消沈して勝手に退く可能性が高い。やはり山名。山名を撃ち倒すのが先決だ)

 

 

「早速動くぞ。我が軍は今、二千騎ほどだ。初手として、まず軍勢を五手に分ける。いつもの動き易い兵五百騎のみを以て陽動だ」

 

 

「は。兄者、陽動するにあたって攻撃目標は?」

 

 

「石津だ。石津を攻める」

 

 

「「!」」

 

 

 あえて石津という地を陽動作戦に用いる発想が何を意味するか。

 弟の正時は勿論、従兄弟の和田賢秀も幼い頃から正行(まさつら)に付き従って気性をよく知っている。正行(まさつら)は明らかに顕家を意識している。

 軍神・楠木正成の後継者が石津を合戦の前座に用いれば、天下万民はどう思うだろうか。石津の戦いが顕家最期の合戦となった事は誰もが知っている。その石津を乗り越えるというシナリオを描き、正行(まさつら)はあの北畠顕家伝説の先を成さむという気概を示そうとしているのだ。楠木正行(まさつら)なら顕家を超え、本当に南朝復興の志を成し遂げられるのではないかという希望を広く天下に示そうとしている。

 正時も賢秀も思った。楠木正行(まさつら)という武将の考える事は、極めて非凡なり。楠木正成、新田義貞、北畠顕家の三英傑が南朝に揃っていた時代を万民に想起させられる。天下奪還の旗印になれると。

 

 

「さぁ、参るぞ!」

 

 

「「応!」」

 

 

 正行(まさつら)の挙動は素早かった。まず石津の民家を焼き、煙を立てた。

 同時に正行(まさつら)自身は、ずっと東の瓜生野に狙いを定めた。掎角の勢を示したのである。これを北朝武将・山名時氏(伊豆守)がどう判ずるか。

 そこで思わぬ副産物を得る。複数の土煙が見え始めたのである。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 この住吉合戦について、やはり古典『太平記』が詳述している。

 室町幕府軍大将・山名時氏は、敵軍は必ず複数方面から攻めて来ると予感していたという。そこで、天王寺の細川軍を除き、住吉の自軍を四方面に分けた。言うまでもないが、外様武将も含めて。

 

 

「赤松殿!至急八百騎を率いて石津へ向かわれたし!我が弟の兼義(三河守)をお付け致そうぞ!存分に戦い、藤井寺の雪辱を晴らされよ!」

 

 

「応!」

 

 

直綱(六角四郎)殿!御当主名代たる貴殿にお頼み致す!土岐・明智の兵と共に阿倍野へ向かってくだされ!二手に別れ、布陣して待機を!」

 

 

「承知!」

 

 

 この戦いにおいて六角氏頼(大夫判官)の名前はほぼ見えない。強いて言うならば合戦中盤以降の佐々木・土岐連合軍の反撃であるが、これも天正本という伝本の場合だ。より古態の伝本・西源院本は佐々木四郎左衛門、つまり直綱(六角四郎)の名前を挙げている。実態としてはやはり直綱(四郎)が兄・氏頼(大夫判官)の名代として阿倍野に向かったのではないだろうか。

 何はともあれ、山名時氏(伊豆守)は石津陽動作戦に半ば掛かりながらも、別方面からの(楠木)軍の襲撃を予測し、住吉での待機を続けていた。

 

 

「父上!やはり現れました!瓜生野*4!瓜生野に楠木軍が!」

 

 

「そうか!正行(まさつら)め、わざわざ開けた瓜生野に参るとは!奇襲の効果を自ら半減させているようなものだぞ!若さが出たと見える!」

 

 

「それが……父上、瓜生野の敵兵力は二千騎であると」

 

 

「何と。意外に……いや、確か藤井寺の合戦終盤で氏頼(大夫判官)殿を狙って方々より集まった兵力と近いか。この時氏(伊豆守)といきなり決着を図り、一気に肩をつける腹と見た。されど、そう上手く運ぶまいぞ!」

 

 

「は!……皆、恐れるな!我らは精鋭揃いの四千騎!出るぞ!」

 

 

「「「応!」」」

 

 

 ところで、この楠木軍二千騎という数は、石津へ陽動に出た部隊を含め各方面の兵たちを即座に結集してのものだ。正行(まさつら)は土煙から敵の配置を察知した直後、瞬く間に戦術を切り替えた。室町幕府軍とお互いに軍を分散させて戦えば、敗北必至と睨んだのである。

 これで呆気に取られたのは赤松兄弟だ。父・円心──今は不在であるが、全国に威名の轟く天下の名将──から戦の機微をよく叩き込まれているため、石津の煙は陽動のためのものと薄々察していたものの、多少の敵兵は布陣しているものと考えていたのである。

 実際、石津に向けて急行する道中、離れた目的地から敵の部隊の気配をひしひし察知していた。だが、それが急に無くなり、いざ踏み込んでみたところ、もぬけの殻だ。範資(赤松信濃守)貞範(赤松雅楽助)も歯噛みする。

 

 

「何と素早い。寡兵ぶりを差し引いても、亡き顕家卿に全く引けを取らぬ機動力ではないか。敵の神出鬼没は()()の名に違わぬか」

 

 

「楠木軍はやはり非凡なり。全く、敵に回ると厄介極まる」

 

 

範資(信濃守)殿、貞範(雅楽助)殿!憚りながら兄のところへ戻っても──」

 

 

「「どうぞ、どうぞ」」

 

 

 山名時氏(伊豆守)の実弟・兼義(三河守)。この時代あるあるの()()()()である。

 幸い、兼義は合戦の序盤にして早くも結幕を明らかにするであろう大勝負──山名軍と楠木軍のぶつかり合い──に間に合った。

 この大勝負は両軍六千騎が衝突し、双方共に半数以上の犠牲者を出す激戦に発展したという。勿論、石津方面へ送り出した筈の兼義(三河守)の到着は兄時氏(伊豆守)にとっても非常に心強かっただろう。しかし──

 

 

「叔父上ぇぇぇ!」

 

 

「ぐほ……ぶはっ!」

 

 

「楠木軍、誉田光康(将監)!敵将、山名兼義(三河守)を討ち取ったりぃ!」

 

 

 山名兼義(三河守)、死す。六角(佐々木)光綱(六郎)が逝った藤井寺合戦に続き、また北朝主力武将の弟が戦死した。しかも、表舞台で力を発揮する機会も満足になかった僅か十三歳の光綱(佐々木六郎)と違い、兼義(山名三河守)は建武の乱など十分な実績の持ち主だった。後世でも若し兼義(山名三河守)が生存していれば、その後の山名一族は違う運命を辿っていただろうと言われる程である。

 この激戦では山名氏当主の時氏(伊豆守)も自ら敵と刃を交え、重傷を余儀なくされる。合戦は着々と幕府方に暗雲が立ち込め始めていた。

*1
足利義満は出る杭を打つべく、山名氏の内部分裂を企図。明徳二年(西暦1392年)、義満の挑発に耐えかね、山名氏清(時氏の五男)山名満幸(師義の四男)の軍勢が京へ侵攻する。

激戦の末、幕府軍が山名氏清(陸奥守)を討ち取るなどの成果を得て勝利した。

乱後、義満は山名氏の領国の大半を他の守護大名たちに分配した。この乱を詳述するものとして『明徳記』の存在が知られる。

*2
後の室町幕府五代執事。室町幕府軍と楠木正行(まさつら)軍が戦っている頃は、未だ初名の「元氏」を名乗っていた。

*3
第15代天皇。往々に八幡大菩薩と同一視される。

*4
遠里小野とも。

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