〜1〜
観応元年十月も半ばを過ぎて、南近江の佐々木六角党の面々が俄かに落ち着かなくなってきた。次から次へと不穏な知らせが京より舞い込んでいるらしい。幕府が揺らぎ始めている。亜也子から話を聞くや否や、溜め息が出た。やはりという思いが拭い切れない。
何でも九州の英雄・少弐頼尚が娘を直冬に嫁がせ、幕府に反旗を翻したという。これで九州探題は一気に窮地へと追い込まれた。
矢も盾も堪らず、救援要請が京に届いたらしい。極め付けに何と将軍自ら師直以下の幕臣を率いて出陣する方針になったそうだ。
「魅摩の言った通りだったね。幕府武将の誰かが北条時政の再来にならむと野心を抱くんじゃないかって読み、見事に当たったよ」
「はン。呑気だな。そんなんで落ち落ち喜べるかよ」
「最後は殿様の信じる方が勝つって確信してるから。まぁ、今は殿様も怒り心頭みたいだけどさ。少弐氏もそうだけど、大友氏の裏切りが腹に据えかねてる様子なんだって。使いの者が言うにはさ」
「ん?待った。大友氏の裏切りだって?」
「うん」
「……亜也子、それを先に言いな」
寝耳に水な話で戸惑いたくなるところだが、これでも今の私は仮にも佐々木惣領の正妻だ。平然を装いつつ、続きを促す。さりとて亜也子も今でこそ男名で六角党に属す身ながら、十年以上も昔は外様出身の便女にして側室の座を狙っていた時期があるだけあって、それなりに場数を踏んでいる。私の内なる動揺を悟ったようだ。
訝しんだ様子の亜也子によって淡々と詳細が告げられる。何でも去る十六日に大友氏の代官たちが京を脱出したという。私は盛大に溜め息を吐く。これで九州事情は最悪なものになってしまった。
「氏頼殿が怒る訳だ……大友家当主の氏泰は、かつて建武大乱で足利方の立場を確定して貰うため、兄弟で尊氏様の猶子に迎えられ、名誉的に源氏諸家の仲間入りを果たした武将だ。そんな存在が事ここに至り、よりにもよって直冬に味方するとはね。付いてない」
「……魅摩。何か殿様が怒ってばてれんはどうするって訳の分からない事を叫び散らしてたって話だったんだけど、意味分かる?」
「は?そんなの知らないよ。言わせとけ……それより、大友氏の翻心がマズ過ぎる。執事の高師直だけでなく尊氏様までもが御出陣となるのも道理だよ。将軍猶子の大友氏泰ですら直冬に与した今の九州では、幕府権威が通じなくなっていると見て良い。というより、多々良浜合戦の尊氏様の神威が直冬に乗っ取られてるみたいだ」
「そこまで言う?」
「事実、御親征の話が進んでるんだろ?高師泰が未だ石見国で桃井氏庶流に苦戦してるみたいなんだし、かなり事は重大だよ。この目で見てみない事には何とも言えないけど、直冬が神力を宿していても驚かないね。それなら尊氏様ご本人をぶつけないと厳しいよ」
実際に後から聞いた話では、この翌年七月に直冬が筑前国雷神社で雨乞いを祈願し、見事に実現させて歌を奉納したというから、この頃の直冬は確かに神力を身に宿していたのかも分からない。
何はともあれ、一度は鞆の浦において絶体絶命の筈だった直冬が今となっては九州で調子が鰻登りで、明らかに尊氏様たちの脅威となっている。これに対し、高一族は「御所巻」で将軍家をも呑み込みかねない勢いだったにも関わらず、今やすっかり直冬の脅威に悩まされている。石見国における師泰軍の不調があまりにも痛い。
諸将は懐疑的な目を師直に向けている筈だ。本当に剛腕は健在なのかと。二年前に正行を屠り、吉野を落としたのが嘘のようだ。
「神力なら……殿様や魅摩にお声が掛かっても良いような」
「無理だね。将軍御出陣となると万一に備えて義詮様を京に残す必要がある。文武で佐々木一族の補佐が欠かせない。しかも、九州遠征なら尚の事、近江国の軍事力を用いるのは悪手だよ。いざという時に京を救ける主力になり得るんだ。あくまで近国で挙兵した正行を討ちに行こうという数年前とは事情が違う。仁木義長も昔の九州統治の実績を買って従軍させたいところだろうけど、現伊勢国守護の石塔頼房が旧直義派な以上、対抗馬として京に残留だろうさ」
「そっか。じゃあ余力を残して遠征するんだ。尊氏様たちは」
