〜1〜
貞和六年正月十一日の名将・赤松円心急逝に伴い、建仁寺の施設の大龍庵において法要が執り行われた。赤松円心は昨秋、御所巻直前に長門探題の直冬を牽制するため、中国地方に出陣していたが、死去の前には引き揚げて京の七条の屋敷で過ごしていたらしい。
数えにして齢七十四という大往生であったのだから、一見ひたらすら悼む気持ちになって良さそうなものだ。しかし、赤松円心の存在感は並ではなかった。相続について譲り状を書く暇すら無かった程の急死でもあり、師直派の参列者たちの顔はどこか硬かった。
「則祐殿。此度は何と言ったら良いか……」
「氏頼殿……いやいや足をお運び頂き、忝う存じますぞ」
「何の。お父上は紛れもなく偉大な武将でした。生前の多大なるお働きが無ければ、源氏の誇るべき諸侯は今も未だ北条氏の圧力に苦心しておったかも分かりませぬ。また、御子息を含めて、禅宗にも熱を傾けてくださった事、我が心に深く染み入っておりまする」
赤松円心は生前、建仁寺の禅僧・雪村友梅と親密に交わって土地の寄進さえ行ったという。雪村友梅もある時は足利氏から万寿寺の住職を務めるよう命じられても断った一方、円心から要請があると途端に応じる程、心を許していたようだ。貞和二年に雪村が亡くなると円心は建仁寺に塔を拵えたが、これぞ前出の大龍庵である。
三男坊の則祐も、かつて比叡山延暦寺に拠り、護良親王の股肱之臣として活躍した時期があったとはいえ、後年の活動を見ると室町幕府の武将では氏頼に次ぐ程、禅律に親しんでいた事が分かる。
「氏頼殿、ご存知か?我が赤松一族の本拠・佐用荘は元を糺せば、九条家の所領……そして、九条家は東福寺と昵懇であらしゃる」
「東福寺?確か播磨国の禅寺の多くは東福寺の系列であると」
「左様。故に当家は元より禅宗に親しんで然るべき存在であると言えましょう。氏頼殿とは幕将の誼のみならず、御仏の教えでも親交を深めたいもの。我が長兄・範資も同じ思いでございましょう」
「……それはつまり」
落ち着かない様子の氏頼の反応に則祐は余裕の嘆息を漏らした。
赤松円心の才能を兄弟で最も色濃く受け継いだのが則祐であるとするならば、当然ながら師直派諸将の心配は分かっている。円心の急逝により、赤松一族で家督争いが起こるのではという危惧だ。
仮にそのような事になれば、誰ぞが今は九州の直冬に通じるか、あるいは遁世の直義を招いて蜂起するというシナリオも十分考えられよう。何しろ赤松氏は後醍醐天皇の討幕に与したり、尊氏の建武政権打倒に協力したり、反政権の助勢に関して実績豊富なのだ。
「無論、この則祐は長兄・範資を立てまする。他の兄弟も同じ思いでありましょう。惣領職は当然、嫡男が受け継ぐべき。争点は遺領を分割して相続するか、近年ありがちな単独相続を執り行うべきかでしょうが、今は嫡男も庶子も互いに言い出せないだけ。半年程も経てば、自然と結論が出て参りましょう。時間が解決致します」
「……成る程」
(赤松氏の庶子は目の前の則祐を除けば、主に次男・貞範と氏範が挙げられる。貞範は素行からして師直派そのものだ。姫路に城を築いたというし、無事に務めを果たす筈。心配なのは氏範だが、個の武は大したものとはいえ、兄たち程の実績は無い。嘉吉の乱の赤松満祐の字を思えば、則祐が気になるが……この様子では杞憂か)
「お分かり頂けましたかな?氏頼殿」
「ええ、安堵致しました。赤松氏はこの先も安泰でしょう」
結論から言えば、則祐の予見通りとなった。この年の七月二十八日に一族内で議論の場が持たれ、嫡子・範資に氏神の祭祀権を伴う惣領職が付与された。播磨国や摂津国の守護職も無事に引き継がれたという。取り敢えず赤松氏の内紛の兆しは見られなくなった。
だが、かと言って赤松円心の死が惜しくないかと言えば、全くそのような事はない。遺された兄弟たちが力を合わせれば、十分に補えようが、円心の武名はここ十数年間、あまりに高まり過ぎた。
赤松氏がこれまで同様、西国のストッパーとして機能するのか、中国地方の豪族たちの間で疑念が生じようとしていたのである。
〜2〜
名将・赤松円心の死から一週間後の正月十八日、義詮が初の参内を果たした。前日より幕府から粟飯原清胤が使者として遣わされ、入念な打ち合わせが行われていた事が日記『園太暦』に見える。
