崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 観応元年(西暦1350年)十二月十三日、南朝の正式な勅免綸旨が直義(武衛禅門)宛てに発行された事を知ってか知らずか、尊氏は未だ九州平定の夢を諦めていなかった。むしろ本格的な九州入りの準備に取り掛かっていた。

 せっせと文書を準備する様に、師直(高武蔵守)はやり切れない思いである。

 

 

(どうして直冬(左兵衛佐)征伐だけは過剰にやる気になられるのか。恵源(武衛禅門)派が京周辺で彷徨(うろつ)いている今、直冬(左兵衛佐)ばかりに構う訳には参らん。近江国の反乱は氏頼(大夫判官)が鎮めたそうだが、石塔頼房(右馬助)に男山を獲られたのが拙(マズ)過ぎる。今、京では将軍が早晩お戻りと早合点する者で溢れているという……糠喜びと皆に知られれば、如何なる混乱が起きるやら)

 

 

「うん!出来た!師直(武蔵守)、これを田原直貞(豊前蔵人三郎入道)に届けてくれ」

 

 

「……は。お疲れ様でございました」

 

 

「ふふ。近頃の大友氏泰(式部丞)の振る舞いを褒め称えた文書だ。これで九州の者どもは氏泰(大友式部丞)を見習って直冬(左兵衛佐)を見限るだろう。我の勝ちだ」

 

 

「おめでとうございます……このところ、九州では大友、近江国では六角の活躍に目覚ましいものがあります。前者は尊氏様の猶子、後者は将軍としての最初の烏帽子子です。これで足利将軍家の威光は更に高まります……御一門の裏切り者共なぞ問題外でしょう」

 

 

「うむ。我も嬉しく思うばかりぞ」

 

 

「……」

 

 

 直ぐにでも直義(武衛禅門)追討に戻りたい気持ちと将軍執事として折角の尊氏のやる気を削げないというジレンマにより、師直(高武蔵守)は息苦しさを拭えずに居る。何とも形容し難い気持ち悪さが心身を蝕んでいた。

 一方、近江国で上野軍が敗れたにも関わらず、各地の動乱は全く収まる気配が無かった。特筆すべきは北陸の桃井氏であろう。能登国守護にして尊氏派の義綱(兵部大輔)に対し、直常(桃井播磨守)・直信(桃井兵庫助)兄弟が攻勢を増すばかりである。十二月十三日現在、趨勢は火を見るより明らかだ。

 

 

「やっと金丸城に追い込んだか。七親等の間柄とはいえ、同族争いはあまり好ましくねェ。直信(兵庫助)、北陸鎮撫は引き続き任せたぜ?」

 

 

「応……兄貴、御武運を」

 

 

「ああ。急報によれば、頼房(石塔右馬助)が宇治に進撃した一方、六角が近江国に下向したらしい。多分もう直勝(太郎二郎)は敗れてるな。幾ら直勝(太郎二郎)でも六角相手は流石に厳しい。よしんば生き永らえていたとしても、二度と出陣できない程の戦闘不能にされている筈だ。来月の頭過ぎまでには俺が畿内近国に向かっておかねェと、恵源(武衛禅門)サマが詰んじまう」

 

 

「見ての通り、冬の北陸は積雪が酷い。足早の者は兎も角、軍の移動は容易くない。そりゃ兄貴なら雪道でも踏破可能でしょうが」

 

 

「大事ねェよ。辿り着けさえすれば後はどうとでもなる。味方が延暦寺に布石を打ってくれる手筈だ。義詮(宰相中将)サマが慌てなさるぜ?」

 

 

 古典『太平記』は桃井軍の上洛開始を翌観応二年(西暦1351年)正月八日の出来事であるとするが、実態から考えて年内に出発していたものと推定されている。既に観応元年(西暦1350年)十一月時点で桃井直常(播磨守)は越中国で圧倒的な勢いを見せており、十分な数の橇(カンジキ)を用意できる状況だった。

 また、翌十四日には尾張国黒田宿でも南北両軍の競り合いが発生していた。当時の軍忠状によれば、この争いは二十六日に再発し、美濃国青野ヶ原で戦闘が起こる程の事態に発展していたようだ。

