崇永記   作:三寸法師

24 / 202
◆8

〜1〜

 

 

 四つ目結で控えめに彩られた白い布地による陣幕に囲まれた温泉において二人の男女が肩を並べていた。

 一人は俺。幼いながら宇多院の流れを引く武家の名門佐々木氏が宗家六角家の現当主である。

 もう一人は魅摩。同じく佐々木氏の分家京極家当主の娘だ。

 

 

「あたしさ、本当にあんたが裏切ったんじゃないかと思った」

 

 

「な訳。天下の趨勢が俺に分からないとでも?」

 

 

 まずは中先代の乱で北条時行を滅ぼし、後醍醐への失望感が広がる中において再び足利尊氏の武威を天下に示す。

 恐らく後醍醐は直ぐに呼び戻そうとするだろう。しかし、これには応じない。決別し、密かに持明院統と結託する。

 次に、北畠顕家への備えを残しつつ、西に大軍で戻り、新田義貞や楠木正成と干戈を交える。京から大覚寺統の一派を追い払い、持明院統の帝を担いで尊氏自ら征夷大将軍として名乗りを上げ、源氏による武家の世を取り戻すのだ。

 

 

「天下は再び源氏の手に還る。俺は生まれてこの方、ずっとそうなることを夢見てた。いや、俺だけじゃない。全ての源氏が望むことさ。頼家公や実朝公、そして公暁阿闍梨の無念を晴らすことは、北条に抑圧され続けた全ての源氏の願いなんだよ」

 

 

「……新田のバカ殿も源氏じゃなかったっけ?」

 

 

「新田はほら。ちょっと頭がアレだから」

 

 

「まー、それもそうね。……にしても、あんたがそこまで思ってたなんてね。疑って悪かったわよ。昔、鎌倉で北条時行を女装させて楽しんでたって聞いたもんだから」

 

 

「……何それ。お父上から聞いたの?」

 

 

「勿論。最初は耳を疑ったわ。得宗家の嫡男に何してんのよって」

 

 

 きっと最初に鎌倉に行った時の話だろう。少なくとも道誉にはバレていたという訳だ。だからこそ、あらゆる犠牲も厭うことなく、かつての六波羅陥落に関与した甲斐があるというものだ。

 もし放置していれば、その時に六角が潰されていたか、よしんば生き残れていたとしても、今現在に至るまで六角は北条との疑惑を払拭し切れていなかっただろう。

 

 

「魅摩姉、安心して。戦場で敵に容赦するつもりはない。尊氏様の、源氏のためならどんなに可愛い友だろうと、完膚なきまでに討ち滅ぼす。それが武士としての俺の生き方だ」

 

 

「……それはもう良いんだけどさ、あんた本当に男に興味ある訳じゃないのよね?不安で仕方ないんだけど」

 

 

「あのさ、むしろ女子にしか興味ないんだけど。何回同じこと言わせんだ。頼むから人が真面目に話してる時にバカなこと言うのは止してくれ」

 

 

「はいはい。ちゃんと子ども残す気なら別に良いのよ」

 

 

「……それこそ当主の義務でしょ。その気がない訳がない」

 

 

 ポツリと呟いた途端に、魅摩は耳たぶまで顔を赤く染めた。単に長湯で逆上せたというのではないだろう。

 相手が魅摩だから口が過ぎてしまったとはいえ、今の発言はセクシャルハラスメントに抵触していたかもしれない。

 今一度、自重を肝に銘じた。浅慮を注意してくれる人間は、この世にはもう何人も居ないのだから。

 

 

 温泉ならではの水音が鳴り響く。浮ついた場の雰囲気を誤魔化すかのように、魅摩は俯きながら口を開いた。

 

 

「ねぇ、三郎。若ちゃんと戦いたい?」

 

 

「当然さ。叶うなら、この手で討ち取りたい。六角の当主として北条を討ち果たし、佐々木の惣領たる所以を世に知ら示したい」

 

 

「そう。分かったわ。三郎、背中見せなさい」

 

 

「?……ああ」

 

 

 意図を図りかねるも、言われた通りに背を見せる。完全にガラ空きになった背中に、魅摩が張り付いた。

 

 

「ッ!」

 

 

