〜1〜
観応元年十一月八日、尊氏様の指示により、留守居の幕府関係者たちが揃って顔を引き締めた。京で異変があった際の朝廷警護の段取りについて急使で伝えられたのだから、尊氏様が何かしら勘付いている証左に他ならず、自然と危機感を煽られるというものだ。
朝廷との折衝が落ち着き始めた頃、俺は眉を顰めた。突如として女院が住居を移したいと言い出したのだ。要は我が儘である。
「で、どうなったのだ?氏頼殿」
「はい、義詮様。取り敢えず貴族宅に移って頂く事になりました」
「うむ……それにしても千葉軍に狼藉の気配有りとはなぁ」
「所詮は平氏ですので、そんなものでしょう。ただ──」
聞き出してみたところによれば、一応の理由はあったようだ。
曰く、世の中が物騒になってきたため、女房たちだけで屋敷に住むのは些か不安らしい。これだけなら確かに引越しの希望も分からなくもない。しかし、より詳しく内情を探った先が問題だった。
噂が立ってしまっていたのだ。三条坊門の旧直義邸を預かる千葉軍の様子が不穏であると。特に北小路里近辺で寝泊まりしている部隊が問題であるらしかった。結果、朝廷関係者の不審を招いた。
「女院がそのように仰せだった事、義詮様におかれてはくれぐれも高経殿に漏らされませぬよう。こちらで話を付けておきます故」
「ん?高経殿には禁句という事か?」
「高経殿はかつて千葉氏の北朝投降を仲介した縁で、源平の姓の違いがありながら、今も互いに仲良くしておられる様子です。故に私が千葉殿の讒言を義詮様に吹き込んだと思われると些か障りが」
「良し、分かったぞ……それにしても大変な事になってしまった」
世情不穏の気配は京の誰しもが知っている。お陰で噂が噂を呼んで混乱している状態だ。例えば、十三日に尊氏様が兵庫を出発する予定であるという内部情報が何をどう間違えたのか、巷では同日に京で異変が発生するのではないかという噂に化けているらしい。
無論、既に道誉たちが鎮静化に走っているものの、焼け石に水の感が否めない。まだ暫くは収まらないだろう。むしろ逆効果にならない事を祈るばかりである。あるいは誰かの作為かもしれない。
方々で凡庸と評判の義詮もその事自体は悟っているらしかった。
「それもこれも叔父上が京から逃げ出されるからだ!師直が内々に捜査を進めているらしいが、肝心の父上がその気をお持ちでないと厳しい。北朝警護よりそっちの御指図を優先して欲しかった!」
「……確かに根本的な原因は恵源公の脱走にありましょうが」
「だろう?なのに父上が……」
よもや一足どころか二足・三足遅い反抗期の到来であろうか。
この時代の人間の精神発達は、後世と違って謂わゆる中間期が無いようなので、あまり意識していなかったが、今の情勢で義詮に反抗期を迎えられると派手に拙い。かと言って馬鹿正直に諌めるのも逆効果になりかねず、後に義詮が二代将軍になった時まで尾を引いて損をする可能性すらある。まずまず難しい状態と言えそうだ。
「義詮様。これは私が密かに集めた情報なので、くれぐれも他言無用に存じますが、宜しいでしょうか?多少は溜飲が下がるかと」
「!……聞こう」
「どうやら将軍は興福寺に恵源公の引き渡しを迫られている由」
「興福寺?……叔父上がそこに居るのか?」
「そのようです。ただ、我々が横槍を入れると折角の将軍のお骨折りが無駄になってしまうかもしれません。故に、どうか心の奥底に仕舞われますよう。私としても南都北嶺への疑念は絶えません」
「南都北嶺……大和国興福寺と比叡山延暦寺だな?」
「如何にも。比叡山延暦寺については先日、義詮様が近江国園城寺に勢多橋警護の指令をお出し下さいましたので、取り敢えず牽制は出来ております。とはいえ、過信は禁物です。もし南都北嶺が手を携えて弟殿の支援を目論んだ場合、かなり厄介な事になります」
「……よもや父上はその事を危惧して」
「無論、憶測に憶測を重ねても不安を増幅させるだけです。義詮様はあくまで平静を保ったまま、日々をお過ごしに。決して今し方の懸念に拘泥せず、万一の話として頭の片隅にでも留められませ」
「う、うむ。分かったぞ」
