崇永記 作:三寸法師
〜1〜
一先ず
「まず確実に三隅氏が席巻している石見国を抑えろ。そこから始めなければ、とても九州の
「分かってるぜ、兄者。コテンパンにしてやるよ」
古典『太平記』によれば、
第一に、七月二十七日の夕刻であった。
『青杉、丸尾、堤崎……三つの城がざっと見て四、五町程の間隔で築かれてやがる。
『父上。あの三城はどれも前方に大河が控えております。攻略は一工夫要りましょう……ん?あれをご覧に。敵が出て参りました』
『ほう。雁首揃えて。三百余人でどうする気だ?』
『どうせ挑発でしょう。相手にせず、攻略は明日にしては?この川は流れが急……渡るならよくよく調べた上でなければ危険かと』
『冷静な判断だな、師世。ここはお前に任せる』
『は』
結局、
古典『太平記』によれば、夜になって泳ぎ上手を数多く潜らせて瀬踏み──浅瀬の在り方を詳らかにする作業──を行い、日が明けてから渡河する方針で決し、人馬の休息を得る事にしたという。
しかし、軍勢とは人々の集団である。一人ひとりが各々何かしら考えを持っているものである。無論、それは得てして災いになりかねない。この合戦では毛利
『高橋殿。治承合戦の足利
『してないな。そもそも浅瀬があるからこそ、敵軍は渡河可能な場所を防ごうとして布陣するものだ。つまり、敵軍はその在処を以て我らに浅瀬が何処か教えてくれている。簡単な道理ではないか』
『良し……者ども!我らに続け!この毛利と高橋殿が案内する!』
『『『は!』』』
『む!第一陣の毛利殿たちは抜け駆けする気か!この三善も遅れてなるまじ!彼らの手勢・三百余騎と我が二百余騎で敵を討つ!』
あれよあれよという間に五百余騎の兵たちが、
交戦が始まった。暫くの間は互角の形成を為していたが、やがて決壊した。毛利
『な!?三城の木戸が一斉に開いて!』
『マズい!毛利殿!これでは我らは石弩の餌食ぞ!』
『謀られた!この僅かな間に!そこまで手際の良い事があるか!』
結局、彼らは重症を負いながらも、
一気に江川を制圧して城の逆茂木の前まで辿り着き、盾を並べて追い詰め、初戦を勝利で飾った。とはいえ、ここからが問題だ。
『父上。城の要害ぶりがここまで厳ついと……岸が高く切り立っているため、突入の足掛かりを欠いております。力押しする訳にも参らぬとなれば、ただ徒らに堀を隔てて、盾を前に矢戦するしか』
『無駄に日数を使いたくは無いな……師世、あのバカたちに知恵を出させてみろ。小賢しい策が得意なら、何か打開策の一つや二つ出して貰わんと割に合わねェ。死ぬ気で考えりゃ何か浮かぶだろ』
『……普段は手柄を立てている者ども故、底力を頼りまするか』
『そうだ。早速伝えろ。文殊の知恵を出してみろとな』
古典『太平記』によれば、この時の師泰軍は現状打破が不可欠な状況であった。持久戦をしても師泰軍の兵糧が足りなくって撤退せざるを得なくなるだけで、敵軍の敗戦や逃散は望むべくも無い。
備中国・備後国・安芸国・周防国といった国々に元長門探題の
『──前方の数十もの城を一つも落とさず、後方の街道を封鎖されてしまえば、たとえ樊噲や張良のような豪傑でも万事休す。故に今の内に策を用いましょう。夜襲です。夜襲で形成を覆すのです』
『また夜襲か。三善、お前も芸がないな』
『……いえ、父上。意外と良策やもしれませぬ』
『ほう。この戦は元より師世、お前に任せてある。存分にやれ』
『御意!』
早速、二万騎の兵から選抜チームが結成される。古典『太平記』は一騎当千の熟練の兵として、那珂彦五郎など二十七人の武者の名を細々と具体的に紹介しているのだが、ここでは省いておこう。