「今からあたしの言う通りにして。そうしたら明日の決戦、戦えるようになるから。神力があれば、肩の怪我くらい何でもないから」

 

 

「……今は藁にも縋りたい思いだ。魅摩姉に全て委ねる」

 

 

 民間療法でも何でも良い。兎に角、戦場で時行と見えたい。

 直義や孫二郎ら関東庇番衆の手を焼かせた世にも稀な逃げ上手の時行を討ち果たし、尊氏からの信頼を確たるものとするために。

 

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 傍目には俺が故障した身でありながらも、無理を押して出陣しているようにしか見えないだろう。

 しかし、俺は知っている。今日は妙に身体の調子が良い。きっと手柄を立てられる。再び落ち着いたなら、魅摩にはよくよく礼をしなければならないだろう。

 

 

「いよいよ始まるか。馬淵、準備の方は?」

 

 

「は。いつでも。殿のお下知のままに」

 

 

「良し。そなたのような蕭何のごとき働きが出来る能臣あればこそ我らは勝利を掴めよう」

 

 

「殿。それは褒め過ぎにございます」

 

 

 建武二年八月十八日。文字通り相模国にある川である相模川において快進撃を続けて辿り着いた足利軍と報せを受けて急遽出陣した北条軍が睨み合う。

 不安に思う時行を亜也子が笑みと共に励ました頃、攻め時だと判断した足利家家宰である師直が命令を発した。

 

 

「さて、決めるか。頼国、弟の仇取ってこい」

 

 

「……」

 

 

 中先代の乱における最大規模の戦として後に相模川の戦いと呼ばれるこの戦は、今は亡き庇番衆寄騎今川範満の兄である式部大夫頼国が先陣を切ったことで幕を開けた。

 ツノが生えた牛面を被る頼国は、川の流れの影響を防ぐ効果がある馬筏という隊形を組み、北条軍目掛けて突進した。

 

 

「殿。今川の突進力は異常です。渡河戦において最も重要なのは如何にして敵を力で押し切り、河を渡るか。もしかすると早々に決着が着くやも知れませぬぞ」

 

 

「まー、確かに。頼国は馬鎧を装備している。あれがあれば、弓矢で馬を狙って勢いを削ぐことは難しい。おまけに式部大夫殿の馬鎧はご丁寧に敵を突き殺すための穂先まで付いた特別製だ」

 

 

「申し上げます!今川式部大夫殿、お討ち死にとのこと!」

 

 

「……は?」

 

 

「何と!」

 

 

 あまりにも早すぎる報告は、討伐軍の右翼後方にある六角軍本陣に詰める武将たちを驚かせるには十分だった。

 何せ俺たちは東海道や箱根における数々の戦で今川軍の実力が相当なものであることを知っていたのだから。

 

 

「早過ぎる。戦が始まってからまだ半刻も経っていない」

 

 

「名越高範*1を生け捕りにしたあの今川が……信じられん」

 

 

「……殿」

 

 

「申せ。一体何があったと言うのだ?」

 

 

「それが──」

 

 

 斥候の話によれば、次のようなことであったらしい。

 

 

 師直の命令に従った頼国は重装騎兵を率い、渡河戦で勝利を収めるのには十分過ぎる程の勢いと個人の武力を以てして、北条軍を蹴散らそうと攻め掛かった。

 普通の相手であれば、そのまま上陸して簡単に敵軍の陣形を大きく乱すことが出来る猛攻だったのだろう。

 

 

 しかし、諏訪頼重によって整えられた北条本軍は、かつて神泉苑で足利と互角以上に戦った名越高邦率いる軍や、庇番最強との噂も囁かれていた三浦時明の軍とは一味違った。

 

 

『こっ、こいつら!上流から筏で!』

 

 

『ケケケ。川の真ん中じゃお馬さんも動けまい』

 

 

『こっちは地に足着いた白兵戦だ!』

 

 

 頼国率いる重装騎兵たちの渡河に対し、諏訪・北条連合軍は上流から筏に乗った歩兵たちを突撃させた。

 つまり、横槍を入れて騎兵の進軍速度を鈍らせたのである。

 

 

「後続の部隊と分断され単騎になった式部大夫殿は時行直の郎党に討ち取られました。何でも兆若党と申すのだとか」

 

