〜1〜
観応二年正月十九日、北朝政府の意思を受け、俺は男山の直義の元に内心嫌々ながら参上した。現在の直義傘下では最大の高待遇として本領安堵その他の条件を提示される中、この俺が近江国守護として追加させて貰った項目こそ、万が一の際に関東勢を追い返す許可である。たとえ関東勢の総大将が上杉憲顕であろうと同じだ。
どうして受諾されたのか。理屈は簡単だ。あくまで直義の反乱が源氏の力を結集して天下の奸賊・高一族を排除する正当なものであるのなら、非源氏の上杉氏にデカい顔をさせる訳にはいかない。
「お、お待ちくだせぇ、恵源サマ!幾ら何でもそれは!」
「既に朝定に中国地方入りを託したのだ。これ以上、上杉氏の力を借りては戦後の力関係に偏りが出る。そうだな、氏頼?高兄弟を滅ぼそうというのに、上杉氏が取って代わる結果では意味がない」
「その通りにございます。もし憲顕殿が関東で師冬を討ち、その勢いのままに合流して参るのであれば、軍功第一の座は確実に彼の者の手に。そうなれば、もはや憲顕殿は単なる関東執事で収まらなくなってしまいます。恵源公が御健在の間は兎も角、次世代の事を考えた時、どうなるでしょうか。あたかも梶原景時を討って北条時政の一門が力を握るようではありませんか。これではいけません」
「そういう事だ。桃井、納得したか?他の者たちも」
「「「……」」」
憲顕の真心の問題ではない。将来の安寧を見据えた時、軍功の集中で終戦後に特定の武家が過度な力を持ってパワーバランスが崩れるような事態は避けるべきという極めて当たり前の理屈である。
ましてや上杉氏がかねてより非源氏として、高一族と比較できるような足利家被官という立場であった事を考えれば尚更だ。しかもタチの悪い事に、元々足利家と縁戚関係を結んでいたという点で、ある意味では高一族よりずっと潜在的な佞臣適性を有している。
高一族を君側の奸、要は「第二の北条」と危険視し、これを滅ぼそうというのに、上杉氏が新たな「第二の北条」となってしまっては本末転倒なのだ。桃井直常以下ぐうの音も出ない様子である。
勿論、俺としては上杉氏が関東管領として活躍する分には全く構わないものの、ここで上杉憲顕の中央介入を防いだ実績を作っておく事により、いずれ尊氏様が勝利を掴んだ時、忠誠をアピールできるようにしておくという意味合いが大きい。やむを得ず直義に膝を屈していた時であっても尊氏様の事を思っていた証になるのだ。
「源氏の繁栄を思う氏頼の気持ち、我が胸に沁み入った。関東の情勢は逐次情報を集めている。もし師冬が関東の軍勢を率いて攻めて参った時も頼むぞ。数万騎の江州勢なら充分に対抗できる筈だ」
「は!御安心を。幾ら師冬が才気溌剌と言えど、生憎この私には及びません。いざ合戦となれば、張遼が孫権を破ったが如くです」
「期待している。氏頼が我らの背後を見てくれるのだ。憲顕が徒らに五万騎ないし十万騎以上の軍勢を動かす由はない。関東で光王殿を支える事に専念して貰おう。高兄弟は既に畿内に居る面々で十分討てる。まさか憲顕が居なければ大業は成せないと抜かす軟弱者は此処におるまい。氏頼、暫く情報収集に努め、時が来れば再び我が帷幕を訪れよ。引き続き北朝廷尉として京の安寧に尽くすのだ」
「承知しました」
してやったり。俺はそう思った。この翌々日に直義が改めて比叡山延暦寺に近江国三箇荘の寄進手続きを行ったという話を聞いても何一つとして動じなかった。それ程に当分は気が楽と踏んでいたのである。しかし、十日後に再び訪れた時、この俺は思い知った。
男山の麓で一つの首が晒されていた。思わず息を呑む。直義は変わったのだ。老いて昔より感情に囚われるようになったらしい。
「この者は……確か」
「おや、氏頼。来ていたか」
「……恵源公。どうして興福寺の重役の首が」
「ふ。興福寺はお前の嫌う旧仏教勢力ではないか。何か不満か?」
「不満と言いますか……男山近辺で首を晒すというのはどうも」
「正しいな。だがな、氏頼。仕方あるまい。内侍原好専だぞ?」
内侍原好専の名は俺も当然知っているが、それ以上に満足そうな笑みの直義が気になった。かつて護良親王を捕え損ねた事で有名な内侍原好専だが、近頃では昨秋の逐電直後の直義を匿いながらも、不信感を持たれて逃げられたらしいという噂で持ちきりだった。
