崇永記   作:三寸法師

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本日午前11:30からBS4Kで大河『太平記』再放送です。明後日は直木賞受賞の『極楽征夷大将軍』も文庫本が上下発売のようで。


▲6+

〜1〜

 

 

 貞和五年(西暦1349年)七月になり、北朝公卿たちは幕府の内輪揉めや天変地異の気配に怯えながらも逞しく日々を過ごしている。ただ、そんな中でも息を引き取る者は居る。前関白・氏長者の九条道教(円恵)である。

 病故に出家して三年、僅か三十五歳にして亡くなった九条道教(円恵)の喪に服するべく、北朝政府は数日間のイベント中止を決定した。

 政務や儀式の類はおろか、禁裏や東宮などの各御所で予定されていた管弦・連歌の会も見合わされる事と相成った。無論、こうなると臣民も当たり前に私的な和歌の集まりを慎むべきなのだが──

 

 

「おや。これは皆様方お揃いで」

 

 

「……氏頼(大夫判官)殿もお呼びになっておられたか。洞院卿」

 

 

「柳原卿。このご時世だ。武家も呼んでおかねば。とりわけ氏頼(大夫判官)殿は将軍の烏帽子子……何があっても直義(副将軍)派、師直(将軍執事)派に関係なく庇って貰える。さぁ氏頼(大夫判官)殿。歌を詠み、九条卿を弔おうではないか」

 

 

 先月(閏六月)直義(副将軍)派の暗殺未遂並びに凶器準備集合、将軍執事・師直(高武蔵守)の更迭という物騒がしさの反動……もといガス抜きなのだろうか。

 日記『園太暦』によれば、太政大臣・洞院公賢や北朝能吏の柳原(日野)資明らが密かに集まり、関係者や女房衆、果ては家僕たちと和歌に興じたという。擾乱の気配に早くも鬱憤が溜まっていたようだ。

 北朝を挙げての九条道教(円恵)の服喪が終わって三日経ち、七月十二日となる。持明院殿(光厳院邸)では『礼記』を教材に儒教の講義が行われた。

 方や幕府、というより直義(副将軍)派ではこの日、一つの文書が発行されていた。直義(左兵衛督)自ら猶子の直冬(左兵衛佐)に土地に関して命令を下したのだ。

 

 

「直義サマ。思ったんですが、ここ最近……花押が」

 

 

「無駄に大きいと申すか?桃井」

 

 

 師直(高武蔵守)更迭以来、直義(左兵衛督)の花押に変化が見られたと往々に言われる。

 一般に花押の文字はその人物の心理状態を示すものだ。この頃の直義は政敵の師直(高武蔵守)の排除に成功し、意気揚々だったのだろうか。

 あるいは相手に自身の勢いを強く見せようというハッタリか。

 いずれにせよ、政治主導者・足利直義(左兵衛督)の覚悟の現れに違いない。

 

 

「いえ、滅相もありませんぜ」

 

 

「……ふ。良い。この書状を長門探題に届けさせろ。昨年の寄進を考慮し、忌宮神社に土地を交付する。あそこは長門国で住吉大社に次いで信仰を集める施設だ。これを以て直冬(左兵衛佐)の地盤を強化する」

 

 

「へぇ!」

 

 

(思うに直冬は情報封鎖されている。師直め。病と称して外出を控えているものの、未だ諦めておらぬようだ。将軍(兄上)とて直冬の動きを警戒しておられる。()()軍事と無関係の命令書ならあるいは……)

 

 

 理想の政治を実現すべく、直義は依然精力的に働き続けている。

 だが、天変地異は七月にも現れた。北朝で男山における本殿鳴動や羽蟻の出現について話し合われた前後、十七日に比叡山延暦寺で鼠が現れて施設を壊されたり竹が枯れたりしたかと思えば、十九日には京で音も無く大地震が発生した。世の不安は煽られ続ける。

 こうした折、河内国で動きがあった。七月二十一日、高師泰(越後守)が紀伊国守護の国清(畠山阿波守)を呼ぶ。上洛に向け、業務の引き継ぎに入った。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 昨年(貞和四年)正月以来、高師泰(越後守)はずっと楠木残党対策に追われていた。

