崇永記   作:三寸法師

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▲7

〜1〜

 

 

 貞和四年(西暦1348年)正月五日、四條畷の戦いは既に日も傾いて終幕へ向かおうとしている。南朝武将・楠木正行(まさつら)が討ち取られるまで後少し。

 大将首は魅力的だ。北朝軍総大将・高師直(武蔵守)の周りを固める武将たちはウズウズしている。まるで急かすが如く、師直(高武蔵守)を見つめた。

 

 

「清げなる百騎の猛者よ。今は一人たりとも動いてはならんぞ」

 

 

「じゃっどん!大将首が逃げもんそ!」

 

 

「左様!将軍の御心を安んじるためにも!」

 

 

「島津、曽我……この愚か者共が」

 

 

「「ッ!」」

 

 

 この時、師直(高武蔵守)は正真正銘の幕府最強武将である。故に、島津氏や曽我氏といった由緒ある名門武家も顎で使える。熟練の名将が圧を掛けて言うのだ。他の武士たちも含め、腕自慢が全員静止した。

 呆れたように一息吐き、皆の顔を見渡してから、師直(高武蔵守)は言った。

 

 

「あんな見え見えの罠に嵌る義理はない。黒田、説明してやれ」

 

 

「は……ご覧の通り、楠木軍は残り僅か五十数名の歩兵。これでなお自害せず、我ら百騎の騎馬隊に背を見せている。状況を見れば、あの逃走は反転攻勢に持ち込むための演技。真に迫った演技も斯く考えれば、見破れるものにございますれば。我々が今致すべきは愚直に彼らを追う事ではなく、むしろ大将旗を高々と掲げ、御味方が安心して戦えるようにする事。これで宜しいですかな?師直様」

 

 

「上出来だ。氏頼(大夫判官)、お前の()()は優秀だ。既に歳は七十程と聞いているが、機会に恵まれていれば、軍師として天下に名が轟いていたに相違ない才知がある。その教え子として、結論を纏めてみろ」

 

 

「は……自らの功に拘らず、旗を掲げて味方の功を後押しすべし」

 

 

「そうだ。それこそ幕府軍の最中核部隊の我々が為すべき仕事よ。という訳だ。氏頼(大夫判官)、源氏の大旗をお前が振って味方を鼓舞しろ」

 

 

「……は」

 

 

 あれやこれやと丸め込まれ、氏頼(大夫判官)は突如現れた天狗衆の一人から旗を受け取る。本来、成人した大名の仕事ではないが、非常事態と思って呑み込んだ。烏帽子親の尊氏を思い浮かべ、心を決める。

 手に持つのは白き大旗だ。何だかんだ言って、源氏の血筋を誇りに思う身としては粋な仕事だ。後に氏頼(大夫判官)は自分の名の一字と源氏の「源」を合わせて、肝入りで建てさせた寺を名付ける事になる。

 

 

「我こそは近江国守護・佐々木氏頼(大夫判官)!皆に宣言する!将軍執事は御無事なり!逆に正行(まさつら)が逃げた!源氏の、尊氏様の威信に懸けて正行(まさつら)を討ち取れ!その首を獲った者への恩賞は、きっと絶大だぞ!」

 

 

「「「応〜!!!」」」

 

 

「な……ッ!?」

 

 

 幼馴染の敵将・氏頼(大夫判官)の叫びを聞き、正行(まさつら)は策の不発を知って食い縛る歯の力を強くする。駄目元覚悟だったとはいえ、悔しいものは悔しいのだ。正行(まさつら)は文武両道であり、激情型の武将でもあった。

 その時であった。正行(まさつら)は咄嗟に薙刀を後ろ手に構え直して宙を薙ぎ払う。金属音が響いた。別の北朝武将からの不意打ちである。

 

 

「千載一遇の好機と思いましたが……こうも完璧に防がれるとは」

 

 

「何奴……いや、その銀髪と仮面!噂の高師冬(播磨守)か!」

 

 