 無論、上記の出来事は直義の思い描いた勝利の絵図に沿って発生したものに過ぎない。十二月十六日、辛うじて生き延びて斥候の手で運び込まれた上野直勝(太郎二郎)が、河内国石川城にて直義(武衛禅門)と再会した。

 

 

「恵源(武衛禅門)公……面目次第もございません」

 

 

「その様子、下半身が動かぬのか?」

 

 

「……は」

 

 

「よく生きていてくれた。氏頼(大夫判官)はどうであった?」

 

 

「到底敵わぬ相手でございました。あれを一体どうやって正行(まさつら)が撃破したのか皆目見当も付かぬ程にて……恵源(武衛禅門)公。敗軍の将の身で非常に不躾ながらお願いの儀が。お聞き届け入れ下さるかどうか」

 

 

「聞こう」

 

 

「守山の戦いで小佐治兄弟を失いました。遺族の法師丸たちに軍忠状を書いてやりたいのです。故に筆と墨を……お貸し願いたく」

 

 

「……承知した。小佐治兄弟の最期は聞いている。お前の目の前で戦死したそうだな?奮戦に報いてやるのは当然の事だ。それより、今のお前の状態で文を書けるのか?起きるのもやっとだろうに」

 

 

「問題ございません。不幸中の幸いで、手はこの通り動きます故。実を申せば、四日前にも既に軍忠状を発行しておりますもので」

 

 

「……私も筆を執ろう。小佐治氏の遺族に文書を出す」

 

 

 この日、直義は配下の上野直勝(太郎二郎)の言葉を汲み、小佐治基安(禰五郎)宛てに守山合戦の奮闘を褒める旨の文書を発行した。偶然にも十三日発行の正式な南朝の勅免綸旨に返書を出す前日の出来事であり、直義(武衛禅門)が味方の武士たちに精一杯の心遣いを見せていた跡が窺い知れる。

 なお、この小佐治氏宛て文書でも直義(武衛禅門)は「観応元年」の北朝元号を用いている。既に南朝降伏の意向を示していた武将としては異常な行動と言えよう。少なくとも北畠親房(准后入道)が知れば激怒する筈だ。

 

 

「本当に……宜しいのですな?恵源(武衛禅門)様」

 

 

「構わん。やむを得まい。氏頼(大夫判官)を取り込むためにも」

 

 

「……憚りながら、あの将軍信者が今更恵源(武衛禅門)様に靡くとは」

 

 

「だからこそ……氏頼(大夫判官)を我が陣営に引き入れねばならん。直勝(太郎二郎)が敗れた以上、他の者を近江国に派遣しても返り討ちに遭う可能性が高いと考えねばならん。しかし、合戦で敵わずとも付け入る隙は充分にあるぞ?結局は亡き時信(六角判官)殿の御子息なのだからな。流石に京で孤立無援となれば、氏頼(大夫判官)とて再考を迫られよう。まして北朝の御意向があれば……私は決して将軍や北朝に刃向かう訳ではないのだ」

 

 

「成る程、六波羅滅亡後の時信(六角判官)以上の孤独を味合わせる気で?」

 

 

「ふ。国清(畠山阿波守)、語弊のある物言いをしてくれるな」

 

 

「……は。失礼をば御容赦下され」

 

 

 秘蔵っ子・上野直勝(太郎二郎)の大敗を受け、直義(武衛禅門)は戦略を切り替えた。

 中先代の乱のようなケースと異なり、新たな討ち手を現地に送らなかったのである。要するに直義(武衛禅門)は近江国を直接武力で攻撃する方針を見合わせた。代わりに当面の間は石塔頼房(右馬助)の制する男山や宇治の一帯を重視する戦略に一本化し、出兵準備を佳境に入らせた。

 観応元年(西暦1350年)十二月十七日、直義(武衛禅門)は正式な綸旨拝受の文書を南朝に提出する。かつての清廉潔白さが見る影もなく、心は今だ尊氏や北朝に囚われながら、高兄弟討伐に向けて青写真を描き続けていた。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 観応元年(西暦1350年)十二月十七日、京で新たに十九個の晒し首が生まれた。

