崇永記 作:三寸法師
〜1〜
二代将軍足利義詮の死去から十年近くの年月が経ち、室町幕府の最盛期を築く三代将軍の足利義満が武家の棟梁を務める時代。
近江国犬上郡尼子郷という琵琶湖に流れ込む愛知川の北東にある土地を一人の若人が幾名かの郎党たちを連れて訪れていた。
「義満公に休暇を求めて何をされるかと思えば、こんなところにお忍びだとは正気の沙汰とは思えませんな。若君」
「青地、そう意地悪なことを言わないでくれ」
「さりとて、先の騒乱が起こってからそう経っておらぬ今、六角家の当主たる亀寿丸様が領内に足を運んでおられると京極の者どもに知られれば、如何なることが起きるとも分かりませんぞ。若殿」
「蜂屋まで……これも必要なことなんだ。私がこの先も六角家を背負っていくなら、一度は
郎党たちに苦言を呈されている少年は名を亀寿丸と云う。幼齢ながら鎌倉幕府が君臨した頃から近江国の守護を担ってきた名門武家として知られる六角家の八代当主を務める人物である。
普段は在京して征夷大将軍の小姓として働いている亀寿丸は主君と仰ぐ義満の許可の元、一時的に近江国に身を置いていた。
「あの御方?若君、まさか本当に」
「今、青地の思い描いた人で間違いないと思うよ。尤も、私はそのお人についてあまりよく知らないのだけれど」
「「……」」
尼子郷という目的地からおおよその察しをつけていた郎党たちは溜め息を吐かずとも、沈んだ面持ちにならざるを得ない。
幼い当主である亀寿丸の母親に今の状況を知られれば、どのようなお叱りがあるだろうかという憂いもあるにはあったが、それ以上に先々代の頃よりの郎党として思うところがあったのである。
「殿様!」
「望月、無事に渡りを付けてくれたか?」
「はい。つつが無く。王侯の礼を以て歓迎されるそうです」
先代当主が幼い頃に創設し、今も健在の忍軍の幹部格である望月という家人からの報告を受け、亀寿丸は僅かに顔を曇らせた。
しかし、すぐに表情を切り替える。平素は天下に名高い足利義満の側近くで働いている身として、この程度は朝飯前なのだ。
「分かった。では、望月。このまま案内してくれ。あまり待たせてしまっては申し訳ない……しかし、王侯の礼とは楽しみだな!」
「は」
はにかんで見せる亀寿丸の容貌は京でもかなりの評判である。
三代当主である六角時信も立派な出立ちで後世に残る軍記物語に記されることになるのだが、亀寿丸もまた宝刀を携えて紅の糸で紡がれた鎧を身に纏った姿を別の史料で賞賛されることになる。
「望月、目的地まで残りどれ位だ?」
「じきに着きます。焦ることはないと思いますよ」
「左様か。少し急いてしまったか。折角、北近江に来たのだから、もっとじっくり周りの風景を楽しめば良かったな」
「……若君。風景であれば、帰路にでも楽しまれるのが良いかと」
「ん?確かにそうだな」
先程と言っていることが違くないかと思いながらも亀寿丸は六角家の重臣の一人である青地頼宗の言うことに頷いた。
仮にも近江国守護とは言え、京極が根を張る北近江の地に六角家の当主である亀寿丸が足を踏み入れる機会はあまりない。
堂々と入る時があるとすれば、それは寺院に参拝する時、あるいは幕命を受けて出征する時ということになるだろう。
「殿、着きました。この館にかの御方がおられます」
「……ん。望月、すまないが、再度私が来たと伝えてくれ」
「承知しました」
程なくして、目的地である尼子郷の館の門が開かれる。
亀寿丸は固唾を飲んだ。これから会う人物は義満の近侍を務める身として世間に名の知られた錚々たる面々と顔を合わせたことのある亀寿丸でさえ、緊張せざるを得ない相手なのだ。
「さぁ、若君。入りましょう。くれぐれも相手に臆したと思われてはなりませぬ。当代の六角家当主として堂々となさいませ」
「……ああ」
現在の青地家当主である頼宗に激励された亀寿丸は何時もの気力を取り戻し、下馬して馬の面倒を家人に託した。
郎党たちと共に敷地に足を踏み入れる。郎党たちは外で出迎えられないことに対して少々不満な様子だったが、当主である亀寿丸は全く気にしていないようであり、名君の片鱗が窺えた。
「よく来たね。待ってたよ」
「!」
母屋の前に辿り着くと、軒先に一人の女性の姿が見えた。とても齢五十を過ぎた老尼とは思えない彼女の風貌に、亀寿丸は直ぐに今回の旅の目当ての人物であると直感的に気が付いた。
