崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 這々の体で足利軍の追手から逃れ、さしもの夏も息切れを起こしている。方や玄蕃は狐面の裏で必死に乱心を抑えている様子だ。

 痛々しい相方(風間玄蕃)の腿の縛帯を見て、夏の顔が歪むのも道理だろう。

 

 

「本当に……調子に乗り過ぎだ。行かせるべきじゃなかった」

 

 

「……面目ねぇ。天狗どもに気を付けて師直本陣は避けたんだが」

 

 

「分かっているのか?危ないところだったんだぞ。敵が諜者は即抹殺より捕縛・拷問の鉄則に准じたようだから助けられたものを」

 

 

(一週間以上経っても帰って来ないから、京周辺を手広く探して見ればこれだ……もう少し遅れていたら命さえ間に合わなかった)

 

 

 虎穴に入らずんば虎子を得ずという格言がある。しかし、それで大怪我をすれば目も当てられない。お陰で、夏の心は怒りも呆れも通り越し、冗談抜きで立ち眩みしかねない危うさを孕んでいた。

 一方、玄蕃の心も憔悴していた。バリアフリーの精神など期待する方が間違いな中世において、脚を失う事がどれだけ致命的か。

 

 

「俺は……この期に及んで、術に甘えて武士って生き物を舐めてたのかもしれねぇ。挙句、このザマだ……こんなんで契約なんか」

 

 

「玄蕃。大体察しが付いているが……誰にやられた?」

 

 

「六角だ……あれを二度も破った楠木正行(まさつら)は何なんだ!昔会った時なんかお前に財布を取り返して貰って、助けられてたってのに」

 

 

「爪を隠していたんだろう……南朝派の私たちにも」

 

 

 十年近く前の堺における一日を思い出す。端午の節句の準備を顕家より命じられ、正行(まさつら)の案内で買い出しに繰り出した思い出だ。

 あの頃、正行(まさつら)が南朝最強の座に躍り出ると逃若党の誰が思っただろうか。勿論、軍神・楠木正成の嫡子である事は知っていたが。

 

 

「今となっちゃ、正行(まさつら)が南朝最強の英雄だ。俺たち若い世代は坊が先を走っていたが、これから名将が後発でどんどん世に出てくるんだろうな……ありゃ相当警戒されてるぜ?正行(まさつら)はよ。高兄弟の元に合わせて十万騎が集まるって話だ。顕家卿の比じゃねぇかもな」

 

 

「十万騎……本当か?それは。誇張じゃなく」

 

 

 十万騎という数は決して聞いた事のない数ではない。が、本来ならあくまで政権の行く末を占う大戦でのみ動員されるべき兵力なのは確かだろう。勿論、重要な戦で必ずしも伴われる訳でもない。

 楠木正行(まさつら)の軍勢が寡兵なのは世に知れている。その鎮圧のために十万騎もの大軍を動員するとなれば、幕府が本気で正行(まさつら)父親(楠木正成)に匹敵する名将だと見做している証拠でしかない。夏は息を呑んだ。

 

 

「向こうで吹雪と六角の会話を盗み聞きした限り、師泰の二万騎は確からしい。問題は師直の八万騎だ。その中から強者だけが正行(まさつら)討伐に向かうという話だったが、それでも三、四万騎は連れて行くだろうな……話の転がり方次第じゃ、逆に増える可能性もあるぜ」

 

 

「途方もない話だな……楠木はどうする気なんだろうな」

 

 

「さぁな。高兄弟の陣容は、南方の楠木正行(まさつら)たちにも当然噂が届いているだろうよ。だが、あれは……戦うんだろうな。果敢によ」

 

 

 逃若党で主君の時行(相模次郎)に次ぐ逃げ上手であった玄蕃は、自分たちと楠木正行(まさつら)の違いをはっきり認識せざるを得なくなっている。結局のところ、戦争が間近な時代では命大事より滅私奉公が尊ばれる。

 奇しくも正行(まさつら)は後世、父・正成と共にその滅私奉公の象徴に祀り上げられる人物だ。その代表的な出来事が、南朝の中心地・吉野で始まろうとしていた。発端は後村上天皇との最期の対面だった。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 正平二年(西暦1347年)十二月下旬、楠木正行(まさつら)とその弟正時(左馬介)は、摂河泉の前線地域ではなく、南朝の総本山・吉野に居た。既に高兄弟が淀・八幡の一帯に布陣しているという情報を掴んでいる。だが、それでも楠木兄弟は決戦前の拝謁を是が非でも賜っておきたいと考えていた。

