崇永記   作:三寸法師

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第拾陸章 その執事、万丈
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〜1〜

 

 

 貞和三年(西暦1347年)現在、次期将軍・足利義詮(左馬頭)は未だ鎌倉に滞在している。

 とはいえ、義詮が遅かれ早かれ京に居住を移す事は十分察しが付くだろう。何せ義詮は本当に室町幕府二代将軍になるのだから。

 かなり後年の話になるが、義詮の墓は京都嵯峨野の宝筐院に設置された。どうした訳か、その直ぐ隣に葬られている武将こそ──

 

 

「楠木正行(まさつら)……僅かばかりの兵力で、幕府の擁する守護たちに連戦連勝ではないか!?憲顕(民部大輔)、教えてくれ!楠木軍は天王寺を制した勢いに乗って、京を攻め落とす気なのか!?もしそうなれば、我はどうしたら良い!?関東勢を率いて上洛する運びとなるのか!?」

 

 

「……いえ。暫くは落ち着いて状況を静観なさるべきかと。正行(まさつら)が本当に父・正成に勝るとも劣らぬ名将なれば、天王寺を得たからと言って性急に京攻めを企てるような愚直な方針は採りますまい」

 

 

「……どういう事だ?」

 

 

 十二月に入り、鎌倉の義詮(左馬頭)や関東執事・上杉憲顕(民部大輔)の元に早馬で住吉合戦の敗報が届けられた。義詮(左馬頭)が明日か明後日にも楠木軍京乱入の続報が齎されるのではないかと危惧する一方で、憲顕(民部大輔)は沈着さを保って事態を分析している。才覚や気性以上に場数が違うのだ。

 渋川義季(刑部大輔)、岩松経家(兵部大輔)、斯波家長(陸奥守)など多くの若き奇才を見てきた。

 武士の生態について探求し始めて多くの年月が経ち、京の直義からお墨付きを得るほど政務に励んだ。そうした経験が役に立とうとしている。直接の対戦経験を欠くとも、若くて模範的な大将の楠木正行(まさつら)が現在、何をどのように考えているのか。凡そ推測可能だ。

 

 

「当初は正行(まさつら)も天王寺を獲り次第、続け様に京も獲らむと意気込んでいたやもしれません。しかし、いざ天王寺を手中に収めて京攻めを現実のものとして見据えたなら、直視せざるを得ないでしょう。楠木軍、というより南朝軍の戦力が絶望的に足りな過ぎる事に」

 

 

「……憲顕(民部大輔)。楠木軍が今更、数を気にするのか?正行(まさつら)の比類なき強さは皆が知っておろう?千早城で名を馳せた(正成)とて、湊川で足利の大軍に再三の突撃を……京の市街戦でも家長(陸奥守)の父君──高経(修理大夫)の大軍を破ったと聞いているぞ。高経(修理大夫)も今や新田義貞討伐の殊勲者として名が知れていると申すのに。なのに何故、左様な事が言える?」

 

 

義詮(左馬頭)様。まさにその正成の京攻防に手掛かりがございますぞ?」

 

 

「……いや、分からんぞ。憲顕(民部大輔)

 

 

 足利義詮は自他共に認める凡庸である。そのため、弱冠の若さにして自身の根本的な成長を諦め、一つのポリシーを定めた程だ。

 「義理」と「道理」を重んじ、自分を助けた者が困れば助けてやるという極めて簡単なポリシーである。関東在住の間、憲顕(民部大輔)が同地の執事として義詮をよくサポートしている。言い換えれば、ただ職務を遂行するだけで借りを作らせる事に成功している。若き次期将軍の義詮に教えを授ける事は、恩を売るのに最も有効な手段だ。

 

 

「では、桜井の別れについて噂をお聞き及びでしょうか?」

 

 

「あ、ああ……楠木正成が絶望的な戦の前に、摂津国桜井宿で息子の正行(まさつら)たちに最期の別れを告げたという。それが如何したか?」

 

 

