〜1〜
観応元年十一月中旬、直冬はまだ九州に居て地盤の強化に専念していた。十五日、またも阿蘇大宮司・宇治惟時に声を掛け、豊後国の平定に着手するよう迫った。勿論、この時も直冬は依然として書状に貞和の元号を用いていたため、独立勢力の姿勢を堅持したままであった。どうやら直義と連携していた訳ではなかったらしい。
何を隠そう直義は書状で各地の武将を誘う際、律儀に観応の二文字を添えている。既に京から逃げた身であったにも関わらずだ。
とはいえ、直冬軍も本州の情報を何から何まで知らなかったという訳ではなかったようだ。翌十六日の事である。少弐頼尚が舅として御輿の直冬に拝した。豊後国の方針について相談するためだ。
「婿殿。豊後国は仮にも大友氏の守護国です。あくまで大友氏の顔を立てつつ、阿蘇氏の力を頼りたいと伝えるべきかと存じます」
「……少し軽率過ぎたか」
「いえ、婿殿は良く励んでいらっしゃる。九州に居ながらにして中国地方に目を光らせ、師泰軍を押しておられる。婿殿の将器は明らかに過去の南朝武将たちより上でしょう。この少弐頼尚が太鼓判を押します。たとえ尊氏公や高師直が参ろうと恐るる事は無しと」
全国を見渡しても少弐頼尚の実績は確実に桁違いの部類に入る。
何も多々良浜合戦や湊川合戦などで足利尊氏の覇業に主力級の武将として貢献しただけではない。その前の鎌倉時代末期でも当時健在の先代と共に九州地方のキャスティングボードを握っていた。
ある時は鎮西探題に協力して反幕府勢力を圧倒したかと思えば、後日になって六波羅滅亡を知った途端にちゃぶ台返しを行った。
大友氏や島津氏と合力し、鎮西探題・赤橋英時を自害に追い込んだのである。なお、この英時とは最後の執権・赤橋守時の兄弟であるからにして、将軍正室・赤橋登子とも同様であった。そうした意味でも、少弐頼尚が次期将軍の義詮の対抗馬となる可能性を秘めた直冬と提携し始めた事は、当然の帰結と言えるのかもしれない。
「百戦錬磨の舅殿にそう仰って頂けると心強い。されど、慢心する訳には参らぬ……父上が攻めて来る前に何が何でも九州の基盤を固めておかねば。本当なら今直ぐにでも本州に渡りたいところだが、このままでは厳しい。懐良親王の勢力が固く、中々崩し切れん」
「仰る通り……急がねばなりませんな」
嘘に嘘を重ねるとはよく言ったものである。直冬は既に足利兄弟の意思で九州に到来したと言ってみたり、尊氏は執事・師直の傀儡とするプロパガンダを吐き散らしたりするなど繰り返し嘘を吐いた身であったが、その舅・少弐頼尚も京の密命で直冬に味方をしたというハッタリを周囲にかました梟雄だ。古文書『阿蘇文書』の形跡から察するに、十一月十六日にまたしても虚勢を張ったようだ。
筑前国における快勝報告に加え、石見国で師泰軍が撤退に追い込まれて安芸国に落ち延びたという時期尚早かつ少し頓珍漢な報せを阿蘇大宮司・宇治惟時に伝えている。大友氏と力を合わせて豊後国の反乱鎮圧に取り組むよう、花押を添えて依頼するついでにだ。
一方その頃、京では腹黒策士の道誉が例の表情で北朝公卿を訪ねていた。いつもの遊興と違い、正式な幕府の使者としてである。
(く、黒い!普段の比ではないぞ!何を言い出す気だ!?)