 天下の名将・楠木正行(まさつら)もその名前は知っている。高師冬(播磨守)は四年前に春日顕国を滅ぼした名将だ。ここまで温存されていたようだ。

 古典『太平記』によれば、高師冬(播磨守)は戦場の西側の田で待機していたらしい。楠木軍の退却姿を見て、軍功を求めて出撃したのだ。

 

 

「今の技、足利か高一族の奥義か?威力は絶大だが──」

 

 

「必殺の機会と思って使った技ですが、手数は他にもまだまだ沢山あります。尊氏様の天下の邪魔はさせない!楠木正行、貴方を討ち取って遥か高みへ!我が直属の精鋭たちに命ずる!掃討開始!」

 

 

「迎え撃て!師冬(猶子)が危うくなれば、烏帽子親の師直は社会通念上、出ざるを得まい!皆、力果てるには早過ぎるぞ!気張り抜け!」

 

 

「「応!」」

 

 

 日没間際、楠木正行(まさつら)の五十数名と高師冬(播磨守)の百余騎が衝突する。

 忠義の教科書・楠木正行(まさつら)と野心旺盛な元関東執事・高師冬(播磨守)の対決である。互いに新進気鋭にして実績豊富。果たしてどちらに軍配が上がるのか。数や疲労度の面で有利なのは明らかに師冬である。

 結論から言えば、終盤のこの競り合いは楠木軍の圧勝であった。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 嬲られ続けている。圧倒的有利と思っていた筈が、いつの間にか窮地に立たされていた。今は差し詰め、崖際で大人が子供に胸ぐらを掴まれて、一方的に揺すられている状況と言うべきだろうか。

 珍しく決められる場面と思って初手で仕掛けた「逆さ凶」ばかりではない。「破邪連衝」も「薬叉蜻蛉」も「剣陰如矢」も他のあらゆる技も全てが真正面から打ち砕かれた。実力の差は如何程か。

 古典『太平記』によれば、斬撃が風を切り裂き、長物が土埃を上げるような熱闘の末、師冬隊は元の兵力の半分が討たれていた。

 北朝本陣の向こう半里にまで押し込む程、楠木軍は圧巻だった。

 

 

「残りの兵は全員、戦意喪失して逃げた。お前自身もう動けまい」

 

 

六花、六花……!

 

 

「お前を餌に師直を討つ!そして京へ攻め上り、尊氏を……!」

 

 

 既に日が暮れている。新春の極寒の夜風が突如趣きを変えた。

 正行(まさつら)は理由を察して口元を綻ばせた。弟の正時(左馬介)は今度こその正念場に胸を震わせる。早朝から三十回以上の突撃で疲労は極致だ。

 

 

「兄者!敵の救援が!師直です!」

 

 

「良いぞ!これを待っていた!」

 

 

「されど……あれは今の我らが戦うには、数が多過ぎます」

 

 

 既に楠木軍は精神的な高揚はあっても、身体の気力が確実に尽き掛けていた。一方、師直軍は万騎以上と兵力を復活させていた。

 源氏の大旗の元に、幕府武士たちが再び集結していたのである。

 

 

「楠木正行(まさつら)!敢えて今は幼馴染として言おう!見事だった!だが、貴様の命運既に尽きたり!その首級を尊氏様に捧げてくれる!」

 

 

「拙僧も久々に本物の勇者を見ましたぞ。楠木氏……雑草根性をお持ちで、あれだけの奮闘を。散ってしまうのが惜しい位ですなァ。さりとて、花は散るからこそ美しいもの。これが世の倣いにて」

 

 

「貴殿の多聞天が如き戦振り……この信武(武田伊豆守)、誠天晴れと言いたい」

 

 

「俺からも言わせてくれ。南北違えど、同じ武士として敬服する」

 

 

頼章(左京大夫)殿が言うなら俺も……よくも怪我させてくれたな!晴れの初陣だってのに!されど、名誉の負傷だ!細川元氏(清氏)は一生お前の事を忘れねェ!忘れないという事は、記憶に残り続けるという事!」

 

 

「……もう一度言おう。討死と自害、好きな方を選べ」

 

 