どうせ無理なのだろうなと思いつつ、俺は次期将軍・義詮の力強い言葉に表向き頷いた。擾乱後を見据えた仕込みとも知らずに義詮は意気込んでいるが、これでは我ら守護大名の思う壺であろう。
次の義詮の治世では将来義満の粛清対象にならない程度に勢力拡充に務めるつもりだ。必ずしも新たな守護国の獲得に執心するとは限らないものの、近江国内の寺社領の接収だけでも粛々と進めていかなければ、ビッグウェーブに乗り遅れてしまいかねないのだ。
今は義詮に南都北嶺の影に怯えて貰った方が好都合だ。そうしておけば、必ずや義詮は自代における守護大名の成長を歓迎する。
「比叡山と言えば……北畠顕家の死後も騒がしかったと聞いた」
「ええ、はい。そんな事もありました」
「師直から聞いたのだ。春日顕国が男山に籠り、新田軍の別働隊が延暦寺と結んで京を脅かしかねない事態になっていたと。そのせいで師直はやむを得ず、男山に火攻めを仕掛けたそうではないか」
「……」
どうやら早速効果が出ているらしい。言った側から義詮は南都北嶺という懸念材料について頭の片隅に抑えきれなくなっている。
ただし、義詮の不安は腐っても将軍の嫡男と言うべきか、意外にも的を射ていた。師直の扇動も多少は入っている様子であるが。
何はともあれ、話の流れから義詮の言わんとする事は明らかだ。
「義詮様は……越中国の桃井直常を恐れておいでなのですね?」
「左様。もし過日の新田軍の如く延暦寺と結べば──」
「かなり危ない存在になりましょう……仰せの通りかと。ただし、ご存知の通り、幕府も桃井軍に無策ではありません。桃井軍はかつての木曾軍に倣わんと次に能登国へ進出する気でしょうが、いずれ彼奴が亡き新田義貞と同等の脅威になるにせよ、そう簡単には」
「確かに京から同族の守護を派遣し、北陸で争わせるお膳立ては整えてあると聞いた。されど、桃井直常は一門でも屈指の驍将だ。不安でならん。あの家長も生前、桃井直常を甚く評価していた」
「……」
「無論、今は冬だ。そう簡単に軍勢が北陸道を通って上洛できるとは我も思っておらぬぞ?だが……あの驍将は並の者とは違う風格があったように思う。氏頼、お主なら勝てるか?そこが知りたい」
「桃井直常なら……確実に勝てまする。一対一という条件なれば」
「おお!そうか!」
流石にここは断言しておかないと格好が付かない。武将としての実績で言ってしまえば、まだ明らかに向こうの方が上だが、個の武勇という観点なら決して引けを取らないと自信を持って言える。
とはいえ、この時の在京武将たちは、まだまだ桃井直常という驍将を過小評価していた。生前の新田義貞すら今や上回っているかもしれない。その事が明るみになるのは、もう少し先の話である。
〜2〜
観応元年十一月の中旬に差し掛かろうかという頃、近江国でも真偽不明の噂が飛び交うようになっていた。元より京にかなり近い地域なので仕方ないが、有象無象の四方山話が舞い込んでしまう。
仮にも夫の氏頼からは何の音沙汰もない。代わりに在京の六角党と佐々木荘の文官武将の間でやり取りがあるから、幾らか補う余地はあるものの、情報の錯綜は免れない。今一要領を得ないのだ。
「で、結局どうなんだい?高師泰が向こうで負けたという話は」
「分からないよ。殿様お抱えの諜報集団でも混乱し掛けてるくらいなんだからさ……何でもかんでも聞かれても困るよ。私だって機密で話せない事の一つや二つある。たとえ当主正室が相手でもね」
「あっそ……ああ、イライラする!」
勿論、幕府でも混乱しているであろう事は分かる。もし師泰軍敗退の噂が事実に反しているのであれば、直ぐにでも幕府が訂正を触れ回っていたに違いないからだ。しかし、今になっても噂が止んだ気配が無いのなら、京と近江国の間の距離を勘案するにも限度が生じてしまう。つまり、煙となる火が何からしらあったのだろう。
もしかすると今は腹黒策士の親父すらヤキモキしているのかもしれない。そう思うと少しだけ気が楽になりそうなものだが、今回は事情が違う。親父の守護国の出雲国にも関わってきそうなのだ。
眼前の亜也子は否定するかもしれないが、そうなると氏頼も困るだろう。直近の京周辺の混乱を思えば、直義の暗躍が疑われる。
