崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 観応元年(西暦1350年)九月中旬になり、東国諸国で南朝軍が蜂起したという報せが京に着いて十日余りが過ぎた。その頃、鎌倉では関東執事の片割れの師冬(高播磨守)が征討軍の手配を終え、落ち着きを取り戻していた。

 例えば、越後国の差配である。九月十六日には上杉憲将(兵庫頭)が現地を慰撫するため、武士たちを動かした事が『南狩遺文』に見える。

 しかしながら、憲将(上杉兵庫頭)はもう一人の関東執事・上杉憲顕(民部大輔)の実子であると同時に、昨年(貞和五年)末に師直(将軍執事)派によって誅殺された重能(上杉伊豆守)を義父と慕っていた若者である。本来なら師冬(高播磨守)は警戒して然るべき筈なのだ。

 

 

師冬(播磨守)殿。この度は愚息・憲将(兵庫頭)の軍功の機会をお認め頂き、有り難く存じます。本来この憲顕(民部大輔)が出陣するべきところでしたが──」

 

 

「久し振りの南朝軍蜂起とはいえ、所詮は小者どもが騒いでいるに過ぎません。いずれも名将・上杉憲顕(民部大輔)が態々手を煩わす程の相手ではないでしょう。これが新田義興(左兵衛佐)の挙兵だったならいざ知らず」

 

 

「ええ……北条時行(相模次郎)も相変わらず動いていないようですし」

 

 

「問題外ですよ。信濃国は小笠原殿だけでなく、諏訪氏にも幾つか情報筋を確保しておりますが、北条残党の気配は無い。中先代の乱から十五年、大徳王城攻防戦から十年が経ち、一時期の威名はとっくの昔に朽ち果てています。何一つ、恐れる事などありません」

 

 

 元関東廂番二番組副頭・上杉憲顕(民部大輔)の軽い揺さ振りにも、全く動じる事なく師冬(高播磨守)は応じる。既に師冬(高播磨守)は諏訪氏出身の盛世(諏訪五郎)を自らの猶子に迎えており、信濃国の状況について充分に把握できる立場だ。

 一方、憲顕(民部大輔)も戦争屋としては兎も角、政治家としては師冬(高播磨守)をも凌ぐ自負がある。ただでさえ師冬(高播磨守)の正体が昔日の逃若党軍師・吹雪であると察しているのだ。見破っている事自体を仄めかし、精神的優位を掴む以外にも様々なやり方がある。まだ全面衝突には時期尚早なので、あまりオイタが過ぎる訳にはいかないものの、将来に備えて(高播)(磨守)の思考を掻き乱すべく、口八丁を活用するのは朝飯前だ。

 

 

時行(相模次郎)は置いておくとしても……南朝の宗良親王は如何です?」

 

 

「そちらも案ずるに及びません。和歌を嗜むだけで他の能力は大したものとは言えません。同じ元天台座主でも護良とは器が違う」

 

 

「……本当にそうでしょうか?」

 

 

「ほう……憲顕(民部大輔)殿は何か思い当たる節があると?」

 

 

「ええ。先の土岐周靖(兵庫入道)謀反、怪しいとは思われませんか?師冬(播磨守)殿」

 

 

「……」

 

 

 美濃国は関東執事の管轄外であるものの、義詮(次期将軍)師直(高武蔵守)が出陣する事態になったのだから、当然ながら師冬(高播磨守)も反乱鎮圧の経緯について詳しく知っているものだ。しかし、周靖(兵庫入道)反乱の裏に宗良親王が暗躍していたという話は皆無である。荒唐無稽とすら呼べるだろう。

 師冬(高播磨守)は眼前の憲顕(民部大輔)に無言の圧を掛けた。そこまで言うからには何かしら説得力のある根拠を用意しろと。しかし、その程度で動じる憲顕(民部大輔)ではない。宗良親王の活動状況は継続的に耳に入っている。

 

 