「お初にお目見え致します。佐々木六角四郎亀寿丸でございます」
(お初……か。ま、無理もないか)
通常、人は赤子の頃のことを覚えていない。現に未だ元服を済ませていない前髪姿の亀寿丸は尼子郷にある館の主人である女性と何年も前に顔を合わせていたことなど忘却の彼方のようだ。
自らのこれまでの人生を想起し、感慨に浸っていた女主人は程なくして亀寿丸からの戸惑いがちな視線に気が付いた。
「その、何とお呼びすれば」
「北でも、名前でも、好きに呼んだら良いさ……そっか、名乗ってなかったね。私の名前は魅摩。今は亡き佐々木道誉の娘で、これでも昔は京で知らない者は居なかったんだけどね。それに」
現在の六角家当主に対して続けて言おうとした言葉を口に出すのを幼い時分より勘が良いことを自負してきた魅摩は止めた。
亀寿丸の後ろで控える六角家の郎党たちの様子を見て、一族のためには今の自分が不用意に語るべきではないと悟ったのだ。
「さ、入りなよ。来客は滅多にないけど、これでも茶と菓子の用意は欠かさずにしてるんだ。いつか誰かが来ると思ってね」
「……はい。お邪魔致します。北の方様」
かつては皆がこぞって実践していた「婆娑羅」が時代遅れと言われるようになって、どれ程の年月が経過しただろうか。
幼い頃には京の賭場を仕切っていた魅摩も、今となっては死に際の父親に譲られた尼子郷で侘しく暮らしているらしい。
しかし、亀寿丸に対しては往年の彼女の姿を見せている。魅摩に促された亀寿丸は屋敷の階段を品を保ったまま登って行った。
〜2〜
当然、亀寿丸は六角家にとって至極大切な幼い当主なのだから、口に含むものについては念入りに毒味をされるようだ。
四十年前の当主の頃とは大違いだと呆れ混じりに心中で溢した魅摩は少しばかりの歯痒さと共に亀寿丸と向かい合った。
「北の方様。一つお伺いしても宜しいですか?」
「ん?何だい?遠慮せずに言ってご覧よ」
「王侯の礼とは……如何なる意味でしょうか?」
不安そうな眼差しを向けて来る亀寿丸の言葉に隠された意味について魅摩は確かに誤解することなく受け取っていた。
しかし、長年の経験で得た察しの良さとは裏腹に、魅摩はあたかも幼馴染に接しているかのように揶揄いの言葉を発した。
「私のもてなしでは不満かい?悪いね。さっきは欠かさず用意してるなんて豪語したけど、出せるものにも限りがあるのさ」
「いえ、そういう意味では無く!」
揶揄いの言葉であからさまに動揺する亀寿丸の姿に、魅摩は今はこの世に居ない幼馴染の在りし日の姿を見出しつつも、幾ら何でも戯れが過ぎたかと自省した。単なる大人気なさの問題ではない。
幼少より過ごして来た京を離れ、尼子郷に身を置くようになって久しい身でありながら、魅摩は知っているのだ。宇多源氏佐々木氏の惣領を務める亀寿丸に関して囁かれている噂について。
「今日はお父上……大夫判官崇永殿の話を聞きに来たんだろう?」
「……!」
「安心しな。王侯の礼なんて望月に言ったのは冥土にいる夫への意趣返しさ。
ホッと息を吐いた亀寿丸は幾らか熱の取れた茶を口に含む。
京でも早々お目にかかれない上質な茶に対して驚いた様子の亀寿丸に対し、魅摩は死んだ夫の面影を見出して目を細めた。
「聞いたよ。義満様の意向に従い、故足利基氏公の姫君と婚約を交わしたそうだね。しかも、遠からず姫君が上洛なさるという」
「!……ご存知でしたか」
父親に譲られた尼子郷で穏やかな余生を過ごしている状態である筈の魅摩の思わぬ耳聡さに六角家当主の亀寿丸は驚いた。
基氏とは前将軍の義詮の弟で現将軍の義満の叔父にあたり、初代鎌倉公方として後世に広く知られることになる人物である。
「ひょっとすると、亀寿丸が私のところを訪ねたのはその件についても相談したかったから……違うかい?」
「お察しの通りです。ただ、誤解なさらず。決して義満様のご決定に不満があるという訳ではなく、どうしても気後れして」
「そっか。基氏公の姫君にどう接したら良いか分からないのか」
「……恥ずかしながら、全くその通りです」
少年の身で名門武家の当主を務める亀寿丸の見せる初々しさからは彼が年相応の男の子の側面を持っていることが伺える。
尊氏の孫である義満の小姓という肩書きから、亀寿丸の日常についてある程度察しをつけていた魅摩もこれには目を丸くした。
「そうさね……私も婚約していたよ。亀寿丸の父上と」