 

「兆若党……孫二郎から聞いている。根津頼直の息子にして渋川義季に致命傷を与えし根津小次郎。望月重信の娘で石塔範家を討ち取りし望月亜也子。そして、今川範満を殺せし正体不明のイケ面である吹雪。彼ら総がかりならば、然もありなん」

 

 

「中々どうして侮れませんな」

 

 

「ああ。いや、それは兎も角として今の状況は?」

 

 

「はっ!長井式部少輔様、赤松雅楽助殿らが主となって応戦しておられる様子ですが、北条泰家の鼓舞によって勢い付いた敵軍の前に押されております!」

 

 

「相分かった。苦労。引き続き探れ」

 

 

「は!」

 

 

 額に文字が浮かぶという真偽不明の噂がある泰家の名前を知らない者は今の日本に一人も居ないだろう。

 単に鎌倉幕府最後の得宗である修理権大夫高時の弟であるというだけではない。帝暗殺未遂の首謀者なのだ。

 共謀した西園寺公宗は出雲国へ流罪になる筈も、何故かいつの間にやら処刑されていたが、泰家は今もこうして生きている。

 

 

「泰家を殺せば……いや、どちらにせよ殺さねばならんか」

 

 

「……殿?」

 

 

「何でもない。俺は冷静だ」

 

 

 北条残党を殲滅した後に、俺が本当に時行と通じていたのだと発覚しようが、足利首脳陣は次の後醍醐や楠木らとの戦いを視野に入れざるを得ないだろう。

 宇多源氏佐々木氏の嫡流としての血を見込み、いたずらに殺そうとはしない筈である。世に言う大人の対応というヤツだ。

 だが、それはそれとして発覚しないに越した事はない。あくまで頼重が六角の力に目を付けて書状を寄越したのだと認識されている方が、よほど今後に有利であることは間違いない。

 

 

「時行、兆若党、そして頼重並びに泰家。皆討ち取らねばな」

 

 

「殿のご決心、胸に沁み入りました。我らは力の限り戦います。殿の御為に!」

 

 

「「「殿の御為に!!!」」」

 

 

「感謝する。忠義心溢れる者たちよ。そなたたちのお陰で私は江南の支配者として面目が保てるのだ。故に──」

 

 

「殿!足利本陣より使者が参りました!」

 

 

「……良いところで何だ。まー良い。通せ」

 

 

「御意!」

 

 

 六角本陣が盛り上がったところでやって来た使者は、高師直や師泰の弟である重茂であった。

 師直や師泰を体育会系で監督以外の何者にも遠慮せず好き勝手するようなタイプだとすれば、重茂は一定の実力を持ちながらもどこか飄々としているようなタイプの人間である。

 

 

「六角殿。お疲れ様です」

 

 

「お疲れ様です」

 

 

「兄者より伝言です。六角殿におかれましては、至急南に赴いて渡河した後、前がかりとなって手薄になった北条本陣に奇襲を仕掛けるべしとのことにございます」

 

 

 どこかで聞いたような作戦である。俺は脳裏に袈裟姿の腹黒坊主の姿が浮かび上がるのを感じた。

 

 

「さ、左様か……武蔵権守殿は他には何か?」

 

 

「この一戦で必ずや大巧を挙げ、佐々木氏嫡流としての誉れを決して忘れることなく、箱根での失態を挽回するべしと」

 

 

「あー、それは……そうですね。はい」

 

 

 どうやら俺は尊氏や直義の反応ばかり気にして、執事である師直がどう思うのかを失念していたらしい。

 間違いない。師直は怒っている。

 

 

「ご安心を。仁木殿も六角殿と同じく、北から奇襲を仕掛けます」

 

 

「相分かった。兄君に全力を尽くしますとお伝えを」

 

 

「承知しました。どうか御武運を。失礼致します」

 

 

 戦時であるため、重茂は速やかに六角本陣から姿を消して足利の本陣へと戻って行った。

 途端に六角本陣の空気は悪くなった。皆が口々に道誉が悪いと愚痴を溢している。今回ばかりは半分ぐらい当たっているかもしれないので、普段と違って俺も強く嗜められない。

 

 