太政大臣・洞院公賢は尊氏・直義が初めて参内した際の事例を鑑みながら、極めて慎重に対応したらしい。義詮は次代の武門を司るべき存在とはいえ、京で活動する以上、慣例遵守が重要となる。
「それにしても随分遅かったな。てっきり去年の内に済ませてるもんと勘違いしてたぜ。朝廷との折衝は今や義詮様の仕事だろ?」
「あの凡庸さだ。儀礼を完全に習熟し直すまで、使者のやり取りを通じて折衝業務を遂行して頂いていた。それなら俺が逐一内容に目を通せるからな。万が一の粗相があっては幕府の沽券に関わる」
「兄者、本当に大丈夫なんだろうな?朝廷は院や帝、公家どもの思惑が絡み合って煩雑だ。義詮様が直に捌けるとは到底思えねェ」
「案ずるな。そのために重茂が四六時中、義詮様にお仕えできるよう関東から呼ぶのだ。師冬に再び関東を抑えさせるついでにな」
「……師冬と言えば、今頃は関東に着いている頃か」
新関東執事──と言いつつも数年振りの再任──の師冬が京を出発して既に二週間以上が経過している。この間に赤松円心が突然亡くなるとは、さしもの高兄弟も想定外であった。齢七十四にして廉頗のような「老いてなお盛ん」を体現していただけに、却って盲点となっていたのである。古の名将を熟知していれば尚更だった。
円心の死で高兄弟は緊張を余儀なくされている真っ只中である。
関東は師冬、中国地方は範資が新たな抑え役となるが、どちらも数年前、楠木正行に敗れている。これが悩みの種となっていた。
「東も西も正行に敗れた武将が抑え役となると……少し厄介な事になるかもな。地方豪族どもが勘違いして露骨に侮りかね無ェぞ」
「……ここに来て正行の武名が全国に浸透し切る前に討ち取らせた事が仇になるとはな。正行は実力こそ父親譲りだったが、如何せん若過ぎた。何も知らない田舎者どもが幕府武将を見下しかねん」
「俺たちくらい力があれば兎も角な……兄者。遅かれ早かれ地方の反乱鎮圧で出兵して引き締めを図った方が良いんじゃないか?」
「直冬か……九州というのが面倒だ。遠過ぎて糧秣の手配に障りが出かねん。現地武士たちの力で抑え込めるなら、本望なのだが」
(先月の始めなぞ、直冬の勢力が九州で力を増して俺や師泰を討ちに京へ参るという噂が持ち上がった。全く馬鹿げた話だ。建武大乱の頃と違い、今の九州は一色や南朝の懐良の勢力が犇めき、統一は茨の道だ。半年足らずで上洛の算段がつくものか。まず間違いなく恵源派武将が流した揺さぶりだ。だが、情報戦なら俺に分がある。しかも将軍が珍しくやる気になっておられる。負ける筈が無い)
既に昨年十二月二十七日、尊氏自ら九州武士たちに追討文書を発行して、直冬の勢力切り崩しに邁進している。新年になっても六日に島津貞久宛て直筆文書を認め、盛んに追討を呼び掛けていた。
こうした折、顕氏邸の見張り役の天狗衆から一報が届けられた。
「何……祇園社僧が弟の住む豚小屋に?」
「は!」
「どういうつもりだ?玄恵法印が病となり、弟の豚小屋に出入りする者は途絶えた筈であったが……調べを付けろ。念には念をだ」
「御意!」
『祇園執行日記』によれば、貞和六年正月二十二日に八坂神社の顕詮が直義の住居に赴き、如意丸のために加持を行ったという。
師直は拍子抜けしながらも顕氏を呼び出し、詰問する事にした。
太い身体に麺棒が打たれ、ブヨンという音が台所に響き渡る。
「この豚め。何のためにお前の邸内に弟殿を預けたと思っている?些細な事でも関係無しに報告しろ。俺に小言を言われる前にだ」
「ブヒィ!?」
「……四日後、将軍と義詮様が共に男山へ参拝なさる。顕詮とかいう祇園社の要人を見物に呼び出せ。足利将軍家の揺るぎない事を示すのだ。弟殿や如意丸の介在する余地は無いのだと分からせる」
「……承知」
正月二十六日、尊氏と義詮がかつて師直の燃やした男山・岩清水八幡宮に揃って参拝するという何とも皮肉な出来事が起こった。
斯くして貞和六年の正月が閉幕する。二十日には待ちに待った翌月の改元に向けて、北朝政府で水面下の話し合いが行われるなど、「観応」という新たな世を迎える準備が着々と進められていた。
そして来たる二月であった。赤松円心の急死という師直派の武の象徴の喪失に続き、今度は文の弱体化が早々に始まる事となる。
〜3〜
兼好法師を知らない日本人は中学生未満でもない限り、まず居ないだろう。かの随筆『徒然草』は、あまりにも有名である。その冒頭を誦じる事の出来る者も決して少なくないのではなかろうか。
