崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 京周辺で直義(武衛禅門)派が躍動しようとしていた頃、東国でも更なる動きがあった。観応元年(西暦1350年)十二月一日、古参の関東執事・上杉憲顕(民部大輔)が鎌倉を出たのだ。とはいえ、一応もう一人の関東執事である師冬(高播磨守)の同意を受けての行動だったらしい。古典『太平記』によれば、既に謀反人と化していた実子・上杉能憲(左衛門蔵人)の征伐を名目にしていたようだ。

 鎌倉の地を離れて暫くして、憲顕(民部大輔)の執事の長尾景忠(弾正忠)は如何にも拍子抜けといった面持ちを露わにした。あの血も涙もない師冬(高播磨守)ならどんな建前でも決して許さないのではという懸念があったためだ。

 しかし、憲顕(民部大輔)は表情を崩さない。鎌倉から少々距離を置いてみたところで今もなお師冬(高播磨守)の掌の上に過ぎない事を知っているのだ。

 

 

「あの者は我らの魂胆など見透かした上で、敢えて見逃したのだ。関東で上杉一族が結集し次第、一網打尽にするつもりでな。決戦を望んでいると言えば聞こえは良いだろうが、師冬(播磨守)は明らかに光(足利)王(基氏)様さえ手元に置いておけば、いつでも我らに勝てると思っている」

 

 

「それはまた随分と見下されたもので……」

 

 

「無論、我らはこのまま師冬(播磨守)の驕りを逆手に取るだけだ」

 

 

(あの庇番以来、十数年に亘って築き上げた関東の地盤……家長(斯波陸奥守)殿の遺産があればこそ、天下指折りの名将・高師冬(播磨守)に勝利し、遠からず直義(左兵衛督)様……いや、恵源(武衛禅門)様をお助けに征西できるというものだ)

 

 

 用兵という分野で師冬(高播磨守)が全国屈指の武将である事は疑いない。

 確かに四條畷の戦いでは楠木正行(まさつら)の前に不覚を取ったようだが、あくまで百余騎ばかりで五十余人の残存精鋭にトドメを刺そうという局面の出来事だったのだから、統率力より戦闘力で遅れを取った部分が大きい。それは憲顕(民部大輔)も自前の分析力で重々承知している。

 かつて春日顕国(中将)という男山(岩清水八幡宮)で足利氏の大軍を一手に引き受けた実績のある名将を滅ぼし、北畠親房(准大事)という南朝総帥格を関東より駆逐した栄光は、四條畷の失態だけで色褪せるものではないのだ。

 そもそも楠木正行(まさつら)という敵将自体、僅かな期間で細川顕氏(陸奥守)や山名時氏(伊豆守)などの名将たちを立て続けに撃破し、破格の戦績を勝ち得た事を考えれば、紛れもなく軍神(楠木正成)の子、南朝最強の名に恥じない実力の持ち主であったと言える存在だ。つまり、比較対象として極端過ぎるのである。よって今なお師冬(高播磨守)は軽視すべからざる名将だった。

 

 

(我らの政治活動以外の効果も少なくない。例えば、どうやら師冬(播磨守)は自身の武力に疑問を持ち始めているようだ。四條畷で絶体絶命の正(まさ)行(つら)に咬まれた傷が、未だに癒えていないと見える。故に──)

 

 

「長尾、この鎌倉離脱はお前のお陰で叶ったようなものだ。公家の血の濃さ故、やはり猛将・勇将の類に比べて武力で劣っている感の否めない私に仕え、よく武力を補ってくれている……なればこそ、師冬(播磨守)が誅殺ではなく大戦での決着を望んだ面もあると言えよう」

 

 

「勿体無き御言葉……光王(足利基氏)様の御身確保をお望みとあらば、何時でもお命じ下さい。必ずや無事に上杉様の元へお連れしましょう」

 

 

「心強い。だが、その役目なら既に適任を見繕ってある。お前は我が執事として子息共々関東諸国の同志召集に力を尽くしてくれ」

 

