〜1〜
観応元年十月下旬、直冬は独立勢力として九州探題の一色氏を圧倒しながらも、更なる勢力拡大を画策していた。二十五日には筑前国景福寺に対し、元々尊氏が寄付していた土地を安堵している。
翌二十六日、直冬は阿蘇大宮司家への対応で頭を悩ませていた。
「既に我らの動きは将軍に知られていよう。将軍の事だ。本人がお越しか諸将の誰かを遣わすのか分からないが、間違いなく躊躇わず追討軍を派遣する。なのに、未だ九州統一が叶っていない。薩摩国の勢力だけなら捨て置いて良かったが、阿蘇大宮司・宇治惟時が今なお敵方では……追討軍との戦に集中し切れず、不測の事態に」
「婿殿。思うに宇治殿は当てになりません。我らや南朝軍、そして幕府軍の間で掌を返し続けております。今は幕府軍に味方する方が己を高く買って貰えると思っているのでしょう……かつて九州上陸当初の婿殿に良い顔をして、願文を受け取った時と同じように」
「これでは表裏卑怯だな……地方勢力なりの知恵と思って割り切るしかないか。阿蘇大宮司家を諦めるのは得策とも思えんが……」
この一週間ほど前の二十日以来、直冬は出雲国への工作を開始している。自身の最新動向──有力大名の少弐頼尚を自らの舅として味方にしたばかりか、大友氏の本家をも取り込む──が京に漏れそうだという事で、出雲国守護の京極氏の動揺を誘いつつ、石見国の師泰軍にプレッシャーを与え、師直をはじめとする幕府中枢から九州遠征を見据える余裕を失わせようとしていたのかもしれない。
何はともあれ、京からの追討軍の気配が現実化しつつある昨今、未だに阿蘇大宮司家の取り込みが上手く進んでいない事に、直冬は焦りを覚えていた。かつて同志と思っていただけに尚更だろう。
「婿殿。仰るように阿蘇大宮司家の勧誘を諦めるのは早計かもしれません。せめて姿勢だけでも示しておかなければ、肥後国が危うくなってしまいます故……この頼尚に策がござる。お聞き入れを」
「!……少弐殿。是非に聞かせてくれ」
果たして観応元年十月二十六日、直冬は大胆な手を打ち出した。
阿蘇大宮司・宇治惟時だけでなく、その分家の恵良惟澄にも同時に声を掛けたのである。恵良惟澄が実績で言えば、阿蘇氏本家の宇治惟時をも上回り、亡き関東廂番四番頭人・一色頼行の仇の一人である事を踏まえれば、相当な当て付けだったと言えるだろう。
勿論、この直冬の動きにより、かつて関東廂番を率いていた直義が覚えるであろう心痛は、元より覚悟の上である。今になっても貞和という元号を用い、南朝や北朝と異なる独自路線を継続しているのだから、今更というものだ。「佐殿方」としての流儀である。
奇しくも同日、京では尊氏たちの出陣前夜となっているせいか、緊張感が漂っていた。将軍執事の師直も、ここ最近は寵童の命鶴丸たちに主君の世話を代行させる事が多くなっていたものの、直冬追討の遠征に出れば、いよいよ余裕が無くなるかもしれない事から、今夜ばかりは時間を縫って例のように尊氏を寝かしつけていた。
「明日か……久々の出陣だな。ワクワクする。何年振りだ?」
「一緒に出陣するのは十五年振りかと。箱根竹下の合戦で御足労を頂いた時以来でございます。あれから翌年までずっと戦でした」
「おお、そうだ。あの時は直義が危ないと思って焦ったぞ」
「……」
「昨日のように覚えておる。無論、多々良浜もな。直義が頑張って戦ってたなぁ。本当に九州へ赴くとなれば、まさにアレ以来だ」
「……左様にございますな」
(あたかも童のような無邪気さだ……無神経とも言うが)
昨年の御所巻では師直と謀って弟の直義を陥れたとされる尊氏であるが、その猶子の直冬を討ちに出発する前夜、何を考えていたのだろうか。存外、目の色を変えていなかったのではなかろうか。