「勧修寺卿。まずは手短に要点をお伝えさせて頂きます。先に兵庫を出て今は播磨国へ向かっておられる将軍より、不躾ながら朝廷にお願いしたき議があるとの旨、この京極道誉が承っております」
「お願いか……聞こう。他ならぬ将軍のお頼みなれば何箇条でも」
「は、有り難く。さりとて、たった三箇条ですので、身構える事はないでしょう……どれも上皇陛下が簡単に頷いて下さる筈です」
「ッ……!」
観応元年十一月十六日、道誉は以下の要求事項を伝えたという。
一つ、播磨国で敵軍の布陣が完了しているらしいので、征伐に活用するため、垂井郷住吉保などの要害の拝借を認めて貰いたい。
一つ、西国の寺社本所領の件で、紛争地域でも勝手に我が物にしてはならないと通知しているものの、前途多難な状況を勘案して、成り行き次第で事後報告せざるを得なくなる結果も考えられる。
一つ、直義の陰謀に関する通報に伴い、追討の院宣を賜りたし。
「……道誉殿。今、何の院宣と申した?」
「は。弟殿追討の院宣と申しました。文書でも確認されますか?」
「無用だ。だが……尊氏卿が本気でそう申されているのか?」
「ええ。間違いない話です。何しろ──」
日記『園太暦』の叙述によれば、尊氏が心の底から弟の直義を討ちたいと思っているのか、かなり疑わしく思われていたらしい。
ただ、それを補うだけの回答は用意されていたようだ。奇しくもブタこと細川顕氏の脱走がこの日、ついでのように報告された。
しかし、京人なら誰もが知っている事である。直義が逐電前に一体どこに居たのか。他ならぬ顕氏邸内のあばら屋にて、隠者のような生活を送っていたのである。そして現状は一変している。直義にしろ顕氏にしろ時期は違えど今や両者揃って姿を眩ましたのだ。
「道誉殿。これは余の個人的な感想だが……どうも師直殿にしては後手に回っていやしないか?これでは状況が悪くなるばかりぞ」
「……師直殿も制約がある中で精一杯やっておられるのでしょう。顕氏については御心配なく。同門の有力者の頼春殿や細川惣領の阿波将監元氏殿が行方を追っております。知っての通り、頼春殿は後醍醐の帝が亡き小笠原殿以上に買っていた弓上手。そして、元氏殿はまだあまり知られておりませんが、義貞を思わせる剛力の持ち主として巷で買う者が少なからず……顕氏とて一溜りも無いかと」
「その言葉を信じよう……今は一先ず上皇陛下にお伺いせねば」
観応元年十一月十六日、光厳上皇は全ての要求を聞き入れた。
ここに直義追討の院宣が下される。『建武三年以来記』の記すところでは錦の御旗も準備されたようだ。しかし、尊氏は尚も播磨国を西へ西へと進んでいた。この間、何故か尊氏が船遊びないし書写山参詣に紛れて失踪したという噂が京で飛び交っていたという。
〜2〜
日記『園太暦』によれば、尊氏の動向について奇妙な噂が方々で囁かれる一方、義詮は西国の近況を悲観していなかったようだ。
院宣と錦の御旗さえあれば、尊氏が負ける事はないと高を括っていたのかもしれない。まして師直が従軍しているのだ。確かに顕氏が逃げ出すというアクシデントがあったものの、他の細川一門に対処させれば十分であり、尊氏と師直の揃い踏みという布陣であれば誰が相手でも必ず勝てるだろうというものだった。義詮は過日の美濃国の反乱で共闘したせいか、師直に格別な信頼を抱いていた。
「氏頼殿。父上たちは今頃、三石城に着いている頃か」
「は。恐らく四国の河野水軍を招集し始めているものと」
「水軍か!まるで源平合戦のようだ。心が躍る」
義詮はまだ知らない。瀬戸内海では最強の水軍勢力とされる河野氏を巡り、足利兄弟の間で勧誘合戦が繰り広げられている事を。
また、京で盛んに囁かれている尊氏失踪の噂にも、我関せずの態度を貫いていた。氏頼たちも義詮さえ超然としていれば、次第に噂は止むに違いないと考えていた。実際、日記『園太暦』の著者の洞院公賢は、数々の噂についてデマに違いないという前提条件を踏まえて接していたようだ。中には剛腕ぶりの信頼余ってか、師直の自作自演で噂が広まっているのだろうという珍説もあったらしい。
「我も何かしたいところだが……西国はこれ以上、寺社に祈祷要請しても蛇足だろうか?父上や師直が抜かりなくやっておろう?」
「はて、どうでしょう。今は軍勢催促で手一杯になっておられる様子ですが……まさか義詮様。関東の寺社にも関心をお持ちで?」
「うん、そのまさかだ。これでも二十年近くもの間、殆ど東国で過ごしていたのだ。念願の京暮らしが叶って満足しておるが、東国に何一つ愛着が無いという訳ではないのだ……どう思う?氏頼殿」
