崇永記   作:三寸法師

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◆8

〜1〜

 

 

 観応元年(西暦1350年)十二月も下旬に入り、近江国はすっかり落ち着きを取り戻している。去る十日に当国守護の氏頼(六角廷尉)が守山にて上野直勝(太郎二郎)を完膚なきまでに叩き潰した事により、国内の南朝方が壊滅したのだ。

 しかし、依然として不安の種が無い訳ではない。元幕府(足利政権)副将軍の直義(武衛禅門)が天王寺まで進出した事で、再び情報が錯綜し始めている。

 

 

「細川顕氏(陸奥守)が四国を制して恵源(武衛禅門)派として京に攻め上るとかいう噂はまだ分かるから置いといて……東国勢が南から回り込んで石塔軍と合流したとは妙な話だね。本当にそうなら佐々木の一族郎党が感知していない筈がない。亜也子、あんたも何も聞いてないよね?」

 

 

「うん。上野軍に勝ってから、近江国で恵源(武衛禅門)派が出没したなんて話は特に聞いてない。尾張国では何か衝突があったらしいけどさ」

 

 

「尾張国か。尾張武士を指して東国勢と呼ぶのは一般的な言い方ではないね。三河武士でもギリ怪しいよ。海で伊勢国に渡って伊賀国を越え、大和国から男山(岩清水八幡宮)に入るという動線はありそうだけど」

 

 

 どうも作為的な流布の臭いがする。思うに直義(武衛禅門)は危機感を覚えているのではないだろうか。上野軍大敗で、勢多と男山の二箇所から京を牽制する構想──昔親(京極)父(道誉)がこの手の布陣を掎角の勢と呼ぶと口にしていたような気がする──が崩れ、軌道修正を図ったのだ。

 要するに直義(武衛禅門)は、さも自身の勢力が尚も膨張しているかのように見せ掛け、尊氏公御帰還前に軽率な対応はできないと京の義詮(宰相中将)様の危機感を煽り、却って幕府の即時対応を遅らせようとしている。

 当然ながら直義(武衛禅門)程の最高峰の賢者なら当たり前に出来る策略だ。

 

 

「三河武士と言えば、少し前に反乱があった*1みたいだけど──」

 

 

「たった二十一人ぽっきりが決起しただけだろ?頼朝公の山木攻めのように大物が参加している訳でもないんだ。脅威じゃないよ」

 

 

「それもそっか」

 

 

「勿論、高一族が長らく守護を務めた三河国*2で反乱の息吹が見られたのはエラい事ではあるけどね?とはいえ、昔から下野国に次ぐ足利氏の拠点だった地だ。吉良家も深く根付いている。然して不思議な話でもないよ。多分その二十一人がこっそり伊勢国などを通って男山に入った事を、恵源(武衛禅門)派が大袈裟に吹聴してるんだろうさ」

 

 

「うん……ただ、四国の件は本当じゃないかって話が出始めてる」

 

 

「……それは仕方ないよ。仮にも細川顕氏(陸奥守)は地力自体確かなんだ」

 

 

 三年前の楠木正行(まさつら)討伐失敗で氏頼(六角廷尉)と比較にならない程に武名を損じてしまった感のある細川顕氏(陸奥守)だが、それでも石津合戦(顕家討伐)の軍功で師(高武)直(蔵守)と並んで評価されていた事は、当時を知る誰もが覚えている。

 それ程の強者が四国に渡り、捲土重来を期していたというのだ。

 とてもではないが、決して侮れるものではない。京には足利武将きっての指揮官・斯波(尾張)高経(修理大夫)が居るので、その辺りの脅威はきちんと義詮(宰相中将)様も認識させられているだろう。幕府の出方が見物である。

 

 

「殿様は……また出陣するのかな。細川顕氏(陸奥守)の合流前に恵源(武衛禅門)公たちを叩くために。そしたら私も久し振りに京に行く事になるかも」

 

 

「さぁね。ただ、この間上野軍を破ったからと言って、近江国の兵を征西にホイホイ動員できる気はしないな。恵源(武衛禅門)公次第では比叡山延暦寺がどう動くかも分からないんだ。義詮(宰相中将)様だって取り敢えず将軍の御指図を仰ごうとする筈だよ。既にお尋ねだと思うけどね」

 

 

「なんか……後手に回されてる感、あるよね」

 

 

「そりゃそうだ。恵源(武衛禅門)公は一介の武将の型枠に押し込むなら決して最優秀と言い難いけど、戦略家としては間違いなく当代屈指だよ。先日の守山も詰まるところは局地的勝利に過ぎないんだ。まだ大局的には限りなく劣勢に近いよ。将軍の今後次第ではあるけどね」

