崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 北朝で言うところの貞和四年(西暦1348年)、南朝で言うところの正平三年の二月を迎えて尚、後村上天皇たちは恐怖に怯えていた。四日には女院こと阿野廉子が、紀伊国の神宮寺に対して祈祷を要請した程だ。

 今や天下最強と目される完璧執事・高師直(武蔵守)が灰燼の吉野に依然として居座っていたからである。この日、師直(高武蔵守)は吉野でかの山内首藤経俊*1の末裔・時通と対面していた。かつて斯波家長の元で働いた武将だが、その後は師冬軍で活躍して備後国に所領を得ていた。

 

 

「苦労。これが着到状だ」

 

 

「ははっ!有り難く頂戴致しまする!」

 

 

「時に摂津国で師冬はどうしていた?まだ身体は回復途上か?」

 

 

「お察しの通り……ですが、今は文官仕事の方を何とか」

 

 

「ならば良し。土地に関し、何かあれば師冬に話を投げろ。俺は数日以内に再び忙しくなるだろうからな……何、直ぐ終わる話だ」

 

 

 明らかに師直(高武蔵守)は虎視眈々と追撃を見据えている。後村上天皇の居場所を突き止め次第、軍勢を引き連れて袋の鼠に追い込む腹だ。

 師直軍五万騎に対し、賀名生の後村上天皇の手勢は雀の涙ほどしか居ない。周辺の地元武士たちが果たして双方どちらに味方したいと思うものか。このような窮地で、正攻法は土台無理なものだ。

 しかし、祈祷で何もかんも解決するなら苦労しない。日を同じくして後村上天皇は悲嘆に暮れた。縋るべき藁が失われたからだ。

 

 

「越前国の反乱がもう失敗した……」

 

 

「はい。帝、今頃は首が京に届けられているものと」

 

 

 『建武三年以来記』によれば、越前国で合戦が起こるも敢えなく鎮圧され、二月四日にも戦後処理されたという。現状打破のための一筋の光が、あっさり消えたのだ。これで師直(高武蔵守)が後ろを顧みる理由は益々薄くなった。逆に火が付いて今直ぐ南下を始めかねない。

 この時、後村上天皇は清貧にも程がある逃亡生活の中で、視界が真っ暗になるかのような錯覚に囚われていた。もうこの世に北畠顕家は存在しない。親王時代、あれほどまでに頼もしかった公家将軍が存命だったのも今や十年も昔の事だ。直近では正行(まさつら)が死んだ。

 南朝の斜陽は誰の目にも明らかである。九州でこそ懐良親王が果敢に気を吐いているが、とても今直ぐ吉野救援を望める程の余裕が有るか無きや。顕家の弟たちはそれぞれの地で周辺の幕府武将に睨まれており、新田義興や北条時行に至っては既に見る影もない。

 もはや師直(高武蔵守)に対抗し得る南朝武将は何処にも居ないのだろうか。

 

 

「越前国では数年前、尊氏と確執のある有力大名・斯波高経が守護職を解かれ、新たに細川頼春が就任している。その頼春が南征に従軍している今なら功を奏するかと思ったが……難しいものだな」

 

 

「帝……ここは正儀に知恵を借りる他、手は無いかと……」

 

 

「四条よ……正儀とて河内国で師泰軍と対峙し、予断を許さない状況なのだ。ここで甘えてしまえば、朕はまた正行(まさつら)の時と同じ失敗を繰り返す事になる。正儀まで討たれてしまえば、朕はもう……」

 

 

 親王時代は顕家の転戦に同道した後村上天皇と言えど、憔悴ぶりが明らかだ。何も賀名生での貧困生活だけが理由ではあるまい。

 かつて般若坂合戦の後、顕家に対する使い潰すような処遇に胸を痛めておきながら、十年ほどが経って先帝・後醍醐天皇と同じ過ちを犯したのだ。後村上天皇は賀名生に臨幸し、益々の痛恨の思いを仲春の寒風と共に味わっていた。状況は刻一刻と悪化している。

