〜1〜
観応二年正月十日、京が斯波高経・二階堂時綱の翻心で揺れていた丁度その頃、信濃国では遂に諏訪軍と小笠原氏残留部隊の争いが佳境に入っていた。言うまでもなく諏訪直頼の完全勝利である。
信濃国守護・小笠原政長の弟の政経は、忸怩たる思いで放光寺を明け渡し、諏訪軍に投降した。直頼は淡々と勝者の弁を述べる。
「もし政長殿が今も信濃国に健在なら斯様な事になっていなかったでしょう。諏訪家が小笠原家に勝ったのではない。恵源派が師直派に優勢を誇った結果です。故に政経殿、そう気を落とされるな」
「……慰めは不要ぞ。敗軍の将に言い訳を申させるおつもりか?」
「否……此度の政経殿の戦い、敵ながら実にお見事。流石は小笠原貞宗殿の御子息のお一人。素直な賞賛として受け取って欲しい」
「……」
因みに諏訪家は一連の戦の終結後、市河氏の武将たちに着到状を与えた際、南朝の「正平」ではなく北朝の「観応」という元号を添付している。つまり、諏訪直頼もまた自認としては南朝武将というよりも、あくまで直義派武将として擾乱に臨んでいたのである。
勿論そうとは知らない時行はソワソワしていた。次なる戦いに思いを馳せてか、視線があからさまに南東の甲斐国に向いている。
「若。甲斐国に入ればいよいよ……吹雪との決戦ですぜ」
「ああ。あの吹雪が敗軍の将になって上杉氏に追い詰められているなんて今でも信じられない。だけど、この機会を逃せば多分もう次はない。吹雪は今、高師冬として甲斐国の須沢城で上杉憲将の攻撃に晒されているそうだ。直頼殿が予め話を通してくれるらしい」
「……若。直頼様は身内を猶子として師冬に差し出していました。その一門の盛世が命乞いをしに来て保護されたそうです。会ってみますか?直頼様にお願いすれば、きっと許可が降りる筈ですよ」
「ああ。攻略の糸口になるかも知れない。言ってみよう」
諏訪大祝の軍勢が中先代の乱以来、久々に国外で合戦を挑もうとしている。そうとは知らず、尊氏軍は男山に狙いを定めていた。
観応二年正月十二日、尊氏は山崎で直義攻略の軍議を開いた。
当代の源氏将軍・足利尊氏の率いる軍勢として正攻法の戦いしか許されないため、間違いなく攻略難度は春日軍が籠城していた頃より高くなっている。しかし、師直は決して悲観していなかった。
武将としての力量なら弱将・直義より往年の春日顕国の方が上と見ている。要するに師直はこの期に及んで直義を見下していた。
「将軍。大渡の橋が落とされている今、男山の攻め方は二つに一つでしょう。まずは淀川を船で渡るべきか、橋を架け直すかです」
「どちらでも良いが……実際の攻撃開始は何日を予定している?」
「は。遅くとも十六日には」
「……その前に揺さぶりを掛けたい。頼めるか?師直」
「無論です。どう致しましょう?」
「噂を流すのだ。直義と南朝の和議が破談になったらしいとな」
「!」
日記『園太暦』によれば、北朝公卿の耳にも直義と南朝の不仲の噂が届いている。あながち間違いとも言い切れない噂だが、幕府軍にとっては直義を再び孤立させるために好都合な話でしかない。
しかし、それでも直義派武将の勢いは衰えなかった。観応二年正月十三日となり、遂に桃井軍が行軍疲れを払拭して動き始めた。
「テメェら!そろそろ疲れは取れてきたか!?」
「「「応!」」」
「恵源サマの使いによれば、そろそろ義詮様の我慢が効かなくなってくる頃合いだ!そうなり次第、更にオレらでもう一押しだ!」
桃井軍の近江国坂本に入って以来、京では再三に亘って襲撃の噂が流れており、その度に幕府軍の備えが空振りに終わっている。
当然、それを知らない桃井軍ではない。そろそろ狼少年の理屈で本当に襲撃を仕掛ければ、効果的な頃合いだろうと読んでいた。
一方、京では幸か不幸か、桃井軍どころではない騒ぎが朝から起こっていた。またしても味方から裏切り者が出現したのである。
「頼章、一体何がどうなっておるのだ!?」
「……上杉家の朝定殿と朝房殿。それに今川範国殿です。既に屋敷はもぬけの殻になっているとの事にて、男山の恵源公に降ったとも東坂本に逃げたとも言われておりますが、真偽は未だ不明です」
「東坂本には桃井軍が駐屯しておる。もしや其方と合流したか」
「急ぎ氏頼殿に調べて貰っております。今暫くお待ちを」
