崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 観応元年(西暦1350年)十月二十七日、前夜に脱出開始の元副将軍・直義(武衛禅門)はまず大和国に入った上で、河内国の畠山軍との合流を目論んでいた。

 古典『太平記』によれば、必ずしも直義(武衛禅門)派の全員が打倒高兄弟のあらましを知らされていた訳ではないらしい。むしろ男女とも師直(高武蔵守)が遠征の前に直義(武衛禅門)を暗殺したのではないかと疑ったようである。

 

 

「世の中はこれからどうなってしまうのでしょう?」

 

 

「分からん。主だった面々を確認してみたのだが、恵源(武衛禅門)様がお連れになった武将はどうも居なさそうだ。馬もそのまま、()()で逃げられたのやも知れんが、それでは何処へ逃げられる?心配だ……」

 

 

「きっと……高師直(武蔵守)が謀って密かに殺したんですよ。嘆かわしい」

 

 

 他にも世の行く末を危ぶむ者が居り、天下大乱の予感で今に高一族は滅びるに違いないと噂されていたと古典『太平記』は記す。

 確かに当時、確実に脅威となり得る直義(武衛禅門)派と言えば、天下を見渡しても関東の上杉憲顕(民部大輔)や北陸の桃井直常(播磨守)が精々であった。他の直義(武衛禅門)派武将は程度の差こそあれ、待遇次第で師直(高武蔵守)主導の幕府と妥協する用意があった。例えば、三年前の住吉合戦で大将を務めた山名時氏(伊豆守)に至っては、敗軍の将にして若狭国守護職を得る厚遇で喜んだ。

 しかしながら、「御所巻」後も継続して伊勢・志摩両国の守護を務める石塔頼房(右馬助)のように、機が熟したとばかりに直義(武衛禅門)に全面協力する存在も居た。かねてよりの気脈を活かし、現状を変える心意気を露わにしたのだ。直義(武衛禅門)頼房(石塔右馬助)は合流した後、南に向かっている。

 

 

頼房(右馬助)。河内国の国清(畠山阿波守)との合流まで幾ら掛かりそうだ?」

 

 

「それが……先方の都合で三週間ほど要するかと」

 

 

「……ならば、それまで大和国で巧く潜伏せねばな」

 

 

 古典『太平記』によれば、直義(武衛禅門)はまず興福寺内侍原坊の法眼好専という有力者を頼ったという。かつて鎌倉幕府の意を見て、五百余騎を率いて護良親王(大塔宮)を捕縛しようとして失敗した*1という逸話のあるベテランであったが、この時は直義(武衛禅門)を歓迎し、甲斐甲斐しく世話したそうだ。しかし、存外この日々は長く続かなかったらしい。

 ある時、頼房(石塔右馬助)が額に汗を滲ませて外回りを終え、直義(武衛禅門)に囁いた。

 

 

「大変な事に。好専法師宛ての御教書が出されたそうで」

 

 

「何?兄上が好専法師を翻意させる気なのか?」

 

 

「は。京や奈良の辺りで専らの評判でございます」

 

 

「……弱った」

 

 

 もし尊氏が本気で法眼好専を籠絡しようと思えば、たとえ離れていても簡単に出来てしまうだろう。まして法眼好専は護良親王(大塔宮)を捕らえようとした過去がある程、元より権力(武家政権)に従順な性質である。

 古典『太平記』によれば、直義(武衛禅門)は大いに恐怖して、法眼好専の懐を離れ、高市郡巨勢郷の越智氏の元に身を寄せたという。この越智氏は二心なく近隣住民を集め、街道を封鎖して支援したそうだ。

 ここに直義(武衛禅門)は完全に尊氏や師直(高武蔵守)の魔の手から逃れ、越中国の桃井軍に続く形での直義(武衛禅門)派武将の蜂起を促す態勢を整えた。直義(武衛禅門)の脱走を以て、観応の擾乱の火蓋が正式に切って落とされたのである。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 京が直義(武衛禅門)脱走の報で騒然とした二十七日の事である。婆娑羅大名の道誉(佐渡判官)が将軍・尊氏の意を受け、北朝政府に遣わされた。正式な使者として仕事をしたのである。要件は幕府軍出陣の報告である。

 応対した筈の勧修寺経顕(前大納言)は血生臭い話で、気が滅入ってしまったのだろうか。日記『園太暦』によれば、唐突な疲労の訴えがあり、代わりの者が取り次いだらしい。道誉(佐渡判官)は今か今かと待たされた。

 

 

「帝の命により、尊氏卿には御剣と御馬が下賜される。御馬は北面武士が引き連れる。使者の道誉(佐渡判官)殿は宜しく尊氏卿に伝えるよう」

 