「婚約?いつの頃からですか?」
「建武二年の箱根竹下の合戦の後にね。色々あったのさ」
思わぬ話に亀寿丸は驚きを露わにした。当然、何十年も前に箱根竹下の地域で勃発したという戦いを彼は耳にしている。
曰く、後醍醐天皇に遠慮していた足利尊氏公が弟殿から齎された書状を読み、やむを得ず出陣を決意したことで、それまでの劣勢が一気に変化し、塩冶高貞らの変わり身によって勝利したと。
無論、それだけではない。もう一人の佐々木一族の武将の暗躍について現在の一族惣領である亀寿丸は耳にしていた。
「北の方様は佐渡判官殿の御息女だった筈。それが何故に?」
「判官は新田軍に寝返って、形成が逆転するや否や足利軍に表返った直後に、娘を惣領と婚約させた。そう思ってるでしょ?」
「はい。父上も佐渡判官殿の真意も私には分かりません。尊氏公や直義公、執事の高師直も快く思われなかったのでは……?」
知っての通り、歴史は必ずしも当時のまま伝わるとは限らない。
現に、当時から五十年も経っていない今、少し捻じ曲がった形で後進の亀寿丸に伝えられている現状に、教養に通じる魅摩はさる軍記物語にもある諸行無常という言葉を思い浮かべた。
「判官は亀寿丸のお父上や当時の足利家執事高師直の了解の元、新田軍に投降したのさ。謂わゆる偽装投降というヤツだ」
「……聞いたことがあります。佐渡判官は外様の京極家の出身ながら足利軍の参謀のような存在だったと。腑に落ちました」
南北朝時代の武将としては比較的かなりの長生きだった道誉がこの世を去ってからそれなりの月日が流れている。
道誉が死んだ時、亀寿丸は今以上に幼く、腹黒坊主と呼ばれた男について知っていることは人聞きである部分が殆どだった。
「その偽装投降の時、京極軍を離れた私は同族の誼で六角軍に預けられたんだ。建前上は当時の六角家当主の捕虜という形でね」
「新田軍に人質を差し出すことを逃れながら、誰を密かに味方にしているとも限らない新田軍からの疑いを避けるためですね」
「そ。賢いね、亀寿丸は」
どうやら義満に仕える小姓たちの代表格とも目されているらしい亀寿丸は家柄だけでなく、聡明さも光るところがあるらしい。
既に亡くした夫や実子を懐かしく思いながらも、魅摩は自身と血の繋がっていない亀寿丸に対して話を続けた。
「ただ、お父上……当時は千寿丸と呼ばれていたけど、私を正式に捕虜にする時、下手を打っちまったのさ。昔はあまりに早熟過ぎたせいで周りに天才だなんて過剰に持て囃されていたのにだ」
「まさか……いえ、熱くなると周りが見えなくなる方だったとは聞いたことがありますし、納得出来なくもないですが……」
亀寿丸の戸惑いに、魅摩は不覚にも吹き出しそうになった。
実の父親について当の亀寿丸が何も覚えていないことへの寂しさを感じながらも、昔のことについて魅摩は思い出したのだ。
〜3〜
箱根竹下合戦の直後とは即ち、佐々木六角家の四代当主として知られる千寿丸が翌月には齢十一を迎えるという時期だった。
前夜に塩冶高貞や黒田宗満といった一族を代表する武将たちを集めて行われた宴の席において道誉は大立ち回りの末、娘の魅摩を惣領である千寿丸の
『三郎、顔を見に来たよ』
『……魅摩姉。いや、婚約者にこの呼び方も可笑しな話か』
『……へぇ、婚約者ね』
当時の流行の最先端だった婆娑羅に染まった人間らしく、肌を尋常でなく露出させた格好である魅摩は意外に思った。
魅摩は父親である道誉に聞かされていたのだ。一族の惣領である千寿丸の側室あるいは正室になるという方針で話が着いたと。
つまり、実を言えば、魅摩が一族の本家である六角家の当主の正室になるという確証はこの時にはまだなかったのである。
『三郎はさ、私のこと好き?』
『好きと言うと些か語弊があるような気が……うん、好ましくはあるぞ。お前の婆娑羅者としての在り方は。それだけは確かだな』
『つまり、私が好きってことか。回りくどい言い方なんか一々しなくて良いよ。私らの仲なんだからさ。ほら、好きって良いなよ』
(自己肯定感半端ねぇ……
呆気に取られた千寿丸だが、自信に溢れた魅摩の気性については前々から知っていた。同族の二人は幼馴染なのだ。
千寿丸の父親で思うところがあって表舞台から退いた時信も風采の良さで京で評判だったが、魅摩の父親である道誉もまた、鎌倉幕府が健在だった頃には見目麗しさで人気を博していた。