「足利め。何という采配をしてくれる。よりにもよって、そんな危険な役目を御大将に押し付けるとは。まだ御年十歳なのだぞ」

 

 

「どうせ道誉がここぞとばかりに征東将軍様に何か吹き込んだんだろう!そうに違いない!」

 

 

「ああ、そうだ。道誉め。あの黒い面を引っ叩いてやりたい」

 

 

「「そうだ、そうだ!」」

 

 

「我が君。こうなったら、いっそ向こうに突撃仕掛けませんか?」

 

 

「木村。それは言い過ぎだ。行くぞ。これが成れば、俺は間違いなく此度の反乱鎮圧における武功一等だ。皆も手柄を立てられる。これはむしろ好機であるぞ」

 

 

「「「はい!殿のご随意に!!!」」」

 

 

 何なんだこいつら……という俺の胸の内はさて置き、六角軍の将兵たちは急にキビキビと動き始めた。

 かくなる上は拙速が肝心だとばかりに、陣に置き去りにして構わない物を放置しては各々が監督する部隊に喝を入れ、あっという間に出立の用意が済んでしまった。

 

 

「皆、よく聞け。南に行く時は旗を下げ、静粛にかつ迅速に移動するのだ。さもなくば、敵に捕捉され待ち伏せに遭う」

 

 

「「「御意!」」」

 

 

 息を潜め、馬でさえ人間たちの空気を読んで嘶き一つ零さないように振る舞う中で、討伐軍右軍後方に位置していた六角軍は、渡河を試みるための南下を開始した。

 先に行かせた斥候から、ここまで来れば十分と言われたポイントで各々が目配せをする。いよいよ渡河の開始である。

 

 

「皆、これを見よ。そして静かに聞け」

 

 

 俺は帯びていた太刀を掲げる。この太刀の名前は佐々木に属する者であれば、誰もが知っているものである。

 

 

「綱切ぞ。写しではない。正真正銘、本物の綱切である」

 

 

 綱切とは、かつて佐々木秀義の四男坊高綱が宇治川の戦い*2において梶原景時の息子景季と先陣争いを演じた際、川の中に張られた綱を切るのに用いたと言われる刀である。

 戦後、この名刀は桜田十郎という者の手に渡ったが、長い年月を経て遂に佐々木氏宗家当主のものとなったのである。

 

 

「この刀によりて高綱公は源義仲討伐の口火を切った。我らは惜しくも先陣を今川に譲ることと相成ったが、今にして真の先陣を切る好機を得た。この刀を持つのは佐々木氏惣領にして六角家当主たるこの千寿丸である。私に着いて来い。そして、義仲と同じく信濃国より反乱を起こした北条時行及びその一党を悉く討ち取るぞ」

 

 

「「「……!!!」」」

 

 

 皆が次々と頷くのを見て、俺は刀で対岸を指した。敵の姿は1人も居ない。ただ、川に両軍の屍が流れているだけだ。

 俺が先だって川を渡ると、続々と六角軍の将兵たちが命令通りに静けさを保ちつつ渡河を開始した。

 各々の目には言葉では言い表せない程の闘志が宿っている。

 

 

「やはり八郎殿の申されしことは真であったか」

 

 

「!?」

 

 

 六角軍の皆が渡河を終えようとしていた時、どこからか声が凛とした響いて来た。すわ、敵襲か。しかし、姿は見えない。

 

 

「六角千寿。今ここでお前を討ち取るのは容易い。だが、我が主君北条時行が認めし友である。引き返すなら今の内だが、さて賢明なる六角家当主殿は一体どうされる?」

 

 

 六角軍の将兵たちが奇怪な現象に驚いた。俺自身、困惑の色を隠すことが出来ない。しかし、今の俺は一軍の大将なのだ。いつまでも迷ってばかりではいられない。

 

 

「今日の俺は冴えている……魅摩のおかげだ」

 

 

「!?」

 

 

「だから……そこだ!」

 

 

 誰も居ないと思われた空間に、俺は冴え渡る感覚に従って綱切を用いた斬撃を放った。突然のことに六角軍の皆が唖然とする。

 

 

「誰かは知らぬが、相当な使い手と見た。今の俺が討ち取るのは決して簡単ではないし、何より労力に見合わない」

 

 

「……」

 

 

