崇永記   作:三寸法師

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▲8

〜1〜

 

 

 貞和五年(西暦1349年)八月十三日、足利尊氏の招きに応じ、直義(左兵衛督)及びその麾下の武将たちが、続々と土御門東洞院の将軍邸に移った。直義(副将軍)邸とは目と鼻の先であるため、移動について大した支障は生じ得ない。

 だが、家主の尊氏さえ僅か三日前に入ったばかりの新居である。

 もしまた不測の事態で将軍邸が燃えれば、幕府の権威が地に墜ちかねない。そんな葛藤を抱きながら、直義(左兵衛督)は兄・尊氏に縋った。

 

 

「兄上……お招き、忝うございます」

 

 

「おお、直義!よう来た!よう来た!」

 

 

「兄上が我らの御味方となれば、足利将軍家と高兄弟の対立軸が浮き彫りに。そうなると土岐氏・小笠原氏・佐々木氏らの源氏諸侯たちも心変わりせざるを得ません。逆に高兄弟が窮地に陥ります」

 

 

「……そうだな」

 

 

(佐々木一族でも、塩冶の遺族は我らの側に参加している。兄上の御協力さえ取り付けられれば、氏頼(大夫判官)も戻って来よう。佐々木惣領が旗色を変えれば、他の外様大名たちも大なり小なり動揺する筈)

 

 

 万一のリスクを鑑みても、それを補って余りある程のメリットが得られる。現状打破のため、将軍邸避難こそ最善と直義(左兵衛督)は見た。

 しかし、直義(左兵衛督)は気付かない。兄・尊氏の含みある間の取り方に。

 尊氏はいかにも現状把握が最優先とでも言いたげに口を開いた。

 

 

「して、お前のところに居る武将は?今どれ程だ?」

 

 

「は。ただ今から順に挨拶させます……入れ!」

 

 

 この事変において、直義派は兵力でこそ師直派に比べて大きな差があったものの、決して所属武将が皆無という訳ではなかった。

 ただし、同じ古典『太平記』でも伝本によって挙げる武将の名前にバラツキが見られる。ある伝本では直義(副将軍)派として挙げられている筈の武将が、また別の伝本では師直(将軍執事)派となって現れているのだ。

 

 

重能(伊豆守)。吉良は……吉良はどうした?」

 

 

「それが……どちらに着くか意見が父子で割れているらしく」

 

 

「何だと?」

 

 

 元関東庇番六番組筆頭・吉良満義(左京大夫)もその一人である。多くの伝本で直義(副将軍)派とされている一方、驚くべき事に金勝院本や西源院本では師直(将軍執事)派の軍勢に参加している。他にも高一族の南宗継*1や文官の長井広秀*2、曽我氏や梶原氏についても、諸本で違いが見られる。

 何せ日記『園太暦』で朝っぱらから武士たちが東西へ激しく駆け回っていたと記される程の混乱である。情報伝達手段の限られる時代なのだから、当時の人々も誰が今どの陣営に居るのか把握し切れなかったに違いない。ましてや古典『太平記』によれば、将軍邸に移る頃、不利と見て離脱する者が直義派で続出していたという。

 

 

「そう言えば……斯波(尾張)勢や細川勢はどこに?姿が無いが」

 

 

「申し訳ございません。直義様。恐らく……既に逃げたものと」

 

 

「……何という事だ」

 

 

(高経(修理大夫)殿は亡き麒麟児・孫二郎を私が預かった縁があるとはいえ、新田義貞の所持していた両刀を巡る、兄上との遺恨の方がずっと根深いから致し方ない。だが、顕氏(陸奥守)。お前はそれで良いのか?師直(武蔵守)への反骨心はどこに行った?そんな根性だから細川一族にしてあんな体型に……いや、頼春(刑部大輔)*3もか。結局は私の不徳の致すところだ)

 

 

 斯波(尾張)高経(修理大夫)にしろ細川顕氏(陸奥守)にしろ、足利一門の分流にして従四位下という高い位階にあった者たちですら、伝本によっては直義派武将のリストから消える場合がある。細川頼之(後の管領)の父・頼春(刑部大輔)も同様だ。

 三者とも、ただ省くにしては重要度の高過ぎる武将たちである。

 

 

「直義。元はどれだけ集まる見込みだったのだ?」

 

 

「は……多くて八千騎弱ほどを」

 

 

「それが今や……数百騎も居るかどうか」

 

 