「何年か前、宗良親王が信濃国大河原から脱走していたという噂はご存知で?私は暫く経って三河国の足利党から聞いたのですが」

 

 

(三河国の足利党……吉良氏の誰かか。信濃国にも所縁(ゆかり)がある筈)

 

 

「ええ、吉野朝廷との合流を図ったとか。それが何か?」

 

 

「宗良親王は信濃国を出奔後、美濃国に入りました。土岐氏に捕縛され掛けたそうですが、あわやのところで難を逃れたと言います。その後は尾張国の犬山や熱田の辺りに移動したとか。鳴海にも出没したそうです。現地の北朝方が気付いた時は後の祭りだったと」

 

 

憲顕(民部大輔)殿……何となく申されたい事は分かりましたが」

 

 

「流石に察しが良くて助かります。周靖(兵庫入道)の反乱では尾州武将たちも数多く参加していたとか。宗良親王もしくはその一派が煽動したとは考えられませんか?周靖(兵庫入道)単独で呼び集められたとは考え難い」

 

 

「……」

 

 

(尾張国の南朝方と言えば、熱田大宮司家の千秋昌能。確か知多半島の羽豆崎城に拠点を構え、九年前(暦応四年)の脇屋義助の吉野行きを支援していた。北畠親房にも十二年前(暦応元年)の大嵐の後や七年前(康永二年)の吉野帰還で援助を施していた筈……しかし、四年前(貞和二年)に幕府軍の猛攻で羽豆崎城は陥落済み。二年前(貞和四年)の七月に伊勢国の北畠軍残党が大湊から渡海して奪還を試みるも、結局は返り討ちに……よって、周靖(兵庫入道)の件で南朝の暗躍が決め付けるに足るとは然して思わざるところ。それに──)

 

 

 この頃、尾張国は未だ土岐氏の守護国になっていない。室町幕府開闢後は中条氏や高師泰(越後守)が守護職を担っていた。また、斯波氏も尾張足利家とされるだけあり、少なからず国司として縁があった。

 頼康(刑部大輔)の尾張国守護在職が初めて確認されるのは、この翌年(観応二年)冬の事である。言い換えれば、土岐氏が尾張国に侵食するのは、もう少し先の話なのだ。にも関わらず、周靖(兵庫入道)反乱では一定数の尾州武士が参加していたという。これを関東執事・上杉憲顕(民部大輔)は怪しいと見た。

 ただ、もう一人の関東執事の師冬(高播磨守)は疑念の眼差しのままである。

 

 

「本気で……申しておられるので?」

 

 

「ええ、どうして冗談で斯様な事を申しましょうや」

 

 

「……」

 

 

 二人の視線が交差する。正月に師冬(高播磨守)が関東執事として鎌倉に再着任して以来、共に光王(足利基氏)を担ぎながらも、憲顕(民部大輔)とは冷戦状態のような緊張関係が続いている。単に京での師直(高武蔵守)派と直義(武衛禅門)派の対立を反映しているだけではない。やはり上杉重能(伊豆守)を巡る因縁が根深かった。

 方や師直(将軍執事)派は一時の将軍執事解任を誘発した讒言者として重能(上杉伊豆守)を憎悪し、方や直義(武衛禅門)派は流刑地における不当な誅殺で重能(上杉伊豆守)が死んだとして義憤の種にした。本来そう簡単に取り去れるものではない。

 関東でも師冬(高播磨守)が表向き憲将(上杉兵庫頭)の越後国出兵を許容するなど、互いに遺恨を水に流しているような素振りを貫いているものの、油断ならぬ強者と警戒し合っているため、腹の探り合いが依然として行われている。暫く時間が経ち、師冬(高播磨守)はやっと仮面の裏の口を開いた。

 

 

憲顕(民部大輔)殿。周靖(兵庫入道)は南朝支持者としてでなく、あくまで土岐氏庶流の謀反人として処断されました。我が義父が周靖(兵庫入道)の影に宗良親王やそれに類する者を認めていなかった何よりの証拠と言えましょう」

