〜1〜
観応元年三月二十一日、後の初代鎌倉公方・足利基氏こと光王の病は未だ癒えていない。さしもの上杉憲顕も額に汗を浮かべる。
既に発病してから二十日近くが経っているのだ。三日から八日に掛けて鶴岡八幡宮で不動護摩が行われていたのだが、治り掛けの今こそ肝心だ。光王の枕元付近に座り、憲顕は目尻を下げていた。
「長尾。師冬殿の御様子は?」
「は。鶴岡八幡宮に湯加持を命じたのみで相変わらず政務を」
「……であろうな。見舞いにすら殆ど来ないのだ」
今年から鎌倉に再着任して関東執事に復帰している名将・師冬について憲顕はどこか冷めた目で見ずには居られなかった。何も近年の高一族と上杉氏の因縁に囚われているからだけではあるまい。
憲顕は中世という時代において科学者然としているだけあって、その観察眼は並外れている。それ故に見抜いていた。高一族でも有数の実力者として、重茂に代わり舞い戻ってきた師冬の正体を。
(吹雪といったか。師冬の元の名前は。かつての主君の時行を平然と捨て、足利氏に仕えている男だ。幼君の光王様相手でも冷血なのは当然というべきか。この私すらドン引きさせるとは格が違う)
「師冬殿は着任してから精力的に働いているようだが、関東諸将の心はそう掴めまい。既に多くの坂東武者が私の虜だ。家長殿の遺言により、善政を敷いた甲斐があった。恵源様のお墨付きもある」
「……その師冬殿の近況について追加でお耳に入れたき事が」
「ん?」
寝込んでいる光王の枕元で、憲顕は己が執事・長尾景忠の口振りを訝しむ。もしや師冬に何かしら剣呑な気配があるのだろうか。
憲顕も師冬も両者互いに薄氷を踏みながら共存している状態だ。
現在、憲顕は曲がりなりにも同族の重能の訃報をグッと堪えて現職の関東執事という立場に留まっている状況と言える。京の情勢次第では憲顕もまた高一族に反旗を翻すと思われても反論不能だ。
光王が病に伏している今、憲顕は派手に動けない。それに目を付けて師冬が何か事を起こしてしまえば、抵抗する術は限られる。
「そう構えられずとも。直ぐにどうという話ではございません」
「お、おお、そうか。安心した……して、どのような話だ?」
「師冬殿はこのところ、猶子の獲得に奔走しているようで」
「……猶子?」
「はい。それと烏帽子子です」
「師冬殿が……どういう事だ?」
憲顕は少しの間だけ首を捻ったが、元より武士の心が分からない性分であろうとも、優秀な頭脳がある。直ぐに狙いを看破した。
冷血漢の師冬には妻の師泰娘が居ても実子が無く、婚姻を通じて諸氏族と誼を通じるという戦略が端から期待できない。その代替手段として猶子や烏帽子子の確保に努めているのだろうと踏んだ。
「長尾。師冬が目を付けている者の具体例は分かるか?」
「は。猶子ですと三戸師親。ただ、これは真贋はさておき、師冬を叔父とする若武者なので、一族の結束強化に過ぎないないかと」
「……高一族で師冬を快く思わない者の溜飲を下げようという事かもしれないな。実子が産まれなければ、師冬の財産が甥の三戸に相続されるのだと示すのだろう。しかも三戸は、光王様の側近だ。次の関東執事として期待させるに足る。驚くべき用意周到さだ」
「しかしながら、舅の師泰の心証がどうであるか」
「それはあるかもしれないな。実子が産まれなければ、猶子は養子に格上げされ得るもの。とはいえ、それは舅の不信を招く。師直殿が宥めるに違いないが……して、烏帽子子は誰になりそうだ?」
「……調べによれば、諏訪五郎と申すそうにございます」
「!?」
思わぬ氏族の名に憲顕は衝撃を受ける。諏訪と言えば、かつて中先代の乱を主導して関東を落とした有力大名であり、現在では大祝の頼嗣が北朝に帰順後、直義派の列にあった事が知られている。
まさか曰く付きの師冬が、信濃国の諏訪氏の身内と縁を結ぶとは大胆不敵にも程があるというものだ。憲顕は顔を引き攣らせた。
「よ、よくぞ頼嗣が許したものだな。時行が知れば怒るだろうに」
「いえ、怒るなら諏訪氏が幕府に帰順した時点で既に」
「そうであったな……長尾。一応だが、諏訪五郎の素性を調べておいてくれ。もしかしたら使えるかもしれない。諏訪氏の計略の一環であるとするなら、我らにとっても好機だ。あわよくば連携を」
「御意」
(頼嗣殿が自発的に連絡を寄越さないのが気になるが……もしや私が義兄・重能の死後も反抗する兆しがない故、呆れられたか?)
