崇永記   作:三寸法師

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第拾漆章 御所巻
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〜1〜

 

 

 室町幕府二代将軍・足利義詮の死から十年近く経ち、管領の細川頼之が現将軍・義満を存分に補佐していた時代。現六角家当主の亀寿丸は秘密の訪問先、近江国犬上郡尼子郷で驚きに満ちていた。

 先代当主夫人の魅摩が語る話は、塩冶高貞事件も師直(高武蔵守)の弁内侍奪取失敗も、未だ幼稚な亀寿丸にとって青天の霹靂でしかない話ばかりだった。しかも、魅摩の口伝のお陰で、亡き父・崇永(六角氏頼)について詳しく知る事が出来ている。従来の六角邸での生活や将軍近侍の業務では触れる事の叶わなかった裏話が矢継ぎ早に飛び出していた。

 亀寿丸は目を瞑る。赤子の頃に父無し子になってしまったため、亀寿丸は先代当主(六角氏頼)の顔を覚えていない。だが、それでも愕然とするものがあった。自分の認識が甘かったと痛感していたのである。

 

 

(父上……これは北の方様と不仲になって当然だ。今までどんなに早くて父上の急な()()()()()あってからと思っていたが……そもそも幼い頃から仲睦まじかった筈が、北の方様との間に御子が一人だけだった時点で……成り行きで仕方なく?そんなまさか……?)

 

 

「北の方様。失礼を承知でお聞きしたいのですが……義信兄上の他に御子を設けようと思われなかったのですか?さすればきっと」

 

 

「思ったさ。だけど……どうにもならなかった。楠木正行(まさつら)が負かしてくれたお陰で、義信を産めたのは良かったよ?だけど、後から考えたら……時既に遅かったんだよ。崇永殿の御子をそう何人も身籠ろうと思ったら。まさかあんなに早く出家するなんて露程も思わなかったし、馬鹿真面目に女犯を忌避したのも痛かった。それでいて亀寿丸……あんたが産まれたんだからさ。分からないもんだよ」

 

 

 老尼・魅摩の生々しい悔恨の言葉を聞き、亀寿丸は息を呑んだ。

 同時に、幼い亀寿丸の脳裏にふっと魔が差した。幕府の内外で実しやかに囁かれている噂は、亀寿丸の心を締め付け続けている。

 本当に三代将軍(足利義満)による過剰な寵愛の()()()()であるだけなのか。

 

 

「私は……本当に父上の──」

 

 

「亀寿丸。そこは安心して良いよ。あんたは間違いなく、崇永殿の御子さ。私が産んだ子じゃないけど……ちゃんと誇るべき事だ」

 

 

「……はい」

 

 

 背中を押すような魅摩の言葉が、確かに亀寿丸に勇気を与えた。

 伝統ある近江国守護の家系として、誇りを持って良いのだと。

 亀寿丸は早速気を取り直し、好奇心の赴くがまま魅摩に尋ねた。

 

 

「北の方様!楠木正行(まさつら)が討たれ、師直軍が吉野を焼いたところまで伺いました。となると次は御所巻。その頃、北の方様は……?」

 

 

「近江国に居たよ。情勢がかなり不安だったから、崇永殿が手配したんだ。勿論、根回しは欠かさなかった。妊娠中に京を離れて破滅した顔世御前の例があったからね?念には念を入れて。あの時は私も嬉しかった。ただ崇永殿が繊細に考えてただけなんだけどさ」

 

 

「……」

 

 

 奇しくも氏頼(大夫判官)の第一子誕生と御所巻は同じ貞和五年(西暦1349年)の出来事だ。

 佐々木一族が揃って次代惣領の生誕を今か今かと待ち構える中、室町幕府は揺れていたのだ。副将軍の直義(左兵衛督)と執事・師直(高武蔵守)の間で。

 

 