 寺社の土地を強制的に差し押さえたり、備品を焼いたり溶かしたりしても、正儀(まさのり)討伐という意味では梨の礫に過ぎない。師泰(高越後守)は心の中で危惧していた。軍神(楠木正成)の真の後継者は、亡き正行(まさつら)ではなく弟の(まさ)(のり)なのではないかと。得体の知れない神出鬼没の戦振りなのだ。

 だが、背に腹は変えられない。京の情勢は師泰(高越後守)の想像以上に悪化していた。良くも悪くも幾月か前の将軍邸炎上が、ターニングポイントになっている。師直(高武蔵守)は将軍執事として尊氏を屋敷に預かる事になったがため、内紛に対して今一つ集中し切れなくなったのだ。

 

 

「何でも将軍邸再築完成は来月上旬を見込んでいるらしい。出来上がり次第、将軍は兄者の屋敷から御自宅にお戻りだ。それまでに俺は騎兵五千、歩兵七千ほどを率いて、京に戻らなきゃなんねェ」

 

 

「成る程。師直(武蔵守)殿を御守り申さむと」

 

 

「そうだ。将軍が兄者のところから離れたら、直義の野郎が何をするか分からねェからな。赤松に千葉、土岐・小笠原・佐々木たち外様大名が味方しているとはいえ、直義の野郎は桃井だけじゃなく、石塔も味方にしてやがる。油断できねェ。石塔は今年の夏から伊勢国や志摩国の新守護になりやがった。土岐や佐々木の牽制でな」

 

 

 これまで伊勢・志摩両国は直近五年以上、師直派の仁木氏*1が守護を務めていたが、貞和五年(西暦1349年)五月二十五日には直義派の石塔頼房(中務大輔)の在任が確認されている。亡き関東庇番衆寄騎・石塔範家の弟だ。

 実のところ、石塔頼房(中務大輔)こそ擾乱以降、直義派の主力として()()()()頭角を表していく事になるが、それはもう少し先の話である。

 

 

「流石に副将軍は打つ手が的確。敵に回せば厄介ですな」

 

 

国清(畠山阿波守)。だが、直義の野郎も必死のようだぜ?」

 

 

 この師泰(高越後守)の強気な口振りも無理からぬ事だろう。当時、師泰(高越後守)は京の直義から将軍執事職を餌に熱烈な誘いを受けていた。ただでさえ直義は、政敵の師直(高武蔵守)の後釜に師泰(高越後守)の子・師世(武蔵将監)を据えているのだ。

 故に師泰(高越後守)はつけ上がった。知性最高を誇る直義(副将軍)と言えど、結局のところ軍事のみならず、政治でも高一族を頼るしかないのだと。

 七月二十五日、直義は腹心の力を借りながら政務に励んでいる。

 

 

「桃井。重能(上杉伊豆守)から文書は受け取ったか?」

 

 

「へぇ……越中国にある諏訪領の高木村を祇園社(八坂神社)に引き渡せと」

 

 

「そうだ。不服か?」

 

 

「いえ。御手間をお掛けし、申し訳ございやせん」

 

 

「恐縮には及ぶまいぞ、桃井。手間の要る事が無くば、我ら政治家は無用の長物だ。奉行人も同様に……飯尾はもう帰京したか?」

 

 

「……直義サマ。あまり芳しい成果は」

 

 

「そうか……」

 

 

 古典『太平記』によれば、直義は師泰(高越後守)帰京の情報を知るや否や、三善一族の飯尾宏明(修理入道)を使者とし、調略を試みたようだ。師直(高武蔵守)の失政の数々は本人の非才や暗愚のせいだと謗り、更迭の理由とした。

 その上で、高一族以外の者を今更代役に出来ないと訴え、師泰(高越後守)が急ぎ上洛して職に就き、()()()()に仕事するべしと言い渡した。

 婆娑羅武将の師泰(高越後守)に対して、()()()()とは無理難題でしかない。

 無論、このような見え透いた方便を真に受ける師泰(高越後守)に非ずだ。

 

 

『ああ……話は大変有り難いだけどよ、飯尾。俺は高一族に生まれた身だが、生憎器じゃねェから、師直が長年政務を見てきたんだ。それを今更、高師直に器で勝てるか?しかも師直が御咎めを受けている間、兄弟の縁を絶って栄えても世間に顔向けできねェんだわ。()()()()()()()()()()()()という副将軍の計略なんて、皆分かってんだろ?つべこべ言わず上洛してから、返事しようじゃねェか』