 古典『太平記』によれば、四条隆資が涙ながらに伝奏役を務め、熱意も決意も籠った正行(まさつら)の言葉を後村上天皇に奏上したという。

 

 

(帝に伝われば良いが……なぜ打倒北条ではなく、尊氏が敗れて九州より逆襲した経緯から話を始めたのか。不敬にならないようギリギリ言及できるところまで攻めた。後は御叡慮に縋るしかない)

 

 

「……四条。御簾を揚げさせよ」

 

 

「御意」

 

 

 後村上天皇の麗しい素顔が露わになった。正行(まさつら)の他、殿上や地下(ぢげ)に控える将兵たちが目を見開いた。自ずと士気が高まっていく。

 しかし、後村上天皇の言葉はあまりに素直が過ぎるものだった。

 

 

「これまでの連勝で敵軍の士気を挫き、南朝の憤りを慰めた事は累代の軍功……朕は感じ入るばかりだ。然るに今、高兄弟が大軍を挙げて南下し始めておる。今度こそ天下分け目の決戦なり。適度な進退と臨機応変は勇者の本分。なれば、今更勅命を出すに及ぶまい!機を見ての進撃は時を失わぬため、機を見ての退却は最後に勝利を掴むためのもの!汝は朕の股肱之臣だ!慎んで命を全うせよ!」

 

 

(ああ……そうではない。そうではないのです。帝!)

 

 

 地下(ぢげ)の兵たちが後村上天皇の激励に沸き立つ一方、正行(まさつら)は頭を低くしながら目を瞑る。弟の正時(左馬介)はその様子を慮ってチラと見る。

 玉座の後村上天皇の両脇を北畠親房(准大臣)及び四条隆資が固めている。

 この両名も出陣間近だ。そうなれば、前線で戦う南朝の軍権は最終的に誰の手に帰するのか。正行(まさつら)は室町幕府の大軍と戦いながら、後ろの南朝公家たちの部隊にも気を遣わなければならなくなる。

 だが、もはやどうする事もできまい。親王時代から北畠顕家の庇護の元で各地を転身した筈の後村上天皇でさえ、気付かないのだ。遂に正行(まさつら)は藁にも縋るような思いを捨て、頭を地に着けた。もう甘えは許されない。一切の言葉なく、南朝の正殿(紫宸殿)から姿を消した。

 

 

「な、何だ、無言とは……興醒めだ。悲劇の英雄でも気取ったか」

 

 

「それほどの決意を固めているという事でしょう。四条卿」

 

 

「……親房。本当にこれで良かったのだろうか?不安でならん」

 

 

「ご安心を、帝。この親房が居れば、戦術の勝利を戦略の勝利ならしめるは容易き事……正行(まさつら)があの師直を破り次第、我が戦略で尊氏の逆転の可能性を封じて御覧に。帝は吉野で吉報をお待ちあれ」

 

 

 今現在、南朝の実権は、元勲的存在である北畠親房の手に帰して久しい。かつて親房本人が関東で吐いていた気勢は勿論、至宝の息子の顕家が戦死した過去が、確実にその発言力を強化していた。

 勿論、後村上天皇が単なる傀儡に終わる人物という訳ではない。

 

 

「親房よ。先帝は公家一統を叫びながらも、武士たちに出来るだけの恩賞を施してきた。朕もその教訓から学びたいと思っている」

 

 

「……しかしながら、あまり過分な褒美を与えると第二の尊氏を生み出す恐れが。そもそも出せる褒美など、官位や雀の涙ほどの宝物が精々……先程の帝の御言葉だけで彼らには過ぎたる褒美です」

 

 

「いや、出せるものは他にもある」

 

 

「……と仰いますと?」

 

 

「弁内侍だ。正行(まさつら)はこの吉野に着く前に、賊に襲われそうになっていた弁内侍を助けていたそうだ。弁内侍は吉野秘蔵の美女として若手公卿の間でも評判だろう?英雄と美人。お似合いではないか」

 

 

 室町時代の作『吉野拾遺』には、亡き日野俊朝*1の娘・弁内侍と楠木正行(まさつら)の縁について説話が収録されている。なお、ここで言う賊とは師直(高武蔵守)の手先であり、正行(まさつら)によって尽く討ち取られたという。