「北条時行に伝えろ。帝暗殺を企てた泰家を用い、囚われの殿下をお救い申し上げなかった己の至らなさを恨め。俺は俺の道を貫く。だから今すぐ、赤く染まった川の水で己の首を洗っておけと!」

 

 

 異様なまでに気配の薄い武装した神官は舌打ちすると、すぐに退散すべく逃げ出した。まるで幽霊のような奴だ。

 さて、敵がこうして一人で来た以上、ただならない状況に置かれていることは言うまでもないだろう。俺は即座に困惑する六角軍皆の士気を取り戻すことにした。

 

 

「皆、聞け!たった今、私はこの綱切の……御先祖の加護を得て、敵の討ち手を撃退した。だが、一つ分かったことがある。口惜しいことにこの奇襲はバレているぞ!」

 

 

「!……では」

 

 

「しかし、今から引こうとすれば、敵の伏兵に背後を突かれ我らは全滅を免れん!活路は前だ!前進せよ!敵の伏兵を撃ち破り、北条時行の首を獲れ!」

 

 

「「「応ッ!!!」」」

 

 

「四つ目結の旗を掲げよ!喚声上げて敵を慄かせるのだ!」

 

 

 ここからは時間との勝負である。幸いなことに、対岸への渡河には成功した。後は勢いに乗る北条軍の刃が尊氏に届くよりも早く敵本陣を襲うことが肝心である。

 

 

「殿!駆けたままで結構ですから、西をご覧下さい!北条軍が足利本陣に迫っております!」

 

 

「ああ、もう……!良いから今は前だ!雑魚には構うな!適当に殴り付けて次の敵を相手にしろ!首を打ち捨てい!」

 

 

「皆の者!打ち捨てだ!」

 

 

「大物の首だけ狙っておけば良い!皆疾く駆けよ!」

 

 

 見れば北条軍は少なくとも南に急拵えではあるが、備えをしておいたようである。上空から聞こえる鷹の鳴き声に一切気を取られることなく、俺は進んだ。

 敵は盾を並べて弓矢を構えている。見れば、馬に乗ってこちらを見遣る吹雪の姿が弓兵たちの向こう側に小さくあった。

 俺たち六角軍が、刀や薙刀といったそれぞれが持つ武器で今にも自分たちを狙って放たれるであろう矢を払い、北条軍の防御陣形に突っ込むのだと心を決めたその時であった。

 

 

「あれが尊氏だ!」

 

 

「六角が時行様に迫るより、我らが尊氏を討つが早いわ!」

 

 

「死ねぇ!」

 

 

 どうせ泰家あたりの鼓舞で前を向き続けていたのだろうと考えられる北条軍の兵士たちが討伐軍総大将の首を狙う。

 北条軍の放った矢が尊氏の身体を掠める様があたかもスローモーションのように見えた直後、世界が一変した。

 

 

「うわああぁぁ。もう無理。もう駄目だ。敗けるぅうう!ねぇこんなの無理だよぉ。直義ぃ、師直ぉ、自害しかないかなぁ?ねぇ、自害しかないかなぁ?」

 

 

 短刀を構えて頭を抱えたまま、ガクガク震えた尊氏は今まで目にしたことがないような慌てぶりだった。

 しかし、そのままでは終わらない。

 

 

「自害しかない」

 

 

 あろうことか尊氏は短刀を自らの首に突き刺した。

 驚いた俺は思わず、手で六角軍の進軍を制止させる。将兵たち皆が次々と止まっては西を見やり、驚きを露わにした。

 

 

「……嘘だろ」

 

 

 道誉や師直以外の討伐軍は勿論、優勢に持ち込んでいた北条軍までもが突然のことに呆気に取られ、戦う手を止めていた。

 やがて尊氏は呟いた。首を貫通した筈の短刀を引き抜いて。

 

 

「死なないなァ……仕方ない。戦うか」

 

 

 後の室町幕府初代将軍足利尊氏。程なくして鎌倉殿と呼ばれることになる天下人の威光が、相模川流域に放たれた。

*1
北条軍先鋒大将名越高邦の弟。母親が今川氏出身であったことから助命された。後年は今川一門として那古野に改姓

*2
源義仲と源範頼・義経の間で起こった戦い

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