 

 

『ぐ……』

 

 

(枝を切って後に根を断とう……か)

 

 

 師泰(高越後守)の返答を知り、直義はじっと目を瞑った。師泰(高越後守)がホイホイ話に乗って職に就こうとしたところを粛清し、その勢いで対立派閥の頭領の師直(高武蔵守)も仕留めるつもりだろうと遠回しに告げられたのだ。

 先の師直(高武蔵守)暗殺失敗以来、鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝のような陰謀家と見られているのではないか。直義の胸は苦しくなる一方であった。必要に駆られての決断とはいえ、本意ではないのだ。

 

 

(一体誰のせいで……婆娑羅武将たちが暴れ回るから、私も心を鬼にして彼らと対峙しなければ、政が成り立たん。たとえ頼朝公に及ばずとも……頼朝公や北条義時公なら、あの粟飯原清胤(内通者)のような内通者は出さなかっただろうな。つくづく私に不向きな役回りだ)

 

 

「誰か。賢俊僧正に使者を遣ってくれまいか?」

 

 

「は……直義様(副将軍)。如何なる御用向きで?」

 

 

「空いている日で構わん。準備でき次第、天下静謐をお祈り頂く」

 

 

「御意」

 

 

 翌八月二日、直義邸で三宝院賢俊による祈祷が行われた。副将軍として戦乱は決して望まずという一種のパフォーマンスである。

 この翌々日には彼岸の初日らしく、光厳院が六条殿への御幸を実施した。だが、例年なら一週間ほど掛けて滞在するところ、すぐ還御という運びとなった。人々に異変を予感させるに十分だろう。

 既に師泰(高越後守)が大軍を率い、満を持して入京するため、河内国で動き始めている。北野祭が宣旨(帝の命令)を無視して一日延期されるなど、混乱は更なる極地へ向かおうとしている。八月五日、京で夕方から夜に掛けて雨混じりの大風が起こり、数多くの民家が吹き飛ばされた。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 貞和五年(西暦1349年)八月九日、師泰(高越後守)が入京した。古典『太平記』によれば、軍勢のあまりの物々しさのせいで身分を問わず皆驚いたという。

 師泰(高越後守)酉の刻(午後6時前後)に現れるや否や、真っ直ぐ一条今出川の師直(将軍執事)邸に足を進めた。尊氏は転居を翌日に控えていたため、ギリギリまだ師直(将軍執事)邸で居候していた。故に、特段角の立つ振る舞いではなかった。

 

 

「将軍。我が手の者どもは分散して待機させております」

 

 

「うんうん。それにしても久し振りだなぁ、師泰(越後守)

 

 

 尊氏は呑気に面会するが、洛中の緊張は高まるばかりであった。

 何しろ師泰(高越後守)の軍は各駐屯地に散って尚、軍備を解いていない。

 つまり、いつでも戦闘可能な状態だ。古典『太平記』によれば、これを以て京は物騒になり、直義(副将軍)方との合戦が噂されたという。

 ところで、火のないところに煙が立たぬとは良く言ったものだ。

 

 

「くっ!もう一度、直冬に使者を送れ。今のまま京で市街戦に突入すれば、我らの勝機は限りなく薄い。頼房(中務大輔)、伊勢国の状況は?」

 

 

「それが……この短期間では如何とも。仁木氏に恩を感じる豪族たちだけでなく、南朝(北畠顕能)の影響も無視できず。面目次第もござらん」

 

 

「仕方ない。頼房(中務大輔)、お前の名前のお陰で、土岐氏や佐々木一族が京に送れる軍勢は半減する筈だ。今はそれだけで充分に有り難い」

 

 

 臨戦態勢の師泰軍に対抗すべく、直義(左兵衛督)もまた水面下で始動する。

 副将軍・直義が頼りにすべきは主に足利一門に連なる諸将だ。

 全員が全員、直義派という訳ではないものの、より多く取り込んでおくに越した事はない。特に妻・頼子の甥の渋川直頼(中務大輔)は、権威の面で絶対に手放せない。越前国も派閥の影響下にしておきたい。

 

 

