〜1〜
貞和四年正月五日の夜、遂に楠木正行たちが死んで四條畷の戦いが終わった。これで京の人心もきっと落ち着くに違いない。北朝で検非違使も務める身としては、やはり安堵するところがあった。
しかし、幕府軍は今、狐に摘まれたような気分になっている。
首実検の準備が進められている間、俺の隣で道誉が佇んでいた。
「和田賢秀。何という執念深さよ」
「道誉殿。この者の執念、亡き護良親王殿下の比では……」
「ええ、宗家。この者、いずれ神として祀られましょうなァ」
猛将・和田賢秀は、今や当世で知らぬ者は居るまい。正季の子にして正行の従兄弟。紛れもない楠木軍の主力武将であった。幾ら正行が射られた驚きで一瞬の隙が生じていたとはいえ、元南朝軍の湯浅某という男の手に掛かるとは、一体誰が想像し得ただろうか。
戦場では時折、この手の夢にも思わぬ番狂せが起こってしまうのだから、無情である。尤も、だからこそ面白くも感じるのだが。
ただし、当座の問題はそこではない。和田賢秀は確かに討たれた筈だった。にも関わらず、湯浅某が道連れとなって逝ったのだ。
実際、和田賢秀を歯の神と崇める信仰が芽吹いていく事になる。
「首だけになっても敵に噛み付き、死んでも離さない。これを武士として讃えるべきか、それとも成仏に邪魔な妄念と忌むべきか」
「おや、宗家。信心深くて感心致しますぞ」
「……」
道誉の真意不明のおべっかに辟易とする。確かに尊氏様を崇拝して久しい。また、尊氏様と同一視されるべき八幡大菩薩についても相応の崇敬の念を持っている。源氏としても大切にするべきだ。
当然、武士であるからには禅宗も鍛錬推奨のために重視すべきだと考えているし、六角堂や繖山の観音正寺に所縁ある聖徳太子についても理解を深めた。三井寺などの寺院にも顔が利くつもりだ。
総じて、今の俺は信心深いと言っても差し支えない境地に達しているのかもしれない。二十一世紀では人並みに適当で、政教分離は大事という程度の理解だったが、どう転ぶか分からないものだ。
では、眼前の道誉にどう返すべきなのか。迷っている暇はない。
「信心深くとも、かの南都北嶺を邪魔に思う気持ちに変わりござらんので、ご安心を。あれらは本当に今すぐ無くなって貰いたい」
「ふふ……同感ですなァ。ところで、この先は如何なされる?」
「この先?」
俺は身構える。腹黒坊主の道誉の事だ。何か碌でもない話をする気ではなかろうか。正行が戦死して、脅威が消えた安堵と雪辱の機会自体が消えた喪失感ばかり気にしていたが、そうも言って居られないようだ。道誉のドス黒い顔が、夜の松明と相まって絶妙だ。
並の者なら威圧され、そのまま呑みこまれてしまうのではないだろうか。されど、俺は佐々木惣領だ。どうして分家の道誉を恐れてくれよう。近江国守護として将軍烏帽子子として心が奮い立つ。
「師冬殿のお身体……あれは暫く療養が必要そうです」
「ああ……然り然り」
奇しくも不安が当たってしまった形だ。戦の終盤、楠木正行を刈り取る役目を果たさんとして倍の数の精鋭で狙った師冬だったが、完膚なきまでに撃退されてしまったのだ。ここまで両者の実力に開きがあるとは俺も予想外だった。このレベルだと、もはや師冬側に油断が生じていたからでは片付けられない。正行が別格過ぎた。
きっと今、師冬は流石に気落ちしているだろうか。それとも新たな出世プランを練っているのだろうか。俺は無性に気になった。
「思うにあの様子では、師冬殿は当面の間、摂津国にて──」
「話の途中に相済まぬが、道誉殿!見舞いに行って参る!」
「何と!……どこまでも気分屋な御方だ。成人して武力が増し、随分と増長しておられる」
勿論、本気で申し訳ないと思っている筈がない。リップサービスというヤツだ。急にどうでも良く思えてきて、道誉の小声の呟きに何の注意も払わない。ただただ高師冬について気になっていた。
