崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 観応元年(西暦1350年)十二月二十三日、将軍執事の師直(高武蔵守)もまた備前国福岡の地で直義(武衛禅門)派の離間工作を目指し、文書を作成していた。宛先は関東執事の上杉憲顕(民部大輔)である。文書に目を通し、師夏(武蔵五郎)は疑問を口にした。

 何しろ普通に考えれば憲顕(民部大輔)より同族の師冬(高播磨守)を宛先にした方が滞りなく師直(高武蔵守)の指図が通りそうなものである。にも関わらず、師直(高武蔵守)が既に身内から離反者を出している憲顕(民部大輔)に命令するとは奇妙な話だ。

 

 

「確かに憲顕(民部大輔)は上野国守護なので、新田荘内の所領を岩松家に与えるというなら、妥当かもしれませんが……どういった意図で?」

 

 

「それだけか?師夏(武蔵五郎)」

 

 

「……申し訳ありません、父上。未熟な私では何とも」

 

 

「もっと目の前の文書をよく見てみろ。新田荘のどこが対象だ?」

 

 

「桃井らの旧領分……ッ!まさか!」

 

 

「そうだ。反乱中の桃井の所領を岩松家に与える処理を履行しろと憲顕(民部大輔)に言ったらどうなる?憲顕(民部大輔)が八方塞がりになるだろう?履行しなければ岩松家の反感を招き、履行すれば桃井から恨まれよう」

 

 

 この時代の武士にとって土地は本来センシティブな話題である。

 たとえ幕府の忠臣でも所領問題で不満があれば堂々と反発しても当然の権利の行使と見做される南北朝時代において、ある意味エゲツない命令を師直(高武蔵守)は出していた。とはいえ、必ずしも効果があった訳ではない。事実、岩松氏──この場合は新田荘内の土地給付の対象となった現当主*1──はその後も直義(武衛禅門)派として活動し続けた。

 

 

「他に頼有(岩松律師)殿も居りましたが、そちらは?」

 

 

「現当主の庶兄だな?近日中に別の土地を与えるつもりで空きの所領を洗っているところだ。岩松氏は気性から考えて、恵源(武衛禅門)派の連中でも比較的我々に近い気質の者が集まっている。おまけに新田氏の代わりになり得るような血統でもある。後で義興(左兵衛佐)などが漁夫の利を狙って挙兵できんようにするための牽制材料としても魅力的だ」

 

 

 この時代、武将が勝利のために味方となる者を所領関連文書で餌付けする事は当たり前の手段であった。重要度で言えば、二十一世紀の受験生が単語力を増強する事にも等しく、むしろこれを欠いて本番に臨むのは無謀とすら言えるだろう。要は命綱さながらだ。

 実際問題、師直(高武蔵守)は二十七日に岩松頼有(律師)に和泉国や備後国・上野国から見繕った土地を与えており、直義(武衛禅門)は二十四日に守護職並びに本領安堵を確約して伊予国の河野氏を勧誘している。また、直冬(左兵衛佐)も二十六日に文書で忽那氏*2の戦功を称賛し、新たな土地への期待感を抱かせている。合戦の裏には地道な文書の交付が付き物なのだ。

 

 

「師夏(武蔵五郎)、お前もそろそろ俺のように自由自在に所領文書を使い熟(こな)せるようになるべき時期だ。戦機は成長を待ってくれぬぞ?師冬(播磨守)のような地方の執事とまで言わずとも、一国の差配程度は熟(こな)さねば」

 

 

「はい……話は変わりますが、父上。師冬兄上は今どうしておられましょうか?上杉氏の子息の裏切りで関東事情も苦しい筈です」

 

 

「……光王様さえ無事に擁していれば問題ない筈だ。将軍家の御子を擁しているといないとでは全く違う。勝敗を左右する程にな」

 

 

 既に上杉能憲(左衛門蔵人)が離反し、実父の憲顕(民部大輔)自ら手勢と共に鎮圧に向かったという報は、西国の師直(高武蔵守)の耳にも届いている。みすみす憲顕(民部大輔)の発向を許可した師冬(高播磨守)の判断に一抹の不安を覚えながらも、かつて顕国(春日中将)を滅ぼした手腕を信じ、目の前の戦乱に集中する事にしていた。

