〜1〜
貞和五年八月十九日の夕刻、俺は佐々木惣領の身ながらにして、夢窓疎石の帰路に同道した。たとえ天下の国師であっても、今回の件で恨まれていない保証は無い。結局、老齢の夢窓疎石を幕府の内部争いの仲介役として引き摺り込まざるを得なかった。何とも言えない気持ちを晴らすべく、この俺自ら身辺警護をしているのだ。
嵯峨への道すがら、夢窓疎石はポツリと溢した。佐々木一族でも抜群に年季の入った夢窓疎石だが、先の「御所巻」の面妖さを掴みかねているのだろう。まだ内紛の序章であるという予感と共に。
「今回の事……宗家はどこまで見通しておられたのです?」
「……弟殿が最低でも首の皮一枚生き残るとだけ」
観応の擾乱では師直が蝉、直義が蟷螂、尊氏様が──随分と不適当な喩えだが──黄雀となる筋書きを描く。これ自体は予め分かっている。だから、まだ元号が「貞和」である現段階において尊氏様ばかりか、直義までも生き永らえるという前提で、動いていた。
あくまで外様の有力大名として、将軍庶子の直冬ではなく嫡子の義詮の擁立を望む。このスタンスを貫けば、直義が一時好調になろうとも、尊氏様の一人勝ちという在るべき状態になっても、追及から逃れられよう。こう考えて、師直の策に応じたのだ。だが──
「まさか……たとえ演技であっても、場合によっては尊氏様の御命を狙う事も辞さない。師直殿が衆目の前でそう放言するとは完全に想定外、というより聞いておりませなんだ。しかも、この俺を新帝避難の手伝いに行かせた上で……北朝政府が水面下の準備を欠かしていなかったが故に、早く戻って来られたから良かったものを」
「その新帝避難の手伝いというのは、検非違使の業務で?」
「……師直殿伝いに北朝政府から指名が。それも偽りでなく」
「読めました……師直殿は北朝政府に試されたのです。将軍の信奉者たる宗家が不在の間、師直殿がどのように本性を曝け出すか」
「それが本当だとすれば、師直殿は試験に落第……いえ、どちらにせよです。きっと皆が胸の内で師直殿に反感を覚えたでしょう」
はっきり言って、我ら守護大名は決して高師直の執事解任を不憫に思って考え直しを求めていた訳ではない。直義の一強状態が許せなかったのだ。直義の治世では思うように権限を行使できない。
成る程、直義は先例を重んじ、比叡山延暦寺のような潜在的脅威の対応は兎も角、基本的には寺社への配慮を優先しがちである。
だが、それは守護大名にとって死活問題なのだ。鎌倉幕府もとい北条政権が潰れ、守護の権益は確実に強化されている。とはいえ、その道のりはまだ半ばだ。こんな所で満足する訳にはいかない。
というより、出来る筈がない。もっともっと権限が欲しいのだ。
「弟殿は相模守の官暦があり、将軍職を蔑ろにした北条一族を彷彿させます。が、それは将軍執事の武蔵守・高師直とて同じ事」
「となると……今後、諸将の厳しい目は師直殿に集中すると」
「ええ。取り敢えず、形の上で尊氏様は弟を副将軍に据え続ける事に成功しました。師直殿の想定外の無茶があった以上、已む無き事でしょう。後は弟殿が自発的に辞めたくなるのを待つのみ。その過程で今にも師直殿の権限が事実上、強化されようとしています」
先の「御所巻」の事後処理を経て、新たな政治体制が発足する。
夢窓疎石の仲介や尊氏様の決定のため、直義は副将軍という地位を一応ではあるが、保持する結果となった。とはいえ、内実が師直の圧勝に終わった事は、誰の目にも明らかだろう。将兵の動員力において大きな差が出たのだ。直義に以前のような発言力はない。