 足利兄弟の間に気まずい空気感が漂う。十一年前の顕家討伐の軍功に加え、昨年の正行(まさつら)討伐もあって、高師直(武蔵守)の武名は北朝の陪臣の身にして天下最高峰に達している。当座の状況次第では、主君の足利尊氏すら上回る可能性も考えられよう。決して誇張ではない。

 日記『園太暦』では、著者・洞院公賢の危機感が滲み出ている。

 使者を介した問答の所見であるが、師直(高武蔵守)は明らかに反逆の様相を呈していたらしい。北朝政府も危機感を覚え、多くの公卿が光厳院の元に集った。しかし、足利兄弟は幼少より師直(高武蔵守)を知っている。

 

 

「直義……なぜ師直を殺そうとした?かつて足利家の庶子に過ぎなかった我ら兄弟に、昔から仕えてくれた稀有な家臣ではないか」

 

 

「……兄上。それは先々月に御説明した筈です。確かに師直は今まで十分過ぎる働きがありました。さりながら、それ以上に汚点が多過ぎます。()()()()()()()という悪名だけなら、どれだけマシだった事か。軍功随一の将として慎重に振る舞うべきところ、武家の不当な土地支配を奨励し、法を軽んじております。極め付けは全金属製帝という皇室を蔑ろにする試みです。あれは本当に良くない」

 

 

「だが、直義。どうやら武士たちの多くは師直の味方らしいぞ」

 

 

「……粛清せんとして返り討ちに遭おうとしている。そう天下は私を笑うでしょうか。なれば、世も末。もはや私は無用でしょう」

 

 

「うんうん。我とお前は一心同体。そもそも師直・師泰が主従の分を弁えないのが悪いのだ。異常事態の今こそ我ら兄弟が生死を共にする時だ。勧修寺卿に連名で使者を送ろう。命鶴、筆の用意を」

 

 

「は」

 

 

 日記『園太暦』では、足利兄弟が北朝政府に対し、師直(高武蔵守)が陰謀を企てたため、流罪に処すまでの間、世が騒がしくなる事を予め了承して貰いたいという意思を伝え、内諾を得た旨が記されている。

 これに伴い、北朝政府でも同様に対応策について思案されたが、結局は事態が完全に発覚するまで無闇に動くべからずとされた。

 

 

「上皇陛下。師直派の軍勢が次々と集まっておるようです」

 

 

「諸大名だけではありません。高一族は奏すに及ばず。多田源氏、常陸平氏、甲斐源氏、西国諸国の兵や数々の戦で師直(高武蔵守)の世話になった武者たちが、雪崩を打って参集……遂に五万余騎に達したと」

 

 

「既に一条大路、今出川、転法輪、柳辻、出雲路河原に兵が充満しております。上皇陛下、このままでは京の民に害が及ぶ恐れも」

 

 

「何と。圧倒的ではないか。師直軍は」

 

 

(遺憾だ……高平陵の変*4の方がまだマシかもしれん)

 

 

 北朝政府の関係者たちはこの時、気が気でなかった事だろう。

 師直(高武蔵守)は幕府の元重役でありながら、皇族や公卿を微塵も畏れず、時に生活支援の代わりとして貴人の妻女を囲い、時に女人絡みの騒動を引き起こすケースも過去に何度かあった。そんな前代未聞の名将が失脚の怨みで大軍を集め、文字通り京を席巻しているのだ。

 もし師直(高武蔵守)が幕府の実権を政敵・直義から奪い返せば、ストッパーの効果が完全に期待できなくなるだけに、今度は何をするか知れたものではない。自ずと北朝関係者各位は師直(高武蔵守)の勢いに戦慄した。

 

 

「関白。どう考えてもこれは──」

 

 

「九割九分、師直(高武蔵守)が勝ちましょうな……御必要とあらば、この良基からも京極佐々木家を通じ、探りを入れる事……出来まするぞ」

 

 

道誉(佐渡判官)か……今どこに居る?」

 

 

「恐らく師直(高武蔵守)と丹念に方針を確認している最中かと。ただ、惣領の氏頼(大夫判官)に嫁いだ娘の子がどうと前に申しておりましたから、あるいは近江国で静観しておるやもしれません。そうなりますと秀綱(源三判官)に」

 

 

「どちらにしろ道誉(佐渡判官)と直接の接触は難しいではないか。秀綱(源三判官)は妙法院焼き討ちで皇族弑殺の前科持ちだ。父親(道誉)のように話が通じるとは限るまい……検非違使の役目を名分に氏頼(大夫判官)を呼んだ方が安全だ」

 

 