 

「は」

 

 

 関東で潮目が変わりつつある。昨年(貞和五年)北陸で惨殺された義兄(上杉重能)の仇をという一物を腹に抱え、憲顕(民部大輔)は公然と守護国の上州(上野国)に向かった。

 また、九州でも反幕府の動きは根強い。尊氏(将軍)や師直(高武蔵守)が迫っているプレッシャーによって大友氏らが再び直冬軍(佐殿方)に敵意を向けるという事態に陥ったのも束の間、直義(武衛禅門)逐電の情報が届いたのだろうか。

 十二月二日、九州探題の一色直氏(宮内少輔)*1が不安に感じて腰を上げた。

 

 

「クッ!このままでは将軍下向の衝撃が薄れ、直冬(左兵衛佐)が再び息を吹き返しかねん!下関*2に向かうぞ!急ぎ将軍の指示を請わねば!」

 

 

「御意!」

 

 

 九州の幕府武将たちはまだはっきりと分かっていない。遅かれ早かれ中央の状況が悪化し、尊氏も師直(高武蔵守)も九州に向かうどころの話では無くなってしまうという事を。一色氏が独力での対処を決断し、大友氏や島津氏と連携して挽回を図るのは少し先の話であった。

 観応元年(西暦1350年)十二月三日、直義(武衛禅門)が現在進行形で世を騒がせている自覚を持ちながら和泉国松尾寺に天下静謐を祈らせる。その翌四日の事であった。近江国の三上山・野洲河原において合戦が勃発する。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 去る十一月下旬に反幕府軍が近江国に起こって以来、魅摩は当代の佐々木惣領夫人として強い危機感を覚えていた。近年、氏頼(大夫判官)が藤井寺などの敗戦や幕府内出世競争でいつ迄も道誉(佐渡判官)の後塵を喫している状態にある事から、かつて程の影響力を失いつつある事は察していたものの、ここまで直義(武衛禅門)に侵食されるとは想定外だったのだ。

 極め付けは氏頼の消極性である。いざ戦場に出れば遮二無二に戦う事は目に見えていたが、意外にもこの期に及んで尻に火が付いていないようなのだ。その証拠に氏頼は今なお近江国に戻らない。

 魅摩は頭を抱えたくなるのをギリギリ我慢しつつ、亜也子(望月甲賀三郎)の話に耳を傾けた。佐々木惣領夫人として常に最新情報を知っておかねばなるまい。義弟の片割れの直綱(六角四郎)の指揮により、佐々木荘に残っていた者たちは、魅摩も含めて悉く目と鼻の先の山城(観音寺城)に移っていた。

 

 

「定詮(山内五郎)が帰国して向こうで布陣してるなら……まぁ良いのか?」

 

 

「うん。石塔頼房が近江国に現れたかと思えば、摂津国に出現の情報が入って動向が定まらないから、殿様も訝しんだみたい。それに義詮(宰相中将)様が繰り返し近江国を心配されてるみたいだから、流石に潮時と思ったみたい。定詮(山内五郎)様に任せて南朝軍を掃討させる気だって」

 

 

 この時期、氏頼(大夫判官)は北朝皇族(持明院統)や義詮が気になったのか、そう簡単に京を離れるつもりは無かったようだ。次弟の定詮(山内五郎)を含む家臣団をして事態の解決を図った。ある意味で守護大名らしい判断である。

 とはいえ、まだ鎌倉幕府の滅亡から三十年と経っていない頃合いである。在国の郎党たちはかなりヤキモキしていたに違いない。

 

 

「石塔が不在と仮定しても、足利一門の上野氏の武将と甲賀郡の在地武将の高山、それと郎党の儀俄家の一部か……それだけならまず大丈夫なんだろうけど、どうも不気味だ。いや、氏頼(廷尉)殿が帰国しない範囲では最善の布陣にさせたんだろうけどさ、嫌な予感がする」