直義は今になって内侍原好専を誅殺させたらしい。後で聞いた話によれば、鬱憤を晴らすために信州武士の知久某に五百余騎の兵馬を貸し与え、二十一日にその身柄を男山に移させたようだ。勿論、好専は潔白を主張したものの、結果は見ての通りである。従者は東西に離散し、親戚一同没落したというのだから救いようがない。
何はともあれ、俺は危機感を覚えた。あくまで尊氏様のために尽くすのだというスタンスもこれではどこまで通用するか不安だ。
「して、此度は何用か?氏頼。関東の情勢で何かあったか?」
「……出直して参ります。去る十七日、遂に高師冬が討ち取られたそうです。その後、憲顕殿は上洛に向けて動いていると。筆は時に刀より強力です。一週間以内に書状を頂ければ幸甚に存じます」
「分かった。此方でも情報を精査でき次第、望みの書状を託す事にしよう。憲顕が内包している将兵の内情が不透明だ。生粋の南朝武士も加えてしまっておるやもしれん。それ次第で文面を調整するとしよう。無論、憲顕が進んで鎌倉撤退を決断できるようにな」
「はい。お任せ致します」
将軍執事・高師直を滅ぼすという直義最後の大業も仕上げの局面に入りつつある。鎌倉公方と関東管領の将来を思えば、そのステージに上杉憲顕を巻き込むべきではない。この考えは変わらない。
あくまで直義の威を借りて平和的にお帰り願えるなら、それに越した事はないのだ。いずれ直義もまた犠牲となる最終段階が待っている以上、今ここで我が六角軍の兵力を使い減らしたくはない。
観応二年の正月が終わる。上杉憲顕が京を睨む中、近江国守護の俺は決して東国勢の介入を許さじと着実に根回しを行っていた。
〜2〜
その報せを聞いた時、記憶にある限り今までで最も深く溜め息を吐いていた魅摩の様子が印象に残った。昨年末の守山合戦の勝利が嘘のようだ。殿様が遂に男山の直義に降ってしまったのである。
ここ幾月、直義派の勢いは凄まじい。上野軍敗北も何のそので畿内周辺を席巻している。北陸から既に桃井軍が加わり、細川顕氏も四国全域を制して上洛したとかしてないとか噂になっている。
「まぁ、将軍父子が京をお捨てになりながら、氏頼殿だけ近江国に帰る訳でもなく留まる事になった時点で、恵源傘下に吸収されるんじゃないかとは薄々感じてたけどね。北朝武将として御兄弟の内輪揉めには中立と言い張るつもりだったんだっけ?甘いよ。汚い手に躊躇が無くなりつつある恵源公だ。北朝皇族に直接話を付ける程度は朝飯前さ。積極的に主導権を握りに行かないと話にならない」
「何それ。殿様を批判する気?」
「……はァ。一応、評価できる点はなくも無いよ?仮にも恵源派武将の末席に加わっておけば、外敵は心配無用だ。氏頼殿の転向で近江国は親父が細工する余地もなく恵源派の手に堕ちた。先に信濃国守護の小笠原氏が転向してるから、挟撃を恐れて美濃国の土岐軍は動きたくとも動けない筈だ。かねてよりの南朝軍も今は無闇に手を出せないだろうよ。一旦、師直派武将の所領奪取を優先するさ」
「という事は──」
「兵力を温存できる。もし氏頼殿が高兄弟の排除という恵源派の目標が達成された後、再び将軍か義詮様を担いで捲土重来を図る気なら理解できなくもないね。上手く運ぶかどうか知らないけどさ」
「……お二人の申されてる通りだ」
「は?何だって?」
「今、重臣会議で直綱様と定詮様のお二人が珍しく息を合わせて皆を落ち着かせてるんだよ。殿様が男山に向かわれたのは、恵源公を油断させて当座の難局を凌ぐために過ぎず、いずれ将軍烏帽子子としての大志を天下に明らかになさるに違いないって。だから今は逆襲を見据えて皆で籠城を続け、力を蓄えようって話になってる」
「……それを大っぴらに皆の前で披露したのか」
「うん。だから士気が落ちるどころか上がってる位なんだ。昔から直綱様と定詮様、あまり仲が良くなかったでしょ?殿様が居ないと明らかに空気悪くなってたし。でも、定詮様が上野軍に負けて殿様の帰国を仰ぐ事になった経験が良い薬になったみたい。二人とも歩み寄って、殿様御不在の間の六角軍を上手く持ち堪えさせてる」