 総大将・師直(高武蔵守)を含め、北朝武将たちは口々に正行(まさつら)の勇姿を讃えたり同情心を忍ばせたりするものの、到底額面通り受け取れない。

 まさに絶体絶命だ。再び突撃を敢行するにしても、夜戦となる。

 楠木軍は五十騎足らずという寡兵だ。四条軍はもうとっくの昔に飯盛山攻めを諦めて吉野へ引き揚げたのだろう。援軍は益々期待できない。対して師直軍は良将が再び揃い、天下最高峰の水準だ。

 

 

「兄者……!もはや」

 

 

「……ッッッッ!」

 

 

(正時、誉田、開地、野田、石楠らがとうに重症……これでは)

 

 

 古典『太平記』の各写本・伝本で名将・楠木正行(まさつら)の最期の様子はそれぞれ違う様相を呈している。それらでも最も有名なのは湊川の戦いにおける正成・正季のような兄弟差し違えての自害だろう。

 だが、楠木氏と今後も長く戦い続ける、佐々木氏について詳述する天正本はどうか。実に印象的な正行(まさつら)最期が綴られる事になる。

 

 

正行(まさつら)様!この賢秀と──」

 

 

「弟・和田新兵衛!高師直の首、頂戴仕る!」

 

 

「待て!」

 

 

「正季の子らか。湯浅、お前は降兵。相手せよ。直実(安保肥後守)、援護しろ」

 

 

「「は!」」

 

 

(マズい……!湯浅・安保たちを突破できても、まだまだ敵将が!それなら皆で一緒に自害した方がずっと面目を保てる!なら!)

 

 

 瞬間、正行(まさつら)は近くで虫の息の師冬(高播磨守)の方を見た。師直(高武蔵守)の猶子だ。

 人質にして賢秀(従兄弟)たちの身柄と交換させよう。そう思った時──

 

 

「ッ……!」

 

 

頼之(弥九郎)、少し狙いが外れたな」

 

 

「いえ、父上が正確過ぎるだけです」

 

 

 二本の矢が楠木正行(まさつら)を貫いた。一つは眉間、もう一つは喉の横。

 直後、和田兄弟も後ろの正行(まさつら)の唐突な致命傷に驚いて安否を慮ったところ、湯浅宗武(八郎)と安保直実(肥後守)の他、青木二郎並び長崎彦九郎の手によって戦死。楠木党は絶望を、室町幕府軍は歓喜を味わった。

 だが、直後である。戦場に似つかわぬ品のある声が響いていた。

 

 

「待ちな!そいつ、死んでない!」

 

 

「「「!?」」」

 

 

(神力……?なんで楠木正行(まさつら)に!?あの量は尋常じゃない!京で昔チラッと見た時はそんな事なかった!まさか日本中から……!)

 

 

「チッ……声がデカいぞ、分家の娘が

 

 

 天正本『太平記』によれば、正行(まさつら)は通常なら致命傷となる筈の矢を二本受けても、まだ息があったらしい。これが軍神の再来だ。

 氏頼(大夫判官)が近くの兵に旗を預けて、前に出た。名刀「綱切」を抜く。

 

 

「多聞丸ぅぅぅぅぅ!」

 

 

「……千寿丸」

 

 

 敢えて二人は互いの幼名を呼んだ。二人の視線が交差している。

 氏頼(大夫判官)はこの戦ずっと不本意にも師直の側に張り付いていたため、今も元気百倍だ。しかし、正行(まさつら)は満身創痍で限界を超えている。

 正行(まさつら)の視線は定まらない。痛みも感じない。思考もあやふやだ。

 

 

「お前とは……もう藤井寺や住吉で白黒付けて……」

 

 

「勝手に勝った気でいるじゃねぇぞ!多聞丸!あれは豚平焼きのせいで全力を発揮出来なかったんだ!無効だ!無効!端から俺が総大将を務めて戦に臨んでいれば、お前が負けていたんだ!多分!」

 

 

(((((豚平焼き?)))))