 

 

「……あの弟大好きな将軍様が本当にやる気になられるかな」

 

 

「……さぁ?」

 

 

 確かに尊氏様は昨年の御所巻で予め師直(高武蔵守)と共謀の上、態(わざ)と絶体絶命の窮地を演出して弟の直義(武衛禅門)を追い込んだと巷で言われている。

 しかし、ここ最近の尊氏様の妙な動きを思い出してみると本当に直義(武衛禅門)を見限っての行動であったのか甚だ疑問なのだ。むしろ直近の直(左兵)冬(衛佐)討伐に対する積極姿勢など直義(武衛禅門)謀反の対応を遅らせる意図が潜んでいるようにも映る。要は直義(武衛禅門)よりむしろ師直(高武蔵守)を追い詰める意図が疑われる。あくまで現場の状況を知らない私だからこそ言える勝手な印象に過ぎないが、案外当たっているのではないだろうか。

 

 

「どうも薄気味悪い。かつてない波乱が起きそうな気がするよ」

 

 

「……大丈夫かな?殿様は」

 

 

「守山合戦で自信を取り戻してるとは思うけど……だからこそ逆に怖いな。もし恵源(武衛禅門)公が氏頼(廷尉)殿を徹底警戒したらどうなる事やら」

 

 

「魅摩。それって途轍もなく拙(まず)い?」

 

 

「……亜也子(望月甲賀三郎)。元北条党のあんたからしたら、足利直義(左兵衛督)なんて過去に乗り越えた障壁かもしれないけどね。はっきり言って義時や泰時以上の怪物だよ。今の恵源(武衛禅門)公は。もう完全に天下を狙える器だ」

 

 

 並の者がどうして北朝の中枢に食い込んで二頭政治の片翼を担った身でありながら、必要が生じたからと言って南朝に降り、天下再掌握を狙えるだろうか。正真正銘、足利尊氏公に匹敵できる者にしか成し得ぬ事だ。それを直義(武衛禅門)は堂々とやってのけた。きっと南朝も北朝も掌の上で弄ぶ。今の直義(武衛禅門)はそんな予感さえ抱かせるのだ。

 とんでもない事を仕出かした以上、もはや直義(武衛禅門)は無敵だ。どんな薄汚い手も躊躇わず用いるだろう。元が大人しい者ほどブチ切れた時が恐ろしいものだ。今後は直義(武衛禅門)がその道理の模範となる筈だ。

 

 

「兎に角、今は守りを固めないと。恵源(武衛禅門)公を討つなら何がなんでも将軍が音頭をとらないと厳しい。その時が来るまで耐え抜かないと折角の勝利も水の泡だ。きっと氏頼(廷尉)殿なら、そう言うだろうさ」

 

 

「……確かに」

 

 

 観応元年(西暦1350年)の最終盤となり、天下は激しく揺れている。尊氏様の軍勢が九州遠征を断念して引き返さない限り、直義(武衛禅門)の戦略に京周辺が蝕まれ続ける事は明らかだった。氏頼(大夫判官)の局地的勝利も関係ない。

 状況は尚も悪化の一途を辿っている。薄氷の上での舵取りを京の義詮(宰相中将)様は強いられる今、氏頼(大夫判官)が一体どのように身を処するのか。

 佐々木惣領(六角家当主)の正妻として何とも形容し難い不安に襲われていた。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 観応元年(西暦1350年)十二月二十三日、義詮(宰相中将)の鬱憤が遂に爆発した。近江国の不安の芽が取り除かれて二週間も経っていないというのに直義(武衛禅門)の出陣に伴って状況が悪化し、ストレスが溜まったのかもしれない。

 その結果どうなったのか。義詮(宰相中将)は翻心の豚平焼き(細川顕氏)を問題視した。

 

 

「顕氏(陸奥守)め!自分が楠木軍に敗れた事を棚に上げ、代わりに守護国を増やした高一族をやっかんだ上、今になって叔父上に味方するとは言語道断だ!四国を平定して京を攻めるとは……何たる無礼!」

 

 

「……」

 

 

 正直に言うと気不味い。正行(まさつら)に敗れた過去で言えば、豚平焼き(細川顕氏)だけでなく佐々木惣領(六角家当主)の俺も確かに同類だからだ。おまけに我が敗戦歴を仕方なかったものと分からせるべく、逆に楠木正行(まさつら)は強かったと義詮(宰相中将)に度々語った。ここに来てそれが妙な効果を齎している。