「あっそう……そういう話なら……良かったのか?」
「?」
魅摩の歯切れ悪さは気になったものの、殿様が何やら深謀遠慮を働かせ、当主実弟の直綱様と同じく定詮様の留守居が功を奏しそうだという見込みもあり、六角党は比較的落ち着いている様子だ。
これなら大丈夫だろう。そう気を強く持って二月初旬を迎える。
次第に高兄弟が合流して、播磨国で石塔軍と交戦し始めたらしいという情報も入って来た。どこか高みの見物という意識がありつつも六角党が互いに弛緩厳禁を確認し合っていた矢先の夜だった。
不意の密かな合図の物音に瞼が開く。最初は懐かしさを覚えたのも束の間、眠りから完全に意識が醒めると私は直ぐ飛び起きた。
「ッ!?殿様、何で!?」
「しッ。静かに皆には内緒で来ておるのだ」
「え、えっと……私、とっくに女を捨てた身の筈だよね?」
「その通りだ、望月甲賀三郎。故に勘違いは無用ぞ」
「あ、うん」
「用があって美濃国との国境沿いに潜伏する。あくまで甲賀衆の少数精鋭のみ連れて行く。かと言ってお前を連れて行くという訳でもないのだが、その前に……どうだ?皆の様子は?直に聞きたい」
どうやらモノのついでに立ち寄っただけらしい。少しの間だけ上がった心拍音を抑えつつ、私は答えた。直近の六角党の様子を。
定期的に文書で報せているのだが、やはり生で確認しておきたい情報もあるという事だろうか。殿様の考えは深淵に満ちている。
「大体分かった。ほぼ思い通りだ。今のところは……だが」
「……殿様。美濃国に何しに行くのか聞いても良い?」
「虎寿丸の援護だ。先に密命を与えて送り出したのだ」
「ああ、あの子」
蜂屋虎寿丸は少しだけ知っている。才気に満ちて、近年ずっと京の屋敷に滞在して殿様の寵児として励んでいると噂の子どもだ。
決して世間一般に顔が売れている訳ではないものの、足利幕府に饗庭命鶴丸があるなら佐々木六角党には蜂屋虎寿丸が居ると家中で評判だ。勿論、女衆において魅摩の前では禁句の扱いだという。
「でも、殿様自ら援護するなんて……そんなに重要な密命を?」
「まぁな。上杉軍を追い返す役目、と言ったら信じるか?」
「……師冬が負けたんだっけ?そう言えば」
「ふむ。甲賀衆の忍びの誰ぞに聞いたのか」
「うん」
詳しい話は知らないが、師冬は関東支配の主導権争いに敗れてしまったらしい。対抗馬の関東執事・上杉憲顕については怪しい人体実験に夢中だったという話だけ仄かに覚えているのだが、まさか師冬を制する程の実力を身に付けたとは意外だ。しかも、殿様の口振り曰く、関東制覇どころか上洛すら考えてしまう勢いのようだ。
この十余年の間、幕府武将は参照できる兵書も動員可能兵力も増している。老将の戦闘力は例外としても、個々人の実力が建武大乱の日々から見違えて伸びたと考えておくべきなのかもしれない。
つまり、従来の先入観を捨てなければ、今現在の武将同士の力関係を掴み損ねて、足元を掬われてしまう危険があるという事だ。
しかし、やはり気になるのは殿様の考えだ。この程度の理は乱が始まって私が時代の変化を感じる前から悟っていたに違いない。
「殿様。まさかとは思うけど──」
「安心しろ。恵源の奴も同意済みだ。上杉憲顕は今に踵を返す」
「……本当に少数で関東上杉氏の大軍を追い返す策があるんだ」
「そういう事だ。俺は必ずしも武力一辺倒ではない。筆が刀より効果的と見れば、否応無しに用いるぞ?それでも不安と申すか?」
「無いよ。不安なんて。殿様は本当に勝利を確信してる」
冬の夜闇に殿様の目が光に満ちている。私の言葉を聞き、殿様は満足そうに笑う。そのまま手を振って私を再び眠りに着かせた。
この時、私は夢にも思っていなかった。かつての主君・北条時行が型破り綸旨なる異物を携え、大胆にも上杉憲顕の軍勢に合流していた事を。しかし、私は既に純粋無垢の子どもではない。政界において大名や公家の用いる搦手を人並みに理解しているつもりだ。
故に信じられなかった。どうして幕府や朝廷における道理を知らないまま、再びノコノコ現れてしまったのかと。これでは容赦無く食い物にされるだけだ。私は心の底から拍子抜けする事になる。
〜3〜
