〜1〜
観応元年十一月下旬となり、京も近江国も騒がしくなってきた。
生真面目さを殴り捨て、直義が南朝に降るという暴挙に出るという事は当然、観応の擾乱の一幕として前から承知している。だが、まず近江国を狙うとは少々意外であった。これは皆も同じ筈だ。
一応、俺は内紛激化を見据えて予め備えをさせておいたからまだ良かったものの、道誉など本拠地の甲良荘が奇襲を受けたという事で至急の防御システム再構築に追われている。さしもの策士がこの有り様なのだから、他の幕府関係者の動揺は推して知るべしだ。
「氏頼殿。何があろうと一週間は保たせて見せる。故に急ぎ近江国に戻り、南朝軍を駆逐してくれまいか?今のままでは拙かろう」
「……頼章殿。貴殿も義詮様のような事を言いますか」
現侍所頭人の頼章は真面目を絵に描いたような男だ。忠義一徹という言葉がよく似合う。しかし、あまりにも息苦しいので、もし郎党に欲しいかと問われれば、迷わず首を横に振るだろう。それ程クソ真面目なのだ。あるいは直義をも凌ぐ生真面目かもしれない。
皮肉なものである。これまで時勢を読まずに南朝に転向した者と言えば元仁木党の荻野朝忠──世間で言われるように我が一族の亡き塩冶高貞も、百歩譲って挙げられるかもしれないが──が居たのだが、直義が同じ事をしてしまったせいで、今や眼前の頼章こそ武家において真面目ランキング堂々の第一位を張る存在である。
「確かに氏頼殿の言い分も分からなくもない。恵源公の智謀の程は人並みに知っているつもりだ。近江国攻めは見せ掛けで、討伐隊が京を出た隙に義詮様を狙う。あの御方なら充分に有り得る策だ」
「ならば何故?敵の思う壺になっても構わぬと?」
「故に一週間と申したのだ。それどころか、今なら氏頼殿の事だ。往復を含めて三日で反乱軍の鎮圧を終えられよう?恵源公なら策を見破られた場合も含めて考えを巡らせておる筈。今こうして氏頼殿が京に留まっているのも、あるいは恵源公の掌の内やも知れん」
「……お気持ちは分かりますが」
「何だ、氏頼殿。ここまで申しても、考えにお変わりないか?」
「既に守り重視の方針を在国の郎党たちに伝えております。綸言汗の如しと言っては少し大袈裟ですが、佐々木惣領として簡単に覆す訳には参りません。流石に将軍の御命令があれば話は別ですが」
「……」
今でこそ侍所頭人という要職ながら、元を糺せば足利一門の下層支流出身の仁木頼章に明かしてやる義理はあるまい。実を言えば、他にも懸念があっての判断なのだ。幾月か前の美濃国における周靖の乱を思い出せばこそ、俺は下国案に対して慎重を期している。
というのも、義詮や師直が出陣してでも土岐周靖を討つという姿勢を示した事が、今になって振り返ってみれば痛かった。鎮圧宣言をして帰還して早々、隣の信濃国で反乱が起こってしまったせいで師直の評判が急降下してしまったのだ。つまり、どういう事か。
成る程。確かに俺が近江国に向かえば、譬え誰が相手であろうと捩じ伏せられる自信はある。しかし、その後が問題なのだ。もし俺が帰京して後、再び近江国で反乱が起こってしまえば、佐々木惣領のブランドが前例のない程に下落してしまうだろう。それこそ最悪の展開だ。現段階で早期鎮圧を請われるよりずっと予後が悪い。
「この氏頼が帰国してそのまま在国が赦されるなら、別途再考の余地はあるかもしれませんが、そういう訳にもいかないのでしょう?もし私が京に居られば、誰が高経殿を抑えられますか?政長殿でも厳しい筈です。というより血筋で敵う者が義詮様だけでは──」
「良血で実績豊富な斯波高経殿の制御は困難……耳の痛い話だ」
「そういう事です。もし近江国の状況を見て必要なようであれば、次弟の定詮を直ぐ現地に向かわせます。かなりの猛者で、頼章殿の弟御の義長殿にも決して引けを取らない将器と思っております」
「ほう。それが誠なら心強いな」
「ええ……その代わり、京で義詮様や北朝皇族をしっかりと護らせて頂きます。南朝降伏は長い目で見れば間違いなく破滅への道と申せます。頼章殿、くれぐれも周囲の引き締めに抜かりなきよう」
「分かっておる。この頼章とて第二の朝忠は出したくない」