 南朝首都・吉野が焼かれ、後村上天皇たちの恐怖はとっくの昔に最高潮だ。師直(高武蔵守)は恐れ知らずだ。この天下で三指に入る婆娑羅大名だろう。和睦の話も破談となって、王手まで秒読み状態なのだ。

 

 

「北朝武将は逆賊の集まりだ。澄まし顔で清廉潔白を自称する足利直義でさえ、かつて坂東で親王弑殺を手配した逆賊だ。まして直義より余程凶暴な師直はどうだ?朕への敬意など欠片もあるまい」

 

 

「しかしながら……仮にも三種の神器をお持ちになっておられるのは陛下です。幾ら北朝武将の師直でも、そう()()()()とは……」

 

 

「余の同母兄・恒良親王の末路を知ってなお申すか?四条よ」

 

 

「ッ!」

 

 

 後醍醐天皇の第五皇子・恒良親王について話が及び、四条隆資は背筋が凍った。恒良親王とは吉野遷幸の前、後醍醐天皇が足利氏と一時和睦した際に、北国落ちの新田氏に与えた皇太子だ。その後、三種の神器の所有を根拠とし、北陸王朝の象徴となるも、他ならぬ後醍醐天皇が吉野で未だ帝位にあるものと主張してしまったため、状況が一変した。恒良親王は何も知らないまま、なし崩し的に自称新帝に身を窶す事となってしまい、新田氏の北朝王朝の構想は空中分解した。南朝から暗黒史扱いされ、北畠親房も口を噤む話だ。

 最終的に恒良親王は、新田軍の形勢悪化が祟って足利軍の手に堕ちてしまい、問答無用で京に連行された。真の問題はこの後だ。

 

 

「仮にも恒良親王は比叡山で密かに受禅され、皇位にあった幻の帝なのだ。現南朝政府として公に認める訳に参らぬ話だが、北朝にも暗黙の了解として知られて久しい……その兄宮はどうなった?」

 

 

「数年前……北方で亡くなられたとお聞きしておりまする」

 

 

(とぼ)けるに及ばぬぞ。四条……はっきり申せ」

 

 

「……実のところ、十年ほど前にお亡くなりに。足利家が現政所執事の粟飯原清胤をして毒殺させたと……何と畏れ知らずな事か」

 

 

 古典『太平記』によれば、元南朝皇太子の恒良親王ならびに元征夷大将軍の成良親王*2が、「鴆毒」によって命を落としている。

 両名の末路について現代では北朝公卿の日記を根拠に異論が唱えられているものの、足利武将がまたしても皇族を弑殺したというゴシップネタは中世の部外者たちの印象に深く刻まれた事だろう。

 恒良親王も成良親王も、彼らより先に死んだ尊良親王や護良親王とは毛色が違う。尊良親王はあくまで金ヶ崎城落城に伴う自害であると見做されており、護良親王はかつての建武政権で執拗に足利氏と敵対していた過去がある。一方で、恒良親王は皇太子以上の存在であり、成良親王は直義の関東支配に寄与していた御輿なのだ。

 たとえ後村上天皇が南朝の現人神であろうと、足利幕府が弑殺に二の足を踏むだろうか。まして幕府軍総大将はあの師直(高武蔵守)だ。それが足利兄弟の目の届かない吉野以南に居る状態が続いているのだ。

 

 

「楽観的な予測をするのは簡単だ。だが、師直は……その逆賊ぶりが蘇我馬子に及ばぬと誰が言えよう。朕はともすれば、崇峻天皇以来の臣民に弑される帝になるやもしれぬのだ。気休めは無用だ」

 

 

「は……」

 

 

「気休めは確かに必要ございますまい……ですが、治天の君にしては少々悲観が過剰でいらっしゃるようにお見受け致します。帝」

 

 

「親房!?」

 

 