 

「ははァ!」

 

 

 着々と出征の準備が進められる。不意の直義(武衛禅門)脱走というアクシデントがあったものの、めげずに朝廷のお墨付きを得て、直冬(左兵衛佐)を討伐するという決意を内外に示した格好だ。そして、日付が改まる。

 観応元年(西暦1350年)十月二十八日の卯の刻(午前6時前後)となり、いよいよ将軍・足利尊氏が十数年振りに出陣する。日記『園太暦』によれば、尊氏は小具足に弓矢を帯び、師直(高武蔵守)以下の五百騎弱が甲冑姿で従った。早朝ながら夜間より待機したのか、見物人たちが塀の陰に隠れて見ている。

 将軍・尊氏自ら実子の直冬(左兵衛佐)を討ちに行くという奇抜さが衆目の関心を誘っているのだろう。尊氏は天下人らしく人々の視線に応え、威風堂々と中国地方及び九州地方の平定に向かう……筈だった。

 

 

「ヘックション!」

 

 

「うお!?」

 

 

「何をしている!こんな時に落馬するヤツがあるか!」

 

 

 普段は仏頂面の師直(高武蔵守)も思わぬアクシデントで怒りを露わにした。

 日記『園太暦』によれば、東寺の南門において師直(高武蔵守)配下の旗持ちが馬から落ちて手を負傷するという間抜けを晒した。骨折でもしてしまったのか師直(高武蔵守)の逆鱗に触れたのか、その旗持ちは謂わゆる懲罰交代を命じられたという。昨日の直義(武衛禅門)脱走をはじめとする数々の逆風に加え、弱目に祟り目なのだから、相当な怒り様だった筈だ。

 

 

「将軍!」

 

 

「すまんすまん、クシャミで驚かせてしまったな。悪い事をした」

 

 

「いえ、小具足などという寂しい装束ではなく、きちんと着る物を御身に着て頂くべきでした。この師直(高武蔵守)の失態です。申し訳なく」

 

 

「ふふ。我は京の寒さなど気にならん。我らが故郷・下野国の方がずっと寒かったではないか?のう、師直。昔を思い出さぬか?」

 

 

(どうも尊氏様はこのところ昔語りが多い。お年を召されたせいか)

 

 

「……このまま京を出て、予定通り淀に参りますが、夜に改めて出陣式を。仕切り直しをせねば、士気に障りが生じかねませぬ故」

 

 

「うん。任せた」

 

 

 僅か五百騎弱での出陣ではあるものの、数ヶ月前の義詮(次期将軍)の美濃国遠征と同じように道中で兵馬などを必要なだけ調達すれば良い。

 今日は淀までだが、編成作業を進めながら一週間程度で摂津国兵庫に進む予定となっている。そこから二週間で播磨国福岡に着き、九州地方の前の中国・四国の慰撫を見据えれば良い。完璧執事の剛腕は健在である。師直(高武蔵守)は確かに勝利の方程式を組み立てていた。

 

 

「師直よ。意外と時間はあるのだな」

 

 

「愚弟・師泰が未だ石見国で戦っているのが不幸中の幸いでした。お陰で戦線は中国地方の西部で停滞しています。これを逆手に取りまする。播磨国で赤松たちとしっかり基盤を固め直しましょう」

 

 

「ふむ。四国武士たちにも声を掛けた方が良さそうか?」

 

 

「ええ、そちらの手配も順次進めて行ければと」

 

 

「良し……ならば、明日にも石清水八幡宮に参拝したい。源氏の軍である事をしっかり示さなければ、西国武士たちに我の声が響かないだろうからな。淀と石清水八幡宮は目と鼻の先だ。丁度良い」

 

 

「……は」

 

 

(やはり……こうなったか)

 

 

 南朝武将・春日顕国の軍勢を負かすべく、足利家の執事にして(高武)(蔵守)が男山を燃やしたのも早十二年前の事である。あれから職務の一環で岩清水八幡宮と関わる事も度々あったものの、今の情勢では危ういと考えていた。というのも、師直(高武蔵守)が将軍父子を意のままに操っているという直冬軍(佐殿方)の誹謗中傷は、当然のように聞こえている。

 もし尊氏の参拝が直冬(左兵衛佐)の耳に入れば、どのように印象操作されるだろうか。勿論、師直(高武蔵守)としても源氏を蔑ろにしている訳ではないというアピールをする機会だが、九州は海の向こうだ。天狗衆の機動力を活かして情報戦をしたところで、有利に働くとは限らない。

 

 