翻って師直は将軍執事職に復帰し、新設機関「寄合方」のトップも兼ねる事になった。有り体に言えば、幕命で不利益を被った者に挽回のチャンスを与えるための機構である。そんな組織を運営しようというのだから、師直の並々ならぬ政治意欲が窺い知れよう。
人事についても師直の主導が明白だ。第一に、侍所頭人を仁木頼章に代えた。第二に、司法機関「引付」を再導入し、師直派の多数就任を後押しした。第三に、道誉の政所執事就任が極め付けだ。
「畏れながら……宗家に新たな職が用意される事は──」
「良いのです。国の守護なら兎も角、執事や頭人としては家格が高過ぎます。この先、更に世代交代が進めば、そう胡座を掻き続ける訳にもいかなくなるかもしれませんが……本音を言えば、今はあまり幕政にどっぷり浸かりたくありません。深入りし過ぎは災いを招きます。それこそ国師殿の弟弟子・妙吉の二の舞になる恐れが」
「ッ……やはり妙吉は死んでおりましたか」
夢窓疎石の弟弟子にして人心を誰より集めていた妙吉だが、既に忽然と姿を消したと世に思われている。公式の処理の上でも重能たちと違い、尊氏様から師直派の好きに任せるとお墨付きが出た。
とはいえ、妙吉がきちんと人前に姿を現した事自体、閏六月初旬の話だ。よりにもよって妙吉は、逆賊・直冬への使者を務めようとしていたのだ。これでどうして師直が見逃す筈があるだろうか。
「死んで居なかったら、ひょっこり国師殿か弟殿の前に顔を出しているでしょう……ご存知の通り、表向きは行方不明という事で処理してあります。何年か経過して熱りが冷めれば、実は捜索時に秘薬など遺失物が多々発見されていたと話を広め、奴の魂を慰めるのも吝かではありません。国師殿の弟弟子なのですから、それ位の配慮の用意はあります……たとえ直冬の協力者であったとしても」
「……」
結局、直冬に上洛の気配はない。確かに四日ほど前、直冬軍上洛の噂が取り沙汰されたが、どうやら杞憂に過ぎなかったらしい。
それもそうだろう。名将・赤松円心が山陰道や山陽道を封鎖しているのだ。幾ら幕府に人材多しと言えど、真正面から赤松円心に挑む度胸のある者が果たしてどれだけ居るのやら。いずれ天下に名を馳せる筈の若手有望株・細川頼之并び今川貞世であっても、真正面からの勝負は避けるかもしれない。百戦百勝を目指す者ほど戦わずに済む道を探るのだ。さながら織田信長にとっての武田信玄だ。
今なら一週間ほど前の円心の言葉の真意が分かる。仮に直冬の才が尊氏様と同等なら、半端に才能があるよりも却って師直派に有利な動き──具体的には京の情勢を静観するのみで、全く軍を動かさない日和見──をしてくれると言っていた。つまり、円心は全て見抜いていたのだ。だが、逆に言えば、直冬の油断ならなさが証明されてしまったようなものだ。次に師直はどのように手を打つか。
「宗家の読みでは、直冬殿はいつ頃動くと?」
「今は曲がりなりにも幕府内で和平が成立したばかり。直冬や周りの木っ端武者たちも、機を逸した事に気付かない筈が無く。早くて弟殿が職を辞し次第かと……直冬が名将・赤松円心の威名を恐れているにせよ、否が応でも上洛に向けて動かざるを得なくなります。とはいえ、機先を制する事では、やはり師直殿が上手でしょう」
「師直殿の手腕……今や天下第一ですな」
「……ええ、天下第一です。されど、手腕は完璧。素行は隙だらけが玉に瑕。だから重能如きに暗殺を謀られたのです。この先はどう転ぶものか。具体的なところは皆目見当付きませぬが、なるようになりましょう……どうあれ尊氏様こそ唯一の勝者なのですから」
建武大乱やその前後の日々を思い出す。あの頃は北畠顕家たちの思わぬ奮戦に手を焼かされたが、結局は尊氏様が勝ち抜く未来を信じた末、室町幕府の開闢を迎えた。擾乱でもまた同じ事だろう。