 しかしながら、直義(武衛禅門)派の勢いは関東でも目覚ましかった。反乱鎮圧に赴いた筈の憲顕(民部大輔)もまた上野国に到着するや否や、幕府に反旗を翻したのである。そればかりか武蔵国に取って返し、坂東八平氏や武蔵七党といった現地の有力士族を味方に付ける有り様だった。

 

 

「光王様。謀反人の上杉氏を討つべく、貴方様にも御出馬を願いたく存じます。かつて兄君・義詮(宰相中将)様は僅か三歳にして義貞(新田左中将)はじめ坂東諸将を率いて北条氏を攻め滅ぼしました。まして光王様は新年にも齢十二になろうという身。同じ事が出来ぬ道理はございません」

 

 

「上杉氏は亡き御祖母様の実家だ。攻め滅ぼすに忍びない。よしんばその必要があるにせよ、本当に交渉の余地はないのか?師冬(播磨守)」

 

 

「ございません。光王様、決して悠長な事を言っている場合ではないのです。上杉氏を滅ぼし、関東を再び平定し直した後は共に大軍を率いて上洛し、御父兄をお助け申し上げましょう。それこそが何よりの孝行というものです。八幡太郎義家公もお望みでしょう」

 

 

「……分かった」

 

 

(上洛?そんな事をして本当に大丈夫なのか?まず間違いなく師冬(播磨守)は義父上を滅ぼす気だ。義父上こそ足利幕府に必要な御方なのに)

 

 

 将軍庶子の光王(足利基氏)の不安とは裏腹に、師冬(播磨守)は粛々と上杉氏討伐の段取りを整えた。まるで合戦での決着こそ本望であるかのように。

 観応元年(西暦1350年)十二月二十五日、関東執事・高師冬(播磨守)は東国から直義(武衛禅門)派を一掃するべく、光王(足利基氏)を擁立して鎌倉を出発した。しかし、既に盤上は師冬(高播磨守)の関知せぬ間に憲顕(民部大輔)によって支配されていた。師冬軍が夜半に相模国毛利荘湯山の地に着いた翌朝、両者の均衡が一変する。

 

 

「義慶(石塔義房)!どうして此処に!?」

 

 

「は……光王様、お迎えに参りましたぞ」

 

 

 観応元年(西暦1350年)十二月二十六日の辰の刻(午前八時前後)、石塔義房(義慶)が素知らぬ顔で光王を誘拐した。鮮やかな手付きで近習たちの口封じ──師冬(高播磨守)の猶子の師親(三戸七郎)が殺害されたと噂されたが、実際には這々の体で生き延びていたらしい──を終わらせ、光王(足利基氏)奪取という重要任務に成功した。

 光王(足利基氏)と別の場所で素顔を晒して朝食を摂っていた師冬(高播磨守)は、急報の二文字を聞き、慌てて仮面を顔に貼り付けた。続けて詳細を知り、思わず天を仰ぐ。それ程の青天の霹靂であったのだ。取り返しのつかない致命傷である。将軍庶子(足利基氏)という象徴を喪失したのだから。

 

 

「上杉、石塔、三浦……この三者を我が手で葬らなければ」

 

 

「師冬(播磨守)様!皆の士気が急降下しております!ここは一旦撤退を!」

 

 

「……逸見。撤退の先に勝利があるとでも?」

 

 

「少なくとも新たな離反者が出かねない状況で、無理に上杉軍と戦うよりマシかと存じます。信頼の置ける者のみで凌ぎ切らねば」

 

 

「……」

 

 

 頼みの綱の光王(足利基氏)の身柄が直義(武衛禅門)派に奪われてしまった以上、もはや上杉軍との正面衝突は破滅の道としか言えまい。実際、醍醐報恩院所蔵の古文書によれば、上杉軍は直義(武衛禅門)の猶子でもある光王(足利基氏)という象徴を得て、更に勢いを加速させたようだ。二十九日、上杉憲顕(民部大輔)が光(足利)王(基氏)を奉じる形で鎌倉入りを果たした。まさに破竹の勢いである。

 一方、師冬(高播磨守)は見るに耐えない落武者と成り果てた。郎党の逸見氏を頼って、その本拠地の甲斐国巨摩郡まで落ち延びたのである。

 

 

「上杉殿。師冬(播磨守)は甲斐国北西部の逸見城に入ったそうで」

 