「出来る限り、短時間で済ませられませ。身辺警護も必須です」

 

 

「この情勢だからな。分かっておる。命鶴たちを連れて行く」

 

 

「……この師直(武蔵守)も同道しますか?」

 

 

「淀で事務処理を進めておいてくれ。その方が効率的だろう?」

 

 

「は」

 

 

 これも将軍・尊氏なりの配慮だろうか。昔語りが多くなった割に男山(石清水八幡宮)炎上は蒸し返さない様子である。師直(高武蔵守)は独りで納得した。

 観応元年(西暦1350年)十月二十九日、尊氏は少数で石清水八幡宮に参拝した。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 石清水八幡宮もとい男山は案外バカにならない。仮にも城郭としても有用なのだ。現代でも山道ケーブルを使わない限り、かなり急な階段を進む事になる。とはいえ、そこは歴とした武士である。

 数え四十六歳という当時としては中々な年齢であっても、尊氏は息切れ一つ無く目的地に着いた。無論、過去に何度も訪れているのだから、どこぞのある法師と違って、麓の寺社で満足してしまうという事は有り得ない。将軍寵童の命鶴丸たちも平然としている。

 

 

「命鶴。暫くそこで待機していろ」

 

 

「将軍?」

 

 

「堂を貸し切ってある。そこで一人になりたい。何、心配無用だ」

 

 

「……は」

 

 

(将軍は師直様のお言い付けが通じるような御方ではない。それは師直様も重々分かっておられる筈だ。どうとでも言い訳できる)

 

 

 果たして命鶴丸たちを外で控えさせ、尊氏が全く恐れる事なく堂内に踏み込むと、そこに居たのは腹黒坊主・京極(佐々木)道誉(佐渡判官)であった。

 今や主従であると同時に長い友人同士でもある二人だが、やはり今は立場の違いが歴然だ。尊氏には四六時中、師直(高武蔵守)か命鶴丸が張り付いており、道誉(佐渡判官)は公家たちとの深い付き合いもあって、中々どうして多忙である。故に、二人だけで話すのは久し振りであった。

 

 

「ふふ。やはり居ると思っていた。暗号文を渡されたら、どんなに難解でも解いてしまうのが昔からの癖でな。ある意味つまらん」

 

 

「これはこれは手厳しい。理詰めでは決して解けぬ難問を渡したつもりでしたが、流石は征夷大将軍と申し上げるべきでしょうか」

 

 

「そうなのか?道誉(佐渡判官)殿がそこまで言うなら、直義でも厳しいのかもしれないな……して、何か申したい事でもあるのか?でなければ、たとえ道誉(佐渡判官)殿でも態々このように回りくどい手段は用いるまい」

 

 

「は。お察しの通りですぞ。将軍、いえ。今は敢えて昔のように尊氏殿と呼ばせて頂きましょうか。師直(武蔵守)殿にはくれぐれも内密に」

 

 

「分かっておる。忌憚なく申されよ」

 

 

 建武政権時代こそ等しく交わる間柄であったが、今は二人とも主従の別を弁えている。そこを今は取り払おうという趣向である。

 尊氏も道誉も口角を上げていた。謀略をしようというところでも存分に楽しめてこその怪物だ。尊氏の顔がどこか懐かしく綻んでいる一方、道誉(佐渡判官)は顔をドス黒く染めている。共謀の始まりである。

 

 

「まず確認させて頂きたいのですが──」

 

 

「ふふ」

 

 

「尊氏殿もお人が悪い。今度は師直(武蔵守)殿を追い込むおつもりか」

 

 

「ほう、分かってくれるか。稀代の腹黒坊主は健在だな」

 

 

「……」

 

 

(よもやと思っていたが……まさか計画しておられたのか。これなら態々宗家の要請に応じて、危ない進言をするに及ばなかった)

 

 

 随分あっさり認めた様子である。他に誰かが聞き耳を立てている可能性は微塵も考えていない様子であり、謀略に関して尊氏から万全の信頼を寄せられている。そう道誉(佐渡判官)は考えてしまいたくなる。

 しかし、その矢先だ。尊氏がひょいと顔を近付けて(にじ)り寄った。

 

 

「てっきり策士の道誉(佐渡判官)殿でも我が真意を早々汲み取れまいと考えていたのだが……直義の捜索を見逃すように命じた事が、利敵に映ったからという単純な理由ではないな。もっと前から察していた」

 

 

「……」

 

 