足利直義も高師直もいずれ滅びる。肝心なのは、いつ師直の派閥から離れ、直義との内紛の行方を安全圏から見守るかだ。そして、勝ち残った直義を滅ぼそうとする尊氏様の主力武将として、再び威名を轟かせるのだ。これぞ長らく待ち望んだ栄光への道である。
「国師殿、もう四、五年です。そこまで生きれば、もっと良い世が見れましょう。将軍・尊氏公の真の御活躍が見られるまするぞ」
「それは……楽しみですなァ。将軍は実に偉大な御方。末代にありがたき将軍であられる。この夢窓も談義で常々申しております」
「御心の強さ、天性の慈悲、御心の広さ……いずれの御言葉も足利尊氏公という空前絶後の偉大な君主を表すのに的確でしょう」
「宗家……お見送り有り難うございました。この辺りで充分にございます。それより早く京にお戻りを。今こうしている間も、幕臣たちが各々、考えを巡らせておりましょう。宗家とて佐々木一族を担う大事な御身、くれぐれも諸将に遅れを取ってはなりませぬぞ」
「分かっております。こちらこそお骨折りに改めて感謝を」
同族同士で社交辞令を交わし合い、俺は道を東にとって返した。
天龍寺供養という名のデモンストレーションから早四年、室町幕府はすっかり亀裂が入った。だが、それも一時的なものだろう。
尊氏様の独り勝ちとなれば、幕臣たちはただ偉大なる御方にひれ伏すしかなくなる。これでも抵抗しようという不届き者は、俺が出向いて討ち取ってしまえば良い。きっともう少しの辛抱である。
無事「御所巻」が収まった安堵も程々に、征夷大将軍・足利尊氏公の真の治世に思いを馳せる。期待に胸を膨らませ、馬の足取りが自然と軽くなる。秋風が肌に心地好く、瞬く間に屋敷に着いた。
〜2〜
貞和五年八月二十五日、室町幕府では師直──依然として政敵の直義が副将軍のままだが、遂に将軍執事復帰を果たした──主導で刷新された政治システムに沿い、数々の業務が遂行されている。
三条坊門の直義邸で表向き以前のような評定が行われたものの誰しもが分かっているだろう。直義がかつてと同様に政治力を発揮できる環境は、幕府から消え去っていると。システムだけの問題ではあるまい。直義は「御所巻」の際、兄・尊氏様の剣幕を収めようとするあまり、上杉重能たちの流罪に同意してしまった。曲がりなりにも側近を差し出し、過酷な茨の道に送り出してしまったのだ。
師直派が勢い付き、直義派が萎むのも無理ない事だろう。逆にここから直義が逆襲に向けてどう策を講じるのか、見ものである。
「回りくどいものですね。弟殿が自主的に引退するのを待たなければならないとは……わざわざ夢窓疎石を引っ張り出して、そんなに師直様のあのお言葉が気に入らなかったのですか?極論を言えば、弟殿の譲歩を引き出すための交渉術に決まっているでしょうに」
「……では、現に世情がそう好意的に見ているのか?師冬殿?」
京の自宅において酒を嗜みながら打つ碁の手が不意に止まる。
かれこれ十日以上になろうか。顔馴染みの師冬から嫌味を聞かされ続け、流石に嫌気が差してきた。元関東執事の師冬──かつての逃若党の軍師・彦部吹雪──は回りくどい手法が、随分と気に食わないらしい。勿論、俺も回りくどい手法は決して好みではない。
とはいえ、事が事なのだ。必要に応じて慎重にもなろう。大体、事前に聞かされていた話では、あくまで主従関係を弁えて恭しい態度を決して崩さず御所を巻くという算段だったのだ。文句を言いたいのは俺の方である。他の諸将も少なからず同じ思いだろう。