遥か後年、江戸幕府による家譜集『寛政重修諸家譜』所収の諏訪氏系図によれば、諏訪五郎とは頼重の甥・盛世であったという。
果たして盛世が如何なる役回りを演じる事になるのか、この時は関東執事・上杉憲顕ですら、はっきりと予測できていなかった。
〜2〜
関東で後の足利基氏こと光王の病が完治し、三月二十四日には伊豆国三嶋大社に現地の怪異を払うよう命じていた頃、九州では直冬軍が既に九州探題の責任者・一色氏と交戦状態に突入していた。
二十三日、湖見城攻めを契機とし、肥前国宮裾原で刃を交えた。
「佐殿!宮裾原の敵将は現九州探題・一色直氏との事です!」
「相分かった!斥候、苦労!……直氏はそちらに行ったか」
この時、足利直冬は太宰府攻略を目指し、筑後国と肥前国から挟撃する作戦を選んだ。無論、島津軍に南から後背を突かれるリスクについて覚悟しなければならない。しかし、直冬の視野は広い。
既に肥後国人吉の大名・相良氏に援軍を送り込み、防戦の手筈を整えていた。他にも筆の力を以て恩賞という餌をぶら下げ、九州の諸勢力の取り込みを継続しており、龍造寺氏などを引き入れた。
また、河尻幸俊や詫麿宗直といった麾下の武将たちを縦横無尽に戦わせている。尊氏の実子らしく、総大将の器を誇示したのだ。
「先月、北朝が観応に改元しても、佐殿は貞和年号を用い続けるというから、どうなる事かと思っていたが……杞憂だったようだ」
「ああ!むしろ逆に勢い付いた!」
「今や九州は鼎の如し!北朝、南朝、そして我ら佐殿方!かつての唐土における魏、呉、蜀のように三者が鼎立せんとしておる!」
「佐殿は気前が良い!すっかり佞臣・高師直の操り人形となられた将軍と違い、恩賞地獲得や旧領回復が期待できると評判だ!これなら九州の国人層が遍く佐殿の元に馳せ参じるのも時間の問題!」
「一色道猷!懐良親王!何するものぞ!」
「「「応!」」」
(……いや、事はそう容易くあるまい)
浮き足立つ諸将に対し、直冬は冷静だった。今は未だ本州から室町幕府の追討軍が一兵たりとも、やって来ていない。備後国鞆の浦で過ごしていた頃と違い、赤松円心という巨星の脅威が無くなっているものの、幕府武将の層はまだまだ厚い。本番は師直が腰を上げてからになるだろう。あるいは尊氏自ら出陣する可能性もある。
一刻も早く太宰府を占領しなければ、二進も三進もいかなくなってしまう。とてもではないが、南朝軍や北朝軍と違って皇室の担保がない状況でありながら、将軍庶子・足利直冬という御輿を担ぐだけで順風満帆という異常事態に熱狂している場合ではないのだ。
しかし、日付が変わっても直冬軍の熱狂は止みそうになかった。
「申し上げます!昨日、上瀧山・萩尾で合戦あるも、敵将を負傷させる大勝利だったとの由!他にも本日、多久・多々良峰・牛尾城や春日山・烏帽子岳の各地で合戦あり!頗る快調との報告です!」
「「「おお〜!」」」
「……我が別働隊は本当によくやってくれている。我らも劣ってはなるまいぞ。太宰府を落とし、共に武名を全国に轟かせよう!」
九州上陸当初は足利兄弟の意思による行動と偽り、尊氏から睨まれた途端に師直の傀儡と貶め、現在では勝手に古い元号を用いている身だ。ここまで来れば、直冬はもはや開き直るしかなかった。
しかし、九州の有力大名がいつ迄も直冬を看過できる筈がない。
翌四月三日、名将・少弐頼尚が動いた。直冬軍の北上阻止を目的に出陣したのだ。必然的に直冬たちは冷や水を浴びせられたような思いを抱いた。少弐頼尚と言えば、九州最強の北朝武将なのだ。
「遂に来たか。奴に勝たねば先があるまい」