いよいよ観応の擾乱が近付いている。宿敵・楠木正行が死んで室町幕府はこの先、内紛へと突き進んでいくだろう。その時、師冬はどのように身を処する気なのか。場合によっては、今後の付き合い方も見直す必要があるかもしれない。改めて確認しておきたい。
この先、直義と師直の間の諍いの果てにある尊氏様の真の殿下に向けて綱渡りする上で、師冬との親交が吉と出るか凶と出るか。
以前の師冬との袖の振り合いに想いを馳せつつ、俺は未来を見据えていた。結局のところ、尊氏様の一番となるために。このスローガンのためなら、他は全て道具だ。視界の淵が赤く染まっていく。それが血の涙と気付いたのは、師冬の瀕死姿を見てからだった。
〜2〜
師冬の陣屋に総大将・師直が居た。つまらないものを見るような視線だった。きっと今日の戦で師冬は著しく評価を下げている。
戦の仕上げに正行たちの息の根を止めようと倍の数の精鋭で攻め掛かり、逆に返り討ちされたのだ。現在、師冬は気を失っているのだろうか、ぐったり横になっている。師冬もとい吹雪の事情から他の者たちに素顔を見せられないので、やむを得ず、総大将の師直が自ら事に当たったのだろう。お陰で師直はご機嫌斜めのようだ。
目が合った。お互いに凝視し合う。先に口を開いたのは師直の方だった。呆れたような視線はいつもの事だ。いい加減、慣れた。
「鬼の目にも涙か。笑えるな。こんな能無しのために」
「師冬殿が……能無し?」
戸惑いと義憤が混ざり合う。どうして師冬のために今更涙なんかという戸惑い、師冬が決して能無しな訳ないだろうという義憤だ。
勿論、俺の感情に逐一動揺する高師直ではない。猶子・師冬の仮面を静かに取り外し、淡々と理由を俺に叩きつけてくるのみだ。
「それはそうだろう。本日の戦における師冬の醜態、俺の隣でお前も見ていたな?こいつは持てる技術の全てを正行に使い、全て跳ね返された。何より問題なのは、こいつが俺を釣り出すための餌にされた事だ。お陰で、最後は正行と僅かばかりの距離まで近寄らざるを得なくなった。年老いた父親を危険に晒す子が何処に居る?」
「……それは」
師直はこの十五年間の殆どを京で仕事に費やしただけあってか、絶妙に反論しにくい言い方をしている。確かに──例えば、起用責任の面において──師直に非がないとは今も俺は考えていない。
しかしながら、父子の上下関係で話を締められると如何にも事情が変わる。しかも、師直は既に老将と来ているのだ。猶子の師冬にしっかりせいというのであれば、尤もな話と思わざるを得ない。
俺が押し黙っていると唐突に師直が噴き出すように嘲り言った。
「ふ……と言っても、お前にそのような言葉は通じぬか。お前は違う方針を是とすれば、父親の想いであっても平然と踏み躙れる」
「ッ……あれは源氏の悲願を思えばこそ!」
「誤解するな。十五年前の事を責めているのではない。この俺は源氏の生まれではないが、生前の上山が叫んだ通り、源氏累代の執事であるぞ?その想いはよく汲んでいる。むしろお前の場合、時信に背いてでも我らと通じたる事、心の底から褒めてやりたい位だ」
「……」
信じられない、とは口が裂けても言えない。もし軽々しく言ってしまえば、高一族との関係が破綻しかねないからだ。観応の擾乱で師直は死亡する筈だが、その後の尊氏様の勝利を思えばどうか。
師直は立ち上がった。師冬の陣屋から去るらしい。もう間も無く首実検の用意が終わる筈だ。それが済み次第、祝勝の宴もある。
いつ迄も戦で成果の無かった師冬のところには居られないのだ。
「師冬は暫く摂津国に置く。後方支援に徹し、本来なら守護の範資が担うべき仕事の一部を担ってもらう。範資はこの後の殲滅作戦に連れて行くから、その一時的な代わりよ。氏頼、今日からお前は暫く道誉殿の陣で過ごせ。何、あのゲテモノ娘に手を出すと言えば、ヤツは喜んで衣食住の何もかも至れり尽くせり饗するだろうよ」
「何を言って──」