「ま、当時の京の事情は色々聞いてる。亀寿丸が聞いた事ないような話も沢山あると思うよ?何でも聞きな?今だからこそ詳しく知っておくべき事件だろうしね。市中から聞こえてくるよ?幕府で細川頼之公が孤立し始めている……まるでかつての副将軍(足利直義)のように」

 

 

「ッ!」

 

 

 室町時代は差し詰め、内紛博覧会である。最盛期を迎える三代将軍の時代でも、この頃は未だ中央も不安定だった。管領の細川頼之が多くの政敵を抱えていたのだ。有力大名の土岐頼康や斯波義将たちが反細川派となり、前将軍夫人の渋川幸子とも確執があった。

 亀寿丸は俯いて己が()()()()()を誤魔化す。現六角家当主としても将軍の寵童としても、頼之への逆風は決して他人事ではない。

 

 

(私が……私が居たばかりに……頼之殿は)

 

 

「また何か後ろ向きになってるね。良くないよ、崇永殿もその前の時信公もそうだったけど……近江国の国守にとって大事なのは必ずしも政権を守る事とは限らないよ。政権交代は世の常だ。その中で如何にして御家を守るのか……これを第一に考えなよ。亀寿丸」

 

 

「……はい」

 

 

 亀寿丸、もとい後の六角満高も、室町幕府の内紛に無関係では居られない立場だ。幼いながらも近江国守護という京周辺の有力武将として、幕府の実力者たちの生み出す荒波を泳がねばならない。

 最も脅威な武将は果たして誰か。現外様最強武将にして一族史上最大版図の生みの親・土岐頼康なのか。数年前、桃井直常(播磨守)を完膚無きまでに撃破した新たなる麒麟児・斯波義将なのか。それとも同じ佐々木一族の大名で、反細川派のニュービー・京極高秀なのか。

 幼い亀寿丸が、実績豊富な彼らと同等以上に振る舞うためには、やはり武勇だけでは足りない。教養も必要だ。特に政治史については最も理解を必要とする項目だろう。半端な理解では困るのだ。

 

 

「御家を守るという事で言うなら……両殿御不快。父上が苦境に陥るまでに何があったか、未だに整理し切れておらず。御所巻では確かに師直派に付き、御所の囲みに参加したと伺っておりますが」

 

 

「……御所巻やその後の内戦を理解するなら、将軍庶子の足利直冬について十分に知っておかなきゃいけない。変な噂のある亀寿丸にしてみれば、聞いてて辛い話かもしれないけど、覚悟は良い?」

 

 

「大丈夫です。軍記で一通りの事は……ただ、本当に内容が煩雑で理解の及ばないところも多く……政争に勝った筈なのに、気付いたら破滅しておりました。足利直義公にしろ、高師直にしろ……」

 

 

「鎌倉幕府の北条氏台頭の反省があるからね。きっと今後も幕府では出る杭を打つ自浄作用が維持されていく筈さ。直義公も師直も何故に滅びへ向かったか。この手の政治力学で説明が付く筈だよ」

 

 

 観応の擾乱は複雑怪奇である。足利幕府の層の厚さが、様々な武将の思惑が交差するコロシアムの土壌となった。ただ、師直派にも直義派にも共通して言える事があるだろう。君側の奸を排除せよというスローガンの使用である。何も直義派の専売特許ではない。

 件の御所巻もまた、特定の直義派の排除を名分として行われた示威行動であった。これに佐々木惣領の氏頼(大夫判官)を含め、諸大名が賛同したのである。古典『太平記』によれば、御所巻において直義派の兵力僅か二千騎に対し、師直派の兵力は五万騎と圧倒的であった。