 無論、弁内侍と正行(まさつら)が結ばれる事はない。後村上天皇の発した下賜の宣旨を正行(まさつら)が歌*2を詠んで丁重に断ったからである。死を覚悟して戦に赴く身として、婚姻の話など論外でしかなかったのだ。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 あろう事か説話集にも好色ぶりが反映される師直(高武蔵守)だが、剛腕の将らしい見識は未だ健在である。男山(岩清水八幡)在陣の最中、貞和三年(西暦1347年)の終わりを迎え、いよいよ楠木軍鎮圧への筋道を明確なものとしていた。

 少し前に摂河泉方面へ派遣した筈の天狗衆の多く──数にして約二十名ほど──が音信不通になる誤算こそあれ、この世には塞翁が馬という言葉もある。事実、師直(高武蔵守)は口角を上げて客人を饗した。

 

 

「クク……愉快そうだな?兄者」

 

 

「ああ、師泰。淀での軍務、苦労」

 

 

 幕府軍総大将・高師直(武蔵守)の麾下に諸大名の八万騎が集結して男山周辺に設営する一方、師泰(高越後守)は今もすぐ近くの淀に二万騎で在陣だ。

 双方ともに時間が許す限り、兵たちを集めて出立の算段である。

 今日は兄弟二人で膝を突き合わせ、方針を擦り合わせるなど語り明かす予定だ。師泰(高越後守)は見破っていた。兄・師直(高武蔵守)が喜んでいると。

 

 

「御託は良いぜ。それより聞かせてくれよ。あるんだろ?朗報が」

 

 

「ふっ。聞いて驚け。正行(まさつら)の小童め、吉野へ戻っていたらしい」

 

 

「……おいおい、マジかよ」

 

 

「俺も意外だった。女目当てに策を弄してみれば、思わぬ収穫が得られた。この件で天狗をそれなりの数失ったが、惜しくはない」

 

 

 かの『吉野拾遺』によれば、師直(高武蔵守)は南朝きっての美女こと弁内侍を得るため、一計を案じたと云う。弁内侍の養母を勝利の暁の褒美で一本釣りし、手紙を用いて高安という地に誘い出させたのだ。

 衛兵を殺され、弁内侍は鬼に捕まったと泣き叫んでいたらしい。

 そこへ折よく吉野へ向かう途中の楠木正行(まさつら)が現れた。捕まって拉致されかけた弁内侍を助け、実行犯たちを全滅させたのである。

 

 

「何があったと思って他の天狗どもに調べさせたら、夢にも思わぬ収穫よ。正行(まさつら)め、南朝の帝に最期の挨拶をと殊勝に心掛けたか」

 

 

「それか、吉野の木偶(でく)どもが呼びつけた……なんて線もあるわな」

 

 

「フ。どちらにせよ我ら幕府軍に損のない話だ。早速、楠木軍の残留部隊の陣容を調べさせた。南朝の和泉国守護代・大塚某が守将を務めているらしいが、何という程もない。播磨国の赤松円心殿と書状の交換を行った。これで、如何なる伏兵も存在意義は皆無だ」

 

 

「ここであの爺さんが役に立つか。分からねェもんだな」

 

 

 円心(赤松則村)の嫡男・範資(赤松信濃守)を淀の自陣に迎え入れている師泰(高越後守)は、感慨深く呟いた。円心(赤松則村)は言わずと知れた歴戦の名将だが、新年にも齢七十二となる筋金入りの爺さんだ。中国地方の抑えとして播磨国に君臨して貰わなければならないのは勿論、高齢故に軽々に動かせない。

 はっきり言って、師泰(高越後守)は今回の戦で円心(赤松則村)は計算外だと完全に考えていたのだ。ところが、師直(高武蔵守)は一味違う。思考が極めて柔軟だ。

 

 

「俺や尊氏様を除いて、楠木正成とまともに戦い得た武将は赤松円心しか居ないだろう。正行(まさつら)が吉野に向かう際、留守居に策を残していようとも、俺が円心殿と協力すれば、その意図を布陣から逆算して余す所なく裸にできる。師泰、明日お前のところの師世に攻略法を伝えておこう。念の為、範資(信濃守)にもだ……これで大事ないな?」

 

 

「応よ。淀から一気に堺浦まで攻め落としてみせるぜ?」

 

 

「ああ……手筈通り、俺は東条を狙う構えを見せる。お前の陽動があれば、正行(まさつら)に残された選択肢は一つだけだ。刺し違える覚悟で執拗に俺の本陣を狙い続ける。叶わねば、楠木氏も南朝も滅亡よ」