 京の混乱は極地に達しようとしている。北朝政府も事前避難こそ見合わせつつも、いつでも新帝・崇光天皇を持明院殿(光厳院邸)に避難できるよう準備する。そうした中で、師直(高武蔵守)たちが遂に動き始めていた。

 法成寺河原に布陣したのである。朝を迎えて卯の刻(午前六時前後)、大軍が二手に分かれ始める。一手を率いる武将は勿論、派閥の顔の師直(高武蔵守)だ。

 もう一方の軍勢を率いる将は意外な人選であった。長らく師直(高武蔵守)と両翼を成した師泰(高越後守)でも、新将軍執事の師世(越後将監)でもない。僅か齢十一の師夏(武蔵五郎)が未だあどけない少年の身で、大将の座に就いたのである。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 古典『太平記』によれば、師直(高武蔵守)師夏(武蔵五郎)父子の率いた大軍は阿吽の呼吸で将軍邸を東北から包み込み、幾十重にも包囲したという。

 三度もの鬨の声が上がった頃合いで、師泰(高越後守)が更なる別働隊七千騎を率いて西南方向に向かった。将軍邸の四方をがっちりと固める算段である。これで将軍邸内部の僅かな軍勢に反撃の見込みは完全に無くなった。名将の斯波(尾張)高経(修理大夫)や細川顕氏(陸奥守)ですら匙を投げる状況で、直義派武将の誰が戦うというのだろう。桃井直常(播磨守)でも分が悪い。

 

 

「直義様。まだ石橋*5様も居られます。そう悲観なさいますな」

 

 

頼房(中務大輔)……闘志は買うが、とうの昔に合戦で挽回できる範疇を超えている。政治交渉しか道はあるまい。これはこれで可能性が限りなく望み薄だが……戦禍で京の人々を絶望させるより幾分マシだ」

 

 

(私の首一つで師直に矛を収めさせる。もう……これしかないな)

 

 

 もはや笑えない状況を通り越して、笑うしかない状況である。

 生真面目人間の直義(左兵衛督)ですら、暗殺という手段に出た挙句、結局失敗して開戦寸前という状況に自嘲の笑みを浮かべざるを得ない。

 

 

「直義様。しかし、今からではどんな要求をされたものか……」

 

 

「石塔殿の申される通りですぜ。直義サマ……向こうの軍勢に吉良サマが加わっておられる。俺が正門前で粘る間に、吉良サマが後ろから師直の不意を突く。もうこれ以外に活路は有り得ないかと」

 

 

「……聞こえぬか?二人とも。(みやこ)(びと)たちの喘ぎ声が」

 

 

 古典『太平記』によれば、師直(将軍執事)派の寄せ手が四方から火を放つのではないかという噂が起こり、近隣の屋敷で長講堂や三宝院に家財道具を運び出す動きがあったという。また、世俗を問わず、老若男女があちこち逃げ惑い、内裏すら阿鼻叫喚の騒ぎとなっていた。

 いつ軍勢による狼藉沙汰となってしまうのか。直義(副将軍)派武将たちは将軍邸に否が応でも押し込められ、歯痒い思いに駆られていた。

 

 

「死んでも構わん。私が死ねば、遅かれ早かれ鞆の浦の直冬(左兵衛佐)や関東の憲顕(民部大輔)の耳に入る筈。仇討ちの兵を挙げてくれるだろう。師直なら京を戦場に選ぶような愚行は冒すまい。淀川と黒血川の両面戦争、黄泉の国から見届けよう。義詮殿が大将なら、氏頼(大夫判官)たちも今度こそ源氏の誇りに懸けて味方する。黒血川合戦は一日で関東勢の勝利に終わろう。そうなれば、首都戦争回避に現実味が出てくる筈だ」

 

 

氏頼(大夫判官)のような元六波羅武将の息子より、直義様の方がずっと京を想っておられる……この石塔頼房(中務大輔)、どこまでも直義様と共に!」

 

 

「我らは何があっても、御身をお守りしますぜ」

 

 

「うんうん。直義を想う武将が多くて感心だなぁ」

 

 

「「ッ」」

 

 

「……兄上」

 

 

「直義。時を見て須賀*6を遣わし、師直に思い留まるよう言葉を尽くして説得するつもりだ。だが、それでも高兄弟の軍勢がこの屋敷の門に近付くなら、防戦は恥でしかない。一緒に腹を切ろう!」

 

 

「は……!」

 

 

 古典『太平記』によれば、足利兄弟はあくまで籠手や脛当てなど軽武装のままで落ち着き払い、割腹自殺を見据えていたという。

 天下に名を轟かせた英雄らしく、楠木兄弟のような潔い幕引きを考えていたのだろうか。伝承で辱められる事なく、却って賞賛を浴びるように。権力争いに負けても可能な()()()()()抵抗である。