 四條畷の合戦や吉野焼き討ちの軍功により、将軍執事・高師直(武蔵守)の名声は最高潮に達していた。これに対し、直義はどうだろうか。

 決して直義派が無力であった訳ではない。政敵の師直(高武蔵守)に対抗可能な名将の養成という必要命題に取り組んでいた。その筆頭格こそ将軍庶子の足利直冬であった。だが、悲しい哉。足利直冬はあまりにも強過ぎた。尊氏の傘下に甘んじる上で、諸刃の剣だったのだ。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 将軍執事・師直(高武蔵守)は意気揚々と京への凱旋を果たしたが、その弟の師泰(高越後守)は違っていた。とっくの昔に東条の楠木氏本拠地を焼いておきながら、依然として河内国にて残党殲滅作戦を継続中であった。

 楠木氏新当主の正儀が異様にしぶとかったのである。否、正儀もまた軍神(楠木正成)の息子である事を考えれば、当然と見るべきか。楠木正成もかつて、山間部で鎌倉幕府の大軍を翻弄していた。あの湊川の(河内)(判官)や四條畷の正行(まさつら)の華々しさのせいで忘れそうになってしまうが、楠木軍の十八番は野戦よりむしろ、この手の長期戦にあるのだ。

 結果、師泰(高越後守)は忸怩たる思いを味わった。九輪を改造して作った窯で沸かした茶を以てしても、到底癒せるものではない。虚しさを紛らわす腹だろうか。東山に別荘を建てる手配を進めさせていた。

 

 

「何?公家の召使い共が工事に文句を付けてきただァ……?」

 

 

「はい、師泰(越後守)様。人夫の使い方が乱暴過ぎやしないかと」

 

 

「部外者が……そいつらの名前は?」

 

 

「通りすがりの者たちでしたが、既に特定してございます」

 

 

 古典『太平記』によれば、北朝公卿(四条隆蔭)(しもべ)・長門前司重藤(大蔵少輔)及び古見宗久(源左衛門)によるクレームを知り、師泰(高越後守)が大層な怒り様だったらしい。

 婆娑羅武将たる者、報復可能と見れば直ぐ仕返しに出るものだ。

 

 

「そいつらを捕まえて工事現場に放り込め。公家の犬共が、一丁前に人夫を気遣ったんだ……代わりに働かせてやろうじゃねェか」

 

 

「……どこまで働かせましょうか?」

 

 

()()()()だ……工事は夏まで長引きそうだ。どんなに暑くても人夫姿で烏帽子が曲がるまで土仕事に没頭させねば、収まらねェ」

 

 

 中世社会に人権という概念がある筈も無し。古典『太平記』では上記のエピソードにおいて、恥を欠く位なら死ぬべきという結論で纏められている。命を惜しむ者を誰もが爪弾きする時代なのだ。

 閑話休題。奇しくも楠木正儀こそ命を惜しむ者であった。南朝最後の名将として遺憾無く北朝の名将・高師泰(越後守)を打ち破ったのか。

 否、違う。正儀は神出鬼没だった。各要塞を巡り、師泰(高越後守)に尻尾を掴ませなかった。そのせいで師泰(高越後守)は基本的に河内国石川河原で無為に日々を送らざるを得なくなっていた。時折、東条周辺の要衝に軍を派遣する場合も何度かあったが、全て無駄に終わった。いつまで経っても決着が付かず、次第に師泰軍の動きは沈静化し始めた。

 

 

「舅殿。追加の兵糧を持って参りました。お納めを」

 

 

「師冬か。ご苦労……また直ぐ摂津国に戻るのか?」

 

 

「ええ。義父上は、正儀との決着を先延ばしにするおつもりのようですから、私の出る幕はありません。国清(畠山阿波守)殿はまた紀伊国に?」

 

 

「ああ。国境近くの賀名生に南朝の帝が居るからな。そのせいで紀伊国の南朝武士たちが調子に乗りやがる。それより正儀だ。奴の逃げ上手、あれはお前の元主君より上だな……それに義興の野郎より鼻も利くらしい。どうやら楠木一族はどこまでも万能らしいぜ」

 

 