 

 

「……兄者、寄る年波には気を付けてくれよ?互いにな」

 

 

「らしくない愚問だな。身体の老いくらい自覚している。並大抵の武将なら、まだまだ単騎で楽に退けられようが、楠木軍が相手ではそうもいくまい。故に策を用いるのだ。猛将たちの護衛もある」

 

 

 高師直(武蔵守)という武将は知名度の割に、一説に師泰(高越後守)が兄とするものがあるほど年齢不詳の人物であるが、古典『太平記』ではこの頃から露骨に老将扱いされ始める。実戦自体、かなり久し振りなのだ。

 師直(高武蔵守)は男山を燃やしてやっと春日顕国軍を破って以来。師泰(高越後守)は当時の遠江国守護・仁木義長と共に南朝方の井伊氏を攻めて以来。

 どちらも五年を優に超える月日が経っている。ブランクの危険は兄弟揃って暗に認識している。だが、付き従う守護大名たちの質量を活かせば、十分に補える。たとえ相手が楠木正行(まさつら)であっても。

 

 

「それに南朝はどうやら公家たちを派遣するようだ」

 

 

「おいおい。般若坂の教訓は無いってか?」

 

 

「今回は親房主導らしい。関東で戦の経験のある総帥なら大丈夫だろうという判断だが……楠木たちは心穏やかでは無いだろうな」

 

 

「確か親房はこの頃、息子の顕能に北じゃなく志摩国を攻めさせてたんだろ?尊大な割に軍略が無茶苦茶だ……勝ったな、この戦」

 

 

「ああ。楠木軍はもはや山名たちを破った戦上手の軍勢ではない。今頃、彼らは悲嘆に暮れているだろうよ。父親と同様、仕える相手を間違えたのだ。尊氏様に要らぬ反抗心を燃やした自業自得だ」

 

 

 果たして師直(高武蔵守)の予想通り、正行(まさつら)たちは悲壮な決意を固めていた。

 吉野での拝謁が無為に終わるや否や後醍醐天皇の霊廟へ向かったのである。道中、正行(まさつら)は思い出していた。十一年前の摂津国桜井宿で交わした父・正成との別れを。正成はあの時、何と言ったか。

 

 

『さぁ、もう家に帰れ。息子達よ。その幼さで無駄死にするのは、父が許さん。立派な大人になってから、帝のお力となるのだぞ』

 

 

(父上……遂に。遂にその時がやって参りました。多聞が正義を執行します。正行(まさつら)が悪の高兄弟を討つ。そして尊氏を。父上の仇を)

 

 

 先月の住吉合戦で淀川以南の地域を掌握した。楠木正成が築いた遺産の殆どを取り戻したのだ。残る課題の一つが打倒高兄弟だ。

 北畠顕家はそれを果たせず逝った。今や高兄弟の強さは当時の比ではあるまい。将軍執事として間も無く十年が経つのだ。老いて個の武に多少の衰えがあろうとも、業務の過程で結んだ大名たちとの縁を活かせば、紛れもない英雄級の総大将の出来上がりである。

 それと戦うのだ。出来る限り軍を澱ませたくない。正行(まさつら)は謁見終了直後の事を思い出す。かつての新田党主力の故・堀口貞満(美濃守)を父に持つ貞佑(掃部助)が見せた憤慨のため、逆に平静を取り戻したのである。

 

 

『あの盆暗貴族ども!俺を干す暇があるなら、要らぬ指図について考え直せば良いものを。帝も帝だ。戦の前に美女を下賜せんとは、正気の沙汰ではない!楠木殿を死んだバカ殿と一緒にする気か』

 

 

『ハハ……バカ殿って』

 

 

(決戦だ。拙者は勝ち戦のつもりで臨む。先程まるで噂の亡き貞満(堀口美濃守)殿のように凄い剣幕だった、貞佑(堀口掃部助)殿に依頼もしたのだ。我らの勝利に備え、京より落ち延びる尊氏を討ち取るため比叡山に潜伏して貰いたいと。もう後には引けぬ。拙者が死ぬか、師直が死ぬかだ)

 

 

「兄者。間も無く先帝廟にございます」

 

 

「あそこで出陣前の儀式とは……流石に昂るものがござる」

 

 

「賢秀は正儀を呼んでくれ。正時、残す兵たちを選ぶんだ」

 

 

「「……御意」」

 

 