 後村上天皇は息を呑んだ。南朝の元帥・北畠親房の気勢は衰えていない。その積極果断さは亡き長男・顕家に通じるものがある。

 正行(まさつら)の存命中は空回りするところが否めなかったが、猫の手も借りたい状況で、切り替えの速さは拙速を尊ぶ道理に適うものだ。

 

 

「その自信……親房、早くも次善策を拵えたのか?」

 

 

「は。勝手ながら密かに正儀と連絡し合い申しました。ご安心くださるよう。師直は近く滅びます。行宮に加え、蔵王権現や天神社壇すら燃やす言語道断の悪行ぶり……確実に神罰が降りましょう」

 

 

「事ここに至り……神仏が我らの味方をするか」

 

 

 二月七日、師直(高武蔵守)はいよいよ後村上天皇の居場所・賀名生を捕捉して吉野を出発した。現在の奈良県五條市へと進出したのである。

 しかし、翌日になると不可解な事象が起こった。幕府の大軍が突如として行き先を変更。元居た大和国平田荘に(きびす)を返したのだ。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 貞和四年(西暦1348年)二月八日、五條市──当時の地名で言うところの大和国宇智郡──から急遽撤退し、師直(高武蔵守)は平田荘を目指して北進した。

 この動きについて後世でも訝しまれている。吉野焼き討ちで南朝の権威は失墜し、戦略目標は確かに達していた。この先の直義との内紛を見据えれば、抗争に備えて戦力を温存しようという腹だったのかもしれない。だが、それにしては宇智郡進出が奇妙なのだ。

 現在、道誉(佐渡判官)の息子たちは馬上で揃って不満タラタラだ。嫡男の秀綱と次男の高橋秀宗である。室町幕府軍の軍議に参加できる実父(京極道誉)に対して、多少の配慮こそ必要ながら、直接文句を言える立場だ。

 

 

「父上。本当に良いのですか?折角ここまで来たのに、中途半端なところで引き返して……万が一、億が一にも南朝が巻き返す事態が起こらば、きっと後悔しますぞ。秀宗、お前からも言ってやれ」

 

 

「兄上……ですが、これだけは確実に申せましょう。宗家が此処に居られれば、確実に不満を零しておられた筈です。兄上よりも」

 

 

「ふ、確かに……あれは手の付けられない癇癪持ち。今や石合戦で棒切れを持って対岸に殴り込んでいた幼き頃の比ではない。父上、むしろ心配になってきました。宗家が独断専行なされぬものか」

 

 

「はてさて。宗家は今頃、吉野で撤退の報せを聞かれた頃合いか」

 

 

(不思議と宗家は南朝殲滅に乗り気で無かったようだ。存外、納得されるやもしれん。軽々に申せまいが……恐らくそうした未来が)

 

 

 この行軍に佐々木惣領・氏頼(大夫判官)はどうやら参加していなかったようである。師直軍の動きを裏付ける史料『醍醐地蔵院日記』に道誉たちの名がありながら、肝心の本家当主の氏頼(大夫判官)はその限りでない。

 越前国で反乱があったばかりで、隣国の近江国守護まで大和国の南部に深入りさせられないという事情があったのかもしれない。

 何はともあれ、氏頼(大夫判官)は存外冷静だった。これで良かったのだと。

 

 

「殿!南西の宇智郡に向かった幕府本軍が撤退を決めたと!」

 

 

「そのようだ。伊庭、この吉野の周辺地図は?」

 

 

「既に精巧なものが出来上がっておりまする!」

 

 

「結構。これで南朝首都は丸裸……以後、何十年と掛けて防御施設を整備しようと無駄だろう。幕府さえ万全なら、我らはいつでも総攻撃を成功させられる……我らも撤退だ!明日にも平田荘で師直(武蔵守)殿たちと再合流する!甲賀衆に斥候任務を抜かりなくと伝えよ!」

 

 

「は!」

 

 

(師直の情報によれば、南朝軍は密かに地元武士を集めている……向こうから話が漏れて来ないとなると、南朝の上役も知らない者が多い筈だ。まず正儀の成した業だろうが、何とも厄介な敵将よ)

 

 