 流石の尊氏も自覚しているようだ。御所巻では師直(高武蔵守)との共謀があったのではないかと噂されたが、基本的に尊氏は弟の直義(武衛禅門)に対して甘い顔をする。その後の直義(武衛禅門)出家まで一定の月日を要した事もそれを物語っている。故に捜索の提言を却下したところで、並大抵の者たちでは、師直(高武蔵守)を害する気だと直ぐ結び付けられやしないのだ。

 そもそも道誉(佐渡判官)の接触願いはもっと前からである。尊氏はそう言って怪物染みた視線を、かつての友人にして幕臣の道誉(佐渡判官)に送った。

 さりとて道誉(佐渡判官)も気骨のある人物だ。後世、室町幕府の黒幕とさえ呼ばれるだけの事はある。半笑いの状態ながらも言葉を紡いだ。

 

 

「高一族は……いえ、将軍執事の席は足利一門に委ねたい。尊氏殿はそのようにお考えです。師直(武蔵守)殿の忠誠心は確かですが、他の者共が認めるかは全く別の話でしょう。亡き重能(上杉伊豆守)殿たちの讒言は的外れでありながら示唆的でした。将軍家の今後を思えば粛清も──」

 

 

「やむを得んな。荷が重すぎるのだ。今や足利嫡流こそ将軍家そのものになっている。その執事の席に源氏以外が座るから、直冬のような凶徒の付け入る隙が出来てしまうのだ。せめて一門の誰かでなくては……地方武士が実務家の筆頭格に疑いの目を向けよう?」

 

 

「……しかし、残念な事に普通にやって梯子を外せる程、高一族は弱くない。むしろ痛烈なしっぺ返しが……という事が御所巻によって示されてしまいました。いやはや返す返すも失態でしたなァ」

 

 

「何を言う。道誉(佐渡判官)殿もかなり乗り気だったではないか?」

 

 

「……恵源(武衛禅門)公だけでは魚さえ住めぬ程の清流ができてしまうという事です。何はともあれ、尊氏殿……拙僧と仁木兄弟を御嫡男のお傍に置くという采配、()()()()()と受け取っても宜しいですな?」

 

 

「任せる。何があっても離れるでないぞ。義詮には我と違って次代でビシバシ働いて貰わねば困るからな?よくよく教え込むのだ」

 

 

「御意」

 

 

 実際、尊氏は後年も義詮(宰相中将)にかなりの権限を委ねていた。鍛える目的もあったのだろうが、最晩年にもなると恩賞権という肝心要まですっかり職権を譲り渡している。しかし、これはまだ先の話だ。

 この時期、先の読める者は慮っていたに違いない。高一族の肥大化が看過せざるところまで達していたのだ。将軍家外戚になっていないからまだマシだが、それこそ北条氏の再来と呼び得る程に。

 

 

「高一族は勢力も軍功も人材も野心も桁違いです。粛清は君主の道理でしょう。存分におやり下さい。古今東西の手法とはまるで違いますが、尊氏殿なら出来ましょうぞ。御名に疵が付かぬように」

 

 

「粛清が武士たちにとって心証が悪い事は、粟飯原清胤(下総守)が師直暗殺を土壇場で防いだ例で知れているからな。くれぐれも漏らすな」

 

 

「は……将軍。誠心誠意、義詮(宰相中将)様の知恵袋として務めます」

 

 

「うん。それで良い。ところで……まだ腑に落ちんのだ。結果を見てからなら、気ままに振舞う内に最適解に辿り着いたと合点してくれたと思うのだが、幾ら何でも事を為す最中に洗いざらい分かる筈がないのだ。(たと)え直義でもな?我と同じ飛び道具しかない筈だ」

 

 

「……」

 

 

(潮時か……宗家、いつまでも日陰で見物できるとは思わぬ事です)

 

 

「確か貴殿の御息女が神力を……いや、風起こし向きでも未来視は無理な筈だ。何か忘れているような気がする。誰だ?我を推し上げようとする者が居る。教えてくれ、道誉(佐渡判官)殿。教えぬか?教えよ」

 

 

 あたかも尊氏の瞳が分裂し、それぞれが続けて捲し立てているかのようである。西国武将の道誉(佐渡判官)は感じた。これが本物の怪物の姿なのかと。武家も朝廷も神仏も見下ろす真の征夷大将軍の姿だと。

 観応元年(西暦1350年)十月二十九日、既に擾乱のファーストステージが開幕している。足利尊氏の次席を巡り、直義(武衛禅門)と高兄弟が争いを繰り広げる舞台である。しかし、他の誰が知っているだろう。最終的に漁夫の利を得るのは誰なのか。時代の醍醐味はここから味わえるのだ。

*1
護良親王(大塔宮)が巧みに唐櫃の内に隠れ潜んだ事が原因だという。

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