「自ずとね。以前、義詮様が美濃国に出陣する際、京を出た時は数百騎に過ぎなかったというだろう?それと同じで少数で出発して道中で兵力を確保する方針を貫くに違いないよ。今は石見国の師泰軍が徴兵してない分を確保するしかないから、赤松軍や細川軍の兵力を頼みにするしかないね……本当は坂東から増援を呼びたいところだろうけれど、上杉氏の遺恨が心配だ。途中で寝返られたら目も当てられない。よりて、将軍久々の御出陣の衝撃で如何に現地武士たちの心を掴み直せるか。これが勝敗の分かれ目になると思うよ」
「あれ?尊氏様が最後に戦に出たのって──」
「正式には京の対新田軍が最後じゃ……いや、待てよ?あれも御本人は東寺に籠り、武将たちを遣わしてたようなものだから、湊川の戦いが最後かもしれないね……いずれにせよ十四年振りの話だ」
「……大丈夫だよね?」
「まぁ何とかなるだろ。気掛かりなのは……京の旧直義派残党だ」
尊氏様が京を開けている間、彼らがどのような動きをしたものか定かではない。無論、旧直義派も真正面から義詮様に刃向かうような愚行をするとは思えないが、これが直冬派となると話が変わってしまう。清廉潔白な直義より強者の直冬──かつての将軍に似て気前が良いらしいから、その点では好都合──を担ごうと正統性を無視して後先考えず、義詮様を討とうとなったら、かなり危ない。
もし直冬を新将軍とし、直義の実子の如意丸を新副将軍にと有力武将の誰かが叫べば、割と魅力的に見えてしまうのだ。仮に実現した場合、直冬の舅の少弐頼尚が天下の実権を握ってしまいそうなのが玉に瑕だが、それはそれでと割り切ってしまわれるのが怖い。
「でもさ、直義派って清廉潔白さに魅力された武将たちが支持してたんでしょ?そう簡単に欲目に釣られて直冬に乗り換えるかな」
「分からないよ。御所巻で恵源に味方しながら、今も京で勤めている者がどうして多いと思う?京の贅沢な暮らしが手放せないのさ。元々そんな信念のある連中ではないんだよ……実態としてはね」
「それはそうかもしれないけど」
「何にせよだ。恵源が今、動くに動けないなら、派閥の構成員で何とかするしかない。直冬は現状打破にうってつけなのさ。少弐頼尚という猛毒を飼っていようとね……義詮様がどう対応するか見てみようじゃないか。親父と氏頼殿が支えになるんだ。見ものだよ」
程なくして続報が南近江に飛び込んだ。九州武将の代官たちだけではなかったらしい。何と十五日に驍将・桃井直常が密かに京を脱出していた事が明らかになったそうだ。これでは九州探題の一色氏がどこぞで籠城しているという話ばかりに構っていられない。
果たして旧直義派の動きに幕府がどう処するのか。あるいは直義を殺して見せしめにしてしまうのか。京周辺で緊張が高まった。
〜2〜
観応の擾乱は複雑怪奇だ。まだまだ師直が存命な現段階ですら、このように感じてしまう。つい何日か前、戦国時代にキリシタン大名の宗麟を輩出する筈の大友氏があろう事か直冬軍に属したという急報が入ったかと思えば、昨日は宇治惟時──阿蘇大宮司で、九州三勢力を右往左往──が北朝に帰順したと尊氏様が喜んでいたというのだ。建武大乱の頃に負けず劣らず、話が二転三転している。
しかし、そんな折でも日々の業務を熟す必要がある。観応元年十月二十二日、我らが六角氏は近江国三村荘島郷の沙汰人に命じて、宝荘厳院の寺用米を弁済手続きを行った。全く面倒な事である。
「全く……京で異変があれば、東寺の施設を借りるしかないから仕方ないとはいえ……もっと押領したいものだ。本音を言えばな」
「兄様。我らの出陣機会は無いので?」
「そう言っているだろう、定詮。今は堪えろ」
「……は」
「と言っても、気持ちは分かるがな。尊氏様は出陣に際して政長殿をして小笠原一族や他の信州武士たちを西国に呼ぶそうだ。先月に信濃国などで反乱があったという話も、今は昔であるようだな」
「昨日、噂を耳にしました。京の警護の補強をなさるとか」
「まぁな……それはそれで諏訪氏が心配なのだが」