「焦ったい……関東では憲顕の子・能憲が裏切り、反乱を起こしているそうではないか。もしや朝定も朝房もそれに同調する気か」
この頃、まだ京に憲顕も続けて反旗を翻したという報告は入ってきていない。もし義詮の耳に入れば、動転する事は間違いない。
何しろ義詮にとって憲顕は善意で家長亡き後の幼い自分を支え続けてくれた恩人である。その恩人が義詮の目の上のたん瘤そのものな直義を優先したと知れば、茫然自失どころの話ではないのだ。
頼章は一応、かねてより上杉氏が亡き重能の仇を討とうと高一族を敵視している可能性を念頭に置きつつ、義詮に見解を示した。
「どうでしょうか。単に直近の恵源派の勢いを恐れたのかもしれませんし、上杉一族全体で恵源公に賭ける風潮が広まりつつあるのかもしれません……個人的には範国殿の裏切りが謎を解く鍵かと」
「仁木よ。それはつまり、どのように?」
「範国殿は亡き関東庇番衆寄騎・今川範満殿の弟御です。もしかすると我々の知らぬ内に、庇番衆を輩出した氏族の間であらぬ畏怖が広まっているように思います。義詮様が叔父の恵源公を憎んでおられる余り、いつか自分たちに粛清の矛先が向くのではないかと」
「何を戯けた事を。お主の弟の義長も関東庇番衆では一番組に名を連ねていたが、日頃から師直と仲良くして今も父上や我のために働いてくれているではないか。無用の疑いだ。全く根も葉もない」
(これで義詮様の本音は確認できた。ならば……ええい、ままよ!)
この時期、仁木兄弟は献身的に師直派武将として尽力していた。
出世競争では一族内で本来なら同ランクの細川氏に水を開けられつつも、だからこそ師直と結んで足利将軍家の嫡流に貢献すれば、いずれ大きな恩恵を得られるものと踏んでいただろう。この時期の多くの氏族が先の見えない中、足利兄弟の間で別れて戦う動きを見せる一方、仁木兄弟は一丸となって尊氏と義詮の父子に仕えた。
「ありがとうございます……ですが、人心は思う通りにはならぬものにございます。少なくとも今のままではいけません。ただ手を拱いて裏切りの数々を見過ごせば、いつか恵源公との縁故を頼って義詮様を見捨てる者が続出するでしょう。あってはならぬ事です」
「確かに……斯波と二階堂の裏切りに我は何の手も打てなかった」
「はい。ですので……今朝方、私の元に師直殿から指示が飛んで参りました。義詮様の同意を得た上で、その威信回復策を採れと」
「ほう!師直が!流石だな!して、どのような策だ?」
「はい。それは──」
観応二年正月十三日、義詮は少し前の斯波高経や二階堂時綱の事例と違い、上杉朝房・同朝定・今川範国の屋敷に火を放たせた。
更なる裏切り者が出れば、それこそ恐ろしい目が待っているぞと京の配下の武将たちに脅しを掛けた格好である。だが、これが裏目に出てしまった。比叡山の桃井軍が異変を感じ取ったのである。
やっと戦機到来と言わんばかりに十日程度の休息を打ち切った。
日記『園太暦』によれば、桃井軍は午後に雲母坂から大軍で下山し始めたという。松ヶ崎や薮里の一帯で火の手が上がる。戦禍が目前に迫り、義詮は息を呑む。試練の時が訪れようとしていた。
〜2〜
観応二年正月十三日、桃井軍の襲来報告に触れ、京の幕臣たちは次期将軍・足利義詮を擁したまま、直ぐに対応策を講じた。法成寺において軍勢を整え、いつでも迎撃できると誇示したのである。
結局、この日は戦闘に発展しなかったものの、情報が錯綜して京は混乱していたようだ。そうした話は義詮の耳にも届いている。
「桃井軍の所在地が浄土寺付近と言われたり四宮河原と言われたりするのは兎も角……南東の合戦まであれこれ言われるのはなぁ」
「まぁ良くある事です。義詮様」
「しかしなぁ。鳥羽に撤退したと噂されては父上の軍威に疵が」
「お気持ちは分かります。ただ、男山の攻略がそう簡単でない事は京人なら全員が承知している事です。そこまで深刻に考えてはいないでしょう。それより心配なのは……味方の兵の乱妨狼藉です」
「何……義仲軍の教訓を知らぬ者が居ると言うか?氏頼殿」
「……畏れながら」
日記『園太暦』によれば、京では千葉軍を筆頭に士卒の押し入りが相次ぎ、絶え間なく騒ぎが起こっていたという。高級住宅街では木戸を設けて、セーフティ・ゾーンを設けようとしたが、それでも侵入の下見をする者が居り、公家衆は怯えて武家に泣き付いた。
