崇永記   作:三寸法師

229 / 236
◆7

〜1〜

 

 

 観応元年(西暦1350年)十二月十日、直義(武衛禅門)傘下の上野直勝(太郎二郎)率いる南朝軍を近江国より駆逐するべく、佐々木六角軍が守山に大挙して押し寄せた。

 言うまでもない事であるが、この俺が佐々木惣領(六角家当主)として総大将を務める。副将として重臣筆頭の馬淵義綱(左衛門尉)や武勇随一の目賀田信良(弾正忠)が従軍している。元北条軍の亜也子もとい望月甲賀三郎も一緒だ。

 

 

「報告します!敵軍に恵源や石塔の姿は依然確認できず!」

 

 

「苦労。やはり此度、足利一門の敵将は上野のみという事か」

 

 

 甲賀忍軍所属の美濃部の報告も今回の開戦前に限ればこれが最後になるだろう。しかし、期待外れな内容で、俺の表情はどうしても渋いものになってしまった。折角戦うのであれば、直義(武衛禅門)か頼房(石塔右馬助)が敵軍の増援として駆け付けてくれた方が面白いというものだろう。

 もしかすると直義(武衛禅門)は近江国の戦況を大して重要視していないのだろうか。そんな考えすら浮かんで来るが、直ぐ首を横に振った。

 

 

「馬淵、目賀田。聞いてくれ」

 

 

「「は」」

 

 

「仮にも上野は我が次弟・定詮(山内五郎)を破りし武将どもの片割れ。故に俺はこの戦、一切の慢心をしない。全力で勝ちに行く。良いな?」

 

 

「「御意!」」

 

 

 念の為、甲賀忍軍の面々に命じて数里四方の伏兵の有無を継続して探らせている。如何なる新手が現れたとしても対応できるようにするためだ。もし直義(武衛禅門)が本気で俺に勝つつもりならどのような戦略を練るだろうか。我が次弟の定詮(山内五郎)相手には上野・石塔の連合軍で戦わせておきながら、本当に石塔頼房(右馬助)を欠いた状態でこの俺と戦わせるだろうか。疑念は晴れない。あるいは前々から南朝武将だった誰ぞを密かに潜ませ、開戦してから俺の意表を突く算段だろうか。

 逡巡の果てに俺は一つの結論に辿り着いた。この俺を徹底的に悩ませて思考を掻き乱す事、それ自体が直義(武衛禅門)の策略ではないかと。

 

 

「それなら……納得がいく」

 

 

「殿?」

 

 

「如何なさいました?」

 

 

「心を決めた。この戦、俺の弓矢から始めさせて貰う。今は亡き師匠より受け継いだ弓術により、上野軍の大将旗をへし折る。これを以て開戦の狼煙としよう。敵軍の士気が乱れたところを一気に突き崩すのだ。さすれば、如何なる援軍が現れようと無為に終わる」

 

 

 開戦予定地の守山は、元より我らにとって庭先のようなものだ。

 最初から決定的な士気に差を生じさせれば、何と言う程の事もあるまい。もし遠くから戦場を生還している南朝武将が密かに潜んでいたとしても、手の施しようのない早期決着を図る事が出来る。

 すっと一呼吸置く。決して落とせない一戦を前にして、今までにない峻烈な感覚が身体を襲う。勝てる気しかしないのが自分でも不気味だった。だが、それで良いのではないか。俺は開き直った。

 人事を尽くして天命を待つ。この格言に従えば、戦う前から勝っている確信を持っているというに、どうして蛇足を描く必要があるだろう。この戦で必勝を体現しよう。さぁ、久々の──否、我らが独力で臨む戦で初めての──勝利の美酒を味わおうではないか。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 圧巻だった。殿様の強さに皆で改めて息を呑んだ。殆ど何もかも首尾良く運んだのだ。開戦早々に目論見通り殿様自ら遠矢で上野直(太郎)勝(二郎)の大将旗を見事に折った時点で、勝負は決したも同然だった。

 上野直勝(太郎二郎)が必死に鼓舞するも反乱軍は大半が殿様の弓矢に怖気付いて戦意喪失していた。これにより、六角軍は文字通り桁違いの強さを発揮して、敵軍の本陣に雪崩れ込んだ。しかも、誘引策を警戒して重臣筆頭の馬淵様を後族に残した上での破竹の猛攻だった。

 

 

『上野様、お下がりを!』

 

 

『我ら小佐治兄弟が食い止めまする!』

 