 三日前に丹波国で守護代の久下氏が攻撃されたのを返り討ちにして得た首という事で、大衆は興味津々である。しかし、一定の地位にある者は揃って危惧していた。近江国や男山周辺だけでなく京と目と鼻の先の丹波国で賊徒が現れたのだから、もう周辺地域のどこにも安全地帯はないのではないか。そんな危機感で溢れていた。

 

 

「今の丹波国守護は山名殿であったな。氏頼(大夫判官)殿よ」

 

 

「左様。かなり前に仁木頼章(左京大夫)殿と交替する形でな」

 

 

「……丹波国襲撃も直義(武衛禅門)の指図か?どうも撹乱臭い」

 

 

「言っても仕方なかろう。政長(遠江守)殿、今は堪える時期だ」

 

 

 信濃国守護の小笠原政長(遠江守)は相変わらず在京の身だ。本国の諏訪氏の動きが気になるところであったが、義詮(宰相中将)の不安を取り除くためにも今は帰国できない。政長(遠江守)にも試練の時が訪れようとしている。

 男山に石塔軍が拠っている手前、政長(遠江守)は益々帰国希望を言い出し難くなっている。こうなると誰ぞ味方が石塔軍を駆逐してくれる事を祈る他ない。丁度、氏頼(大夫判官)が近江国で上野軍を破ったばかりだ。

 

 

「氏頼(大夫判官)殿ならほれ、サクッと男山を頼房(石塔右馬助)から奪還できぬか?」

 

 

「無茶を言うな。あそこは孤山のようで居て、水源豊富かつ急な斜面もある難攻不落の要塞だ。幾ら俺でも正攻法の攻略は難しい」

 

 

「……なら搦手は?正攻法で駄目でも何か策があるだろう?」

 

 

「石塔相手に使いたくない。使うならもっと大物相手だ」

 

 

「何だ、それは。折角の考えがあっても使わなければ宝の持ち腐れではないか……まぁ良い。義詮(宰相中将)様はまだ出陣する気はないと?」

 

 

「御本人はかなりやる気だが、将軍のお戻り前に逸って足元を掬われては元も子もないという事で結論が出ている。仕方なかろう」

 

 

「それはそれで正しい判断だと思うが……恵源(武衛禅門)公もその判断は見透かしておろう?だから近江国を再攻撃せず、兵力増強に専念しているのだ。このままでは恵源(武衛禅門)公の思う壺だ。侮ってはなるまいぞ」

 

 

「……近日中に道誉(佐渡判官)殿が交戦予定だ。まずはそれを見守ろう」

 

 

 果たして観応元年(西暦1350年)十二月十九日、京極軍と石塔軍が交戦した。

 この戦では十二日前の合戦と違って勇将・仁木義長(越後守)の参戦の痕跡が見られない。つまり、道誉(佐渡判官)は先に氏頼(大夫判官)が上野軍を撃破したように単独で石塔軍を退けようとしたのである。しかし、結論から言えば梨に礫だった。日記『園太暦』によれば矢戦に終始したらしい。

 

 

「いかんな。石塔軍の数が多過ぎる。これは無理だ」

 

 

「……頼房(石塔右馬助)にも攻め気が無いのが幸いです」

 

 

「高秀(佐渡五郎)。きっと頼房(石塔右馬助)は警戒しているのだ。この道誉(佐渡判官)が他所の武将の力を借りずに挑むとは妙であるとな。有りもしない伏兵を疑われていると見た。それを逆手に取っても良いのだが……危ない橋だ」

 

 

「どうします?京に早馬を送り、宗家の御力でも借りますか?」

 

 

「……笑えんぞ。これ以上、義詮(宰相中将)様が宗家に信頼を寄せる事になっては後々面倒になる。これだけ兵力に差があるのだ。今日は引き分けに終われば上出来だ。楽して評価が上がるに越した事はない」

 

 

「承知」

 

 

 十二月十日に氏頼(大夫判官)が近江国で上野軍を完封して以来、石塔頼房(右馬助)は大規模な攻勢を控え始めた。もし氏頼(大夫判官)の刃が時期を待たずに自分たちにも向けられれば、直義(武衛禅門)の覇業が頓挫すると知っていたのだ。