 

 

「魅摩、最近ずっとそればっかりだよね……」

 

 

「……神力持ち故の直感さ。あいつも稚児を活かして、まだ神力を持っている筈だけど、どうも空回り癖があるからな……何か直義(武衛禅門)派が長い目で見たら再び壊滅するからって高を括ってる気がする」

 

 

「……じゃあ、魅摩はどうしろって?」

 

 

「愚問だね、亜也子(望月甲賀三郎)。前から散々氏頼(廷尉)殿はまだ帰国しないのかと聞いてるじゃないか。義詮(宰相中将)様がそんなにおんぶに抱っこしなきゃいけない程、どうしようもない凡愚なのかって話だ。ちょっと帰国して南朝軍を片付ければ、京も朗報で活気付く筈だよ。何でそれを早くしないのかという話だ……それとなく親父に尋ねてみたら氏頼(廷尉)殿に話が漏れたらしいけど、その程度で怒るなら最初からさっさと帰国して敵軍を片付けて貰いたいもんだよ。自分の御子の為にもね」

 

 

「まぁ……」

 

 

 歯切れの悪い魅摩や亜也子(望月甲賀三郎)の二人とは裏腹に、当主次弟の定詮(山内五郎)は前線で息巻いていた。この定詮(山内五郎)という武将は実のところ、大局観は兎も角、武将としてのポテンシャルに関して言えば、その生涯の戦績を信じる限り、亡き六角時信(玄流)すら凌ぐものだったようである。

 当主の氏頼(大夫判官)程ではないにせよ、周囲もそれなりの期待を掛けていたに違いない。足利一門の武将でも問題なく討ち果たせようと。

 

 

「やぁやぁ我こそは佐々木惣領・六角氏頼(大夫判官)公の実の弟!山内定詮(五郎)と申す者なり!いざ尋常に勝負!石塔は居るか!居たら返事を!」

 

 

「これはまた随分と血の気の多そうな御仁だ。相手に不足無し」

 

 

「はン。居たのか!居るなら最初から顔を出せ!で、その珍妙な旗は一体何なのだ?我が兄様(あにさま)ですら、尊氏様印の鎧を蔵に渋々仕舞われたのに、お前と来たら好いた女の絵を旗に?趣味が悪いな!」

 

 

「……下郎。満子ちゃんを愚弄したな」

 

 

「ん……?」

 

 

「この代償は高く付くぞ!小佐治よ、六角軍の後方を突け!」

 

 

「ッ!?あの国人野郎、まさか内通して……!」

 

 

 結論から言えば、この一戦で山内定詮(五郎)は大敗を喫してしまった。

 ポテンシャルが必ずしも最初から好結果に結び付くとは限らない良い例である。しかし、この合戦はそんな生優しい締めでは終わらなかった。石塔頼房(右馬助)は依然としてかなりの闘志を漲らせていた。

 

 

「おのれ……まだ足りん。満子ちゃんの涙はこの程度では──」

 

 

「石塔様!ならば逃走兵を追って一気に佐々木城(観音寺城)を!」

 

 

「……いや、上野殿。氏頼(大夫判官)の居らぬ佐々木城(観音寺城)を獲っても怒りは晴れまいし、顕家が攻め落とした頃と違って、かなりの要塞に仕上げられておろう。下手に狙えば手痛い反撃を喰らう。それより西だ」

 

 

「ッ!一気に京へ?しかし、後が続くかどうか。まだ桃井様も北陸で戦っておられますし、畠山様とてまだ本格的な行軍の準備が出来ておらぬ筈です……あくまで次の合戦に備えた方が宜しいかと」

 

 

「それもそうだ……俺とて早く摂津国に戻らねば。だが、上野殿に置き土産を残したい。勢多だ。勢多を焼き、後で氏頼(大夫判官)が本拠地に戻りたくとも戻れぬようにしてやろう。満子ちゃんの涙も晴れる」

 

 

「お、おお!それは有り難い!」

 