 

『お前たち……!』

 

 

『舐めるな!お前たち薄汚い背信者どもを我が刀の錆にしてやる事すら口惜しい!目賀田、望月!お前たちが小佐治兄弟を殺れ!』

 

 

『『御意!』』

 

 

 反乱軍大将・上野直勝(太郎二郎)の目の前で小佐治国氏(三郎兵衛)並び国広(弥三郎)は逝った。

 両者とも近江国出身の国人であり、世間を見渡しても相当の手練れに入る部類の兄弟であったが、所詮私たちの敵ではなかった。

 小佐治兄弟という飛車角を失い、上野直勝(太郎二郎)はいよいよ死地に追い込まれた。それでも直義(武衛禅門)に見込まれるだけの底力を秘めていた。

 

 

『くッ!斯くなる上は!』

 

 

『ッ!?速い!流石に前副将軍(足利直義)が起用するだけの大将か!』

 

 

『殿様!そっち行ったよ!』

 

 

『問題ない』

 

 

 結局、上野直勝(太郎二郎)は少し前の脅威論が嘘のように殿様に敗れた。

 殿様が思い切り「綱切」で斬り付け、それに直勝(太郎二郎)は自らの武器で対応しようとしたものの、地力の差というものが隔絶していた。

 そのまま琵琶湖方面へと直勝(太郎二郎)の身体が宙に浮き、流れ星のように消えて行った。さしもの殿様も呆気に取られていた様子だった。

 

 

『ふむ……恵源(武衛禅門)から拝領した業物だったか?さもなくば、武器ごと真っ二つになっていただろうに。まぁ、これならこれで……上野は失せたぞ!残る敵方の江州勢は俺が直接断罪してやる!下賀も高山も覚悟は出来ておるな!?恵源(武衛禅門)の誘いに目が眩んだ罰と知れ!』

 

 

『『ひっ!?』』

 

 

 敵将・上野直勝(太郎二郎)の姿が突如として戦場から消え、形勢は決して揺らぎ得ないものとなった。数え切れない程の敵兵たちが次々と目にも止まらぬ速さで殿様の手によって無惨に首を刎ねられていく。

 終わってみれば一瞬の出来事だった。まさしく掃討作業という他なかった。鮮やかな手際という言葉では済まないだろう。藤井寺や住吉など今までの敗戦の雪辱を晴らすかのような離れ業だった。

 そして現在、六角党は戦を終えて実検用の首級の回収に慌ただしく追われていた。私や目賀田様など兎も角、他の多くが回収する度に困惑の色を増している。一方、殿様は本陣で余裕綽々だった。

 

 

「上野はまだ見つからんか?感触的にどこかで生きておる筈だが」

 

 

「申し訳ありません。琵琶湖沿岸の住民たちをして土左衛門も含めて探させているのですが、それらしき報告は未だございません」

 

 

「ふむ……ま、良いわ。あの負けっぷりだ。上野直勝(太郎二郎)が生きておろうとも、二度と軍功の機会を得られまい。結局は庶流氏族のそのまた庶子に過ぎないのだからな。借りは満足に返せたと言えよう」

 

 

「はい。今頃は定詮(山内五郎)様も戦場報告を聞き、きっとお喜びかと」

 

 

「そうだな。小佐治兄弟の戦死、あれが何より嬉しかろうて」

 

 

 甲賀忍軍棟梁の山中様と問答して、殿様は満足そうに微笑んだ。

 そんな調子で首実検も景気良く行われる。と言っても大半が殿様自ら刀を振るって得た首だ。殿様の機嫌が増すばかりであった。

 重臣筆頭の馬淵様も今まで以上に畏怖の念を隠し切れずに居る。

 

 

「馬淵。俺は明後日までに京に帰るつもりだが、どう思う?」

 

 

「もはや近江国に南朝軍の気配は無いとの事です。支障ないかと」

 

 

「良し……凱旋に持参する首だが、名のある者のそれが数十あれば充分だろう。以前、師泰(越後守)殿が河内国から京に送った楠木軍の首が三十程度だったと記憶しておる。京の人々も元気付くに違いない」

 

 

「は。どうぞ御随意に」

 

 