もし直義がこのまま師直を仕留める程に勢力を伸ばせば、あるいは京に居る者同士で疑心暗鬼になるかもしれない。次に直義を追って南朝に降る不届き者は誰なのかと。眼前の頼章も然りだろう。
何しろ仁木氏は室町幕府三代将軍・足利義満の時代の全国勢力図において存在しなかった筈だ。頼章ほど真面目なら大丈夫だと思いたいところだが、この擾乱で判断を誤ってしまうかもしれない。
しかも、真面目が当てにならない事を直義が身を以て証明してしまったばかりなのだ。全く直義はとんでもない事をしてくれたものである。既定路線とはいえ、あの野郎と叫んでやりたい気分だ。
「話は分かった。されど、道誉殿が心配しておられたぞ?」
「……はて。少し前は慌てた様子でしたが、この氏頼を心配する余裕がもう出来たのですか。流石は腹黒策士です。抜け目がない」
「あ、いや……御息女から手紙が届いたそうでな」
「御息女?まさか」
「……何でも旦那の貴殿を説得してくれと泣き付かれたそうだ」
「だる……いやはや。これはまた心配を掛けたようで」
無駄に大袈裟な話で俺は思わず眉を顰めるも直ぐに取り繕った。
さては直接言うと後が面倒だからと道誉が同僚の頼章に説得を投げたという事だろうか。父娘揃って何と迂遠なやり口であろう。
加えて、頼章の口振りには伝言ゲーム故の過大がありそうだが、次期惣領の母親がこの段階で動くようでは先が思いやられよう。
幾ら俺が下国要請を黙殺していたとはいえ、実父・道誉に態々頼むとは形振り構わないにも程がある。にしても検閲はどうなっているのだと亜也子に文句を言いたいところだ。次に会ったら何のためにミマの警護もとい監視を命じているのかと問い詰めなくてはならないだろう。尤も、次に佐々木荘に戻る日は尚も未定なのだが。
「いずれ尊氏様が弟殿を討つ御決意を固めれば、近江国に戻って兵馬を整え直し、遠征準備を致します。それまで耐えて貰わねば」
「……あまり言いたくないのだが、徒らに夫婦仲を拗らせない方が良いと思うぞ?至って武家の政略結婚なのだろう?なら尚更だ」
「……はーい」
全く気のない返事をしたため、頼章も言うだけ無駄と分かってくれるだろう。幾ら真面目な頼章でも他家にそこまで口を挟むタイプという訳でもない。尊氏様にも言いたい事を言う気性らしいので、実はかなり恐ろしく思える武将なのだが、本人なりに分別というものを心得ているらしい。そのままである事を願うばかりである。
何はともあれ、ミマに割いてやる思考は一ミリもない。目下の情勢が何より大事だ。譬え腰が重くとも耳は聡くある必要がある。
「そういえば、あの噂……義詮様もご存知で?」
「いや、必ず不用意に混乱される故、決して伝えてはならぬと近習たちに箝口令を出してある。ただでさえ山城国恩徳院や出雲国鰐淵寺に祈祷要請をしても、落ち着かない御様子であるのだからな」
「……それで良いでしょう。公家衆には此方から言っておきます」
「ああ、頼んだ。全く近頃は妙な噂ばかり聞こえて困る」
何やら巷で評判なのだ。直義は南朝に降伏した身にも関わらず、今だ観応の元号を文書に添えているらしいと。まだ俺も確認できていないために未確定と言わざるを得ないが、確かに不審な話だ。
これを聞けば、義詮なら目を回すに違いない。公家たちでも少しずつ聞こえている噂に対し、混乱している様子が見られるのだ。
ふと欧州事情は複雑怪奇という後世の格言を思い出す。これから観応の擾乱はどこまで深化していくのだろう。そんな他愛もない事を思い浮かべながらも、暦は着実に月末を迎えようとしていた。
〜2〜
観応元年十一月二十九日、天台座主の入道尊円親王が辞職したという噂を聞いて鼻で笑ったのも束の間、直ぐにそれどころではなくなった。不意に師直の使者が京に到着して騒然としたのである。
今は義詮が仮住みの将軍邸にいざ戻ってみると不審な律僧が庭に転がっていた。しかも、義詮がかなり興奮している様子である。
「義詮様、今戻りました。どうやら天台座主の人事は……何やら大事があった御様子なので、お聞き致します。この坊主は一体?」
「聞いてくれ!氏頼殿!あの不調法な叔父上め!とんでもない事を父上に頼もうとしたらしい!あろう事か高兄弟を引き渡せと!」