しかし、晩年の兼好法師が将軍執事・高師直にこき使われていた事を知る者となると、古典『太平記』が広く享受されていた頃ならいざ知らず、現代人では限られる筈だ。塩冶高貞を知っていれば辛うじて、まんまと人妻宛ての恋文を代筆させられた能書家としても認識できているだろうが、現代では高貞の知名度自体が危うい。
閑話休題。その兼好法師は貞和六年の二月に病を患ったという。
「何だと?兼好は薬すら拒んでいるというのか」
「はい、父上。上皇陛下が心配して典薬頭の和気殿を使わされたようですが、固辞して止まないようであると。院は却って感動して、米三十石分を与えられたそうです……ですが、意味があるとは」
「いや、日々の食事は健康の源だ。院の判断は悪くない」
(しかし、マズいな。文化・教養の面で兼好法師はやはり薬師寺以上に使える存在だった。それが使えぬとなると些か障りがある)
南北朝時代の和歌四天王の一人とあって、兼好法師は歌人たちでも格別な存在である。代わりとなる存在は幾ら将軍執事の師直と言えども、そう簡単に確保できるものではない。側近の薬師寺公義も優秀な歌人であったが、上級公家の相手は些か荷が重かろう。
生臭坊主の感の否めない兼好法師だからこそ、世俗に塗れた師直の手に堕ちたが、それでいて上級公家の相手が可能な手頃な人物は換えが効かないのだ。となると師直が自ら動く場面が多くなる。
(恵源派を排除し、我らに仕事が集中しているのみならず、義詮様のお守りが馬鹿にならない。義詮様の前で苦しい顔を見せる訳にもいかない上、恵源という幕府武将たちの不満の捌け口が消えた事が意外と大きい。復帰前より格段に舵取りが難しくなっている。この状況下で兼好法師が使えず、俺が動かざるを得なくなると厄介だ)
「して、兼好法師は早期復帰できそうなのか?師夏」
「それが……かなり厳しい様子らしく」
「チッ」
兼好法師の命運について戦前は貞和六年二月十五日に亡くなったと思われていたらしい。しかし、現代では二条良基の著作の痕跡から擾乱収束期以降も生きていたと考えるのが通説のようである。
また、『諸寺過去帳』ではこの年の四月八日に亡くなったとされている一方で、同月の玄恵法印追善詩歌や八月の二条為世十三回忌和歌会に活動が認められるなど、摩訶不思議な事になっている。
何はともあれ、師直が政務のために兼好法師を頼る事はめっきり無くなった。極めて老練な兼好法師の勘の良さなれば、御所巻以降は師直の衰微を感じ取って距離を置こうとしたのかもしれない。
(やはり夢窓疎石を頼るしかないか。あれはあれで門下共々氏頼の息が強く掛かり過ぎている感があるから、頼りたくないのだが)
「クソ……先の短き者を頼るにも限界がある。円心殿ですら急に亡くなって諸将の動揺が収まらん。義詮様の支えとなる若い世代の力を引き出していかねば、後が続かぬ。この俺とて若くないのだ」
「父上……」
人知れず晩年に突入している師直であるが、この頃は足利義詮の地盤を形成するため、忠臣らしく奔走していたと言われている。
数えで齢十二の師夏は表情を引き締める。まだまだ若輩の身でありながら、師直の嫡子として強く自覚する必要に迫られていた。
一方、師直は弁えていた。急拵えで若き人材を矢面に立たせてみたところで、渋川義季ら庇番衆の面々の二の舞がオチであると。
「当面は道誉殿や仁木たちの力で文武の穴を補填する。氏頼にしても頼康にしても脇の甘さが無いか、本人たちの代わりに俺が佐々木氏や土岐氏の内情を確認してやらねばなるまい。忙しい限りだ」
「そこまで……父上こそ御身体は大丈夫なのですか?」
「案ずるな。老いたとはいえ、養生は欠かしておらん。ついさっき言っただろう?日々の食事は健康の源と。よく覚えておけ、師夏。味見は調理人の特権だ。その時間を利用して滋養をつけるのだ」
「は……お言葉、この胸に刻みます」
外祖父が亡き関白・二条兼基という武家では類稀な血統を誇る高師夏も実を言えば、年若にして先はそう長くない。本人がその事を悟っていたかどうかも、この段階では甚だ怪しいところだろう。
しかし、衆目には明らかに高師直の衰えの兆しが見え隠れし始めていた。天下の名将・赤松円心が急死し、数寄者・兼好法師が師直の手駒としての価値を失った。文武の両翼を捥がれたのである。
貞和六年二月初旬、観応改元まで残された時間は僅かであった。