 

(この頼房(石塔右馬助)という男、どうも陰険というか……そもそも満子ちゃんというのが良く分からん。恵源(武衛禅門)様は話を合わせよと仰せだったが)

 

 

 観応元年(西暦1350年)十二月四日、山内定詮(五郎)が敗退した後、石塔頼房(右馬助)と上野直(太郎)勝(二郎)の連合軍は大勝の勢いに乗じて一気呵成に西進し、近江国守護代の伊庭軍に襲い掛かった。東岸の宿場町を戦火で包んだだけでは飽き足りず、勢多橋をも焼き落として上洛の構えを見せたという。

 数年前の正行(まさつら)軍との交戦以来、再び六角氏に試練が訪れている。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 日記『園太暦』によれば、山内定詮(五郎)率いる六角軍の敗報は当日の夜の内に京を騒がせたようだ。無論、その直後の伊庭勢の負け戦は言うに及ばず、勢多橋焼亡や宿場町の惨劇と併せての話である。

 この時の氏頼(大夫判官)の忸怩たる思いは相当だったに違いない。近江国守護として京の他の人々より早く様々な情報が耳目に入っている。

 氏頼(大夫判官)は顔を引き攣らせる。決してあってはならない話が甲賀忍軍の美濃部の口から伝えられたのだ。氏頼(大夫判官)は思わず筆を握り潰す。

 

 

「そんな、そんな筈が……只の噂話であろう?そうだ、俺を早く下国させんと流布させた出鱈目だ。そうに違いない。恵源(武衛禅門)派の連中が俺を誘い出そうと……いや、あるいは執拗に下国を迫ったミマめが流させているのだ。そうであろう?そうでなければ有り得まい」

 

 

「……畏れながら奥方様では」

 

 

「では、何ぞ!?定詮(山内五郎)は我が弟たちで最も軍才豊かだ!たとえ幕府軍が束になって掛かろうとも、定詮(山内五郎)を殺す事など出来ん!討ち取られる筈がないのだ!それを石塔頼房(右馬助)だの上野直勝(太郎二郎)だの如きが!」

 

 

「……」

 

 

「あれを抑えられるのは天下を見渡しても、この俺ただ一人しか居るまいよ……それかあれか?正行(まさつら)めが墓から蘇ったか?楠木軍の阿間了願が、石塔・上野連合軍に紛れておる訳もあるまいに……」

 

 

(藤井寺合戦の三弟に続いて、またしても……やってくれたな)

 

 

 定詮(山内五郎)の訃報は日記『園太暦』を信じる限り、かなりの信憑性と共に囁かれていたらしい。当然、長兄の氏頼(大夫判官)の耳にも届いていた。

 一頻(ひとしき)り喚き散らした氏頼(大夫判官)であったが、斯くなる上は夜鍋で対策を講じるしかない。否、もはや事は近江国守護職の胸三寸で収められるものではなくなっている。程なく義詮(宰相中将)より呼び出しを受けた。

 氏頼(大夫判官)の次弟・定詮(山内五郎)の訃報は次期将軍の義詮(宰相中将)の耳にも届いていたのだろうか。義詮(宰相中将)は強く言わない。その代わり、氏頼(大夫判官)は他の在京武将たちの奇異の目に晒された。さっさと近江国に帰って反乱軍の鎮撫に当たっておけば何という事も無かっただろうにという責めだ。

 

 

「折角この政長(遠江守)が信濃国を離れ、京の防衛に参っておるというのに氏頼(大夫判官)殿は信用できなんだか?どうされた?何とか申されてみよ」

 

 

「……」

 

 

「まぁまぁ小笠原殿。今それを申されても栓無き事です」

 

 

「しかしなぁ。道誉(佐渡判官)殿」

 

 

「氏頼(大夫判官)殿はこれまで通り、京で義詮(宰相中将)様や北朝皇族(持明院統)の安全を死守するのが無難でしょう。拙僧か、もしくは息子の秀綱(源三判官)が早急に近江国に帰って指揮を。さすれば、近江国の不安は早晩皆無になるかと」