 

 

「……師直(武蔵守)殿の考えなら間違いないと?」

 

 

「ええ。朝廷にもそう報告されたのです。よもや憲顕(民部大輔)殿はこれが誤りだったと申されるのでしょうか?だとしたら大変な事ですが」

 

 

「得心しました……ところで、周靖(兵庫入道)の末路についてですが」

 

 

「まだ何か?氏頼(大夫判官)殿が処刑を執行したそうですが」

 

 

 近江国の名将・六角(佐々木)氏頼(大夫判官)の四條畷合戦から観応の擾乱本格化前の代表的な業績は二つある。御所巻に師直(将軍執事)派として関与して将軍邸包囲網を成した事が第一、周靖(兵庫入道)の処刑を担当した事が第二である。

 これらの動向は鎌倉の政治家たちも大なり小なり把握している。

 もし将来、京の政治に介入するような事態になれば、近江国守護の氏頼(大夫判官)は必ずや敵か味方として向き合うものと知っているのだ。

 

 

「六角殿が周靖(兵庫入道)の身柄を預かっていた流れで、執行に関与したと聞いていましたが……加えて、何故か急いで周靖(兵庫入道)の首が刎ねられたと噂を耳にしました。可笑しな話です。いやはや何故でしょう?」

 

 

「簡単な話です。氏頼(大夫判官)殿の気性はご存知ですか?直情的なところがある故、ダラダラ執行するのを嫌がったのでしょう。おまけに周靖(兵庫入道)の首は晒したまま何日も放って置かれたそうです。氏頼(大夫判官)殿が未だ近江国守護以外に幕府の要職を任されない理由がよく分かります」

 

 

「……仕事が杜撰(ずさん)であるからと?」

 

 

「その通り……ああ、そうです。先程、憲顕(民部大輔)殿はあたかも宗良や(相模)(次郎)周靖(兵庫入道)の挙兵を支援したと言いだげでしたが……もし本当にそうだったのなら、味方の晒し首を放置させず、配下の諜者に奪還を命じていたでしょう。二人とも偽善だけは一丁前のようですから」

 

 

「……」

 

 

 幕府に背いたとはいえ、仮にも土岐一族の出身の周靖(兵庫入道)に対して如何なる処置が施されるのか、注目されていた証拠と言えようか。

 八月二十七日夜に周靖(兵庫入道)らが処刑され、翌日以降は六波羅で首が晒されたままであった事が、『祇園執行日記』で強調されている。

 何はともあれ、周靖(兵庫入道)の反乱は既に終わった話である。そう毅然と構える師冬(高播磨守)に対し、憲顕(民部大輔)は舌を巻きつつも爪痕を残そうとした。

 

 

師冬(播磨守)殿、この懸念はお伝えしておきたい。義詮(宰相中将)様の事です」

 

 

「……伺いましょう」

 

 

義詮(宰相中将)様も師直(武蔵守)殿も半月以上の間、美濃国に大軍で駐屯しておられました。反乱の芽を完全に潰して京に戻った筈が、直後に美濃国の隣の信濃国などで南朝軍が挙兵した。由々しき事です。幕府の現体制への挑戦でしょう。あるいは義詮(宰相中将)様の権威が傷付いたのではないかと心配せざるを得ません。私は十年以上もの長きに亘り、この鎌倉で義詮(宰相中将)様にお仕え申し上げました。それ故、義詮(宰相中将)様にも多少の情がございます。一部、関東足利党が義詮(宰相中将)様を傀儡に仕立て上げようとしていたのではないかという誹謗中傷があるようですが、とんでもない誤解です。師冬(播磨守)殿も左様な悪口には充分ご注意願います」

 

 

「……」

 

 

 観応元年(西暦1350年)の秋、憲顕(民部大輔)たちは昨年末の重能(上杉伊豆守)誅殺に対する憤怒をグッと堪え、師直(高武蔵守)によって再び関東へ送り込まれた師冬(高播磨守)との協調姿勢を維持していた。しかし、それが崩壊するのも時間の問題である。