 かと言って氏頼(大夫判官)が帰京後、頼房(石塔右馬助)を攻める事態にはならなかった。

 尊氏が戻るまでの間、確実に義詮(宰相中将)や北朝皇族(持明院統)を守る方針に徹したのである。しかし、将軍帰京は未だもう少し先まで待たなければならなかった。十二月二十日、今度は赤松家に対して命令が出た。

 

 

「将軍!赤松軍の後藤基景(佐渡八郎)は我らのため、播磨国内の南朝方を鎮めに駆けずり回っているのですぞ!それをもう十分であると!?」

 

 

「そう熱(いき)り立つな、師直(武蔵守)。いい加減、直冬(左兵衛佐)征伐に集中したいのだ」

 

 

「〜〜〜ッ!」

 

 

(既に大渡周辺では石塔軍の兵力がかなり肥大化しているというに将軍はまだ左様な事を!何時になったら気付かれる!?斯くなる上は不貞腐れる危険を承知でお諌め申すか?幾ら何でも限界だ!)

 

 

 将軍執事の師直(高武蔵守)が徐々に業を煮やし始めていた頃、河内国では直(武衛)義(禅門)がいよいよ腰を上げようとしていた。出陣準備が済んだのだ。

 観応元年(西暦1350年)十二月二十一日、足利直義(武衛禅門)が河内国石川河原を出発して天王寺に向かった。小雨が降る中、粛々と軍勢が集まっている。

 

 

「国清(畠山阿波守)。京に噂を広めろ。顕氏(細川陸奥守)が四国全土を統一し、上洛を志しているとな。加えて東国勢が大きく南を迂回し、八幡に入ったと」

 

 

「は……遊佐、話は聞いたな?早速取り掛かれ」

 

 

「御意!」

 

 

「ほう。国清(畠山阿波守)、お前の執事もまた中々の出来人だ。手際が良い」

 

 

「ええ。この国清(阿波守)ほどではありませぬが」

 

 

 後に畠山国清(阿波守)は関東執事に就任し、義詮期(二代将軍時代)最初の巨大事業を手掛けるが、その際に国清(畠山阿波守)直属執事・遊佐国重(勘解由左衛門)も活躍する事になる。

 しかし、これはまだまだ遠い先の話であり、現在の国清(畠山阿波守)は西国で直義(武衛禅門)派の主力武将として高兄弟討伐に力を尽くす立場にあった。

 

 

「国清(阿波守)、我が大望を成すにはお前の力が引き続き必要だ。お前が私の元で辣腕を振るえば、自然と配下の者たちの名も高まるだろう。ここからが正念場だ……恐らく兄上は一週間ほどで気が変わる」

 

 

「ッ!遂に直冬(左兵衛佐)様の討伐をお諦めになると?」

 

 

「そうだ。まずは我らの内部分裂を図るだろうが、直ぐにそれも通じないと悟られよう。何より師直(武蔵守)の気が急いている筈だからな」

 

 

「しかしながら……急いては事を仕損じると格言が」

 

 

「それこそ我らの望むところではないか。今更師直(武蔵守)が畿内に戻って手を尽くしたところで、どうにもなるまい。残り幾月の命脈だ」

 

 

 今ここに直義(武衛禅門)が北上し、観応の擾乱の第一ラウンドが本格的に始まろうとしている。直義(武衛禅門)は確信していたのだ。自らの大勝利を。

 加えて言えば、その確信は直義(武衛禅門)に限った話でもない。多くの大名が予感し始めていた。弱将という昔年の評判とは裏腹に、今回ばかりは直義(武衛禅門)が勝つのではないかと。大義名分を正しく活用してあの完璧執事・高師直(武蔵守)を打倒し、現状の高一族の専横状態が崩れるのではないかと期待したのだ。古今の例を見ても直義(武衛禅門)に正義があると。

 君(・)側(・)の(・)奸(・)を(・)滅(・)ぼ(・)す(・)という謳い文句はそれ程に魅力を発揮するものだった。一人前の武将なればこそ今の直義(武衛禅門)の正義を理解できる。

 あくまで高兄弟討伐に拘るスローガンは効果覿面だった。鎌倉幕府が滅びてから十七年もの歳月が経ち、婆娑羅の風潮にいい加減飽き飽きしていた人々の期待が、直義(武衛禅門)の身に集まろうとしていた。

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