 

 

「敵味方の前で……見苦しいぞ。おい」

 

 

「だから……見ろよォ!」

 

 

 愛馬に乗ったまま、氏頼(大夫判官)は太刀で素振りする様を見せつける。

 正行(まさつら)の歪んだ視界で、松明に照らされた刀が鮮烈な軌道を描く。

 風圧を感じた。冷たくて心地良い。正行(まさつら)はゆっくり微笑した。

 対して氏頼(大夫判官)はにんまり笑っている。幼馴染同士、何か通じ合うものがあったのだろうか。懐かしさと共に可笑しくなり、正行(まさつら)はとうとう表情を目に見えて綻ばせながら、からから笑い声を上げた。

 

 

「誰が……お前のようなつまらん敵の手に掛かるものか。正時」

 

 

「は……!」

 

 

「もはやこれまで」

 

 

 正行(まさつら)は静かに具足を脱ぎ去り、腹を真横に切って南へ倒れた。

 弟の正時(左馬介)を含め、残党たちも次々と落命。二代の古今無双の忠孝に誰もが感じ入ったという。かくて四條畷の戦いが幕を閉じる。

 同時に、南朝(吉野政権)の果てしないどん底の毎日が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 南朝最優の将・楠木正行(まさつら)の訃報に、門外漢の京の人々は狂喜乱舞したという。北朝公卿の洞院公賢すら安堵の念が余ってか、自身の日記『園太暦』に「当年始誠相叶祝言者歟(年始に相応しい祝辞だ)」と書き残している。

 それ程、正行(まさつら)は尋常ならざる脅威であった。南朝の人々にとって帝都帰還のために不可欠な人材であるとすれば、今も京に住む北朝の人々にとっては、自分たちの生活や安寧を脅かし得る危険人物でしかなかった。実際に戦地で(まみ)えた者、ないし地方在住の有力者が敵将の正行(まさつら)を南朝政府の犠牲者として憐れみ、果敢な戦振りに敬意を払ったにせよ、京の住人たちは明日を思って震えていたのだ。

 

 

「う〜ん。良かった!良かった!師直がこの半年近くの憂いを取り除いてくれたぞ!直義、これで南朝の戦意は挫けたであろう!」

 

 

「は……既に正行(まさつら)の首を衆目に晒す手筈は整えてございます」

 

 

(兄上がうどんを啜りに楠木殿の首を持参して、無理に遺族訪問しなければ、こんな大事に至ってなかったのでは……いや、この考え方は良くないな。正行(まさつら)の執念深さ、たとえあれが無くても──)

 

 

 いずれにせよ、尊氏が本気なら弟の直義でも止められないのだ。

 結局は現状のように運んでいたに違いない。直義はある種の境地に達していた。だが、今となっては別の憂慮が生じている。勝ったからと言って必ずしも喜んでいられる訳ではないのだ。むしろ禍福は糾える縄の如しという道理に基づけば、今こそ懸念すべきだ。

 

 

(勝ったら勝ったで心配なのだ。最大の懸案は高師直!楠木殿の御子を討ち、本格的に増長しかねない……!戦が終わる前は、生前の後醍醐の帝や近頃の北畠親房のように後ろから砂を掛ける真似は絶対にすまいと決めていたが……正行(まさつら)の討伐に成功した事で、師直は単なる将軍執事でなくなる。天下最強武将と世間は見做すだろう。もしかすると……十年前の顕家討伐の軍功と結び付いて、新たな見方が醸成されるやも。執事師直(高武蔵守)の手腕は兄上(天下人)すら凌ぐのではと)

 

 

「直義……直義?」

 

 

「ッ……申し訳ありません。考え事をしておりました、兄上」

 

 

 始皇帝と王翦ではどちらが上か。劉邦と韓信ではどちらが上か。曹操と司馬懿、孫権と周瑜・陸遜ではどちらが上か。劉備と諸葛亮ではどちらが上か。日本国では源頼朝と源義経のどちらが上か。

 この他にも様々な事例があり得るだろう。主君より有能かもしれない臣下という議題だ。直義は学識豊かであるからにして、当世以前の和漢のあらゆる例が脳裏で駆け巡っていた。もしかすると高師直という完璧執事がそうした先人たちの轍を踏むのではないか。

 転覆か粛清か。どちらかの未来を決めなければならなくなるかもしれない。直義はある意味、戦前より危機感を覚えていた。一方、尊氏は全く深刻な顔をしていない。超然というより、能天気だ。