 ここで再び京の様子に目を向けてみよう。憲顕(民部大輔)の懸念とは裏腹に義詮(宰相中将)の調子は鰻登りであった。父・尊氏に続いて公卿の仲間入りを果たした事で、朝廷に対する意欲を更に(みなぎ)らせていたのである。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 観応元年(西暦1350年)九月二十八日の夜、足利義詮(宰相中将)が白襖の狩衣を着用の上、持明院殿(光厳院邸)に姿を表した。その高揚ぶりは察するまでもあるまい。

 日記『園太暦』によれば、諸国動乱の急報が京に届いた翌四日に元政所執事・粟飯原清胤(下総守)が参内遅れの代替措置としての院参の意向を申し入れたり、七日には義詮(宰相中将)の母・赤橋登子が服装の規定について密かに問い合わせたりするなど入念に準備されていたらしい。

 

 

「それにしても、よもや三週間以上も準備に時間をお掛けになるとは意外でした。義詮(宰相中将)様はそれでよくぞあのように浮かれて──」

 

 

「文句を言われないだけマシさ、道誉(佐渡判官)殿。このところ、東国事情の確認や師泰(越後守)たちの近況把握、直冬軍の動向調査のせいで思いの外、時間を要してしまった。本音を申せば人手が欲しい。せめて貴殿の惣領の氏頼(大夫判官)がもう少し使えそうなら良かったのだが……あまりにも使い勝手が悪過ぎる。頭はキレるし、表向きの人当たりの良さも及第点だが、本質的なところで勝手な独善者。京周辺の番人、武力補填の懐刀としては兎も角、幕府官僚としての起用は時期尚早だ」

 

 

 後に禅律方頭人などの要職を歴任する六角(佐々木)氏頼(大夫判官)であるが、擾乱以前に室町幕府の中枢で務めた痕跡は見られない。まだまだ幕府では若手の部類であり、佐々木惣領という立場に由来する使い勝手の悪さが懸念されただけでなく、必ずしも上の命令を従順に遂行できる性質ではない事を師直(高武蔵守)たちに見透かされていたのかもしれない。

 将軍・足利尊氏の烏帽子子であった事も一因だろうか。師直(高武蔵守)たちにしてみれば緊急事態でもない限り、軽々しく動かせないのだ。

 閑話休題。師直(高武蔵守)は変わらず次期将軍の義詮(宰相中将)のため、献身的に働く姿を見せ続けていた。将軍の尊氏(権大納言)も打倒直冬(左兵衛佐)に向けて熱意を燃やしていたらしい。各陣営で右往左往の阿蘇大宮司・宇治惟時を巡り、土地の利権をチラつかせ、直冬(左兵衛佐)との勧誘合戦を繰り広げていた。

 

 

直冬(左兵衛佐)ばかり気にしてもおれん。顕家の弟の顕信が奥州でしぶとく生き残っておる。去る十五日は結城氏残党に声を掛けたそうだ」

 

 

「おや、結城氏ですか。察するに下総ではなく白河結城氏の方で。かの宗広(上野入道)が死んで十年以上が経ったと申しますのに、北畠氏も諦めの悪い事ですなァ。今や結城氏はすっかり将軍の傘下ですのに」

 

 

「三年前に親朝(修理権大夫)が亡くなり、どうなる事かと思ったが、完全に杞憂だったな。白河結城氏は幕府の奥州管領に従い、伊達氏など昔日の同朋たちを圧倒した。小峰氏に枝分かれした者が居るから、所領の処理に気を付ける必要があったが、もうその心配はしておらん」

 

 

「流石の手腕です……東国は師冬(播磨守)殿が上杉一族を飼い慣らしておられるとか。となると後は西国の平穏を再び取り戻すのみですぞ」

 

 

「言われるまでもない。師泰(越後守)め、何を手間取っておる」

 

 