義詮(左馬頭)様。ご存知の通り、楠木正成は軍神と呼ばれるほど強い武将でございました。無策であった訳ではございません。湊川の戦いは已む無く次善策を採った結果です。恐れながら家長(斯波陸奥守)殿のように」

 

 

 まるでその弱味を突くが如く、上杉憲顕(民部大輔)は鋭く義詮に指摘する。

 義詮は幼少の日を思い出し、声を震わせた。悔やんでも悔やみきれない。凡庸な己の我儘のせいで能臣を失ったトラウマが蘇る。

 

 

家長(斯波陸奥守)は……一旦、鎌倉を空ける策を我に献じた。が、我は体面を気にしてそれを拒み、鎌倉防衛を家長(斯波陸奥守)に強いてしまった。楠木正成も一時的に京を空ける策を南朝先帝(後醍醐天皇)に献じた……そこに答えが」

 

 

「よくぞ明察なさいました。義詮(左馬頭)様」

 

 

「しかし、憲顕(民部大輔)。あの正成の献じた防衛策は、足利軍があまりにも衆兵過ぎた故、兵糧攻めを狙ってのものであった筈だ。今回の正行(まさつら)の場合とは違い過ぎないか?正行(まさつら)軍が兵糧に困る由はあるまい」

 

 

「仰る通り。されど、正行(まさつら)は逆に数が少な過ぎる故……一時的な京攻略が叶ったとしても、その維持は不可能。正行(まさつら)が京を攻めようとする時、故例(正成の策)から()()に思い至らない訳がなく。長期的な占領の見込みが立つまで、準備し直す必要に迫られるに違いありません」

 

 

「!」

 

 

 果たして事態は関東で上杉憲顕(民部大輔)が推察した通りに動いていた。

 軍神の再来・楠木正行(まさつら)は確かに十一月二十六日、住吉合戦で大勝利を収めた。しかし、正行(まさつら)は次に迫る幕府の大軍との決戦に向け、数十日もの時を準備に費やさざるを得なくなっていたのである。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 忸怩たる思いを抱いていた。正行(まさつら)と正時の兄弟も和田賢秀(彼らの従兄弟)も。

 南朝の差配に驚いたのだ。親房(北畠准大臣)を筆頭に南朝公卿たちが本格的に気張ろうとしている。しかし、正行(まさつら)たちにとっては余計なお世話も良いところである。特に四条隆資の件は完全に寝耳に水だった。

 

 

「まさか……河内国、紀伊国から二万騎を四条卿のために」

 

 

「兄者。これならまだ公家衆を率いて後方に居られた方が──」

 

 

「マシ……だったな」

 

 

「はい」

 

 

あああああ!

 

 

 さしもの状況だ。従兄弟の和田賢秀が酷く癇癪を起こし、机上にある土製立体地図模型を壊しても、楠木兄弟は全く注意しない。

 それだけ、四条隆資が紀伊国や河内国の野武士たちを率いるべしという南朝の決定は立腹ものだった。ましてや正成や正季(先の楠木党)は後醍醐政権の拘りのせいで戦死したという意識が各々に潜在している。

 

 

「兄者……四条卿が搦手なら、親房卿はどう動かれるので?」

 

 

「……興良親王を奉じ、後詰めとして出陣なさるそうだ」

 

 

「やはり……そうなりますか」

 

 

 陣営に微妙な空気が漂っている。正行(まさつら)も正時も歯切れが悪い。

 興良親王と言えば、亡き護良親王の遺児だ。数年前は関東併呑を狙った親房(北畠准大臣)の御輿となっていた。それ自体は周知の事実である。

 

 

正行(まさつら)様!もしや親房卿は京を奪還した後、我らに一切の主導権を与えず、自分たちで占領統治をするために今の内に布石を……」

 

 

「……賢秀。それの何が不満だ?京、ひいては天下の政治を司る技能は我らの専門外。勝利の後は何がどうあれ、そうなっていた」

 

 