この時、俺は殲滅作戦とやらに関して、今年で齢十九の楠木正儀のような残党討伐と思って聞き流していた。問題は次の部分だ。
まず道誉は分家当主だ。本家当主の俺を饗応して当然の立場だ。
勿論、我が佐々木一族の内部事情について、所詮は執事家当主に過ぎない師直の口から、あれこれ指図される謂れはないだろう。
とはいえ師直は当然の事を言っていると信じて止まらなかった。
「尊氏様の娘婿の話なら諦めろ。加冠の儀で烏帽子親が公然とした約束故、お前も必ず成就すると信じていたのだろうが、今となっては土台無理な話だ……関係者全員納得せざるを得まい。恨むなら、連敗し続けた自分を恨め。豚のせいにするのは勝手だが、公的には決してそう思われん……今は我が派閥内を一つにしておきたい」
「ッ……一つに?」
「ああ。俺に六角家と京極家の仲裁をさせる気か?馬鹿馬鹿しい。当然、師冬に肩入れして次の将軍執事に推し上げるような真似は絶対に許さん。それは俺が決める事だ。ま、師冬は皆の前で、正行に返り討ちにされる醜態を晒したのだ。もはや師冬が中央政界で皆の纏め役になる芽は潰えたに等しい。身体が治り次第、関東に送り返すべきやもしれんな。もう一度、東国で一からやり直させるか」
この後、師冬は暫く摂津国で土地に関連する事務処理に携わり、守護の業務を侵食しかけるものの、ここはもはや赤松氏の国だ。
長くは続かず、貞和五年正月に再び鎌倉へ出向する事になった。
伊賀国も暫く千葉氏による伝統的な統治が施行された後、仁木氏や細川氏のような足利一門の間で、守護職が転々としていった。
「俺は仕事がある故、もう行く。氏頼、お前はもう少しここに居ても構わんが、他の誰にも師冬の素顔を決して見させてくれるな」
「……は」
先程の派閥の一体化を図るという言葉、あれはもしや直義派との対立の本格化を見据えてのものではないか。こんな疑念が燻る。
されど今は、目の前でぐったり横たわって動かない師冬に思いを致していた。出会ってから十三年。途中会わない期間も決して短くなかったとはいえ、我が戦乱の日々を間違いなく彩ってくれた。
もし再び関東に行けば、決して命運は続かないだろう。関東には元庇番衆の上杉憲顕が巣食っている。上杉氏は関東公方として時代を席巻する一族だ。東国で高師冬が争って勝てる相手ではない。
どうかまともな最期となるように。そう願って俺は木製担架の師冬の身体の脇に扇子を置いた。餞別だ。きっと師冬が本当に関東に送り出される前に話すタイミングもあろうが、そう長い時間があると思えない。危なくなったら下手に足掻くのではなく、晩節汚さぬために潔く自害しろよ。こう思って、俺は師冬の陣屋を去った。
〜3〜
祝勝の宴も終わり、俺はほろ酔い気分で道誉らと共に佐々木軍の陣に向かった。佐々木軍といっても、大半が京極勢だ。他の分家たちも含めて戸惑っている様子だ。一族惣領の俺が突然、今日まで入り浸っていた師冬の陣屋を離れて、宿泊場所を変えるのだから。
だが、道誉は肝が座っている。何と二次会を提案し始めたのだ。
「ささ、宗家!今度は一族の皆で飲み直しますぞ!」
「……道誉殿。俺は心配でならん」
「おや……何を心配なさる」
「敵軍の夜襲」
「……はい?」
今、幕府軍は上も下も強敵・楠木正行を討ったと勝利に酔って、防備が前より薄くなっている。もし四条隆資か北畠親房が、この隙を知ったなら、捲土重来を期して一世一代の夜襲に出るのでは。
勿論、可能性が高いと思っている訳ではない。だから本陣での祝勝会では他家の武将たちに水を差すような真似をせず、のらりくらりと自分の深酔いを避けるだけにした。しかし、二次会は別だ。
俺は分家の道誉を睨んだ。道誉は内心侮っているのか、全く考えていなかったのか、声を震わせながら返しの言葉を紡いでいく。
「さ、流石は宗家……深謀遠慮にこの道誉、敬服致しますぞ」