 

「如何にも、義慶(石塔義房)殿。既に愚息・憲将(兵庫頭)に追撃させております」

 

 

「成る程……これから御自身は上洛を?」

 

 

「いえ、暫く関東の状況を見渡します。今は光王様の御心を落ち着かせる事が最優先です。ただ、能憲(左衛門蔵人)を先遣隊とし、東海道を上らせてみるつもりです。時が来れば、この私も光王様と共に上洛を」

 

 

「相分かった。それにしても師冬(播磨守)め。春日を討って以来、今年になるまで関東に居らなんだ身で、よくも思うままに勝てると勘違いしていたものよ。庇番以来の絆を大切にする上杉殿と天地の差だ」

 

 

「……いえ、まだまだこれからでしょう」

 

 

 逸見城に籠った師冬(高播磨守)を討つべく、憲将(上杉兵庫頭)が数千騎を率いて向かう。

 既に関東での勝敗は決していたが、憲顕(民部大輔)は本気だった。高師冬(播磨守)が討たれたと伝われば、西国の高一族の動揺は避けられないと見ていたのだ。当然ながら直義(武衛禅門)にとって有益な援護射撃となるだろう。

 ここに上杉憲顕(民部大輔)が紛れもない名将として関東に君臨する。日本全国の勢力図を変える程の一大事だ。遅かれ早かれ上洛し、直接直義(武衛禅門)を助けようという意志が憲顕(民部大輔)のこれ以上ない活力となっていた。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 観応元年(西暦1350年)十二月二十九日、足利尊氏が渋々決断した。九州上陸を取り止めて、備前国福岡から畿内へ戻る事に同意したのである。

 しかし、今の師直(高武蔵守)に安堵の息を溢す程の余裕は無い。将軍親征の中止で直冬軍(佐殿方)の勢いが最高潮に達する事を警戒したのだ。下手をすれば逆に直冬(左兵衛佐)が九州の仕置きを適当な武将に任せ、自ら本州に乗り込む事態にもなりかねない。山陽道の体制強化が急務であった。

 

 

「石橋殿、宗継(南遠江守)、そして師夏(武蔵五郎)。それぞれ備前国、備中国、備後国に入って直冬軍(佐殿方)の侵攻に備えるよう……決して抜かりないように」

 

 

「承知」

 

 

「御随意に」

 

 

「……父上」

 

 

「師夏(武蔵五郎)。お前は師泰(越後守)の代理だ。三日前、師泰(越後守)は石見国平定を取り止め撤退したが、そのせいで武名が傷付いた。今、師泰(越後守)を守護国の備後国に置くのは危険だ。ならいっそお前に任せてみようと思う」

 

 

「御意」

 

 

 敢えて若い師夏(武蔵五郎)を最前線に置き、師直(高武蔵守)は自派閥の士気高揚を狙ったようだ。何しろ師夏(武蔵五郎)は母親が関白の身内とされる良血である。

 内外に自らの闘志が決して衰えていない事を示すためには恰好の人事であると言えた。勿論、同族の実力者・南宗継(遠江守)や足利一門の名将の石橋和義(左衛門佐)を起用する事で、戦時下での対応も万全であった。

 

 

「将軍。出雲国に京極家重臣の吉田、そして今回の備州三国の武将の配置なれば、直冬(左兵衛佐)も少弐も問題無いかと。京に急ぎましょう」

 

 

「うん。石橋が居れば安心だ。建武大乱で我が九州に上陸して戦っている間、赤松軍が播磨国、石橋が備前国に在って新田・脇屋の両雄を見事に防いでくれた。ところで、今の赤松軍は大丈夫か?」

 

 

「お疑いですか?範資(赤松信濃守)、貞範(赤松雅楽助)、則祐(赤松師律師)らの兄弟の実力を」

 

 

「いや、そういう訳ではないが……やはり先代の円心(赤松則村)が今年の始めに死んだのが痛かった。あれからお前の歯車が狂ったな、師直(武蔵守)」

 

 

「否定はしませんが、将軍。赤松軍の武将は戦闘経験で言えば我らより先に積んでいる者たちです。譬(たと)え円心(赤松則村)殿が居らずとも中々どうして粒揃いですぞ。下手な足利一門の武将より遥かに有用かと」

 

 