正行(まさつら)様……納得いかぬのは其処ではございませぬ!南朝公卿の道具に成り下がりたくないのです!しかも、そのために戦の方法にまで影響が出ている……はっきり言って、このままではまた──」

 

 

「また、何だ?」

 

 

「あいつらのせいで、勝てる戦を落とすなんて御免被ります」

 

 

「……」

 

 

 今度ばかりは口を慎めという言葉も出て来ない。正行(まさつら)は黙って目を閉じた。決戦を前にして無視できないほど軍が濁り始めている事を自覚しているのだ。まるで九年前の北畠顕家の軍勢のように。

 兄の様子を見かねてか、弟の正時が状況打破のために提案する。

 

 

「兄者、我が軍は言うに及ばず、敵も態勢の立て直しに追われていると聞きました……どうせ次の戦までに時間を要するのでしたら、いっその事どうでしょう?吉野まで顔を出しに参りませんか?」

 

 

「吉野に?いや、それは幾ら何でも……皆が危険に」

 

 

 敵方の忍びに正行(まさつら)が吉野に向かい、摂河泉に不在と知られれば、どのような事態になるだろうか。事ここに至って最も警戒すべきはやはり高師直(武蔵守)だろう。九年前の戦ぶりが思い出される。男山の春日軍攻略や摂河泉の細川顕氏(陸奥守)救援のため、縦横無尽に駆け回った。

 住吉合戦で天王寺を制圧の楠木軍に隙ありと見て、師直が素早く奪還を目指して急襲する。この筋書きは十分にあり得よう。正行(まさつら)が吉野へ向かう頃合いを見計らった襲撃なら、即時対応は難しい。

 

 

「大事ございませぬ。万一そうなっても、予め伏兵を置いて師直を討ち取れば良いではありませんか。師直は強気でしょうが、我ら楠木軍の伏兵には恐れるところがある筈です。麾下の兵卒は尚更に」

 

 

「一理あるか……分かった。帝への別れの挨拶と言えば通る筈だ」

 

 

「御意。早速準備を。兄者、同道させる兵力は──」

 

 

「三百余騎。折角だ。途中どこかで正儀に会おうか。正時」

 

 

「はい!」

 

 

 古典『太平記』によれば、正行(まさつら)と正時の兄弟が決戦を前に三百余騎を率いて吉野へ向かい、後村上天皇への拝謁を行ったという。

 だが結局、それで状況が良くなる事は無かった。むしろ後村上天皇の激励を受け、正行(まさつら)及び正時は後に引けなくなったのである。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 宗良親王の歌集『李花集』には、正平二年(西暦1347年)までに親王本人が信濃国大河原での生活に将来の不安を覚え、畿内周辺の味方と合流しようとした痕跡が見られる。きっかけは簡単に察しが付くだろう。

 どうやら宗良親王の意思は相当固かったらしい。股肱之臣の香坂高宗の制止を幾度も振り切り、木曾路を西に向けて進んでいた。

 

 

「殿下……殿下!お待ちを!」

 

 

「何度止めても無駄だ。香坂、余は吉野政権と合流する。急ぎ帝の御許可を得て、南朝軍の大将として出陣しなければ……楠木の子らが危ない。敵の軍勢ではなく、南朝の公卿たちに潰される!最も厄介なのは親房(北畠准大臣)だ!今やあの者を抑えられるのは余しかいない!」

 

 

「ち、親房卿が……?」

 

 

 香坂は戸惑う。親房の嫡男が亡き顕家であった事は、当然ながら香坂も知る話である。その顕家が生前、後醍醐天皇の無茶な指示で半ば使い潰されたようなものである事も。顕家の父がそのような無体をするものなのだろうか。道理に反するとしか言い様がない。

 しかし、宗良親王は首を横に振った。だからこその話なのだと。

 

 