「これはまた……弟殿が斯くも真正直とは」
言葉を紡ぎながら俺は不意に頼章を見遣った。どうして引き合わせたのかと。しかし、頼章は心外とでも言いたげな顔だ。どうやら何でもかんでも隠蔽したい訳ではないらしい。はっきりした証拠があれば、若き義詮に共有するという事のようだ。ある意味で清々しい態度と言えるだろうが、他の幕臣たちは微妙な面持ちだった。
続けて義詮は言った。何でも捕縛済みの律僧──使者となって尊氏様の元に赴き、高兄弟引き渡し要求を伝えたらしい──を尋問したところ、細川顕氏が大和国の越智城で直義と一緒にいるという証言が得られたそうだ。全く以て頓珍漢な話と言わざるを得ない。
「はて?弟殿はとうに河内国石川城へと移った筈です」
「分からん。我もそう思ったんだが……」
「氏頼殿。この腐れ坊主、顕氏殿は河内国に参るつもりだと言ったかと思えば、次は讃岐国に参る予定と言うのだ。これではまるで話にならん……検非違使の貴殿ならもっと上手く尋問出来ぬか?」
「……取り敢えず、この者の動きを整理させて下さい」
尋問なんてものは普段、下っ端たちに任せているので、幾ら検非違使とはいえ、決して達人という訳ではない。しかし、次期将軍の義詮が目の前に居る。怖がらせない程度に上手くやってみよう。
尋ねてみたところ、直義麾下の律僧は謀反の意思は皆無だという説明をすると同時に高兄弟誅伐の約束は現在どうなっているのかという問い合わせをするため、こっそり尊氏様に近づいたらしい。
「ん?誅伐の約束だと?何だ、それは」
「はい、六角様。昨年、将軍がお約束下さったのです」
「……そう言って高兄弟討つべしと我らに吹き込む魂胆か」
「滅相もない!本当の事でございます!」
「……して、命鶴丸が書状を受け取って将軍に見せたのだな?」
「ああ、いえ、その前に師直めが盗み見たのでございます」
「さっきと言っている事が違うな」
「ええ」
「……本気でこの者を尋問するなら此方で預かりたいのですが」
どうやら痴呆を装っているタイプらしい。これは並のやり口では埒が開かない。少なくとも真相を聞き出すなら、とても義詮の御前では不可能な手法を用い、徹底的に痛め付けなければならない。
俺は面倒くさいという意味をたっぷり視線に込めて頼章を見た。
「いや、あくまで侍所の仕事だから、そこまでは──」
「それは何より。義詮様、申し訳ござらぬが、あまり禅律の者に手荒な真似はどうも……頼章殿もこう言っておられる事ですので」
「ん、なら仕方ないな。頼章、後はそっちで任せた」
「御意」
直義の息の掛かった律僧を伴い、頼章が退出する。他の幕臣たちも大半がやれ疲れたという様子で、続々とそれぞれの職場に戻って行った。義詮もそこまで能天気ではなく大きな溜め息を吐いた。
もし先程の律僧が直義の意を奉じて出鱈目を繰り返していたのであれば、まず間違いなく市井の噂話を吹き込まれたに違いない。
見たところ、予想通りのようだ。義詮の顔に鬱憤の色が見える。
「このところ珍説が世情を賑わせていたようだな。氏頼殿」
「……ええ、殆ど取るに足らない話のようでしたが」
「やれ師泰が敗れて出雲国に退いただの、父上が船遊びに出掛けていただの……どうなっておるのだ?景気の良い話はないのか?」
「……天台座主の交代話、聞きたいですか?」
「無用だ。今は延暦寺どころではあるまい」
「それは確かに仰る通り」
「明日は……どんな噂が京を賑わすのだろうな」
果たして義詮の懸念は当たっていた。翌三十日、師直が出家を申し出たという奇妙な噂が広まった。勿論、そんな筈が無かった。
しかし、我ら幕臣を振り回す噂は止まない。今度は近江国で南朝軍を指揮している筈の石塔頼房についてのデマが広まったのだ。
曰く、何と摂津国渡辺橋に現れ、男山占領を狙っているという。
どうやら直義は何が何でも京の人々を混乱の渦に突き落としたいようだ。近江国だけでは足りないと思って新たな手段をチラつかせているのだ。理屈では陽動と分かっていても、これでは日に日に出陣したくなる。一体いつまでこの状態が続くのか。依然として主導権を直義に握られたまま、観応元年十一月を終える事になった。