兎も角、千余人の敵が用心を重ねて籠る城を、僅か数十名で夜襲して陥落させようという、傍目には無謀極まる戦が始まるのだ。
第二の八月二十五日である。京を出てから二ヶ月が過ぎていた。
『もう夕方だ。頃合いだな。お前たち、城の裏手の深山を回って猪や熊を追い落とせ。敵兵はとっくに粥に飽きていよう。獣肉を目指して血眼になり、城の防御すら忘れるに違いない。そこを突け』
『『御意!』』
古典『太平記』によれば、猪や熊の五十頭以上が城の前の原っぱに落とされたという。これが上手く餌として機能した。
城主・
『見事だ、師世。他の二つの城も
『無様なものです。古の大江匡房*3が源義家に教えた、孫氏の説を知っていれば、獣の動きから伏兵を察知できていたでしょうに』
『何にせよ、田舎者の不勉強を突いたお前の勝ちだ。知識が人を助けるんだ。それは我ら婆娑羅武将も変わらない。して、この先はどうすべきだと思う?石見国の味方を集め、総攻撃でもやるか?』
『はい。我らはすっかり威勢を取り戻せました。敵城は三十以上ございますが、もはや三隅氏の本城以外、戦わずして落ちるかと』
この後、師泰軍は難攻不落の三隅城──山の高さにしても堀の深さにしても相当なもので、百戦錬磨の
しかし、実態はどうか。中国大将軍・桃井
そもそも
ここで元の六月二十日──師泰軍の出陣前夜──に時計の針を戻してみよう。
「我ら兄弟、既に老将と呼ばれる歳だ。あまり自ら老け込むものではないだろうが、やはり後進について予め考えを巡らせておかねばなるまい……師泰、お前の方でも抜かり無く計らうようにせよ」
「了解だ、兄者。長門国・石見国・備後国の守護職を得て、莫大な領地を所有してる身だ。おいおい戦の合間を見計らって譲り状を
「ふ。これまた随分と手間を掛けてくれる」
結局、
しかし、現実は残酷だった。
〜2〜
古典『太平記』において生前、
「和氣殿。つかぬ事を訊ねまするが、大炊御門卿の死因は?」
「……腫れ物が悪化したそうで。御懸念の事はまず無いかと」
「左様ですか。それは何より。この
かつて
とはいえ、もはや和気仲成は只の典薬寮──朝廷の宮内省において医薬を司る部署──の責任者ではない。既に典薬頭の座こそ
「そもそも六角殿。今の私は宮内卿……映えある宮内省の長官なのですぞ。古の官位相当制なら正四位下!どの幕臣たちより上の地位にございます。元大臣の死因なら、とうぞ他の者にお聞きあれ」
「おやおや。それはそれはお忙しいところ失礼致した」
「……とはいえ御身内の病でお困りなら、どうぞ気兼ねなくお声掛けくだされ。歴代の和気氏を見渡しても前例のない宮内卿の地位、率直に申して身に余ります。それに
「……本音は治療代の癖に」
「揶揄いあるな!そこまで困窮しておらぬ!」
かの『祇園執行日記』によれば、六月三十日に
こうして
奇しくも同日、市木御坂*5において三隅軍が
無論、後の安芸武田家の祖・
「北条治部権少輔?これは一体……
「お構えあるな。先月初め、毛利
「……承知」
鎌倉北条氏残党の動きは
当時は北畠親房や春日顕国が跋扈していた常陸国の近くで北条残党が足跡を残し、
「案ずるな。火事場泥棒の成り損ないが爪痕を残す暇もあるまい。武田勢や吉川勢も居る上に、師泰軍が加わるのだ。中国地方の
「はぁ……なれば拙僧も安心です」
後から考えれば楽観的な見方であったが、
天下は再び平穏な状態を取り戻そうとしている……かに見えた。
「申し上げます!土岐氏に内紛の兆しあり!
「……何と」
「チッ。佐々木一族より先に土岐氏で問題が起こるとはな」
古典『太平記』によれば、美濃国で故