何しろ古典『太平記』によれば、尊氏は九州探題・一色氏の窮地を耳にした当初、そこまで深刻に考えていなかったようなのだ。
『将軍。使いの者は何と?』
『驚いた事に、九州では凶徒・直冬に心を通わし、探題の命令を無視する者が壱岐国や対馬国を含めても多くあり、大変困っているそうなのだ。まぁ、この報告はかなり誇張されておろうが、それでも困っている事は確かだと思う……という訳で、師直。急ぎ九州に援軍を差し向けねばならん。師泰では不足のようだ。誰が総大将に相応しい?顕氏か?時氏か?いや、紀伊国で直冬を調子に乗らせた国清を追討軍の大将に任じ、責任を取らせてみるのも面白そうだ』
『……将軍。確かに面白き案でございますが、国清は和泉国の城で楠木残党対策に勤しんでおります。ここでの起用は不適切かと』
『では、お前が行くか?顕氏も時氏も楠木殿の倅の……多聞丸に負けてしまったが、お前は四條畷の見事な粘り勝ちで、楠木兄弟を死なせてみせたと聞いている。師直、幕臣たちでお前に勝る者は誰も居るまい。うん、それが良い!師直、お前が直冬を討つのだ!』
(何故ここまで拙者を持ち上げる?仰る内容は事実だが、どうも裏があるように思える。ご自分の手を汚すのがお嫌という事か?)
幕府では尊氏ではなく、師直以下の幕臣が討伐に赴く習慣が常態化しており、己が庶子の脅威が現実化しても尊氏は大将を派遣して退治させる心積りだったらしい。これに師直が待ったを掛けた。
古典『太平記』によれば、師直が盛んに尊氏に進言したという。
『将軍。此度の反乱は他のものとは違い、足利一門の庶流武将やこの師直が赴くだけでは鎮圧し切れぬように存じます。故に──』
『待て待て、師直。何故だ?直冬なぞ、はっきり言って多聞丸たちの足元にも及ぶまいぞ。何故そんなに自信無さげなのだ?ん?』
『……直冬が仮にも将軍の庶長子だからでございます』
『直冬が我の庶長子だと?何を言うのだ?証拠でも有るのか?』
『将軍!しらばっくれるには、もう手遅れです!大友らの九州勢は見事直冬に騙され、内々に父子で心を通わせていると思い込んでおりますぞ!これでは拙者が出向いてもキリがありませぬ!将軍が御姿を現して直冬に対する敵意を広く示さなければ、討伐は望むべくも非ず!逆に将軍さえお出ましなら、中国地方の者どもが悉く直冬に降ろうとも、恐れる事はありませぬ!何卒、早期御出馬を!』
『……相分かった』
そして、時が流れて出陣前夜となり、師直は思う。どうも尊氏はこの期に及んで危機感を欠いているらしい。憎くて仕方のない筈の直冬を討ちに出向くというのに、お出掛け前の子供さながらだ。
周靖討伐直前の義詮ですら、ここまで呑気ではなかった。わけの分からない天下人らしさは今に始まった話ではないが、いつもと一線を画しているように思えてならない。師直は不気味に思った。
「将軍。最終確認になりますが、明日は五百騎弱で京を出る予定でございます。先の義詮様と同じく、道中で充分な量の兵馬と糧秣を整える算段にて。この方が合理的です。御異存ありませぬな?」
「ああ、任せた。任せた。重ねて聞かずとも良いぞ」
「……は」
近頃は公家たちが不安に怯えているというのに、尊氏は尚も泰然自若として出陣前の眠りに着こうとしている。結局、師直は臣下に過ぎず、最後は感嘆するしか無かった。これが天下人の器かと。
その矢先であった。今や遁世の身の直義が居る筈のあばら屋がもぬけの殻になっているという急報が天狗衆より舞い込んだのは。
〜2〜
観応元年十月二十六日の夜、直義が突如として京を出奔した。
先に驍将・桃井直常が逐電してから十日と少しが経っての出来事である。かねてより何かしらの計画があったと見るべきだろう。
日記『園太暦』によれば、向かった先は大和国であったらしい。
「恵源様!奥方様と御曹司は別途逃してござる!」