 

 

「待たれよ、道誉(佐渡判官)殿。敵軍には石塔傘下の伊勢衆も含まれている。我が弟の義長(次郎四郎)と一緒でなければ、京極軍では対抗できまい。当主不在であったとは申せ、六角軍を負かした相手ぞ?ここは慎重に」

 

 

「……これはしたり。石塔軍が今にも近江国から京に入らんとしているという事で気が動転しておりました。六角軍が敗れて京が危機に陥るなど前代未聞です……宗家、ここは意地を見せられては」

 

 

「言われなくても……義詮(宰相中将)様、どうか帰国の許可を頂きたく」

 

 

「う、うむ。それこそ我が本意である」

 

 

 先の六角(佐々木)時信(判官)の時代でも護良親王(大塔宮)傘下の反鎌倉幕府軍に琵琶湖西岸で敗退する事はあったが、それでも京まで侵犯される程の事態には陥っていなかった。しかしながら、当座の事情はより深刻だ。

 日記『園太暦』によれば、十二月四日の夜はそこまで深刻に捉えられていなかったようだったが、翌日になって北朝公家にも詳細が漏れると危機感が漂い始めたらしい。勢多近辺での石塔・上野連合軍の狼藉振り──市街の放火や略奪だけでなく、日吉社の各施設をも焼き払い、石山寺が固く籠る事態となった──が京に波及するのではないかと思われたのである。戦乱の脅威が現実化していた。

 

 

「高経(修理大夫)殿。私が不在の間、各種警護をお願い致す」

 

 

「承知……義詮(宰相中将)殿。至急、守護たちを動員して院御所の警護を」

 

 

「相分かった」

 

 

「お二方とも、有り難く」

 

 

 氏頼(大夫判官)が両名に頭を下げる。三人とも知る由もあるまい。これより十六年後、義詮(宰相中将)は将軍の座にありながら、足利一門筆頭格の斯波(尾張)高(修理)経(大夫)に醜態を晒す事になるのだが、それはまだ遠い先の話である。

 ここで道誉(佐渡判官)が口を開いた。婆娑羅大名の代表格として、存在感を失う訳にはいかない。まして今は次期将軍の義詮(宰相中将)の御前なのだ。

 

 

「宗家、お気を付けて。石塔も上野も下馬評の比でなく、相当な勇猛さを持つようです。勢多では定詮(山内五郎)殿たちを撃破して勢い付いた彼らの前に、伊庭殿が一矢も報いられずに敗走したと伺いました」

 

 

「……この氏頼(大夫判官)と郎党たちとでは格が違います。道誉(佐渡判官)殿、一週間前後を目処に帰京する故、それまで男山方面の警戒を抜かり無く」

 

 

「は……再三の御警告通り、陽動作戦を念頭に置いて恵源(武衛禅門)公の知略に細心の警戒を致しましよう。斯波(尾張)殿、何卒ご協力を賜りたく」

 

 

「……無論」

 

 

「道誉(佐渡判官)殿と高経(修理大夫)殿が組めば、義詮(宰相中将)様も安心でございましょう」

 

 

「ああ……火急の折なればこそ皆の力が必要だ。奮え!」

 

 

「「「御意!」」」

 

 

 そして翌朝である。十二月五日となり、氏頼(大夫判官)が帰国の途に着く。

 観応の擾乱が始まり、直義(武衛禅門)の思い通りに事が進んでいる。中先代の乱における渋川義季(刑部大輔)や岩松経家(兵部大輔)と違い、破竹の石塔頼房(右馬助)や上野直(太郎)勝(二郎)に対し、氏頼(大夫判官)が如何に対処するのか。世間の関心が高まった。

*1:
亡き関東庇番衆四番組頭人・一色頼行(右馬助)の甥。

*2:
当時の文書では赤間関と記載されている。

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