「親父が出雲国に注力し始めたら、恵源公はきっと近江国の切り崩しを開始するよ。さしもの氏頼殿も客観的に見て政治力では恵源公に及ばないからね?ただでさえ藤井寺や住吉の敗戦で氏頼殿の求心力は多少落ちたんだ。いや、もしかしたらもう既に始まっているかもしれない。大和国や伊勢国より足元を見た方が良いかもよ?」
「……近江国の国人たちが調略されるって事?」
「そうだ。氏頼殿の元服から十二年、かつての神秘性はいい加減、薄れてきてる……現に将軍の覚えも昔より悪くなっただろう?」
「どうだろ……確かに将軍より師直様の懐刀と言った方が良いような立ち位置にはなってたかもしれないけど、そもそも今の将軍と近しい守護大名が誰だろって思う……師直様以外に居なくない?」
「……強いて言うなら親父か?それでも建武政権時代より距離が離れたらしいから、氏頼殿だけの問題とするのは苦しいか。幕府体制の確立に原因を求めた方が良さそうだね。うん、それは確かだ」
「で、魅摩……本当に近江国から裏切り者が出るなんて信じられないんだけど。恵源公が戦後の恩賞を約束しても、殿様を敵に回すんだったら意味が無いでしょ。空手形じゃ御飯は食べられないよ」
「……どうだろうね。名将・高師泰すら無名の地方豪族に負けて石見国を追われたという噂が実しやかに囁かれるんだ。今日は無名の者が明日は天下を動かす時代において、無謀な国人は想定して然るべきだ。たとえ佐々木一族が長く治めた近江国であってもね」
「……納得いかない」
初めて会った時に比べ、加齢を差し引いても明らかに様変わりしている風貌の亜也子にとって、氏頼敗戦は受け入れ難いらしい。
天下屈指の名将・北畠顕家や軍神の再来・楠木正行が相手なら兎も角という思いなのだろう。確かに気持ちは分からなくもない。
何せ私としても氏頼が合戦という分野で国内の者に負けるとは到底思っていないのだ。否、文化・教養や政治面でも親父に準ずるものを持っていると見て間違いない。当の親父がそれらの分野で全国最上位格なのだから、氏頼もかなりの素養があると言える筈だ。
つまるところ、氏頼は一介の武将が敵う存在ではないのである。
「勿論、まだ何とも言えないよ?ただでさえ鎮西の武将たちが降参したとかしてないとか、河野氏たちが備後国に上陸したとか話が訳の分からない事になってるんだ。三宝院賢俊にしたって、今や使者として直冬軍に派遣されるされないで人々の噂の的だ……もはや常識で測れる段階にないんだよ。どんな事態だって想定しないと」
「……鎌倉幕府滅亡の時もこんなだったのかな。噂話が飛び交って何が正しくて何が間違いなのか分からない。建武大乱の頃だって、ここまでじゃなかった。今は……とても情報戦どころじゃない」
「情報戦か……一連の噂話が自然にできたものなのか、それとも誰かが混乱を煽るために流したのか気になるところだ。幕府はきっと恵源公を疑うんだろうけど……昔、親父が言ってたんだ。足利氏は諜報部門を師直に委ねる方針だって。恵源派も確か吉良氏が草の根活動に通じてるらしいけど、ここまで器用にやったなら驚きだ」
「……ねぇ、魅摩。南朝勢力の仕業とは考えられない?」
「ん?ま、その線もあるだろうさ。北畠親房なのか楠木正儀なのか分からないけど、幕府の内紛を煽るだけ煽って漁夫の利を得ようと考える輩は南朝にゴマンと居る筈だからね……これ以上は考えても無駄だな。本当にキリがない。将軍の御出立は十三日だっけ?」
「うん、そうらしいよ。十三日に何かあるんじゃないかっていう市井の噂は多分それじゃないかって皆が言ってた。裏も取れてる」
「ふーん。そっか……将軍が兵庫を出たら、京周辺の恵源派武将は本格的に動き始めるだろうね。鬼の居ぬ間に……というヤツさ」
この後、幕府の内紛は加熱の一途を辿っていく。京周辺だけでなく地方でも動きがあった。後になって聞いた話によれば、東国では上杉能憲──関東執事・上杉憲顕の実子にして、亡き重能の養子であったらしい──が十二日に常陸国信太荘で反旗を翻していた。
そして、西国に激震が走る。十四日正午の京の地震よりずっと大きな衝撃だ。歴戦の名将・細川顕氏が幕府を裏切ったのである。