崇永記 作:三寸法師
〜1〜
私の出産前、度々顔を出しに来た
決して居て欲しかったと思っていた訳ではない。まして励ましの言葉なんか期待しなかった。期待する方が間違いだ。ただ、実の子に対しての振る舞いが、率直に言って想定を遥か下回っていた。
少しは芽生えるかと思っていた親の自覚がまるで無かったのだ。
「言っておくが、俺に
「……御意」
誰が武勇最高峰の
それと同時に、如何にもピリピリ感を出そうという姿が、私には酷く滑稽に思えた。あたかも毛を逆立て威嚇する猫のように見えたのである。年月を経て、
あるいは尊氏様への執心に身を焦がした結果、取り繕う事を忘れて本性が剥き出しになったと言った方が的確なのかもしれない。
果たしてこの調子で乗り越えられるのだろうか。ずっと昔に他ならぬ
『尊氏様。尊氏様。尊氏様。尊氏様。尊氏様……尊氏様!』
『こ、壊れた……?』
『いと尊き御方よ。微力ではありますが、私が貴方様に天下をお捧げ致します。貴方様の邪魔をする不埒者はたとえ何処の誰であろうと排除します。直義も師直も論外です。ああ。ですから、どうか』
まだ軍神・楠木正成が健在で、
「亜也子。いや、甲賀三郎。二人の会話、よく聞いておきな」
「……何かあるの?魅摩」
未だ法体の甲賀三郎もとい望月亜也子は、この屋敷の侍女たちの代わりに、
大方、
「私は退がる。その代わりにだよ。直感で良い。
「直接殿様に聞くのは……まぁ無理だよね」
「愚問だね。はぐらかされるのがオチさ。というより、
ただでさえ九州では直冬軍が跋扈し、
この時、私は不安視していた。昔から
個の武がどれだけ伸びていようとも、楠木
〜2〜
便女のような仕事にむしろ懐かしさを覚えつつ、私は六角党の一員らしく殿様の傍らに侍る。酒瓶を両手で持って慎重に傾けた。
その向かい側にはかつての同志・彦部吹雪ならぬ
ただ、改めて感じた。三者三様に身体付きがガッシリした事を。
「頑なに御子息を名前で呼びませんでしたね。
「なんか違和感あるんだようなァ。あれが
「……殿様?」
「いやさ、どうも腑に落ちんのよ。俺の使っていた名前を
「えぇ……」
昔から殿様が当たり前の事に疑問を溢す事は無いでもなかった。
当時から、こうした繊細さが良い歌を詠む雅な心の秘訣なのだろうと勝手に得心していたが、今回はいつにも増して強烈である。
親の幼名を子が引き継ぐ事などよくある話だ。もしや殿様が最初は千寿丸ではなく龍寿丸と子に名付けるつもりだったのも、その常識自体が気に入らなかったせいではないかという疑問が浮かぶ。
「
「心外な。そんな些末な言葉で片付けられては敵わん」
「へ?ん?……何、
「尊氏様にとっての千寿丸は自分であって欲しかった。それが
「はン。とても赦しを乞う者の口振りではないな」
「……ああ、そういう」
要するに、殿様は大切にしているのだ。尊氏様に実子・義詮様を差し置き、千寿丸と呼んで貰っていた日の思い出を。それなのに自らの子が新たに千寿丸と名乗っては、思い出が上塗りされると忌避したのだろう。かなり空回りしている様に、思わず口元が緩む。
何にせよ、殿様の頭の中は尊氏公で満たされているという訳だ。
「それより、
「良いものですね。近江国の米は京でも高級品として重んじられています。我が渇きも多少は癒えましょうか……尤も、関東では中々口に出来ないでしょうから、却って残酷な事をされたようにも感じてしまいます。しかも、三年は帰るまじと申されたと来ている」
「え?そうなの?」
「はい。それまで関東で静観せよと
瞬間、殿様の視線が
このままでは酒の席が台無しになってしまう。私は少し焦った。
「ええっと──」
「もしこの先、京で何らかの異変が起こった場合、俺や土岐や小笠原氏で片付けたい。逆に師冬殿が下手に関東で動いて、上杉
「へぇ」
「……別に良いのですよ。私が関東で知らぬ存ぜぬを決め込む間、
「!?」
「……戯言を。何故この俺が
知らず知らずの内に話が明後日の方向に行っている。私が何も聞いてなかっただけで、前提条件が二人の間でかなり積み重なっているのかもしれない。だが、それを差し引いてもぶっ飛んでいる。