 重臣の伊庭妙智に指令を伝え、氏頼(大夫判官)は表情を引き締め直した。

 その様子を次弟の定詮(山内五郎)が訝しむ。定詮(山内五郎)は長兄の氏頼(大夫判官)より積極的な気質だった。その分、隙が出来てしまうのが玉に瑕であったが。

 

 

「兄様……今更、伏兵の御警戒ですか?」

 

 

「念の為だ。尤も、我らに関しては必要ないと思うが──」

 

 

「我らに関して、ですか」

 

 

「ああ。我らに関して……であるぞ」

 

 

「は……では、ゆるりと平田荘へ戻りましょう」

 

 

「うむ。ああ、葛はできる限りたっぷり持ち帰るのだぞ。粉にしてたっぷりと点心(饅頭)の材料にするのだ。国師(夢窓疎石)殿にも土産で渡さねば」

 

 

 宇智郡、吉野、平田荘は必ずしも直線で結べるような位置関係にあるという訳ではない。三箇所を地図上で比べてみると、平田荘が最も北、吉野が最も東、宇智郡が最も西にある事が手に取るように分かるだろう。大事なのは、宇智郡と平田荘を結ぶ線の場所だ。

 丁度、金剛山の直ぐ近くに位置しているのだ。要は河内国との国境沿いである。河内国東南部では現在、正儀が戦を続けていた。

 

 

「高師直(武蔵守)……流石は天下の名将。親房卿の策に勘付いて即撤退を」

 

 

「如何されます?正儀様」

 

 

「……難しいな」

 

 

(当初の見込みでは、師直軍が宇智郡から賀名生に雪崩れ込むための一本道を通るところを襲撃する手筈でござった。されど、平田荘に撤退するとなると……奇襲しても伏兵の効果が限定的だ。折角集まった野武士たちを全て投入してたところで、師直軍の五万騎が相手では、四條畷の正行(まさつら)兄者とほぼ変わらぬ結果になってしまう)

 

 

 現在、正儀は北に師泰(高越後守)国清(畠山阿波守)連合軍という強敵を抱えている。

 賀名生の北畠親房からの相談という名の命令で、猛将・和田正武(和泉守)師直(高武蔵守)討伐のため大和国に派遣する事に決めたものの、他の楠木党の投入は非現実的である。楠木軍としても、もう後がないのだ。

 正行(まさつら)なら一か八かの可能性に賭け、大勝負に乗り出すだろうが末弟にして後継者の正儀は全く性質が違う。中先代・北条時行(相模次郎)に似て命大事にという気質の持ち主だった。結果、正儀は困り果てた。

 

 

「正儀様。このまま引き下がっては武名が廃りまするぞ」

 

 

「……正武(和泉守)。まだ師直軍を殲滅できると考えるか?賀名生ではなく平田荘への通り道となると、奇襲で意表を突けても、谷幅が広過ぎるせいで、地形を利用して優勢を保てるとは限らぬのだ。必ず行き詰まる。ほぼ一瞬しかない撤退の機を窺いながらの戦になるぞ」

 

 

(正武(和泉守)は、正行(まさつら)兄者の置き土産……そう簡単に失いたくない)

 

 

「構いませぬ。ただ一当てさせて欲しいのでござる。折角、高兄弟への仏罰に期待して集まった、元四条軍所属の野武士たちが三千騎も居るのです。誰か適当な守護大名の部隊でも壊滅させなければ、南朝に明日は無い……正儀様、どうか行かせてくだされ。何卒」

 

 

「仏罰か……ならば狙い撃ちすべき将は、師直ではなく──」

 

 

 正儀は地図を指し示す。間諜の報告を元にした地図だ。師直軍の配置が載っている。その北側中央にターゲットの名前があった。

 前出の『醍醐地蔵院日記』には意外な記事が載っている。八日、師直軍が平田荘帰還を目指して北上したところ、南朝軍三千騎が現れたというのである。当然、これで合戦に発展しない筈がない。

 この合戦において、南朝軍に狙い撃たれた幕府武将と言えば──

 

