崇永記 作:三寸法師
〜1〜
大和国で南北和平の動きが微かに見られた一方、河内国では師泰軍が東条総攻撃を実行していた。新生の名将・
南朝武将・岸和田助氏*1は危機感を露わにする。東条にある楠木氏の屋敷も容赦なく燃やされた。きっと
「あかん!ジリ貧や!前は
「……畠山国清か。他に思い当たる節がござらん」
(畠山国清……昨秋の戦では明らかに手を抜いていた。まるで今はまだ自軍を擦り減らしたくないかのように……きっとその意図は)
「
「岸和田殿。方策に変更はござらん。ここよりもっと山奥に退いて撹乱戦術を続ける。我慢比べにござるよ。兄者たちを討って軍功第一になった高師直が、幕府で無事に済むとは思えん。田楽三昧の尊氏はいざ知らず、真面目な直義が高一族の暴走に快く居られる筈がござらん。機を見て変を待つ。これこそが最良の策にござろう」
この楠木
閑話休題。南朝の危機的状況は依然、続いている。最たるものはやはり南朝首都・吉野だろう。後村上天皇は渋い表情であった。
「やはり……師直たちは攻撃して朕を捕えるつもりなのか?四条」
「は!明日にも北朝軍が吉野を襲撃するものと聞こえております。帝、どうかご叡慮を賜りたく存じます。実のところ、この辺りは山こそあれど、防御設備が心許ないかと存じます。何より防戦のための兵がございません。今宵の内に、更に南へ避難して頂きたく」
ただし、後村上天皇が最終的に賀名生に辿り着いた事は確かだ。
「何と……和睦交渉は何だったのだ。西大寺の長老が仲介に入ったのだから、てっきり師直は和睦に前向きと……これでは、時間稼ぎの意味がないではないか!大体、四条!誰のせいで兵が……!」
「ははッ……!」
四條畷の戦い直前、周辺諸国の野武士二万騎という大軍勢を付与されていた筈の四条隆資は、平身低頭するばかりである。投降兵や逃亡兵が続出し、実際には三千騎で北朝軍の次鋒部隊と戦う羽目になったばかりではない。碌に成果を上げられず、何と
否、何も
(いや……
「すまぬ。今のは忘れよ。つい取り乱した。許せ……親房は?」
「……段取りの手配に追われておられます」
(親房は和睦と降伏に何の差があろうかと端から否定的であった。朕もそうあるべきだったのやも。公卿たちに甚く苦労を強いる)
「四条。朕も早速、支度に掛かる!急げ!」
「は!」
この賀名生行きは悲惨の極みだった。古典『太平記』によれば、賀名生で待っていたのは古の大陸の聖人・堯舜にも劣る質素な暮らしであったという。女院や皇后も粗末な庵で雨漏りに濡れ、涙に暮れていた。南朝公卿たちはまるで未開人のように暮らし、昔を懐かしむ余裕すら無かった。陪臣たちに至っては寒さに震えていた。
一連の経験が後村上天皇たちの精神を蝕んでいく。この後にも待ち受ける波瀾と合わさり、南朝はますます深刻に病んでいった。
〜2〜
(南朝は今、正平という元号を用いている。正平の一統というワードは聞いた覚えがあるが……あれ擾乱の前だっけ?違う気がする)
「
「は……は!」
「そうだ。寺も注意しないと……美濃部、忍軍の者たちと探れ!」
「御意!」
次弟の
そんな様子が暫く続いた。相変わらず
今なお立場上は
「今あんな心配してるの
「……それは前に殿様が言ってたよ。直義様が将軍執事の動向を探るために派遣したんだろうって。お魅摩様、聞いてなかった?」
「煽るな!……成る程ね。副将軍の和睦交渉命令は表向き。内実は師直軍の動きを把握するためか。その期間分の兵糧補填で態々
「定詮様に自覚はないと思うよ。多分、早く殿様にお会いしたくて直義様の話に乗っただけ。定詮様は昔から殿様に首っ丈だから」
「……六角党はそんな連中ばっかだから困る」
庶流の京極家出身の魅摩は呟いた。六角党の合流によって目算が崩れていたのだ。案の定、
このままでは再び戦前の人質状態まっしぐらである。
(親父も何考えてんだか……!何か手があるとでも!?