 要は大軍を率いて正行(まさつら)を四條畷で破った師直(高武蔵守)に対し、義詮(宰相中将)がますます信頼するようになった。加えて、ここ近日の豚平焼き(細川顕氏)の行動は師直(高武蔵守)に対する妬みが原因であると見たのである。あながち間違っているとは言い切れないが、何かの間違いで俺もトバッチリを喰らいかねず、まずまず冷や汗ものだ。ここはガス抜きが必要だろう。

 

 

「もし顕氏(細川陸奥守)殿が四国勢を率い、男山(岩清水八幡宮)に入ればかなり厄介な事に」

 

 

「だろう!?かつて細川氏は四国勢の指揮で、建武年間の父上の大業成就に大きく貢献したと聞いている。それが今や顕氏(細川陸奥守)なぞ私怨で叔父上の幕府乗っ取りに協力するとは……何とも見下げた男よ」

 

 

「……義詮(宰相中将)様。このような折は離間の計が効果的かと」

 

 

「離間の計?確か敵同士仲違いさせるという策だったか?」

 

 

「はい……とはいえ、近年の高一族の成長を前にして恵源(武衛禅門)派の結束はかなり固くなっているようです。しかしながら、他にも隙が」

 

 

「というと?」

 

 

「例えば石塔軍は男山に布陣し、そこだけは乱妨狼藉を控えて源氏の軍である証を立てておりまする。ご存知の通り、男山は京を制したい者にとって格好の要衝です。私が近江国に下って賊徒を破る間に制圧されてしまった事は至極残念でしたが……これを逆手に」

 

 

「!」

 

 

 この日、義詮(宰相中将)は一つの施策を実行した。豚平焼き(細川顕氏)所有の河内国標葉牧という土地を石清水八幡宮に寄付したのである。豚平焼き(武衛禅門)が直(武衛)義(禅門)派となって幕府に逆らう以上、その所領の統治は幕府の認めるところではない。ここに豚平焼き(宰相中将)は完全に反逆者へと朽ち堕ちた。

 しかも極め付けは直義(武衛禅門)がこの義詮(宰相中将)の政策を認めれば豚平焼き(細川顕氏)以外も含めた武士たちの顰蹙を買い、認めなければ今度は石清水八幡宮の心象を損なうという点だ。春日軍攻略で男山を炎上させた過去を持つ師直(高武蔵守)を討とうというのに、肝心の石清水八幡宮との関係を拗らせてしまえば本末転倒というものだ。直義(武衛禅門)とて為す術あるまい。

 面白い事に義詮(宰相中将)の交付文書が明らかになった途端、京の幕府関係者たちが活気付いた。中には将軍や師直(高武蔵守)の引き揚げを待たずに自分たちだけで直義(武衛禅門)を攻めても良いのではないかという意見も出た。

 特に小笠原政長(遠江守)が啖呵を切った。どうやら渾身の献策のようだ。

 

 

「恵源(武衛禅門)公が天王寺に入り、男山合流の機会を窺っている今こそ好機ではあるまいか?石塔軍を道誉(佐渡判官)殿……それと千葉殿の加勢で牽制する間に、この政長(遠江守)と仁木兄弟が恵源(武衛禅門)公の本隊を攻撃する。仁木兄弟が細川軍を抑え、我が決死隊で恵源(武衛禅門)公を討ち取る……如何か?」

 

 

「一つの策ではあるな……しかし、決死隊とは危険だぞ」

 

 

「斯波(尾張足利)様、危険は端から承知。火中の栗を拾う役目を何卒」

 

 

 尊氏様も師直(高武蔵守)も道誉(佐渡判官)も不在の現在、京の実質的な指導者のような佇まいの斯波(尾張)高経(修理大夫)は渋い顔をする。俺なら政長(小笠原遠江守)が小笠原家現当主として先代(小笠原貞宗)の奥義を受け継いでいると知っているので、一定の勝算を見込んでの発案と察しが付くが、それでも首を傾げたくなる。

 そもそも小笠原貞宗(治部大輔)ですら金ヶ崎城攻めで決死隊を率いながら新田四天王の栗生顕友(左衛門尉)に返り討ちされた過去があった。擾乱で師直(高武蔵守)を滅ぼすという直義(武衛禅門)の命運が果たされていない今、政長(遠江守)が仕掛けても成功するとは思えない。確かに突撃は俺も好む手段ではあったが、今の直義(武衛禅門)に仕掛ける気は全く起きない。まだ時期ではないのだ。

 

 

「攻勢はより良い手段がある筈だ。政長(遠江守)殿の策を採るにしても畠山軍の抑えが出来なければ水の泡になってしまう。氏頼(大夫判官)殿が攻撃に参加できれば話は別なのだが……実際どうだ?この話、乗るか?」

