崇永記   作:三寸法師

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▲4

〜1〜

 

 

 観応元年(西暦1350年)六月二十日、幕府軍の西方遠征が翌日に迫る中、師直(高武蔵守)師泰(高越後守)の兄弟が酒を酌み交わしている。既に下準備は完了済みだ。

 一先ず師泰(高越後守)は明日の出発後、淀で数日間を費やして周辺武士たちを集める算段だ。二万余騎が集まるだろうとは師直(高武蔵守)の弁である。

 

 

「まず確実に三隅氏が席巻している石見国を抑えろ。そこから始めなければ、とても九州の直冬(左兵衛佐)を討つどころの話ではないからな」

 

 

「分かってるぜ、兄者。コテンパンにしてやるよ」

 

 

 古典『太平記』によれば、師泰(高越後守)の西国遠征は最初こそ破竹の勢いだったらしい。少し先の事になってしまうのだが、ここでは幾つかに分けて経過を見よう。師泰(高越後守)はせっせと石見国攻略に着手した。

 第一に、七月二十七日の夕刻であった。現代(二十一世紀)でも名を馳せる中国地方の一級河川・江川に着き、師泰(高越後守)たちは敵の要害を見渡した。

 

 

『青杉、丸尾、堤崎……三つの城がざっと見て四、五町程の間隔で築かれてやがる。(佐和)顕清(善四郎)とかいう敵将の籠る城は一体どれだ?』

 

 

『父上。あの三城はどれも前方に大河が控えております。攻略は一工夫要りましょう……ん?あれをご覧に。敵が出て参りました』

 

 

『ほう。雁首揃えて。三百余人でどうする気だ?』

 

 

『どうせ挑発でしょう。相手にせず、攻略は明日にしては?この川は流れが急……渡るならよくよく調べた上でなければ危険かと』

 

 

『冷静な判断だな、師世。ここはお前に任せる』

 

 

『は』

 

 

 結局、師泰(高越後守)たちは敵の挑発に乗らなかった。逸る心に任せて渡河したところで、溺れ死んでしまえば自慢の猛勇も無益に終わってしまうという判断であった。時間帯もまた慎重な判断に寄与した。

 古典『太平記』によれば、夜になって泳ぎ上手を数多く潜らせて瀬踏み──浅瀬の在り方を詳らかにする作業──を行い、日が明けてから渡河する方針で決し、人馬の休息を得る事にしたという。

 しかし、軍勢とは人々の集団である。一人ひとりが各々何かしら考えを持っているものである。無論、それは得てして災いになりかねない。この合戦では毛利師親(少輔太郎)という武士たちが独断専行した。

 

 

『高橋殿。治承合戦の足利忠綱(又太郎)*1、承久の乱の柴田兼義(橘六)*2はご存知であろう?思うのだが、彼らは渡河において瀬踏みをしたか?』

 

 

『してないな。そもそも浅瀬があるからこそ、敵軍は渡河可能な場所を防ごうとして布陣するものだ。つまり、敵軍はその在処を以て我らに浅瀬が何処か教えてくれている。簡単な道理ではないか』

 

 

『良し……者ども!我らに続け!この毛利と高橋殿が案内する!』

 

 

『『『は!』』』

 

 

『む!第一陣の毛利殿たちは抜け駆けする気か!この三善も遅れてなるまじ!彼らの手勢・三百余騎と我が二百余騎で敵を討つ!』

 

 

 あれよあれよという間に五百余騎の兵たちが、師泰(高越後守)たちの預かり知らぬところで夜襲を敢行した。互いの弓の端を巧みに組み合わせる様は、あたかも曹魏の船団の連環の計のようである。馬の横を歩く事により、川の流れを受け流す工夫とし、向こう岸を目指す。

 交戦が始まった。暫くの間は互角の形成を為していたが、やがて決壊した。毛利師親(少輔太郎)たちが幸先よく敵を蹴散らしたのだ。流れるように追撃を仕掛けようとする。無論、岡目八目には見え見えの誘引策に映るだろう。実際その通りなのだから、困ったものである。

 

 

『な!?三城の木戸が一斉に開いて!』

 

 

『マズい!毛利殿!これでは我らは石弩の餌食ぞ!』

 

 

『謀られた!この僅かな間に!そこまで手際の良い事があるか!』

 

 