「知己よりの近況報告ではっきり分かった。親房は最愛の息子の顕家が死んで、可笑しくなってしまった……親房は南朝武士を使い捨てる事に躊躇がない!若手公卿の顕家さえ、先の帝(後醍醐天皇)に使い潰されたのだからと!それを見透かされ、結城親朝(宗広の跡継ぎ)が北朝に転向したのだ。親房の暴走を抑える力は、興良には無い……残念ながら帝にも」

 

 

「そうかもしれませんが……道中は危険です。この木曾路は小笠原家の勢力圏。抜けても、今度は土岐一族の目が光っております」

 

 

「左様な危険……余は危険と思わぬ。合戦に比ぶれば」

 

 

「殿下、もっと良い策がある筈です!楠木様の連勝で南朝に再び追い風が吹いております!殿下を置いて、東国でその旗頭になれる者など居りますまい!東国で新田党や北条党を纏め、小田氏らの諸大名を殿下の軍に組み込み、鎌倉を獲るのです!そうすれば、足利幕府は楠木軍のみに神経を集中できなくなります!殿下が西国の南朝勢と合体するより、むしろ効果を得られるのです!ご明察を!」

 

 

「香坂。余はもはや……もはや東国に希望を見出せぬ」

 

 

「!?」

 

 

 振り絞るような宗良親王の言葉に香坂は衝撃を受けた。普段の宗良親王が穏やかで気さくな性格だからこそ、その衝撃は絶大だ。

 この数年の間、東国の南朝勢力は見る影もなかった。今でこそ楠木軍の吉報が轟いているものの、それに靡いて南朝に転向する勢力自体は雀の涙以下の極一握り。歯痒さが極限にまで達している。

 

 

「詠もうか。きそち川、うつたへ瀬々のなみならは、行めくりてもたちかへらまし……これが余の決意だ。香坂、止めてくれるな」

 

 

「殿下!まだ、まだ諦めるには早うござります!」

 

 

「結局のところ、関東諸国は上杉憲顕が統制し切って、今や新田兄弟の出る幕さえ見当たらぬ。この信濃国も、小笠原家は代替わり後も盤石の気配は不変。頼みの綱の諏訪氏すら北朝に膝を屈した」

 

 

「しかし……しかし、まだ時行殿が!」

 

 

時行(相模次郎)……この五年以上、何の彼の言って動く気配はない。しかも近日中に祢津を直義派に送り込まんとする諏訪氏の意思に賛同する気のようだ。直接言える由もないが、時行(相模次郎)は……尊氏憎しを口にするだけで、心の底から南朝復興を考えている訳ではない。無理からぬ事だ。先の帝にあのような降伏文書を上奏したとて、一族滅亡のわだかまりを完全に捨てられる筈がない。時行(相模次郎)に諏訪氏も小笠原氏も倒し、信濃国を南朝派一色にせむとする積極性は求められん」

 

 

「殿下……」

 

 

(あのお優しい殿下がここまで……自分が、自分が情けない)

 

 

「……すまぬ。汝を責めている訳ではない。汝は大河原でよく余を支えてくれたな。感謝しても、し足りぬ程に。いつかまた大河原を訪れよう。今はその日までに大業が成っている事を願うばかりだ。それと香坂、これは肝に銘じて欲しい。日々の塩分量に留意せよ」

 

 

「……は!」

 

 

 最後に普段の気遣いが見え、香坂は涙に目を浮かべた。この後、宗良親王は美濃国へ入った。土岐頼康(刑部少輔)が守護として治める地だ。

 ここまで来たのだ。もはや信濃国に帰る事は容易ではあるまい。

 宗良親王には前進しかない。そう思って西へ西へ進んだ時だ。

 

 

「お待ち申しておりました、殿下。小笠原殿より連絡があり」

 

 

「汝は……!?」

 

 

「土岐頼康(刑部少輔)が四弟・直氏(宮内少輔)。殿下は聡明。小細工は通じませんな?」

 

 

「くっ!」

 

 

 まさしく絶体絶命である。北朝武将はあろう事か、親王弑殺に躊躇いが無いらしいという噂である。護良親王だけではない。数年前に元建武政権の征夷大将軍・成良親王も弑されたのではないか。

 そんな突飛もない噂は異母兄弟の宗良親王の耳にも届いている。

 

 

「大人しくお縄につかれよ。さすれば手荒な真似は致しません」

 

 

(こんな……こんなところで捕まる訳には)

 

 

──ドン!