 

「何と小癪な……拙僧に矢を浴びせるか!」

 

 

「道誉様!危のうござる!」

 

 

「父上!近くの範資(赤松信濃守)殿が直ぐ救援に参られます!今暫くの辛抱にございます!赤田、父上にお下がり頂け!秀宗、敵将の炙り出しを!この戦振り、一介の野武士ではない!誰ぞ良将が率いておる!」

 

 

「御意!さぁ、南朝軍!どこからでも……ぐッ!」

 

 

「「秀宗!?」」

 

 

 これも八年前の妙法院焼き討ちの報いなのだろうか。京極軍はこの戦において、当主・道誉や嫡男の秀綱が負傷した他、庶子の高橋秀宗をはじめ将兵が数多く死亡するという大きな代償を払った。

 四條畷の戦いで稼いだ武名が、一月とそこらで水の泡になったのである。佐々木一族の有力庶家の京極家もまた、乱世の荒波で揉まれざるを得なくなっていく。秀宗の死はまだまだ序の口だった。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 二月九日、師直(高武蔵守)は平田荘へ移り、軍を整え直した。再び南に舞い戻って京極軍の犠牲者の仇を討つべきか、このまま大人しく京に引き下がるべきなのか。軍議で道誉(佐渡判官)は忿懣やる方なく黙っていた。

 派閥のリーダー・高師直(武蔵守)の侮蔑の視線を直に感じ取ったからだ。

 

 

(甘かった……!師直殿は分かっておられたのだ!南朝軍の伏兵を悟ったため、急遽撤退と思っていたが……それだけでは無かった!敵の実力測定がてら拙僧に意趣返しを!魅摩のために利用された腹いせに!この道誉が決して弟殿と相容れない事を見抜いた上で!)

 

 

氏頼(大夫判官)、どう思う?道誉殿の次男坊の仇、晴らすべきか?」

 

 

「その前に……師直(武蔵守)殿、敵襲場所は巨勢から水越に掛けての一帯と聞きました。それは確かでしょうか?事実なら由々しき事です」

 

 

 軍議で、昨日の合戦が京極家の独り負けのように扱われている。

 確かに犠牲者の数は京極軍が突出して多かった。しかし、総大将の師直(高武蔵守)は諜報集団・天狗衆を従える身だ。道中の伏兵などいとも容易く発見できる筈だ。道誉(佐渡判官)もそう睨んでいたからこそ、比較的安心して平田荘への道を先行していたのである。だが、警告の当ては外れてしまった。その結果、京極軍は奇襲に対応し切れなかった。

 つい先程まで、正行(まさつら)や弁内侍の例があったのだから、天狗衆の索敵能力を当てにし過ぎるべきではなかったと道誉(佐渡判官)は省みていたが、師直(高武蔵守)の視線で気付いた。決して不測の襲撃ではなかったのだと。

 

 

(拙僧はあくまで……宗家の次。幕府重役の座は年の功ありきと)

 

 

「ほう。楠木残党の関与を疑っているのだな?氏頼(大夫判官)

 

 

「はい。楠木残党が関わっているとなれば……首謀者は新当主の正儀と見るべきかと。加えて仮にそうであるとするなら、正儀は父兄に劣らぬ実力者という事に……道誉(佐渡判官)殿、手応えは如何でした?」

 

 

「申し訳ございませんが、宗家……傷の痛みでそれどころでは」

 

 

「何と。よもや道誉(佐渡判官)殿が斯くも敵軍に痛め付けられるとは。策士の道誉(佐渡判官)殿なら風森峠を通る際、十分用心していたでしょうに……」

 

 

「……面目次第もありませぬ」

 

 

(宗家とて!藤井寺や住吉の合戦では正行(まさつら)に負けておられように!)