 

 

「……正直、今は京の守りに専念したいのですが」

 

 

「であろうな。いつ再び近江国が攻められるかも分からないのだ。氏頼(大夫判官)殿を動かせるなら畠山軍の抑えまで充分に手が足りていたであろうが、そうならない以上は厳しい。残念な話ではあるが……」

 

 

 流石に高経(修理大夫)自ら出征に身を投じる訳にもいかない。俺だけで義詮(宰相中将)と北朝の両方のお守りは流石に無理だ。高経(修理大夫)の手が絶対に要る。

 どうあっても突撃策の敢行が叶わないと悟り、政長(遠江守)は項垂れた。

 

 

「政長(遠江守)殿。いつ国人が牙を剥くとも知れぬ中で本国(信州)を離れて京に居て貰っているのだ。そうした中での献策、深く感謝する……どうであろうか、氏頼(大夫判官)殿。北朝皇族の方々に御移動願うというのは?」

 

 

「ッ……本格攻勢に向け、皇族警備の効率化を目指すと?」

 

 

「左様」

 

 

「……分かりました。でしたら幕府として正式な奏上を」

 

 

 観応元年(西暦1350年)十二月二十三日、幕府の奏上を受け、北朝政府で先例を顧みながら議論された。翌二十四日、崇光天皇や広義門院もとい西園寺寧子*3が持明院殿に移り、光厳上皇や光明上皇も自ら移動を開始した。これにより、逆に人々が異常事態に危機感を強くした。

 つまり、却って不味い事になってしまったのだ。二十六日を迎えて京に激震が走った。北朝関係者から裏切り者が出たのである。

 

 

「六条輔氏(少将)、吉田守房(侍従)、実相院僧正の静深……誰だ?」

 

 

「義詮(宰相中将)様。別に関係者の名前を事細かに覚えられよとまでは申しませんが、これはエラい事です。特に静深(実相院僧正)は前関白(近衛基継)の弟ですので」

 

 

「何だと!?」

 

 

「離反者なら既に九日にも例があった*4ようですが、今は左様に悠長な事を言っている暇はございません……何でも更に酷い噂が」

 

 

「……どんな噂だ?」

 

 

「武家からも数多く男山(石清水八幡宮)に降りに参った者が居ると」

 

 

「直ぐに真偽を調べよ!男山・天王寺攻撃どころではない!」

 

 

「は!」

 

 

 年末となり、明らかに逆風が激しさを増している。この翌二十七日には新たに東寺長者となったばかり*5の報恩院隆舜という僧が怖気付いたのか、光厳院に辞表を出すも却下される事案が起きた。

 義詮(宰相中将)の焦燥は逆風に伴って着実に激しくなる。あからさまに動揺を見せるところは箱根竹下合戦前の尊氏様の比ではない。紛れもない凡庸な二代将軍・足利義詮(宰相中将)の姿に、俺は戸惑うばかりだった。

 

 

「不味い不味い不味い……!急ぎ父上に戻って頂かねば、収拾が付かなくなるぞ。このままでは叔父上の思い通りになってしまう」

 

 

「……」

 

 

「そうだ!早馬だ!今ならまだ年内の御決断を迫れよう!」

 

 

 果たして次期将軍・義詮(宰相中将)の願いが届いたのだろうか。観応元年(西暦1350年)十二月二十七日、尊氏様は遂に直冬(左兵衛佐)征伐を見合わせる事となった。

 備前国福岡から将軍や師直(高武蔵守)が帰って来ると知り、殆どの京の幕府関係者は一先ずの安堵と共に新年を迎えた。しかし、その安堵も詰まるところは儚いものに過ぎなかった。更なる動乱の火が迫る。

 観応二年(西暦1351年)正月三日、桃井軍先鋒部隊が近江国に入る。琵琶湖東岸を南下し、比叡山方面を目指しているという報告に対し、佐々木(六角家)惣(当)領(主)の俺はもう北陸の雪が溶けたのかと唖然とするしかなかった。

*1:
観応元年(西暦1350年)十二月十日に三河国額田郡で発生した。

*2:
足利政権樹立以来、南宗継(遠江守)や高師兼(刑部大輔)などが歴任した。観応元年(西暦1350年)時点でも高一族が守護職を占めていたものと見られる。

*3:
光厳上皇や光明上皇の実母。後により深く朝廷に関与し、北朝の生き残りに尽力する事になる。

*4:
日記『園太暦』によれば筆者・洞院公賢の身内。

*5:
二十五日の三宝院賢俊の東寺長者辞任に伴う措置。

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