「……しかしながら、楠木氏は我々高一族と違って、国政を担うに値する政治力までは持っておりません……精々が佐々木六角氏頼(大夫判官)と同じで、国守が限界でしょう。今は辛抱が肝要かと。京で直義派が片付き次第、義父上が加勢を寄越されます。その時こそ決着を」

 

 

 師泰(高越後守)は、やんわりと否定の言葉を連ねた娘婿・師冬(高播磨守)を見詰める。

 四條畷の戦いでは、かつて春日顕国を倒した功績がまるで嘘であるかのように、南朝最優の楠木正行(まさつら)との直接対決で歯が立たなかった師冬(高播磨守)だが、今や回復して虚勢を張る程度の余力はあるらしい。

 舅としてそれなりのエールを送ろうかと思わせるに足るものだ。

 

 

「そうか……ま、お前も摂津国で支援活動に励むんだな。現守護(赤松範資)と正式に交代をとはいかねェだろうが、四條畷の失態を取り返すには幸先良い仕事だろうぜ……その内、関東に再派遣されるかもな」

 

 

「……高一族の繁栄のため、引き続き力を尽くして参ります」

 

 

 高一族の棟梁・師直(高武蔵守)は確かに天下第一の尊氏の信奉者であったのかもしれない。だが、師泰(高越後守)師冬(高播磨守)などの血縁者たちも果たして同様だったのか。これからも幕臣で収まるつもりだったのだろうか。

 彼らは専横への道を歩み始めていた。南朝の最強武将の正行(まさつら)を倒したり首都の吉野を燃やしたりした事で、軍功が明らかに層の厚い幕臣たちでも抜きん出たものになっていた。今はまだ師直(高武蔵守)は将軍執事という立場上、足利兄弟に続く三番手かもしれないが、実態はどうであろうか。前線で南朝を叩き潰したのは間違いなく師直(高武蔵守)だ。

 

 

(直義との政争が始まれば……いよいよだな)

 

 

(遠からず幕府で人事改定の動きが顕れる筈。そこが前哨戦だ)

 

 

 彼らは気付いていなかった。このまま副将軍(足利直義)撃破への道を歩み、実態だけでなく形の上でも二番手に踊り出れば危険という事に。

 高一族きっての武闘派・師泰(高越後守)も例外ではない。貞和四年(西暦1348年)新春以降の一年半、長期戦で雑事に思考を費やす暇がありながら、直義派との争いの先に待つ落とし穴について、一貫して無頓着であった。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 ここで畠山氏について話がしたい。高校日本史履修者なら細川氏や斯波氏と並ぶ室町幕府の三管領の一柱だと見当が付くだろう。

 畠山氏と言えど、かの源平合戦の名将・畠山重忠と直接の血縁関係がある訳ではない。北条氏によって重忠が謀反人の烙印を押されて滅ぼされた後、未亡人(時政娘)や旧領を足利義純*1が再婚を経て継承し、源姓畠山氏の祖となったのである。つまり、鎌倉時代初期までの畠山氏は平氏の血統で、重忠滅亡を契機に源氏一門に編入された。

 血脈を重視して重忠の末裔を指すのであれば、亡き新田四天王最強の篠塚重広(伊賀守)やその娘・伊賀局を挙げるのが適当かもしれない。

 

 

「兄者……南朝の伊賀局の武勇譚、お聞きになりましたか?」

 

 

「うむ。女だてらに蜀漢の張飛の如き猛勇で、阿野廉子の退避を助けたそうだな。重忠公の血を引いているだけある。伊賀局の父親の重広(篠塚伊賀守)も生前は実に見事な猛勇であった。瀬戸内海の離島で重広(篠塚伊賀守)が死んだのも早六年前……南朝の名将は殆ど居なくなってしまった」

 

 

「つまり、もはや今ある南朝武将の生き残りは眼中に無いと?」

 

 