 一方、高兄弟は意気込みこそ旺盛ながら、やはり攻め掛かるような真似が出来ずにいる。参加者たちの多くが師直(高武蔵守)の野心ではなく、純真な忠誠を信じているのだ。他ならぬ氏頼(大夫判官)こそ筆頭的存在だ。

 

 

「皆、胸を張ろう!直冬とかいうお邪魔む……パチモン野郎を仏門に追い返さず、あろう事か従四位の位階や長門探題の地位まで用意して引き回す副将軍に喝を入れ申す!そして、義詮(左馬頭)様をこの京にお招きするのだ!我らは忠臣!義詮(左馬頭)様こそ未来ある御嫡男なり!」

 

 

「「「応!」」」

 

 

 御所巻とは軍事クーデターでありながら、忠誠心を買われて後に重職を得る仁木頼章(後の四代将軍執事)細川清氏(後の五代将軍執事)も将軍邸を囲んでいたとされる程、度し難い事件であった。将軍烏帽子子の六角(佐々木)氏頼(大夫判官)もまた然りだ。

 下剋上の風習が世に定着するのはずっと先の話である。彼らは彼らなりの忠臣論を帯び、包囲網に加わったのではないだろうか。

 

 

「良いのか?兄者?」

 

 

「拙僧としても宗家があそこまで興奮なさるとは予想外です」

 

 

「……心のどこかで後ろめたさに焼かれているのだろうさ。主君の屋敷を囲むなぞ、普通なら不忠極まる行いだからな。普通なら」

 

 

 完璧執事の師直(高武蔵守)は忠臣を自負し、隙なく理論武装を固めている。

 臣下の身で将軍邸を軍勢に囲ませておきながら、どうあっても不忠と誹られないという自信が、あからさまに見え隠れしていた。

 高師泰(越後守)は勿論、腹黒策士の道誉(佐渡判官)も鮮やかな白い歯を露わにした。

 

 

「クク。普通なら……か」

 

 

「宗家に左様な常識がお有りとは。先に我が娘の出産について申し上げても、まるで他人事のようで終始白けた御様子でしたのに」

 

 

「近江国の屋敷が穢れたら嫌だとでも思ったんじゃねェか?それより兄者、あまり氏頼(大夫判官)に目立たれても話が拗れそうだ。師冬に一対一で相手させるか、皇族の警護にでも遣った方が良いと思うぜ?」

 

 

「名案だ。師泰……師冬(播磨守)、話は聞いたな?氏頼(大夫判官)に伝えろ。丁度北朝から検非違使を寄越せと御指名だ。さして不審にも思われまい」

 

 

「御意」

 

 

 八月十四日、趨勢は前将軍執事・高師直(武蔵守)の圧倒的有利である。

 日記『園太暦』によれば、師直(将軍執事)方に加わる北朝武士の数は際限無かったのに対し、足利兄弟の側に居る者は極僅かだったという。

 明朝より雨が降り頻り、世間は高師直(武蔵守)の政権転覆が間近ではないかという予感に取り憑かれる。何しろ幕府の誇る勇者の大半が師直(将軍執事)方なのだ。こうした折、日記『園太暦』が言うには噂が持ち上がっていたらしい。尊氏と師直(高武蔵守)が結託しているのではなかろうかと。

*1
師直の又従兄弟。当時、備中国守護の座にあった。

*2
大江広元の子孫。六角(佐々木)氏頼(大夫判官)斯波(尾張)高経(修理大夫)の外戚。

*3
細川頼春。後の名管領・細川頼之の父で、天下最高峰の射手でもある。

基本的に尊氏側で活動するが、御所巻においては複数の『太平記』伝本で直義邸に駆け付けた者のリストに名前が挙げられている。ただし、神田本のように師直邸に参じたとするものもある。

*4
司馬一族が政敵の曹爽を排除し、魏の実権を掌握したクーデター。

*5
石橋和義。足利一門でも斯波氏に近い血脈。建武の乱では、赤松円心の後方で新田軍対策の総責任者となった。「御所巻」では直義派武将として名が挙げられるが、いざ擾乱の蓋を開けて見ると案外そうでもない。室町幕府初期の武将でもトップクラスの実力者。

*6
須賀清秀(壱岐守)。閏六月に師直(高武蔵守)の巻き添えで職を追われる。しかし、古典『太平記』では御所巻において直義派に参じ、尊氏の使者も務める事になる。

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