 結局、彼らは重症を負いながらも、師泰(高越後守)の遣わした援軍のお陰で九死に一生を得た。それどころか、師泰(高越後守)の地力の強さが光った。

 一気に江川を制圧して城の逆茂木の前まで辿り着き、盾を並べて追い詰め、初戦を勝利で飾った。とはいえ、ここからが問題だ。

 

 

『父上。城の要害ぶりがここまで厳ついと……岸が高く切り立っているため、突入の足掛かりを欠いております。力押しする訳にも参らぬとなれば、ただ徒らに堀を隔てて、盾を前に矢戦するしか』

 

 

『無駄に日数を使いたくは無いな……師世、あのバカたちに知恵を出させてみろ。小賢しい策が得意なら、何か打開策の一つや二つ出して貰わんと割に合わねェ。死ぬ気で考えりゃ何か浮かぶだろ』

 

 

『……普段は手柄を立てている者ども故、底力を頼りまするか』

 

 

『そうだ。早速伝えろ。文殊の知恵を出してみろとな』

 

 

 古典『太平記』によれば、この時の師泰軍は現状打破が不可欠な状況であった。持久戦をしても師泰軍の兵糧が足りなくって撤退せざるを得なくなるだけで、敵軍の敗戦や逃散は望むべくも無い。

 備中国・備後国・安芸国・周防国といった国々に元長門探題の(左兵)(衛佐)の復活を願う者が多いという噂があったため、後背を突かれる恐れもあったという。あまり長引けば絶対絶命の窮地に陥るのだ。

 

 

『──前方の数十もの城を一つも落とさず、後方の街道を封鎖されてしまえば、たとえ樊噲や張良のような豪傑でも万事休す。故に今の内に策を用いましょう。夜襲です。夜襲で形成を覆すのです』

 

 

『また夜襲か。三善、お前も芸がないな』

 

 

『……いえ、父上。意外と良策やもしれませぬ』

 

 

『ほう。この戦は元より師世、お前に任せてある。存分にやれ』

 

 

『御意!』

 

 

 早速、二万騎の兵から選抜チームが結成される。古典『太平記』は一騎当千の熟練の兵として、那珂彦五郎など二十七人の武者の名を細々と具体的に紹介しているのだが、ここでは省いておこう。

 兎も角、千余人の敵が用心を重ねて籠る城を、僅か数十名で夜襲して陥落させようという、傍目には無謀極まる戦が始まるのだ。

 第二の八月二十五日である。京を出てから二ヶ月が過ぎていた。

 

 

『もう夕方だ。頃合いだな。お前たち、城の裏手の深山を回って猪や熊を追い落とせ。敵兵はとっくに粥に飽きていよう。獣肉を目指して血眼になり、城の防御すら忘れるに違いない。そこを突け』

 

 

『『御意!』』

 

 

 古典『太平記』によれば、猪や熊の五十頭以上が城の前の原っぱに落とされたという。これが上手く餌として機能した。反幕府方(沢顕清軍)の主力三百余騎が城門を開けっ放しにしたまま、逃げる熊を追って麓へ降りたらしい。そこを精鋭二十七名が斬り込んで行ったのだ。

 城主・(佐和)顕清(善四郎)は膝口を斬られて倒れ、側近三名が時間稼ぎをする間に城内で火を放った。そのままこっそり逃げたという。熊に目の眩んだ城兵たちも立ち往生し、逃走で精一杯となってしまった。

 

 

『見事だ、師世。他の二つの城も(佐和)勢敗退で臆して逃げやがる』

 

 

『無様なものです。古の大江匡房*3が源義家に教えた、孫氏の説を知っていれば、獣の動きから伏兵を察知できていたでしょうに』

 

 

『何にせよ、田舎者の不勉強を突いたお前の勝ちだ。知識が人を助けるんだ。それは我ら婆娑羅武将も変わらない。して、この先はどうすべきだと思う?石見国の味方を集め、総攻撃でもやるか?』

 

 

『はい。我らはすっかり威勢を取り戻せました。敵城は三十以上ございますが、もはや三隅氏の本城以外、戦わずして落ちるかと』

 

 

 この後、師泰軍は難攻不落の三隅城──山の高さにしても堀の深さにしても相当なもので、百戦錬磨の師泰(高越後守)でも力押しは難しかったらしい──の攻略に狙いを定め、四方の峰々に軍営を築き、ひたすら睨み合いを演じたというのが古典『太平記』の筋書きである。