「……では師冬殿に書状を。まずは祈祷より人事について指図するのです。師冬殿は関東に再着任してまだ日が浅いので、将軍家御嫡男の義詮様の意を奉じて仕事をする事となれば、心強い筈です」
「我の命令を以て師冬の援護とするのだな?相分かった」
観応元年十一月十八日、義詮が上総国市原八幡宮の別当職の人事に関して、関東執事の師冬に文書で通達した。確かに在京の義詮が源氏所縁の八幡宮の事で師冬を頼りにした証となるので、上杉氏などの直義派武将たちを牽制する格好の材料だったかもしれない。
それこそ一週間近く前の十二日に上杉能憲が常陸国で反旗を翻していなければ、かなり有効に働いていた可能性が考えられる。
しかし、時既に遅しであった事を、この時点で在京武将たちが知る由も無かった。それどころか身近な危険が密かに迫っている事をどれだけ認識できていただろうか。直義が闘志を燃やしている。
もはや到底、北朝の院宣や錦の御旗で押さえ付けられはしない。
「ああ、そうです。義詮様、これは既に潰えた話なのですが──」
「ん?氏頼殿、忌憚なく申してくれ」
「どうやら先に道誉殿や公卿たちの間で、院宣を以て直義や直冬を撹乱してみてはどうだろうという話が持ち上がっていたそうで」
「?」
古典『太平記』を紐解くと、どうした訳か直義が北朝の光厳上皇に高兄弟誅伐の院宣を要請して受理されたという記述が見える。
しかし、古典『太平記』掲載の院宣を詳しく見てみると、直義が任官済みの筈の左兵衛督を付与するといった文言や、壱岐国や対馬国を含む西海道諸国の軍勢を名指しし、天下鎮護に用いるよう指示するなど、不審な点が目に付いてしまうのだ。何より直義は京を離れて南方に走った筈なので、如何にも奇妙と言わざるを得ない。
「ど、どういう事なのだ?内容が滅茶苦茶ではないか。どちらかと言うと叔父上より直冬宛ての院宣に聞こえるぞ。訳が分からぬ」
「ええ、そこが肝なのです。直義宛ての筈が何故か直冬を北朝傘下に組み込むような内容の院宣……これで敵方を混乱させようという意図だったようです。尤も、結果として没になった理由は申すまでもないでしょう。あまりにも危険が大き過ぎる偽院宣ですので」
「全くだ……確認したいのだが、道誉殿は制止した側だな?」
「それはそうでしょう。幾ら道誉殿でも斯様な博打はしません」
「……それにしても朝廷は何を考えておる?師直たちの功績を考えておらぬのか?分からん。偽とはいえ、何故このような院宣を」
後世でも古典『太平記』掲載の北朝による高兄弟誅伐の院宣について怪しむ声は大きく、作者の創作ではないかと言われている。
水戸藩による資料『参考太平記』は直冬が宛先だったのではないかとしているものの、そうであっても不審を拭い切れないのだ。
「混乱させてしまいましたか?別のところから漏れて大きな騒ぎになるよりか、予め義詮様にお含み願おうと思ったのですが……」
「いやいや、よく知らせてくれた。これからも頼むぞ。氏頼殿」
「は」
(多くの幕府関係者が追討院宣で強気になっているが、これで直義の居場所は完全に北朝から消え去った……近日中に事が起こる)
観応元年十一月十九日、京で光厳院によって院宣と錦の御旗が正式に発給された頃、備前国福岡に尊氏たちの軍勢が到着した。
古典『太平記』によれば、尊氏軍はこの福岡の地で四国・中国の軍勢を揃えて直ぐにでも攻勢に移ろうと考えたものの、海風や山陰道の積雪が芳しくない様子で、兵力の収集具合も期待値を下回っていたようだ。さしもの師直もこれには苦い顔をせざるを得ない。
(チ。これなら佐々木一族からの人質という名目で、道誉殿の息女を従軍させ、天候を操らせるべきだった。氏頼なら決して恥を掻かせるような事はせぬと誓約しておけば、あっさり応じただろうに)
「父上。これでは出兵は困難です。如何しましょう?」
「……仕方ない。塩冶の件があった手前、俺が直接出向かない事には佐々木氏両名の納得を得られまい。今更そんな煩わしい事をする位なら、ここで各地に睨みを効かせた方がマシだ。師夏、今から俺は将軍に年明けの出発をと具申する故、お前が皆に伝えておけ」
「は!」
これより一月半近くもの間、将軍執事の師直は歯痒い思いを噛み締めながら、ちゃらんぽらんな尊氏を擁して無為な駐屯を続ける事になる。九州への本格的な工作を進め、少弐氏を除く大友氏らの諸大名を再び従わせる事に成功したが、それ以降は下り坂だった。
観応元年十一月二十三日、電撃的な報せが京を襲った。直義が大和国から河内国に移り、畠山国清などと共に南朝に降伏したというのである。前日に石塔頼房が生駒山で挙兵していたという噂があったかと思えば、去る二十一日に近江国で複数の豪族が反旗を翻したという噂も広まり、京はこれ以上なく激しく動揺する事になる。