「敬服は結構。はァ、たとえ敵の残兵僅かでも……このまま見過ごせば正行の首は明日にも京へ送られ、河原で晒し物。故に獲り返さんと必死に攻めて参れば、今の状態ではたちまち負けてしまう」
持明院統の名を背負って北朝軍として戦った以上、討ち取った南朝武将の首は、逆賊として万民に晒すものだ。逐一言うまでもない道理である。京暮らしの浅い楠木正儀でも知っている事だろう。
このまま幕府軍がさっき総大将・師直が言ったように殲滅作戦を決行する気であれば、その前に先手を打つのは決して悪手ではないだろう。何より、幕府軍の殆ど誰も警戒していない。この手の不意打ちはむしろ楠木軍の得意分野ではないか。正成ならそうする。
「御安心を。よしんば正儀がそのように考えたとしても、親房が止めるに違いありません。もし親房にそれを赦す器があれば、そもそも正行が三十数度の突撃を敢行するに及ばなかった筈ですから」
「……春日顕国なら兎も角、親房に奇策は無理か」
数年前、師冬は関東で親房や春日顕国のあの手この手に長らく苦戦した末、成果を収めたと認識していたが、真に厄介なのは春日顕国だけだったのかもしれない。ここ最近の情勢から、強くそう思うようになった。顕家の父親らしからぬ判断ミスが相次いでいる。
まるで後醍醐天皇の霊が取り憑いているかのような惨状なのだ。
「はい。恐らく正儀も攻勢より守勢を好むでしょう。師泰殿が二万騎で堺浦におられる。この掎角の勢を見れば、これ以上は闇雲に攻めるより、山々で待ち構えて寡兵の機動力で大軍を翻弄する作戦が最良と判断せざるを得ますまい。たとえ援軍の見込み無くとも」
「……まこと道誉殿は策士であるな。その説明で腑に落ちた」
「それは良うございました。ささ!気を取り直して呑みましょう」
「道誉殿。その前に聞いておきたい……俺の隣に侍るのは?」
「……魅摩にございますが、それが何か?」
腹黒坊主の道誉は相変わらずだ。そんなに次代の本家当主の外祖父になりたいのだろうか。不信感が胸に渦巻く。娘の人質状態を解消しようと動くかと思えば、これだ。警戒せずには居られない。
首実検前の師直の言葉を思い出す。だが、かと言って簡単に踏ん切りのつくものでもない。成る程、確かに尊氏様の娘婿になる線は消失したと見るべきだ。だが、問題は他にもある。俺は尊氏様を崇敬している。決して揺らぐつもりも、揺らがせるつもりもない。
ここで俺は思い出していた。亡き分家当主・塩冶高貞の最期を。
「反対側に甲賀三郎を置く。呑ませる気はない。念の為の護衛は置いておきたいのだ。まだ完全に気を緩めると決めた訳ではない」
「しかしながら──」
「しかしもカカシもあるか!これ以上の譲歩は出来ん!呑めないと申すなら、俺はさっさと寝る!眠いのに付き合ってやると言っているんだ!いいから黙って、少しは俺の話を聞いたらどうだ!何もかんも口挟みして、あらぬ疑いを掛けられるは貴殿だと心得よ!」
よもや惣領の俺を操り人形に堕とすつもりかと強く牽制する。
供の者共が我が剣幕に唖然とするも、道誉の視線は揺らがない。
静寂が流れ、道誉は慎重に言葉を選んでいる風で口を開いた。
「……承知。どこまでも敵の夜襲への警戒を僅かでも頭の片隅に置く姿勢、拙僧も見習いたいと存じます。それこそ大将の器です」
「結構……折角だ。酒ついでに高兄弟の今後の施策について見解を述べよ。俺にとってはそれが何よりの肴。道誉殿の話は面白い」
「お褒めの言葉……かたじけのう存じます」
互いに持ち上げる言葉を交わし、この場はひとまず収まった。
この三日後、師泰軍が古市経由で東条を攻めるべく、二万騎を率いて堺浦を出発する。これが長年に亘る室町幕府と楠木正儀の争いの始まりだった。正儀もまた紛れのない軍神の子であったのだ。
しかし、俺を驚かせたのはここからだった。師直軍は京に帰るでもなく、師泰軍と合流するでもなく、大和国へ方向転換。目的は吉野攻めである。本当に功を奏するのか。俺は半信半疑であった。