去る二十一日、何とも羨ましい事に尊氏様が信濃国守護の小笠原政長宛てに御教書を送ったらしい。とはいえ、内容が内容なので、どのような意図があるのか勘繰りたくなるところだ。つい一週間前に桃井直常が京から脱出していたばかりなのだ。同じ旧直義派の諏訪頼嗣がどのような動きをするものか、判然としないのである。
今、小笠原軍の大半が信濃国を離れれば、反乱が再発するかもしれない。仮に諏訪神党の信州武士も呼び付けるにしても、今度は南朝の宗良なり北条時行なりが「鬼の居ぬ間に」とばかりに暴れ出す可能性があるのだ。一体、尊氏様は何を狙っているのだろうか。
「兄様……御不快ならお聞き流し頂きたいのですが」
「……聞こう」
「小笠原軍をして京の守りを増強するとの事、我ら佐々木一族だけでは頼りないと信用されておらぬのでしょうか?どうも不安で」
「何を言う。我が名は氏頼であるぞ。尊氏様に頼られている」
「それはそうなのですが」
「思うに将軍は遠くを見据えておられるのだ。俺と政長殿に京を固めさせるのは、いつでも敵軍の襲来に対して掎角の勢で対抗できるようにするためだ。政長殿が京に居て義詮様をお守りしていれば、異変があっても俺は安心して近江国で反攻準備を整えられよう」
勝負事において開き直りの精神は重要だ。今回の場合で言えば、尊氏様が信濃国で宗良が暴れようとも時行が暴れようとも構わないと考えているのなら腑に落ちる。あくまで肝心なのは京なのだ。
信濃国は四方に通じて標的が移ろい易い。北陸や関東、東海道や京周辺の各地で異変があった場合、政長が狙いを絞り切れずに力を発揮し切れなくなるのが最も嫌なパターンと言える。それならいっその事、京を小笠原軍が固め、近江国を佐々木氏、美濃国を土岐氏が固めて力を結集する方が有効だ。要はベルトをズラしたのだ。
言い換えれば、これまで信濃国・美濃国・近江国でベルトとしていた方針を、美濃国・近江国・京周辺と変更する。もし美濃国で異変が再発した場合にも、こちらの態勢の方が対応し易いだろう。
「尊氏様のお考えは遠大だ。この俺もやっと理解できた」
「御謙遜を。兄様が御理解できないなら誰も将軍のお考えなど分かりません……将軍に万が一の事があれば、兄様がお立ちに。義詮様も京極道誉もそれぞれ別の意味で頼りない。兄様こそ望みです」
「定詮……道誉殿は兎も角、将軍家を悪く申すな」
「は……」
「案ずるな、将軍に万が一など……五年か八年は早いわ。この擾乱など三年で決着だ……終わるのは直義であるぞ?履き違えるな」
「ッ……お言葉、肝に銘じます」
「うん」
念の為、道誉を通じて師直の目を掻い潜り、尊氏様の真意を尋ねておいた方が良いかもしれない。いつ何時でも高師直から離れられる心積りをして貰わなければ、あるべき筋書きが狂ってしまう。
あるいは擾乱を好機と捉え、道誉に消えて貰うのも手だと考えていたものの、どうやら西国遠征に加わる予定がないようなのだ。
それなら仕方ない。道誉は後の四職・京極家の当主として生き残る定めなのだろう。道誉を下ろし、別の者を京極家当主として立てむという夢は諦めよう。道誉には今まで通りの役割を託すのだ。
「早い方が良いだろうな。今晩にでも道誉殿に来て貰おう」
「今晩?……それ程に大事な要件を?」
「ああ、大事だ。尊氏様には四六時中、師直殿の手の者が貼り付いてるからな。饗庭命鶴丸も信用に値しない。ならば、道誉殿が隙を見て将軍と接触する可能性を拡げるしかなかろう。分かるな?」
「……まるで京極道誉こそ趙高のようです。高師直というよりか」
「はン。なら義詮様が胡亥か?……いや、強ち否定できんか」
「!?……それほどの暗君で?」
「安心しろ。義詮様の次は名君だ。そう言えば、義詮様の奥方の渋川幸子が懐妊らしい。これぞ……いや、まだ少し早いような?」
「?」
まだ人々が三代将軍・足利義満の築く花の時代を知る由もない。
俺も今は目の前の擾乱に集中するしかない。師直に怪しまれないよう留意しつつ、尊氏様の真の御代に向けて準備を進めるのだ。
事態は着実に遷移している。近江国三村荘島郷について手続きを行わせた翌二十三日、越中国において反幕府勢力が蜂起した。