「……師泰(越後守)殿は未だ石見国の平定に取り組んでおられるそうで」

 

 

「老いて戦の腕が鈍っておるやもしれん。四條畷合戦の前後はまだ良かったが、楠木正儀(まさのり)と交戦して以来、どうも可笑しい。正儀(まさのり)は楠木流兵法の継承者だからまだしも、中国大将軍・桃井義郷(左京亮)とやらに封じ込められるとは……このままでは九州の直冬軍が勢い付く」

 

 

 この師直(高武蔵守)の懸念は当たっていた。奇しくも義詮(宰相中将)の院参と同じ九月二十八日の事である。遂に九州の有力大名・少弐頼尚が旗幟を明らかにした。肥前国の鮎河某という武将に京からの指令が理由と断った上で、直冬軍(佐殿方)転向を宣言したのだ。換言すれば退路を絶った。

 風向きが変わろうとしている。無論、道誉(佐渡判官)は腹黒坊主と呼ばれるだけあって、その事は重々承知だ。ドス黒い顔に汗が滲み出す。

 

 

「桃井義郷(左京亮)……在京の直常(播磨守)殿とは如何なる関係でしょう?」

 

 

「……いずれにせよ注意を払うのみだ。弟殿(御舎弟殿)との接触があれば直ぐにでも殺してくれる。今の弟殿(御舎弟殿)に何が出来るか何とも言えんが」

 

 

 そして暦は十月に切り替わる。十月二日、持明院殿(光厳院邸)の東門に犬が子供の死骸を咥えて現れ、てんやわんやの騒ぎとなった。古典『太平記』は何故か、この事件を貞和五年(西暦1349年)十二月二十八日の異変と称して観応改元の理由になすり付けるのだが、それは別の話である。

 何はともあれ、観応元年(西暦1350年)十月は北朝政府にとって不吉な滑り出しとなった。十月十日、出雲国守護代・吉田厳覚が石見国の状況を打破すべく準備を整えようとしたが、焼け石に水であった。何しろ事態は着々と師直(将軍執事)派に不利な方向に向かおうとしていたのだから。

 

 

「桃井……よくぞ師直(武蔵守)の目を盗み、会いに来てくれた」

 

 

「直義サ、いえ恵源(武衛禅門)サマ!朝飯前にございやす!」

 

 

「ふ。種さえ分かっていれば、師直(武蔵守)を出す抜くのは難しくないか。次に会うのは幾月ほど先になろうか……桃井、今こそ危急存亡の時と心得よ。このままだと間違いなく義詮(宰相中将)殿は高一族の傀儡に堕ちてしまう。手段は厭わぬ。高一族の軍事力は関係無い。足利一門の力を結集し、全国規模の抗争を引き起こす……劇薬を用いる時だ」

 

 

「その戦略、信じ抜きますぜ。どこまでも」

 

 

「ああ。兄上と正面から戦う訳ではない。あくまで高兄弟たちが我らの敵だ。幸いにして師直(武蔵守)に理詰めで負けたと思った事は(ただ)の一度も無い……桃井、お前こそ私の繰り出す一手目だ。私が足利幕府を主導し、真に将軍をお支えする体制を作り上げねばならん。その先に(左兵)(衛佐)の安寧が!義詮(宰相中将)殿が兄弟と手を携えられる未来がある!」

 

 

「へぇ!」

 

 

 観応元年(西暦1350年)十月十五日、天下の驍将・桃井直常(播磨守)師直(将軍執事)派の監視の目を掻い潜り、身内を連れて京を出奔する。『祇園執行日記』から察するに、発覚まで二日を要する程の見事な逐電であったようだ。

 闇夜に紛れて向かう先は守護国・越中国である。越後国は上杉氏の掌握下であるからにして、背後を突かれる心配は無い。挙兵して北陸道を突破し、一気呵成に京を突かん。この構えを見せるだけで情勢は混沌とするだろう。直義(武衛禅門)派の反撃が始まろうとしていた。

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