「いや、単なる師直の前座と見るのは危険だぞ。かつて将軍の九州下向以来、度々軍功のあった名将だ。かの湊川の戦いでも重要な役割を任されていた。幕府武将でも全国五指に入る程やもしれん」
「実績が段違いであるからな……佐殿、お下知を!」
「「お下知を!」」
「思うに……尋常ならざる相手には非常の手段を用いねば」
九州事情が新たなステージに移るのはもう少し先の事である。
本命の尊氏・師直両雄との直接対決を見据えつつ、直冬は九州で足固めをしなければならない。名将・少弐頼尚を如何に下すか。
まともに戦えば必勝はまず見込めないだろう。既に別働隊が一色直氏との戦いに注力しており、河尻幸俊も詫麿宗直も肥後国の攻防で出払っているため、飛車角落ちで名将・少弐頼尚と対峙しなければならないのだ。側近たちは固唾を飲んで直冬の言葉を待った。
結論から言えば、直冬の選択で全国の武将が震撼する事になる。
〜3〜
観応元年四月十六日、次期将軍・足利義詮が三条坊門の旧直義邸を離れた。『祇園執行日記』によると旧光王邸に移ったという。
三月には尊氏だけでなく太政大臣・洞院公賢が発病し、また四月に掛けて岩清水八幡宮で羽蟻が沸いたり常灯が立て続けに消えたり鼠が施設を齧ったりといった変事が相次いでいた事から、閉塞感で息が詰まったのかもしれない。京に着いてから半年近くが経過し、疲れが溜まる頃だ。念願の上洛だったとはいえ、限度があろう。
「心機一転だ、氏頼殿。何という程の事でもない」
「はぁ。それは結構な事にございますが」
「それより聞きたい事がある。重茂が言っていたのだ。今日は幕命で道誉殿が近江国で多賀大社の祭礼の仕切りを請け負っておると。その多賀大社とは、そんなに御利益がある神社なのか?近江国守護のお主なら、何か知っておろう?この我に教えてくれまいか?」
「無論、存じております。我が郎党に多賀中務丞と申す者もおりますもので……今から十数年前、道誉殿は多賀社に寄進を致しておりました。そもそも多賀大社の祭神は、かの天沼矛で著名な──」
この頃、佐々木惣領の氏頼は、決して心穏やかに過ごしていた訳ではあるまい。何を隠そう、夢窓疎石まで病になっていたのだ。
しかし、幸いにも大事には至らなかったようだ。日記『園太暦』の記述によれば、夢窓疎石が熱病を発症するも、和気氏の医術で無事に回復したという。延暦寺の慈厳も同様に助かった模様だ。
これにより、北朝政府では異例の人事が二十四日に決定された。
「それにしても和気氏は腕利きが多いなぁ。誰ぞを治し、典薬頭の座が改まる。今日は和気嗣成が国師殿治療の功で昇進だそうな」
「本来なら国の政治を預かる者でない限り、治療で臨時の昇進となる事は無いのですが……夢窓国師はそのような存在に比するという事でしょう。光厳院が如何に重視されているか、推察できます」
「ほう。そういうものか」
「ええ。ただ、帝や院・上級貴族を治した訳でもないのに、臨時の昇進を決めたとなると、老が……ゴホン。古めかしい方の反発を招かぬとも限りませんから、厄介なものです……ともあれ、義詮様。これにて明日の賀茂祭に集中できます。では、失礼致しまする」
「うむ……朝廷の武官としての勤めも宜しく頼むぞ」
「は」
観応元年四月、九州で戦乱が頻発する一方、京では不穏な気配がありながら、束の間の小康状態が保たれていた。しかし、それも長くは続かない。五月に入り、異変が目に見える形で現れ始める。
五月十五日に月食が起こった次の日だった。北野長者にして学識豊かな菅原在登が稚児・吾護丸に殺害された。古典『太平記』によれば、この事件の黒幕は婆娑羅武将の高師泰であったという。