 

 

 負傷の道誉(佐渡判官)()()()()が煮え繰り返る思いだった。上手く言葉で取り繕っているようだが、氏頼(大夫判官)の内心は策士・道誉(佐渡判官)にとって透けて見えるのだ。詰まるところ、氏頼(大夫判官)はこれにて一族庶流・京極家の軍事力に味噌が付いたと喜んでいる。昨年の自身の連敗を棚に上げてである。主な要因は魅摩(道誉の娘)を抱かされたという被害者意識だろう。

 古来より自分が正しいと思い込んでいる者ほど、厄介なものは無いと相場が決まっている。氏頼(大夫判官)はその典型例だ。だからこそ平気で軍令に違反できる。しかも、氏頼(大夫判官)の場合、人心を惑わせるのだ。

 

 

道誉(佐渡判官)殿をここまで追い込んだ敵将……答えは一つでしょう」

 

 

「おお……!やはり昨日の敵将は楠木正儀!」

 

 

「そうではないかと思っておった!」

 

 

「これは今から南に向かったとて、致し方ありませんぞ」

 

 

(こいつら……最悪だ。仕切り直さねば使い物にならん)

 

 

 大名たちの気勢は明らかに削がれている。何しろ、正行(まさつら)を討って吉野を焼き、南朝の軍事力が無になったと世に示せたものと思っていたのだ。それを今から再び正儀と戦うとなれば、いつまで軍事活動を続ける事になるだろうか。既に大和国に広がる南朝所領から(むし)り取れるものは回収し尽くした。いい加減、京で遊びたいのだ。

 こうした厭戦気分について総大将・師直(高武蔵守)は誰より理解している。

 京極軍の損耗具合と赤松軍の救援により、正行(まさつら)没後の楠木軍の実力について、師泰軍の報告と合わせて(つぶさ)に把握できただけ、十分な収穫と捉えていた。故に今は後回しにしても構わないだろうと。

 

 

(再戦しても得られるものは限りなく乏しい…… そろそろ副将軍との派閥争いに本腰を入れたいところだ。正儀など恐れるに足りん。今暫くは師泰か国清(畠山阿波守)に防がせ、弟殿(直義)が片付き次第、(ブタ)と仁木に討たせてくれる。だが、それにしても昨日は見事、道誉殿に灸を据えてくれた。この俺を宗家乗っ取りの道具にしてくれた罰だ。いつ迄も尊氏様の友人気取りでは困る。昨日やっと化けの皮が剥がれた)

 

 

「数日様子を見る。正儀が次にどう動くか見極めたい。特に問題なければ、奈良へ向かう。その翌日に帰京だ。宜しいな?道誉(佐渡判官)殿」

 

 

「は……」

 

 

「まるで敗残兵の京極軍が我が凱旋軍に居ては、人々に余計な疑惑を抱かせかねまい。道誉(佐渡判官)殿におかれては京に入らず、本領の北近江に一旦戻って頂こう。氏頼(大夫判官)、凱旋時はお前が俺の隣後ろを往け」

 

 

「承知」

 

 

 貞和四年(西暦1348年)二月十三日、完璧執事・高師直(武蔵守)が軍勢を引き連れて京に舞い戻った。氏頼(大夫判官)など幕臣を連れ回し、正行(まさつら)討伐や吉野焼き討ちを果たした剛腕の将として、ただでさえデカい鼻を高くしていた。

 しかし、出迎える副将軍・直義は白い目を向けていた。風森峠近辺にて伏兵に遭い、道誉(佐渡判官)たちが散々な目に遭ったという情報を独自のルートから伝え聞いていたのである。つまり、直義は師直(高武蔵守)の高いデカ鼻が偽りで塗り固められたものと見ていたのだ。この両者のすれ違いが、再誕の源氏政権・室町幕府を長い混迷に突き落とす。

 天下を揺るがす大事件・御所巻まで残り一年半程となっていた。

*1
源頼朝の乳兄弟。しかし、頼朝の旗揚げ当初はこれに従わず、所領を奪われた。後に挽回し、一時は伊勢国や伊賀国の守護を務める。

*2
後醍醐天皇の第六皇子。中先代の乱以前、直義が鎌倉将軍府で担いでいた。

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