とすると、自然の成り行きだろう。二人は互いに認められる程の魅力を有していたのである。尤も、一族内の序列と違い、垢抜け具合においては魅摩の方が千寿丸よりも数段上であったのだが。
何はともあれ、魅摩に対する千寿丸の心象は稀代の腹黒坊主である道誉の娘という点を除けば、そう悪くないものだった。
『勘違いしてくれるなよ。魅摩姉が好きというか、構わないってだけだから。お前なら足利、二階堂、
『……三郎。その
『?……何故どっちかという話になる?』
『ふーん、そっか……そっか』
口でこそ余裕ありげに呟きを発した魅摩は長い睫毛が印象的な目を細め、胸の内で熱がじんわりと広がっていくのを感じた。
幼馴染という気安い間柄であるためか、澄まし顔の千寿丸から好意を伝えられたと心底感じられる機会は珍しいことなのだ。
『ねぇ、三郎』
『何?』
『このままさ、夕食ご馳走になっても良い?』
『良いけどさ、偶にお前殊勝に振る舞うよな。何なの?それ』
『……余計なこと聞かないでよ』
普段の勝気な態度とは裏腹に急所を突かれて俯き、ポツリと言葉を溢した魅摩は顔を仄かに朱色に染めるも、彼女を自身の婚約者として認めたばかりの千寿丸はまたいつもの変容かと軽く流した。
いずれ契りを交わすことになると知っていようと、結局二人はこれまで積み重ねてきた関係の延長線上にあったのだ。
とはいえ、多少なりとも変化した事はある。特筆すべきは以前にも増して近付くことになった二人の物理的な距離感だろう。
『魅摩姉。この姿勢さ、めっちゃ食べづらい』
『……なら食べさせてあげよっか?』
『ざっけんな!あのさ、魅摩姉。肌寒い季節だからってそんなに密着されたら敵わんわ!しかも、口に咥えた海老を俺の方に近付けるとは何のつもりだ!?行儀の悪い!おい、話を聞ぐぇっ!?』
後ろから手と足を絡ませて千寿丸に肌を寄せる魅摩はさながら小笠原貞宗に自身の存在を主張する市河助房のようである。
さしもの千寿丸も今回ばかりはタジタジだ。香を使い熟す魅摩から発せられる垢抜けた匂いと海鮮を使った料理から漂う匂いが混じり合ってしまった事で、鼻腔が混乱をきたしたのである。
「さ、左様なことをしておられたのですか?お二人は」
「まぁね。あんたのお父上も口では嫌よ嫌よと言いつつ、満更でもなさそうだったよ。少なくとも私の目にはそう映ってた」
当時を赤裸々に語る魅摩の言葉は亀寿丸を酷く当惑させた。
齢十五に及ばず、元服を済ませていない亀寿丸にはどうやら刺激の強過ぎる話だったらしく、頭の整理に時間を要した。
「……初めて知りました。父上がそのような御方だったとは」
「観応の擾乱が終わってから、人前での振る舞いに大分気を遣うようになったんだ。亀寿丸の兄上が相手でも同じだったよ」
「北の方様が特別だったということでしょうか。お話を伺っている限り、かなり幼い頃から相当親しくされていたようですし」
「……今となっては夢のような話さ」
過ぎ去った日はもう二度と戻って来ない。今の魅摩が出来る事といえば、老後の地と定めた尼子郷で昔を懐かしむ程度だ。
強いて他にあるとすれば、後進に助言を与えることだろう。
幸か不幸か、今の魅摩の目の前には教えを求める稚児が居る。
「北の方様。箱根竹下の戦いの直後に父上と婚約されていたというお話でしたが、顕家軍が来た時は一緒におられたのですか?」
「いいや。私は再び京極軍に従軍していてね。足利軍が制した京にいたよ。方や本国に残っていたお父上が佐々木城、今は観音寺城とも言うか。そこで顕家軍の手先、大舘某を迎え撃ったのさ」
「確か、其比未ダ幼稚ニテ立籠リタル観音寺城……から成る一文ですね。この間、お借りして知った寺の僧侶たちに写させた軍記物語に書いてありました。何でも五百騎もの郎党たちが戦死したと」
「……千五百だよ。佐々木城で死んだのは」
「え?」
当時のことを思い返した魅摩は溜息を吐いた。京にいた魅摩が京極軍の斥候より道誉の元に齎された佐々木荘炎上の知らせを聞いた時のことは昨日のことのように思い出すことが出来る。
六角家ではタブー視されているらしい自身の父親が幼い頃に喫した敗戦の記録を現当主の亀寿丸が知るのはもう少し先である。
建武三年一月中旬。遥か彼方の奥州より攻め寄せた北畠顕家の大軍を前に、当時の六角家当主である千寿丸は日本有数の巨大な山城に篭りながら、半日も保たせることが叶わなかったのだ。