「そうだ。楠木正行(まさつら)とて遅かれ早かれ、幕府武将の層の厚みに圧殺される事が分かりきっていた。故に直接対決を出来得る限り避け、形だけ戦ったのだ……義深(尾張守)。我が弟なれば、この意図が分からぬ事はあるまい?この国清(畠山阿波守)は、まだまだ爪を隠すつもりでおるぞ?」

 

 

 紀伊国守護・畠山国清(阿波守)は擾乱以降、天下最強武将に立候補する事になる名将である。だが、観応年間に突入する前は然程の軍功を稼いでいなかった。この時期の戦では、ほぼ味方の活動支援に終始している。後の大暴れから考えれば、俄かに信じ難い振る舞いだ。

 周りの者たちも国清(畠山阿波守)の狙いを察しつつ、歯痒い思いを抱いていただろう。本来ならば、天下を席巻できる実力がある筈なのにと。

 

 

「兄者……爪を隠すのは結構ですが、いつまでも隠したままでは宝の持ち腐れにございましょう。紀伊国の取るに足らぬ南朝武士に手こずっていると思われれば、内乱を前にして面目を失いましょう。下手をすれば、奥州管領を務める大伯父上(畠山高国)が帰京する事に……」

 

 

「案ずるな。あくまで足利宗家の顔を立てる体裁を取れば、問題視される事はあるまい。今は高一族と上杉氏が、かつての北条氏と比企一族のように争うのを待つ。その争いで、漁夫の利を得るのよ。さすれば、京か鎌倉か……どちらかで実権を握る芽が生まれる」

 

 

「そう上手くいけば良いのですが……兄者、足利宗家の顔を立てると仰いましたな?具体的に如何にして?当てがあるのですか?」

 

 

「我ら源姓畠山氏の祖・義純公と同じで、宗家当主と賤女の間に出来た子が居られるではないか。京の直義様に救援要請をする裏で、御曹司に声を掛ける。我ら畠山兄弟が中央政界に進出する布石を打つのよ。ただ師直派に参じるよりも高い値打ちが付くだろうよ」

 

 

 古典『太平記』は、尊氏と越前局の一夜の産物として、直冬の不遇を綴った直後、紀伊国の反乱鎮圧について経緯を簡潔に記す。

 曰く、討伐軍大将に任じられるに当たり、直冬は初めて尊氏から父子の名乗りを許されたという。やっと実子と認知されたのだ。

 貞和四年(西暦1348年)四月十六日、直義は光厳上皇の院宣を得て、猶子の直冬を左兵衛佐とした。あまりに強大な師直派の武力に対抗するため、積極的に動き始めたのだ。しかし、直義は気付いていなかった。

 副将軍たっての将軍庶子・直冬への肩入れが、氏頼(大夫判官)ら将軍恩顧の諸将の反発を招き、師直派参画を加速させてしまうという事に。

*1
足利家二代当主・義兼の庶長子。母親が遊女であったという。

義純は新田氏の娘と婚姻関係を結んでいたが、重忠の未亡人(北条政子の妹)との再婚によって有力御家人の地位を手に入れた。




最新刊について
薬師寺公義と岸和田治氏については嘆息した一方、肝心の畠山国清と赤松円心のステータスが低過ぎるのではないかと思いました。
国清は擾乱から義詮時代にかけての実績から考えれば、並でない真価があった筈ですし、赤松円心に関しては本来なら楠木正成や尊氏にも引けを取らない程の高ステータスにするのが妥当な筈です。
最終巻まで出揃い次第、いっそ目録にて「この作品における補正ステータス」でも原作既登場の人物たちに付けるかもしれません。
それともあれですかね?「技能」など上昇効果の表示あらば史実や軍記に見合う数値になっていたのでしょうか?ほとほと謎です。
それと付け加えて言えば『太平記』読者からしたら薬師寺公義は全然メジャーな部類でしょう。塩冶事件で和歌の代筆をする役として非常に印象に残る筈ですから。勿論、戦での活躍も著しいです。
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