(これで良い。正儀たちを帰してから出陣式を行い、西に戻ろう)

 

 

 古典『太平記』によれば、正行(まさつら)たち二百余人が後醍醐天皇の霊廟に集まり、次の戦が難しいものになれば、誰も生きて帰れまいという覚悟の元に神水を飲み干した。誓約で士気を高めたのである。

 勿論、その誓いの場に、後の次期当主・正儀(まさのり)が居た筈も無し。

 正行(まさつら)正時(左馬介)も決めていた。三男坊の正儀は後顧のため残そうと。

 かつて後村上天皇から渡された先帝(後醍醐天皇)の遺産・軍神(楠木正成)執筆の軍略書が正行(まさつら)の懐より現れる。その手によって、合流の正儀に渡された。

 

 

「賢いお前なら察しているだろう?次の戦もお前を起用するつもりはない。我らに万一の事があれば、必ず高兄弟は東条を焼き討ちせんと企む筈だ。下手すると吉野も危うくなるやもしれない。だが、お前さえ残っていれば安心だ。兄たちも安心して敵将と戦える」

 

 

「実のところ、父上の才能を最も色濃く継いだのは兄者でも拙者でもない。正儀、お前だ。拙者どもは母上に似て少し感情的なところがある。それに比べ、お前は生前の父上によく似た気性だ。たとえ幕府軍が三十万騎で攻めて来ようとも、お前なら何とか出来る」

 

 

「お気持ちは分かりました。ですが、命を粗末にされては──」

 

 

「……いいや、違う。そうじゃない」

 

 

 古典『太平記』では、正行(まさつら)たちが後醍醐天皇勅願の寺・如意輪堂の壁に自分たちの名前を書き、過去帳──死者のための名簿のようなもの──の記入までしたとする。極め付けはここからである。

 正行(まさつら)は過去帳の末尾に不退転の意の歌*3を記し、死後の冥福に備えた仏事の一環として、部下たちと共に髷の髪を少し切って入れたという。南朝の若き名将・楠木正行の象徴的な儚い一幕である。

 しかし、実際のところ、どうやら正行(まさつら)はそれなりに勝算を持っていたようである。父親(楠木正成)と同様、転んでもタダでは転ばないのだ。

 

 

「戦なのだ。勝つか負けるか。生きるか死ぬか。どんな戦でも死を覚悟して戦うのは当然の事。命を粗末にする事とは断じて違う」

 

 

「兄者たちは強うござる……拙者ならきっと逃げております」

 

 

「正儀。仮にお前の代になっても、それはその時。世間に誹られる事になっても構わぬ。その前に仕損じた拙者の責任だ。拙者は欲張りだから、一族の名誉も父上の仇も南朝の本懐も(あまね)く全うしたいと考える。その代わり、お前が楠木氏存続の一点に集中するんだ」

 

 

 楠木正行(まさつら)も楠木正儀(まさのり)もタイプは違えど、軍神の子に恥じぬ力量の持ち主だった。しかし、武将としてのタイプだけでなく、後世の評価も実に対称的なものとなる。正行(まさつら)は母に似て苛烈極まり、正儀は父に似て融通無碍。正行(まさつら)は北畠顕家の如く南朝に殉じた。正儀は北条時行のように、必要とあらば政権選択の権利行使も厭わない。

 少なくとも戦前に評価されたのは楠木正行(まさつら)だった。父・正成が大楠公であれば、正行(まさつら)は小楠公である。軍人たちの模範であった。

 だが、戦後になると正行(まさつら)の存在感は急速に薄まった。思考停止のような忠義の教科書となったがため、反戦意識に釣られて忌避の対象となっていった。今や英雄・正行(まさつら)を知る者は極一握りだろう。

 ただし、これだけは言える筈だ。南北朝時代と本気で向き合うつもりなら、楠木正行(まさつら)の存在を避けて通るべきではない。正行(まさつら)は赤の他人の足利義詮(室町幕府二代将軍)でさえ、墓を隣にと望んだ伝承のある英雄なのだ。その英雄の最後の戦い──四條畷の戦い──が翌貞和四年(西暦1348年)正月五日に勃発する。古典『太平記』を彩る代表的な合戦の一つである。

*1
後醍醐天皇に仕えた公卿。討伐運動の最中、鎌倉周辺で斬首された。

*2
とても世に なからふべくも あらぬ身の かりの契を いかでむすばん

*3
帰らじと かねて思えば 梓弓 なき数に入る 名をぞ留むる

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