「吉良。お前は渋川氏を確実に我が方に。渋川氏当主・直頼(中務大輔)の姉妹がお前の息子に嫁いでいる縁、きっちり活かすのだ。それと顕氏(兵部大輔)。一族当主の元氏(細川清氏)はさて置き、越前国守護の頼春(刑部大輔)を調略してくれ」

 

 

「御意w」

 

 

「承知!」

 

 

 ここまで準備を進めても、集まる兵馬の数は、一万騎に到底満たないだろう。だが、それでも直義(左兵衛督)は理想のためにやるしかない。

 一方、師直(将軍執事)邸でも準備が進められている。弟の師泰(高越後守)こそ未だ楠木氏族滅を実現できていないものの、師直(高武蔵守)解任の方がショックは比べようも無いほど大きい。軍勢も高兄弟に従う者の何と多い事か。

 だからこそ、主君にして征夷大将軍の尊氏に強く出られるのだ。

 

 

「しかしねぇ、直義は公明正大で朝廷融和もできるのだから……」

 

 

「では、御台所はどう思われる?このまま義時・泰時の政治を理想に掲げる副将軍に全て任せていれば、いずれ幕府は先の北条政権と同じ末路を辿るのではないか。こう申す賢者も世におりますが」

 

 

「はて、私に政治の事は何とも……ただ鎌倉の義詮殿の事が心配でなりません。将軍、いずれ鎌倉に政権を戻すという建武式目の宣言は果たされるのでしょうか?そうでなければ、義詮殿は嫡男にして長門探題の直冬(左兵衛佐)殿とさして変わらず、地方の一君主という事に」

 

 

「……鎌倉は、うん……我も惜しくてならんが」

 

 

「将軍、御台所。こう申す者もおりますぞ。副将軍は、鎌倉に義詮(左馬頭)様を置き続け、先日は新たに直冬(左兵衛督)様を長門探題に。その狙いは京で朝廷との折衝役、もとい天下の実権を己が子の如意丸に継がせる事にあるのでは等と。それに邪魔なので、この師直(高武蔵守)の暗殺未遂を」

 

 

「まぁ!京には光王*2殿も居られますのに!」

 

 

「暗殺未遂は……感心しないな」

 

 

 こうして貞和五年(西暦1349年)八月十日を迎える。かねてより尊氏が一条今出川の師直(将軍執事)邸から新居に移ると告知されていた日だ。北朝の要人たちは事前に進物──五菓と呼ばれる身体に優しい果実類──の用意を済ませており、中には洞院公賢(太政大臣)に作法を尋ねる者も居たらしい。

 京の人々は自ずと緊張に包まれていた。尊氏が師直(将軍執事)邸の居候を止めれば、直義(副将軍)派と師直(将軍執事)派のゲームバランスが変化する。まして京の各地で師泰軍が未だ臨戦態勢だ。きっと何かあると誰もが思う。

 直義(左兵衛督)はいつに無く顔を強張らせ、桃井直常(播磨守)をはじめとする猛者たちに護衛させたまま、一条今出川まで迎えに行った。しかし──

 

 

「また屋敷が燃えたら大変だ!篠村にお詣りに行ってくる!」

 

 

「!?」

 

 

 何とも大胆な事に、室町幕府初代将軍・足利尊氏は下々の切迫をまるで気に留めず、京を出て西の篠村八幡宮に向かったという。

 篠村八幡宮と言えば、尊氏が六波羅軍を攻める前、願文で北条一門を平氏の末裔の田舎者と蔑み、一族郎党に次々鏑矢を射させて決起したという由緒ある場所だ。また、建武大乱における敗戦の後、篠村に寄ってからその後の再起に繋げた事もある。つまり、尊氏にとって篠村八幡宮は状況を一変させたい時に向かう聖地なのだ。

 果たしてこの日、尊氏は何を思って篠村八幡宮に参詣したのか。

 その心は、一心同体の弟・直義ですら掴みかねるものだった。

*1
康永元年(西暦1342年)秋以降、基本的に仁木義長(右馬権助)が守護職に就いていたが、兄の頼章(兵部大輔)が務める期間もあったとされる。

*2
後の足利基氏。日記『園太暦』は七月九日に鎌倉下向とするものの、『大日本史料』がこれを追記の際の誤りと推定している。

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