 観応元年(西暦1350年)十二月十日、守山合戦は六角軍の完勝で幕を閉じた。

 その後、上野直勝(太郎二郎)は生き延びて左京亮という官位を得たものの、戦傷が祟ったせいもあってか、軍功を残す事は金輪際なかった。

 しかし、この時の私たちは夢にも思わなかった。この戦こそ氏頼(大夫判官)公が俗世間においでの間、最後の合戦・勝利になるという事を。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 観応元年(西暦1350年)十二月十二日の夕方、俺は堂々と凱旋を遂げた。尊(・)氏(・)公(・)に(・)頼(・)ら(・)れ(・)る(・)者(・)として、自称直(・)義(・)を(・)勝(・)た(・)せ(・)る(・)者(・)を破ったのである。

 京は上も下も呆気に取られたようだ。この俺が近江国に下るだけで斯くもあっさり片付くのかと。晒し首の数々に瞠目している。

 肝心の次期将軍・足利義詮(宰相中将)はと言えば、予想通りの反応だった。

 

 

「氏頼(大夫判官)殿、よくぞ我に吉報を齎してくれた!礼を言う!」

 

 

「勿体無きお言葉。これできっと恵源(武衛禅門)公も戦略の見直しを迫られましょう。額に汗を浮かべて焦っておられる姿が目に浮かびます」

 

 

「おお、それは実に滑稽だ。我も嬉しいぞ!」

 

 

「それは何よりです」

 

 

「義詮(宰相中将)様。これからは氏頼(大夫判官)殿を軸に京の防衛をお考えになると良いかと存じますぞ。近江国では佐々木一族の武威が改めて皆に知れ渡りました……我が愚息・秀綱(源三判官)が今なお現地に留まって京極領から睨みを効かせております。どうぞ気兼ねなく南西を心配なされよ」

 

 

「道誉(佐渡判官)殿の申される通りだ。氏頼(大夫判官)殿、これからも宜しく頼むぞ」

 

 

「……御意」

 

 

 どこか冷や水を浴びせられたような気持ちになりながら、俺は義(宰相)詮(中将)の言葉に頷く。結局のところ、俺の軍功があっても道誉(佐渡判官)がこの先も要領良く義詮(宰相中将)にアピールするのであれば、あまり意味がない。

 というより道誉(佐渡判官)が巧み過ぎるのだ。もし佐々木氏の嫡流と庶流という上下関係を抜きにして真正面から道誉(佐渡判官)と出世レースを行えば、幾ら俺でもまともな勝利は厳しいだろう。室町幕府の開闢から十余年が経ち、佐々木一族の箔は徐々に薄れつつある。今はまだ建武政権の現役世代が残っているからまだ良いが、義詮(宰相中将)が死んで足利義満が三代将軍として花開く頃には一体どうなっているのだろうか。

 

 

「義詮(宰相中将)様。聞けば、私が不在の間、院や帝の臨幸・行幸案が幕府で持ち上がっていたとか。しかも、東寺要塞化計画まであったと」

 

 

「ああ。結局立ち消えになったがな……石塔軍の先遣隊が七条に現れる事態になっていたからな。こっちも大変だったのだ。平等院鳳凰堂も今や石塔軍の拠点と化しておる……されど、今後は大胆に京から兵を繰り出せる。氏頼(大夫判官)殿、お主の近江国賊徒鎮圧のお陰だ」

 

 

「は……石塔軍対策は引き続き道誉(佐渡班)殿の采配下で?」

 

 

「うむ。そのつもりだ。斯波(尾張)父子の推薦があってな」

 

 

「……成る程」

 

 

「宗家。このままですと一週間以内に再び石塔頼房(右馬助)めに決戦を挑む事になるかと。その間、京の守りを皆々方と共に頼みまするぞ」

 

 

「……分かっております」

 

 

 決して戦乱が収まった訳ではない。むしろ観応の擾乱はここからが本番である。何だかんだ俺が近江国に向かっている隙に、男山という重要拠点──源氏の聖地としても京の攻防を左右する戦略的要地としても──を直義(武衛禅門)配下の頼房(石塔右馬助)に押さえられてしまったのだ。

 この先、直義があの師直を討つステージが待っている。その間、俺は京で義詮(宰相中将)を守るという大義名分を得て堂々と静観できよう。

 しかしながら、もし直義(武衛禅門)が血迷って京の義詮(宰相中将)を狙う気を起こしてしまえば、かなり話が変わってくる。要は気が抜けない状況に陥っているのだ。どうあっても義詮(宰相中将)狙いは損と思わせる必要がある。

 

 

「道誉(佐渡判官)殿、期待しております。今度こそ石塔軍を壊滅されたし」

 

 