(既に京に指示を飛ばし、帝の行幸を白紙に戻した。これで将軍御帰還の朗報と併せ、民心も多少落ち着くだろう。後は勝つだけだ)

 

 

 しかし、師直(高武蔵守)の意図も虚しく、依然として事態は直義(武衛禅門)派の有利で進んだ。観応二年(西暦1351年)正月一日、摂津国で両軍の部将がまるで「新年、何それ美味しいの?」とでも言いたげに派手な衝突を起こした。

 畠山国清(阿波守)の配下・伊丹宗義(左衛門四郎)が摂津国神崎に侵攻し、幕府軍の赤松範資(信濃守)の元で守護代を務める河江円道(右衛門太郎)の手勢を撃破したのである。

 

 

「余計な事を。新年早々、何と幸先の悪い」

 

 

「言っても仕方なかろう。もう終わった事だ。師直(武蔵守)、この先どうするかを考えよ。まだ京に着くまで時間が掛かる。暫く摂津国で天王寺に睨みを効かせたいところだが、直義ならその前に男山(岩清水八幡宮)に入るなり別の手を講じるだろうな。主導権は今、直義が握っている」

 

 

(この御方は……何を他人事のように申される)

 

 

 摂津国だけではない。正月一日だというのに千葉氏の先代当主*3が疫病で亡くなり、人々に不穏を予感させた。また、直義(武衛禅門)が明日にも京に入るのではないかという噂も広まり、美濃国で土岐頼康(刑部大輔)が反乱分子を鎮めたという吉報も目前の危機を前に霞んでしまった。

 畿内周辺で依然として直義(武衛禅門)派の有利が維持される中、関東では上杉憲顕(民部大輔)が着実に支配の手を広げている。同じく正月一日、常陸国の佐竹義盛(禰五郎)という武将が一族を離反して憲顕(民部大輔)に帰順した。新たな関東の支配体制が直義(武衛禅門)の猶子・光王(足利基氏)を象徴に着々と構築されている。

 勿論、そうした動きは信濃国にも聞こえている。現守護の小笠原政長(遠江守)が在京を続ける間、国司にして直義(武衛禅門)派の諏訪氏の元に武士たちが続々集結していた。正月二日には市河氏*4が諏訪軍に参じた。

 四日に上杉憲将(兵庫頭)が須沢城攻略を開始し、翌五日に鎌倉で光王(足利基氏)が憲(民部)顕(大輔)の指導を受けて判始の儀を行う中、諏訪軍は遂に兵を挙げた。

 

 

「あくまで恵源(武衛禅門)派として上杉軍合流を目指しますが……それでも一緒に行きますか?時行(相模次郎)。また憂き目に遭うかもしれませんよ?」

 

 

「直義派という事は今や諏訪も上杉も南朝方だろう?なら後醍醐の先帝に戴いた綸旨に基づき、私も加勢する。十六年前、敵味方に別れてしまった吹雪との因縁に決着を!その先に尊氏の首がある」

 

 

「その綸旨……まぁ良いです。我らはまず小笠原氏の残留部隊を叩きます。後ろで見ていると良いです。今の諏訪軍の実力如何を」

 

 

 観応二年(西暦1351年)正月五日、諏訪軍が信濃国埴科郡に攻め入った。要衝の湯河宿で集めた国人たちの武力を活かし、船山守護所を燃やし尽くしたのだ。政長(遠江守)の弟の政経(修理亮)など堪らず筑摩郡放光寺に拠り、防衛戦を試みたものの、熾烈極まる追撃を前に劣勢は明らかであった。

 全国各地で直義(武衛禅門)派が勢いに乗っている。その中で地方から頼房(石塔右馬助)に続いて京を震撼させた者こそ、他ならぬ驍将・桃井直常(播磨守)である。

*1:
岩松直国(治部大輔)。中先代の乱で戦死の経家(兵部大輔)から見ると諸説あるが次弟に該当する。

*2:
伊予国の地方豪族。

*3:
千葉貞胤。建武大乱で後醍醐軍として活動していたが、大雪で新田軍と逸れたため、仕方なく足利軍に降伏。それ以来、新たな幕府の元で名族の立場を維持していた。

*4:
現惣領の松王丸(助房息)に代わり、市河泰房(孫三郎)と同経助(左衛門十郎)が加わった。

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