「……知久、篤く礼を言うぞ。よく私に着いてきてくれた」
古典『太平記』の各バージョンを見渡すと、この時の直義の同行者には複数のパターンが存在する。その中には信州武士・知久四郎左衛門尉を単独の同行者として挙げるものがある。前年八月の御所巻では、祢津小次郎と並んで直義派に加わっていた武士である。
どうも直義はこの知久四郎左衛門尉のみを連れ、行方を晦ましたらしいのだが、本当の話とするなら稀な信頼であると言えよう。
「まだ……安堵するには早うございますぞ。恵源様」
「ふ。師直麾下の諜者に気取られるからか?」
「……ええ」
「侮るな。裏で手を回している者には気付いている。清和源氏の中津氏の末裔のお前だが、信濃国の出身というからには大なり小なり諏訪大社を信仰しておろう?構わん。その者の仲間が師直の目を撹乱して時間を稼いでくれるなら、無事に逃げられるに違いない」
「……祢津殿と合流して防備を硬くする事も出来ますが」
「任せる。兎にも角にも師直の魔の手から逃れる事が重要だ」
しかし、必ずしも直義が信州武士・知久四郎左衛門尉を頼ったとは限らないようである。何しろ比較にならない程の名将が直義派には少なからず存在していたのだ。決して桃井直常だけではない。
翌二十七日になり、その武将が逃走中の直義の前に姿を現した。
「恵源様、ご無事で?」
「ッ……頼房!よく来てくれた!」
石塔頼房は後の反幕府勢力を代表する名将である。この頼房が直義逐電を助けたと見るのが主流のようだ。実際、遥か昔の中先代の乱では頼房の兄・範家が直義軍の武将として散っている。つまり、頼房はかつての関東庇番衆の縁者にして、直義子飼いの武将だ。
その顔を見て直義の険しい顔に幾らかの綻びが生じる。しかし、それも長く続くものではなく、やがて元通りキリッとし始めた。
直義と頼房の間で視線が交わされる。直ぐに頼房が口を開いた。
「という訳だ。知久、それと祢津だったか。苦労だった。今後はこの頼房が恵源様を案内仕る故、安心して信濃国にお戻り頂こう」
「な!?」
「おい、石塔……様。そりゃ無いんじゃねェですか?」
(この石塔頼房という武将、間近で見てみると尋常じゃない雰囲気がブンブン伝わって来る。何つうか……生き物としての格が違う)
この弧次郎の戦慄は決して間違いでは無い。何を隠そう、頼房は応永二十年まで生存し、齢九十三の稀な長寿を達成した武将だ。
ある意味では土岐頼遠すら凌ぐ人並外れた怪物と言えるだろう。
これで亡き兄・石塔範家のような並々ならぬ努力を山のように積み重ねていけば、どんな武力が出来上がるか推して知るべしだ。
「誤解するな。信濃国の小笠原軍が上洛するらしい。この好機を活かさずして如何するのだ?諏訪殿におかれては小笠原氏の残留部隊を攻め、その勢いで上杉殿と合流し、高師冬を倒して貰わねば」
「「!?」」
「国清殿もこのように申されていた。恵源様、如何です?」
「理に適っている策だ。知久に祢津よ、諏訪軍が無事に事を成した暁には後で小笠原政長が如何に泣きつこうと優先する。このように頼嗣に伝えよ。さすれば、諏訪神党の皆々もやる気が出よう?」
「……祢津殿」
「承知。恵源様のお言葉、一語一句違わず伝えます」
「だそうです……恵源様。私はこの後も同行したいのですが」
「……良かろう。知久は着いて参れ。清和源氏の誼でな」
この後、知久四郎左衛門尉は古典『太平記』において直義のために興福寺僧粛清の汚れ仕事を請け負った後、一切の出番を失う。
逐電補助の役割を終えた後は、そこまで直義に重用されなかったのだろうか。だが、致し方ない事かもしれない。直義は再び表舞台に立とうとしているのだ。いつまでも一地方の土豪にかまけている暇は無い。観応元年十月下旬、直義が逆襲に向けて動き始めた。