「お魅摩様。結局さ、この吉野って焼かなくていいの?」
「あ〜、どうだろね」
(多分、焼く事になると思うけど……そう言えば、お達し無いな)
唐突な
幕府軍総大将・高
何か止むに止まれぬ事情があるのか。そう魅摩は訝しんでいた。
(総大将自ら乗り込む前に間者を派遣して、南朝の帝の所在地を炙り出そうとしてる?いや、それにしたって動きが遅過ぎる。天下の高師直が伏兵を恐れた……というのも考え難いな。とすると──)
「まさか女絡みか」
「……え?」
「いんや、何でもないよ……流石にそれだと話変わるな」
亡き分家当主の塩冶高貞とその妻・顔世御前の事件は、今でも世間の記憶に残っている。魅摩はあの夫婦が本当に南朝に渡りをつけていたのだろうと踏んでいたため、同情心を全く抱いていない。
それどころか恨み辛みに思うところがあった。何故か。塩冶夫妻の事件のせいで、
何せ幼少の時分だったとはいえ、敵軍の女騎を降らせて股肱之臣に仕立て上げようとしたのだ。
(逆手に取る……という手は何か無いものかね)
「女と言えばさ、南朝の人たちって全員ずっと遠くの山向こうに逃げたのかな?公家たちだけでも大変そうなのに、帝や女院のお世話のために女房たちも大勢付いていかなきゃなんでしょ?大変だ」
「ん?……ま、私らみたいに逞しい女は、南朝じゃ稀だろうね」
この時、魅摩は確信めいて言っていたが、後に南朝にも女傑が居た事を知る。後の楠木正儀の妻・伊賀局である。かつての新田四天王最強・篠塚
説話集『吉野拾遺』では、伊賀局が南朝の吉野落ちで目立った活躍をしている。曰く、
付近の松や桜の枝を次々と折って、緊急渡河のための橋に仕立て上げた。このお陰で廉子たちは九死に一生を得たという。因みに、女たちが渡り終えた後、護衛の武士が同じ芸当を試そうとして失敗したというのだから、伊賀局は非凡な女傑と言えるに違いない。
閑話休題。少し前に吉野周辺でそんな修羅場があった等とはつゆ知らず、元逃若党便女の
「武家の娘ならまずまず平気だろうけどさ……貴族の娘たちに本当の山暮らしなんて出来ないよ。ここも遷幸から十年以上経って大分寂れてるらしいけど、建物があるだけマシだよ。本当の山奥暮らしはこんなもんじゃない。山奥で獣と隣り合わせで暮らさなきゃ」
「……そんな環境じゃ最低限の食事も取れるか怪しいね。幕府軍に攻撃されなくても、飢えて自滅一直線だよ。餓死しちゃった南朝の女たちの死体を、帝や公家たちが齧るなんて事になってみ?南朝どころか、北朝の権威も危うい。皇室自体が、ただ脆弱な張りぼてなんじゃないかって気付かれるからね。そしたら本格的に尊氏様が人の心の拠り所になるよ。既に
〜3〜
垂涎ものの情報をキャッチしていたからである。生前の
(弁内侍……!阿野廉子の周辺の女官たちが揃って逃げ仰せたという話は憤飯ものだったが、斯くなる上は弁内侍さえ手に入れられればそれで構わん!最優の南朝美女を得たとなれば、益々男として弟殿の上になる!あの弟は生涯で渋川頼子しか抱いた事がない!)
「お、叔父上……何やら目が血走っておられる」
「師世……ふ。師泰の勧めを聞いて、お前も盛んに女を抱いているそうだが、まだまだだな。当世の武家の喜びは、やんごとなきを誇る皇族なり公家なり……その手の妻や娘の顔を床で歪ませる事にあるのだ。子でも産ませれば、その家の持つ教養も吸収できよう」
貴族階級の女性が優美たる所以は、各家々が持つ教養ノウハウを少なからず得ている点にある。子育ての際、京の政治に必要な素養を自然と身につけさせてしまうものだ。有象無象の孕み袋としての人妻にはない女の魅力が、合理主義者の
甥の師世は圧倒されるばかりだ。だから南朝の美女に拘っているのかと得心していた。南朝の美女は、北朝の美女にないノウハウに通じている可能性がある。それが狙いかなどと勝手に納得した。
「浅はかでした。ただ豊満な女体を抱けば良いものと」
「それではまだ青い。無論、腰つきは大事だろうがな。腰の細い女は猛将を産み出せん……まぁ見ておれ。天狗衆!隈なく探せ!」
「「「は!」」」
次の作戦のための仕込みをしながら、天狗衆たちは主君のために南朝美女・弁内侍を探し回った。だが、どこにも見当たらない。
美女の特徴──艶やかな黒髪の持ち主にして、深い知性と気品を感じさせる──を満たす存在など、天狗衆をしても発見する事が出来なかったのだ。完璧執事・高
ここである事に気が付いた。連絡可能な天狗が一駆ほど減っているのではないかと。どうやら消えた天狗は六角軍が陣を張った場所を探っていたようだ。当然ながら
「
(くそッ!弟殿が和睦交渉命令がてら六角党どもの派遣をせねば、
「どうされます?叔父上。そろそろ力を解放しても──」
「俺が直接行く!師世!お前は秘密兵器!解放は慎重にだ!制圧はあくまで向こうが俺に殴り掛かる素振りを見せてからにしろ!」
「……御意」
(このために父上の軍勢から急遽呼ばれた身なれど……叔父上は将軍執事。将軍烏帽子子たる
「安保、薬師寺!お前たちも来い!」
「「は!」」
間違いなく
「
「……死体でも宜しければ」
「お前……!」
(よもや……よもや予め殺したと……!正気を失ったか?顔世の当て付けだとでも?あれは確かに南朝政府と通じていたのにか!)
将軍執事・
しかし、今や老将の
頭の中で美女と猛将を天秤に掛ける。合理主義者として一体どちらを選ぶべきか。
逃げ若で師世が何故だか師直を伯父ではなく叔父と呼んでいる件。
作中世界において、師世だけ師泰兄説を採っていると個人的に解釈しています。それもあって、次代は師夏たちではなく師世自身の手に帰するものと考えていると。中々どうして好きなキャラです。