かつて鎌倉において、将来は北条
「どうしよう。話に着いて行けない」
「高一族の内紛など馬鹿馬鹿しい限りでしょう?それが嫌なら貴方が手を回し、
「そりゃ今更あんな爺さんズに劣るとは思わんが……」
「ズ……?ゴホン。ともあれ、
「あのなぁ」
遥か先を見据えた高度な先読みか、それとも単なる皮算用か。
私には判断がつかない。突拍子も無いようでいて、殿様も
ただ、何とも言えない底知れぬ危うさが仄かに漂っていたのだ。
〜3〜
よくよく考えると酔った勢いで余計な事を漏らしていないかと心配になったが、杞憂と見て良いだろう。何事もなく朝になった。
正月四日である。四條畷の戦いから丁度二年が経った。やはり身体が歳を取れば取るほど、段々と年月が短く感じられるものだ。
「
「止めておきます。関東どころか、不破関に着く前に怪我をしては元も子もありません。大名多しと言えど、今の貴方と手合わせして必ず無事に済む武将がどれだけ居るでしょうか。後日、
「……分かった」
所詮は何と無しに言ってみた事である。特に気にする事もない。
しかし、やはり
元々、そこまで感情を表すタイプでもなかった。淡々と文武両道を体現し、触れる者を強張らせる事は、まるで氷のような男だ。
朝餉がてら、試しに話を振ってみる。
「夢窓国師の弟子に黙庵周諭が居るだろ?三日前、
「……上杉
「かもな……我が生涯を懸けて喧伝するつもりだ。
「どうぞ御自由に。その手の風評操作は、西国武将の貴方に
「……そうだろうか」
先世において、徳川氏は昔年の家康が苦戦した武田軍の称揚に余念が無かったと聞いた事がある。理屈としては今し方の俺の話と同じ筈だ。また、二十一世紀のトーナメントにおいて、敗れたチームが勝者の幸先を願うのも、似たような理屈によるものであろう。
ともあれ、
あるいは永遠にという考えは一旦閉まっておく。それはそれで、昨秋の光王──後の足利基氏であるべき存在──に刺した釘が機能するに違いない。二代将軍・足利義詮と初代鎌倉公方・足利基氏は兄弟にして、珍しくも天下に共存できる両雄同士であるからだ。
「光王様は食事の好みが激しいと聞いた事がある。もし上杉憲顕より歓心を得ようと思うなら、上手く餌付けして差し上げる事だ」
「貴方以外の前で軽々に素顔を晒す訳には参りません。このように一緒に食事とは……無理でしょうね。程々に上手くやりますよ」
「なら……健闘を祈る。とは言っておこうか」
朝餉を終え、
時間は残酷である。あっという間に黒血川まで着いてしまった。
「この黒血川で顕家軍を迎え討ったのも十二年前の事ですか」
「あれは本当に腹が立った。またも近江国を脅かすつもりかと」
「はてさて。
「……言ってくれるな。あんな不届き者など思い出したくもない」
平氏の末裔にして分不相応にも、偉大なる御方を敵視するだけでも役満である。だというに、東夷の大軍を率いて我が郎党を数多く討った仇敵・北畠顕家と手を組んだ。どうして我が不快を買わずに居られよう。はっきり言って、顕家と別ベクトルで腹立たしい。
既に怒りの余り、
六角家の祖・泰綱公や京極家の祖・氏信の母親を以前と違って、北条義時の娘ではなく川崎為重なる者の娘と認定したのである。
「真に英雄たるべき存在は他に居る。南朝の若手で言えば、新田義顕や楠木
「……そんなものですか」
「ああ。五百年以上も経てば、歴代北条氏の大半は知名度で義仲どころか今井兼平にも及ばなくなっているかもしれないぞ?身も蓋も無い事を言えば、大衆が知り得るのは公的な歴史学より、読んでて面白い軍記物だからな。特に壮絶な最期があってこそだろうよ」
「世俗の栄華を求めない在り方とは……願わくば、最後の最後の目標にとっておきたいものです。生前の積み重ねがあって初めて最期が輝くものでしょうから……お互い、一所懸命に生きましょう」
「ああ、ではな」
俺は気持ちを切り替える。いつ風向きが変わっても可笑しくないと身構えつつ、訝しく思っていた。この
そう首を傾げていた矢先だった。黒血川で