〜3〜
観応元年十月二十七日の朝、幕臣たちは騒然としていた。早くも直義逐電の事実が知れ渡ったのである。これでは師直も諸将の動揺を落ち着かせるため、出陣予定を一日ほど延期せざるを得ない。
しかし、師直派武将の危機感は強い。近日の石見国における師泰軍の苦戦と九州における直冬軍の勢力拡大で焦ったのだ。よもや前年の御所巻が祟り、手痛いしっぺ返しを喰らうのではないかと。
「師直殿!煮るなり焼くなり好きになされよ!顕氏殿を連れて参りました!此度の監督不行き届きは許されざる失態!……豚のように寝ているから、斯様な仕儀となった!顕氏殿よ、お分かりか?」
「ブヒィ……」
「……殊勝な届け出、有り難く思うぞ。元氏殿」
足利一門の細川氏の家督は現在、歴戦の顕氏の従兄弟甥・元氏の手にある。同族の顕氏を縄で縛り上げ、同じく忿懣遣る方無い様子の細川氏の面々と共に、将軍執事・師直の前に揃って参上した。
居合わせた者たちは皆、驚いている。元氏は何と片手で、巨漢の顕氏を持ち上げている。無双の猛将の素質が如実に現れたのだ。
(如何せん元氏は蛮勇の将だ。今は細川氏の者どもが揃って頭を血に昇らせているから良いが、醒めればその猪突猛進さに恐れを抱くだろう。それはマズい。ここは俺が顔を立ててやるしかないか)
「顕氏殿の罪は戦で償わせたい。だから下ろして構わん」
「……」
「貴様の美徳を買っての判断だ。惣領たる者、斯くあるべしと思っている。故に遠慮は無用だ。その腕は討伐のために使うべきだ」
「御意!……されど、恵源様は許せませぬ!直ぐにでも捜索を!」
「……先程、仁木頼章殿も同じ事を言っていた」
古典『太平記』によれば、仁木氏や細川氏が直義逐電による異変発生を危惧して師直邸に出向き、暫く京に留まって逃走先の究明を最優先にするよう意見表明したという。無論、師直に対してだ。
師直は目を瞑る。似たような事を少し前の自分も考え、主君の尊氏に訴えていたからだ。故に彼らの主張の利は痛い程に分かる。
『ですから、捜索隊を出さねばエラい事になりますぞ!』
『んん、可愛い子には旅をさせよだ』
『は……?』
『決して直義を探すなよ?良いな?主命であると心得よ』
『〜〜!』
結局、尊氏の剣幕に押され、師直は首を縦に振るしかなかった。
遥か遠い昔、後醍醐天皇が吉野へ逃げたのを追わず、警備の手間が省けたと喜んで、みすみす南朝の樹立を許した反省など尊氏には皆無らしい。日記『園太暦』によれば、直義逐電に際して捜索案に消極的な尊氏の姿勢が、人々の不安を煽る結果となったという。
これに対し、古典『太平記』では尊氏ではなく、逆に将軍執事の師直が強がって諸将の提言を堂々と拒む様子を書き連ねている。
(既に方針が変えられないのなら……毅然とした姿を見せ、皆を落ち着かせるしかない。苦し紛れでしかない事は重々承知の上だ)
「弟殿など取るに足らん。どこへ落ち延びようとも、日本国にはこの師直が居るのだ。誰があの負け犬に味方する?その気になれば、匹夫の矢で落命させ、その首を獄門に晒す程度は幾日も掛けずに出来る事よ。そもそも将軍の西国御進発について、既に御教書で天下に布告している。斯くも些細な事で予定を濫りに変更してはならぬものだ。道誉殿をして朝廷に上奏させる関係で一日出陣を伸ばすつもりだが、それだけだ。それ以上は決して障りあってはならん」
当代有数の婆娑羅大名らしく、将軍執事・師直はあくまで強気な姿勢を堅持した。正行を討ち、吉野を落とし、去る御所巻では当時の副将軍・直義と比較にならない程の大軍勢を集めたという自信が見え隠れする。しかしながら、既に師直は下り坂に入っていた。
旧暦の十月も下旬である。つまりは冬だ。将軍執事の師直は本当の意味で理解していない。終焉の時が徐々に近付いている事を。