 しかし、実態はどうか。中国大将軍・桃井義郷(左京亮)なる者*4が三隅氏を援護した結果、師泰(高越後守)らは石見国で封じ込めを喰らったという。

 そもそも師泰(高越後守)は九州の直冬(左兵衛佐)を討つべく、京を出発した筈なのだ。

 ここで元の六月二十日──師泰軍の出陣前夜──に時計の針を戻してみよう。師直(高武蔵守)はあれこれ注意事項を師泰(高越後守)に言い含めている。

 

 

「我ら兄弟、既に老将と呼ばれる歳だ。あまり自ら老け込むものではないだろうが、やはり後進について予め考えを巡らせておかねばなるまい……師泰、お前の方でも抜かり無く計らうようにせよ」

 

 

「了解だ、兄者。長門国・石見国・備後国の守護職を得て、莫大な領地を所有してる身だ。おいおい戦の合間を見計らって譲り状を(したた)めるつもりだ。我らが父・師重の先例に則り、師世と次男以下の取り分を定めようと思う。兄者、もし揉めた際には宜しく頼むぜ」

 

 

「ふ。これまた随分と手間を掛けてくれる」

 

 

 結局、師泰(高越後守)の石見国在陣は翌年(観応二年)正月まで長引き、この期間に作成された次男・師武(助六郎)宛ての譲り状が『萩藩閥閲録』に残っている。

 師泰(高越後守)は当然のように子孫が繁栄すると思っていたのだ。無理もあるまい。この時、高一族は試練を迎え始めながらも、かつての北条氏に迫る程の栄達を享受しようとしていた。もし高兄弟が観応の擾乱を切り抜けていれば、義詮(足利左馬頭)の傀儡化は容易かったに違いない。

 しかし、現実は残酷だった。師直(高武蔵守)師世(越後将監)も半年ほど後の惨状など夢に思わず、京を出立していた。『祇園執行日記』曰く、師泰軍の出陣は観応元年(西暦1350年)六月二十一日の丑の刻(午前二時前後)の出来事であったという。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 観応元年(西暦1350年)六月二十八日、北朝前内大臣・大炊御門冬信が死んだ。

 古典『太平記』において生前、師直(高武蔵守)から師夏の母(二条道平の妹)を奪おうと企んだ結果、見事に失敗して逆に師直(高武蔵守)の手勢によって屋敷を燃やされた公卿である。しかも、日記『園太暦』の大炊御門邸炎上記事では、冬信(前内大臣)の僅か七歳の娘が焼死したという事だから救いようが無い。

 

 

「和氣殿。つかぬ事を訊ねまするが、大炊御門卿の死因は?」

 

 

「……腫れ物が悪化したそうで。御懸念の事はまず無いかと」

 

 

「左様ですか。それは何より。この氏頼(大夫判官)も安心致した」

 

 

 かつて如意丸(直義の実子)出生に関与して典薬頭の役職を得て、その際は古典『太平記』で言うところの「六本杉の怪異」の棚ぼたを利用したという曰く付きの和気仲成の言葉に対し、氏頼(大夫判官)は白々しく返した。

 とはいえ、もはや和気仲成は只の典薬寮──朝廷の宮内省において医薬を司る部署──の責任者ではない。既に典薬頭の座こそ国師(夢窓疎石)治療の功績のあった同族・嗣成に譲る形となっていたが、仲成(前典薬頭)本人はこの一週間ほど前の六月二十日、異例の栄転を手にしていた。

 

 

「そもそも六角殿。今の私は宮内卿……映えある宮内省の長官なのですぞ。古の官位相当制なら正四位下!どの幕臣たちより上の地位にございます。元大臣の死因なら、とうぞ他の者にお聞きあれ」

 

 

「おやおや。それはそれはお忙しいところ失礼致した」

 

 

「……とはいえ御身内の病でお困りなら、どうぞ気兼ねなくお声掛けくだされ。歴代の和気氏を見渡しても前例のない宮内卿の地位、率直に申して身に余ります。それに(たま)には誰かを診ねば、生涯掛けて磨いた医術の腕が廃ります……あまり大きな声では申せぬが」

 

 