当然、検非違使でもある氏頼ならば、そうした声を幕臣でも間近に聞ける立場だ。氏頼は必然的に京の治安維持に関心を持った。
「不味いぞ。このままでは我が悪者、叔父上が正義ではないか」
「は。ですので、密かに味方の監視体制を作りたく存じます」
「良し。全て許可する。氏頼殿の思うようにせよ」
「忝く存じます」
しかし、耳が聡くなるのも考え物である。正月十四日、日暮れ頃に新たな裏切り者の気配が生じ、義詮たちはいち早く察知した。
須賀清秀である。かつて直義に朝廷の前で師直同様に排除対象として名前を挙げれながら、御所巻で直義の三条坊門邸に駆け付け、師直相手に使者を務めた人物だ。この清秀の翻心を悟り、義詮は素早く決断した。討ち手を清秀の宿に派遣したのである。だが──
「駄目です!義詮様!どうも気取られていた様子です!」
「討ち漏らしたのか?頼章」
「はい。討ち手ども曰く、踏み込む直前にぬるりと。須賀は裸足で逃げ出していたようで……側近どもが戦っている間に安居院を西へ向かって大宮を北へ、その後は行方知れずです。しかも、具合の悪い事に、須賀の側近一名が内裏に侵入しようとしておりました」
「何だと!?それで、どうなった?」
「氏頼殿が上手く収めてくれました。隠蔽させるそうです」
「そ、そうか……うん、なら良いのか?しかし、弱った」
この件を切っ掛けに義詮たちは再び北朝皇族の警護体制を見直さざるを得なくなった。略式で慌てて崇光天皇を持明院殿に移動させたのである。日記『園太暦』の著者・洞院公賢は太政大臣の経験者として一連の流れを察知し、かなり戸惑って裏取りしたようだ。
さしもの義詮も居た堪れなくなったのだろうか。このまま自身が京に居たまま北朝皇族の身に危険が及べば、名声に傷付く事を本能で察知したのかもしれない。勿論、父親の尊氏に比べれば酷く未熟な勘なので、この判断が却って危険だとは微塵も思っていない。
「頼章……氏頼殿を呼んでくれ。大事な話がある」
「……は」
近年こそ再評価の進む義詮であるが、少なくとも古典『太平記』の著者は全く快く思っていなかったらしく散々な叙述である。
その最初の判断ミスが今にも起ころうとしている。諸々の後処理を終えた後ながら深夜になって呼び付けられ、氏頼は内心陰鬱に思いながらも顔に微笑を貼り付けたまま、義詮との面会に臨んだ。
「は?……今、何と申されました?」
「だから……京から逃げようと思うのだ。このまま二方面作戦を強いられては埒が開かん。いっそ我が父上の元に向かえば、師直も軍略が立て易くなると思うのだ。京の兵力も逃亡者続きですっかり少なくなってしまった。このままでは保たん。そうではないか?」
「……確かに兵力はすっかり寂しくなってしまいましたが」
古典『太平記』によれば、桃井軍対策で京の兵力を数え直した際は三万余騎だった筈が、気付けば三千余騎となり、関所の番人たちも逃走者を見習ってしまった結果、義詮の決心直前には何と一門外様の家来衆だけで計五百余騎の有り様になってしまったという。
流石にこれは多少の誇張が入っているにせよ、この頃の義詮の兵力が何とも心許ないものになってしまっていた事は確かだろう。
「氏頼殿、お主も近江国に戻って兵馬を集め直すのだ。山崎の父上と近江国の軍勢で敵を挟み撃つが良策、家長ならきっとそう申すに違いない。顕家軍が押し寄せた時、似たような事を申していた」
「え、は?いや……その間、京はどうせよと?」
「何、直ぐに奪還すれば問題ない。実を申せば、もう頼章たちと相談して心を決めたのだ。何も申すな。明日の未明にも出発する」
(このッ……そんな訳あるか!?保守思考の頼章が同意する筈が!)
しかし、現実は無情であった。次期将軍の義詮にここまで強く言われてしまえば、これ以上の抗弁が氏頼に出来る筈も無かった。
観応二年正月十五日の未明、義詮以下の軍勢が次々と京から落ちていく。師泰邸が留守居の決断で火に包まれ、数々の煙が今回の義詮逃走の象徴となった。なお千葉軍はしれっと南朝に寝返った。
京にて閑古鳥が盛大に鳴き始める。次期将軍・足利義詮が世にも重大な「忘れ物」に気付くのはもう少し経ってからの事である。