「先日は定詮(山内五郎)殿を負かした相手です。宗家が近江国で上野軍を破ったように容易く参るかどうか……しかしながら、役目を請け負うからには、見事やり遂げて見せましょう。何卒お見守り下されよ」

 

 

「……だそうです、義詮(宰相中将)様。ここは期待してみましょう」

 

 

「うむ!父上もお戻りになる事だ!」

 

 

 既に京では尊氏様の帰還が確実視されている。正直、俺としては半信半疑なのだが、確かにそろそろ師直(高武蔵守)が諫める頃とも思える。

 どちらにせよ少なくとも師直(高武蔵守)は京に踵を返す筈だ。先々を考えると尊氏様と師直(高武蔵守)に離れて貰った方が楽なのだが、果たして実際にそうなるだろうか。以前道誉(佐渡判官)をして蒔いた種の発芽を祈る他ない。

 

 

「義詮(宰相中将)様。しかし、そうなると直冬軍はどうなりましょう?」

 

 

「……叔父上の身に何かあれば、向こうが形振り構わず上洛を試みると思っていたが……どうであろうな?道誉(佐渡判官)殿は如何に思う?」

 

 

「はてさて……今回に関して言えば切り離して考えても良いような気もいたしますなァ。直冬(左兵衛佐)は今も九州平定に夢中であるそうで」

 

 

「ああ、未だ北朝の旧元号を用い、第三勢力を自負していると話にあったな……しかし、叔父上が本当に南朝に降ればどうであろう?懐良親王軍と和議を結んで、勢力を倍増させかねやしないか?」

 

 

「その可能性は確かに考えておくべきでしょう。ただ……恵源(武衛禅門)公はあまり直冬軍(佐殿方)を頼りたくはないかと。話が拗れるだけですので」

 

 

「というと?」

 

 

「……我が宗家なれば、お分かりですかな?」

 

 

「ああ、義詮(宰相中将)様。得心しました。大した話ではありません」

 

 

 結局のところは凡庸な義詮(宰相中将)に分からないのも無理からぬ事だ。

 大義名分の問題である。直義(武衛禅門)は高兄弟打倒のスローガンを掲げて反旗を翻した。つまり、真正面から尊氏様と戦いたくないのだ。

 一昨日の守山合戦で小佐治氏の遺留品から奪った直義(武衛禅門)の檄文においても、その旨がはっきり現れていた。ここは俺が補足しよう。

 

 

「道誉(佐渡判官)殿はこう言いたいのでしょう。あくまで恵源(武衛禅門)公は将軍ではなく高兄弟のみを敵に回したい。弟が兄に挑む戦となっては正当性が薄れる故、君(・)側(・)の(・)肝(・)を(・)討(・)つ(・)という名分を用いておられる。ですが、もし直冬軍がしゃしゃり出て参れば、尊氏様が積極的に矢面に立つ結果に……一方で直冬(左兵衛佐)不在なら、尊氏様は間違いなく師直(武蔵守)殿に全て任せる事で、兄弟で戦うという不本意な状況を避けるでしょう」

 

 

「ん、んん?何となく分かるような……?」

 

 

「つまり、直冬(左兵衛佐)の存在は都合が悪いのです。将軍との全面戦争だけは避けたい恵源(武衛禅門)公にとっても。随分と皮肉な話ではありますが」

 

 

「宗家の申される通り……義詮(宰相中将)様。直冬軍(佐殿方)の脅威は暫く心配無用と存じます。今は京で耐え抜く事が肝要でしょう。くれぐれも焦りは禁物ですぞ?恵源(武衛禅門)派の反攻など長続きするものではありません」

 

 

「……我慢比べか。良かろう」

 

 

 後で分かった話であるが、奇しくも俺の帰京の翌日となる十二月十三日、直義(武衛禅門)は正式に南朝から赦免の綸旨を受け取ったらしい。

 近江国の反乱が失敗し、直義(武衛禅門)も南朝も決して余裕は無いと見て痼りを一旦完全に捨てる事にしたのかもしれない。実際、直義(武衛禅門)は綸旨の返書において「正平五年」という南朝の元号を添えたという。

 しかし、直義(武衛禅門)は南朝に対して二枚舌だった。返書発送の翌十八日の多田院宛て文書で直義(武衛禅門)は「観応元年」の北朝元号を添付する。

 守山合戦の完全勝利の余韻が醒め、観応の擾乱の複雑怪奇さをこの俺が本当の意味で知る事になるのは、もう少し先の話である。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。