「……本音は治療代の癖に」

 

 

「揶揄いあるな!そこまで困窮しておらぬ!」

 

 

 かの『祇園執行日記』によれば、六月三十日に仲成(前典薬頭)が昇殿を許されたという。地方で戦乱がある間も、朝廷では人事が進むのだ。

 こうして(こよみ)は七月となる。二日、またも地震が起こり、将軍塚(青龍殿)が鳴動するなど更なる戦乱を予感させる幕開けとなってしまった。

 奇しくも同日、市木御坂*5において三隅軍が武田家当主(伊豆守信武)の次男の氏信(兵庫助)と一進一退の攻防をしていた事が『吉川家什書』に見える。

 無論、後の安芸武田家の祖・氏信(武田兵庫助)の動向は逐一、幕府の元に入って来ている。そうした中に上層部の気を引くものが紛れていた。

 

 

「北条治部権少輔?これは一体……師直(武蔵守)殿」

 

 

「お構えあるな。先月初め、毛利親衝(備中守)と安芸国吉田荘で挙兵したそうだが、間も無く城を武田軍に落とされたらしい。あまり大した者ではないようだ。とはいえ、道誉(佐渡判官)殿。くれぐれも将軍のお耳に入れるでないぞ。もし時行(相模次郎)と勘違いされたら、面倒な事になるやも」

 

 

「……承知」

 

 

 鎌倉北条氏残党の動きは暦応四年(西暦1341年)七月に越後政継(左近大夫)という者が武蔵国で捕縛されて以来、およそ十年近く振りに見られた事である。

 当時は北畠親房や春日顕国が跋扈していた常陸国の近くで北条残党が足跡を残し、観応元年(西暦1350年)では直冬(左兵衛佐)に味方して幕府軍と争おうという者が出始めた中国地方で馬脚を現した。つまり、火のないところに何とやらの要領で、北条残党がひょっこり顔を出すのである。

 

 

「案ずるな。火事場泥棒の成り損ないが爪痕を残す暇もあるまい。武田勢や吉川勢も居る上に、師泰軍が加わるのだ。中国地方の直冬(左兵衛佐)方は程なく壊滅しよう。貴殿の重臣・吉田とやらも今暫く出雲国で賊徒鎮圧に精を出す必要があるだろうが、次第に落ち着く筈だ」

 

 

「はぁ……なれば拙僧も安心です」

 

 

 後から考えれば楽観的な見方であったが、師直(高武蔵守)という当事者としては妥当な意識だったのだろう。この頃、関東で光王(足利基氏)が下総国香取(神宮)の神馬の件で手続きを行い、九州では窮地の筈の一色氏が龍造寺氏の一部の取り込みに成功して、京に恩賞願いを提出していた。

 天下は再び平穏な状態を取り戻そうとしている……かに見えた。

 

 

「申し上げます!土岐氏に内紛の兆しあり!周靖(兵庫入道)なる武将が反旗を翻して南朝に投降!美濃衆の多くが、事態を静観する構えにて!」

 

 

「……何と」

 

 

「チッ。佐々木一族より先に土岐氏で問題が起こるとはな」

 

 

 古典『太平記』によれば、美濃国で故頼遠(弾正少弼)の兄弟・土岐周靖(兵庫入道)*6が謀反を起こして美濃国を席巻した。七月五日に異変が京に伝わり、天下の重大事件として捉えられたという。挙句、近頃の連続地震が示した災厄とは周靖(兵庫入道)の謀反だろうと結論付けられる程であった。

 師直(高武蔵守)の手腕が試されている。如何に尊氏(権大納言)の荒ぶりを鎮め、次期将軍の義詮(左馬頭)を安心させるのか。またとない剛腕の見せ所であった。

*1
藤原秀郷の子孫。つまり、尊氏たちとは別の足利氏。『平家物語』の「橋合戦」を参照の事。

*2
宇治川で佐々木信綱と先陣争いをしたという奥州武士。

*3
大江広元の先祖。有職故実書『江家次第』や説話集『江談抄』を編むだけでなく兵法にも精通していた。

*4
なお、桃井直常は観応元年(西暦1350年)夏の段階では北朝所属のままである。

*5
石見国と安芸国の国境。

*6
往々にして、四條畷合戦で戦死の頼明(兵庫頭)との混乱が見られる武将。

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