 

 

「「!?」」

 

 

 不意の爆発音と共に周囲一帯を煙幕が覆う。宗良親王はすぐに分かった。時行(相模次郎)配下の忍びたちが連れ戻しにやってきたのである。

 案の定、耳元に囁きがあった。聞き馴染みのある()()()の声だ。

 

 

殿下、此方へ。御無礼致します

 

 

「!」

 

 

 親王ながら大の大人の筈がくノ一・夏に抱えられ、その場を即座に退去する。幾らか遅れて煙幕が頼康(刑部少輔)の斬撃の風圧によって破られたものの、その時にはもう遅い。宗良親王は安堵の息を溢した。

 抱えられたまま、南へ行く。どうやら東は敵の警備兵で充満しつつあるため、夏をしても人を抱えた状態では突破不可能らしい。

 程なくして安全地帯の茂みに到着すると宗良親王は降ろされた。

 

 

「礼を言う。それと、すまぬな……一言も無しに」

 

 

「いえ。主君より言伝を預かっております。自分たち武将が不甲斐ない故、殿下に無理をさせてしまったと。後顧については──」

 

 

「お、居た、居た。やっと追い付いたぜ」

 

 

「玄蕃、意外と早かったな」

 

 

「ケケ、土岐の甥っ子が無理に追おうとしなかったからな。不破関や伊勢国の国境の警備を強化するらしいぜ……ご苦労なこった」

 

 

「ああ……殿下。畏れながら、もはや吉野行きは困難かと。南へ迂回しましょう。東海道に入って駿河国へ。今から緊急で道中の南朝勢力に渡りをつけます。殿下、ご希望の勢力はございますか?」

 

 

「……ならば熱田大宮司を頼ろう。一旦、尾張国へ向かう」

 

 

 美濃国で諦めて方向転換せざるを得なくなった後、宗良親王は尾張国犬山経由で鳴海に到着。そこで暫くの間、逗留したという。

 隙あらば、海を渡って伊勢国へ入り、吉野に向かうつもりであったのかもしれない。だが、現実には歌を残すのが精一杯だった。

 

 

──山路よりいそへの里にけふはきてうらめつらしきたひころもかな

 

 

「なぁ、夏。殿下の歌の意味、分かるか?」

 

 

「刺身を食べる邪魔をするな。私に歌意を尋ねられても困る」

 

 

「だよなぁ。恨め辛しき……か」

 

 

「流石に『浦』と『珍し』だと思うが……熱田大社から誰か見繕って聞いてみるか?あそこなら歌に詳しい神職がさぞ多いだろう」

 

 

「夏……それはそっちで頼む。俺は西へ行って、ちょっくら暴れてみるわ。土産話を聞けば、殿下も鬱憤が晴れて御笑いだろうよ」

 

 

「……あまりやり過ぎるなよ?天狗に捕まったら笑えない。京女にも気を付けろ。聞けばお前、十二年前にも前科があるそうだな」

 

 

「分かってる。適当なところで引き揚げるさ」

 

 

 貞和三年(西暦1347年)十二月十日、下鴨神社で犬の死体が発見され、イベント日程を穢れ避けで変更せざるを得ない程の騒ぎになったという。

 変事はこれだけに留まらない。この六日後には持明院殿近郊が炎上して、高師直(武蔵守)らが上皇にご機嫌伺いをする羽目になった。また、日記『師守記』によれば、更に二日後の十八日に多くの武家屋敷が焼けた。その他、幾つかの日でも火事の例を見ることができる。

 幕府軍が若き敵将・楠木正行(まさつら)のため散々に敗れ去り、京の安寧が脅かされている。利に敏い者たちが各々危機感を味わっていた。

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