「結局、将軍邸を巻く事に変わりないのだから、同じ話でしょうに……まぁ、もうこの辺にしておきますよ。評定も再開されましたからね。近く上野国に沙汰が下される見込みです。これを上杉憲顕が呑むようなら、安心して次の段階に移れます。将軍家でも着々と準備が行われているようで」
「……そう言えば今日、尊氏様が天神講に参加するべく賢俊僧正の宿舎に足を運ばれたと聞いた。光王様も同道された筈だ。きっとこれが最後の機会になろうからな……来月にも光王様は東国に」
「ええ。早ければですが」
聞き捨てならないような呟きは一旦さて置くとして、現伊賀国守護の師冬にとっても依然、関東という地域は関心の的のようだ。
否、今は誰もが固唾を呑んで関東、とりわけ関東執事・上杉憲顕の動向を注視している。憲顕が京で義兄の重能──何でも血縁上は従兄弟に過ぎないようだが、勧修寺家から養子入りした縁で憲顕と義理の兄弟になったらしい──が流罪となり、越前国に向かったという話を聞けば、逆上するではないかという危惧があるためだ。
もう一人の関東執事・高重茂は十一年前、墨俣近辺で北条時行に負けた程度には弱い武将である。もし罷り間違って憲顕がその気になれば、重茂を抑えて義詮を意のままに操り、自分たち直義派の御輿に仕立て上げる程度、お茶の子さいさいに違いない。要するに、今は何気に東西戦争の危機がうっすら存在している状態なのだ。
「幸い、弟殿が形の上では副将軍の座を保っているから、憲顕も目眩しを喰らっているようなものだ。先日の京の騒ぎが、直義派の完全敗北に終わったと判断し辛い。下手に重能救出に動けば、墓穴を掘りかねないと思うだろう。憲顕は幕命を受理する他ない筈だ」
「今、関東の事実上の主・上杉憲顕が幕命を受理すれば、京の新体制を認める事に……まさか関東事情まで読み切って、夢窓疎石をして弟殿の副将軍留任という結果を引き寄せたのですか?氏頼殿」
「……師直殿も道誉殿も分かっていたと思うがな」
「まぁ……さもなくば、直義の職務自主返納を待つという悠長な策を呑む筈がありませんし……西国武将の考えは底が知れませんね。氏頼殿さえ意外にも深謀遠慮をなさるのですから。氏頼殿さえ」
「おい。さえを二度も繰り返すとは如何なる了見だ?師冬殿」
俺は師冬に白い目を向ける。相変わらず師冬は四六時中、仮面を付ける日々を過ごしている。流石に丸十四年も仮面を装着し続けていれば、視力への悪影響が目に見えて現れるのではなかろうか。
だが、師冬も正体を知っている俺と二人きりの間は、専ら仮面を外すものだ。近頃その際の瞬きの回数が増えたような気がする。
きっと悪影響の現れだろう。視力は将器に直結しかねない大事な要素だ。見えるものも見えないとあっては、采配にも差し障る。
もし今の師冬が戦をして、往年の力をどこまで発揮できようか。
「ま……多分、東は大丈夫だ。上杉憲顕は関東で光王様と協調する未来を歩む。これはきっと間違いない。問題は西だと思うのよ」
「上杉憲顕が動かぬとなれば……師直様の目もまた西に向きます」
「その通り……あのパチモン野郎が何よりの問題だ」
中国地方で直冬は四面楚歌も同然だ。長門国守護・厚東武村が既に「御所巻」で師直派に参じたばかりで、安芸武田氏も同様だ。
北の出雲国はとっくの昔に佐々木京極氏の分家となり、守護代の吉田厳覚が目を光らせている。無論、東では赤松円心が分厚い壁となって立ち塞がっており、直冬独りで覆す事は至難の業だろう。
長門探題・足利直冬は鞆の浦という檻に囚われ、逼迫している。
いつ師直が檻の虎を処分するものか。天下の識者たちが固唾を呑んで見守る中、暦は容赦なく貞和五年の九月を迎える事になる。