 

 

「ふむ……まぁ、良いや」

 

 

(呑気な御方だ。若い頃とちっとも変わっておられん。師直はああも変わってしまったというのに。どこで違ってしまったのやら)

 

 

 確かに新田義貞を基準にすれば、師直(高武蔵守)が尊氏より長ずるという認識は根底から崩れるだろう。矢作川の戦いと箱根竹下合戦の結果があるからだ。だが、北畠顕家と楠木正行(まさつら)という二つの事例が出来上がってしまったからには、世間で認識が塗り替えられる恐れは十分にあり得た。勿論、楠木正行(まさつら)は宿敵・尊氏との直接の対戦経験を得られないまま戦死したが、それまでの戦で尊氏に勝ち得ることを証明していた。根拠は顕氏(細川陸奥守)時氏(山名伊豆守)範資(赤松信濃守)、加えて将軍烏帽子子かつ若手最強とされた氏頼(大夫判官)だ。おまけに直近の戦(四條畷の戦い)でも別格たるが追加証明されている。皮肉にも元関東執事・高師冬(播磨守)が捻り潰されたのだ。

 懸念は尽きないが、直義はとりあえず兄の尊氏に平静を装って、直近に採るべき次の手について認識を共有しておこうと決めた。

 

 

「兄上。吉野の帝は、楠木正行(まさつら)という南朝最後にして最強の将を失いました。もはや貴賤を問わず、帝都奪還の望みが潰えた事を直視せざるを得なくなっているでしょう。たとえ南の深山に逃げて先延ばしにする事ができても、根本的な滅亡回避は絶望的ですから」

 

 

「ふむ……直義は、滅ぼすより和睦すべきと?」

 

 

「……少なくとも兄上にその気があったにも関わらず、後になって師直が既に滅ぼしていたと分かれば、話が拗れてしまうかと思い」

 

 

「……師直は今どうしておる?まさか独断で吉野に進駐を?」

 

 

 ここだと直義は思った。尊氏が不愉快げに顔を歪めているのだ。

 体面を気にする尊氏なら絶対に気にする筈なのだ。南朝を完全に滅ぼした場合、承久の乱に勝って後鳥羽上皇を流した北条氏以上の悪名は誰に帰されるだろう。勝てば官軍という言葉は決して万能ではない。持明院統は確かな皇族だからまだしも、尊氏はその域に達していないのだ。それでいて師直(高武蔵守)の直属の上司である。吉野滅亡の場に立ち会わずとも、悪の親玉と糾弾されかねない立場なのだ。

 情報操作に一度でも忸怩(しくじ)れば、とっくの昔に南朝が滅びていたとしても、後世において何と言われるか分からない。尊氏の嫌がる将来絵図である。これを直義は、高師直(武蔵守)抑制に役立てようとした。

 

 

「それが……詳しくは分かりません」

 

 

「何?」

 

 

 前出の日記『園太暦』によれば、四條畷の戦いから十日が経った正月十五日になっても、北朝政権はその後の南方情勢についてよく分かっていなかったらしい。依然、非常用の警固体制下だった。

 この間、足利兄弟は忙しない思いで一杯になっていた事だろう。

 

 

「まともに師直が取り合うかどうか、今となっては覚束無き限りでございますが……どうでしょう?南朝軍と和睦交渉の席を設けるように命じてみては?その返答次第で、実態が把握できる筈です」

 

 

「……師直に南朝との伝手はあるのか?」

 

 

「はい。ですので、西大寺の長老を仲介役に推薦すべきかと」

 

 

 正月十五日、西大寺長老を介して、南北朝の和議について動きがあったと史書『後鑑』が記す。言うに及ばず、これが上手く運ぶ筈がない。現場総責任者の師直(高武蔵守)に和睦への興味が皆無だったのだ。

 この時、師直(高武蔵守)は既に大和国入りを果たして、気勢を吐いていた。

 楠木正行(まさつら)討伐を果たした勢いに乗り、吉野を攻めて後村上天皇の身柄を確保し、南朝の息の根を止めようと企んでいたのである。

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