馬と一緒に山林に潜み、弓を片手に持ちながら状況を静観する。
距離が離れていても上杉軍の動揺は手に取るように分かった。
気持ちは分からなくもない。東国の遥か彼方から恵源派の軍勢として品行方正に努め、上洛を目指していたのだ。それをいよいよ不破関を越えて西国入りというタイミングで、他ならぬ恵源の書状によって追い返されるとなれば、忿懣やる方ない思いにもなろう。
「亜也子に今の六角党の様子を直接確認すると共に、我が弟たちに話を付けておいた。もし上杉軍が怒りに駆られて近江国に乱入するようであれば、愛知川まで引き入れて殲滅作戦の後、憲顕と長尾だけ帰してやろう。関東管領の器なら冷静に判断できるだろうが」
「殿!支度が整いました!」
「うむ。思い切り土埃を立てるが良い。憲顕が本当に天下指折りの知将なら虚勢を見破った上で、無理強いこそ恵源の意向に反すると察して退くだろう。見破れなかったとしても、それはそれで伏兵の影に怯える筈だ。だが、いずれにせよ虎寿丸の冷静さが肝心だ」
俺はあの師直と違って血も涙もない訳ではない。馬廻衆の虎寿丸を派遣するにあたり、本人にも恵源などにも内緒で後を追った。
やるべきは長坂橋において張飛が行ったというハッタリである。
虎寿丸なら土埃を見て俺の援護を察するだろう。上杉憲顕や長尾景忠という当代一線級と話を詰める上で、少し緊張しているかもしれないが、これで無理に肩肘張らず会話できるようになる筈だ。
「とはいえ、一つ不安要素があるとすれば──」
「殿!敵の忍びと思われる者を複数捕らえました!」
「あ゛?何か前にもこんな事があったような……で、内訳は?」
「くノ一が一名!他に狐耳の男が幾人か!」
「……よく捕縛した。流石は甲賀忍者、と褒めておこう」
「いえいえ、殿の御指導・御鞭撻の賜物かと」
「そうか……ぼちぼち連れて参れ。不成者どもをな」
手足の一本程度は山賊と間違えたという体で落としてやろうかと思いつつ、俺は捕縛者共を目の前に連行させた。見覚えがある。
四條畷の戦いに赴く前だっただろうか。何の命令があったのか知らないが、風間玄蕃が師冬の帷幕に潜り込んだ事があった。その際だった。捕縛・達磨の憂き目に遭った風間玄蕃を奪還し、瞬く間に去った者が居たのだ。確か夏の四とかいう元天狗衆と師直によって断定されていた覚えがある。見た限り、如何にも気が強そうだ。
「さて、生憎と俺がここに居る事を部外者に見られるのは大変マズいのでな?どこの不成者か知らんが、命でも奪わせて貰おうか」
「分かっている癖に戯れ事を言うな!上杉軍の使者と思え!」
「……ほう、面白い事を申す。あの上杉殿が忍びを使うのか?」
「白々しい……!南朝遊撃武将の北条時行様に仕えし者・風間玄蕃の代理人の夏!他の者は同僚の化け狐団だ!貴様も今は南朝武将の端くれなれば、即刻この縄を解かれよ!大概にして頂きたい!」
「端くれ?南朝武将の?この俺が?」
「……既に恵源様に降ったと伺っているぞ!佐々木六角氏頼公!」
「ほーん」
その目の憎悪は本物だ。一旦夏の四の様子を信じる限り、風間玄蕃はあの後しっかり再起不能になったと見える。何よりの事だ。
化け狐団とかいうネーミングセンス皆無な集団に、技術を相伝していそうなものだが、間違いなく風間本人より大分技量が劣っている筈だ。少なくとも本人が健在と不能とでは大違いと言えよう。
「ま、良いや。それで北条の者は今や上杉殿の手下か?ん?」
「……煽りに付き合うのも面倒だから要件だけ伝えるぞ」
「はン。どうせ型破り綸旨とやらを振り翳し、強引に自分たちを上杉軍に捩じ込んだと見える。図星だな?得心した。そうだろ?」
「ッ……今、上杉軍の後方で御子息たちが暴れている。故重能様の義息となっていた者たちだ。何とか諏訪様たちが必死に押し留めているが、このままでは死傷者が出かねない暴れ様だ。もし貴殿に人の心があるなら、御子たちと補佐の者どもの西国入りを恵源公にお取成し頂きたいのだ。無論、憲顕様及び大軍は東国に引き返す」
「……成る程、その手で来たか」
もし真正面からゴネる気なら、上杉氏を潜在的高一族と認定し、天下簒奪の野心の疑いを突き付ける事も出来るのだが、憲顕本人だか他の知恵者だかは巧みに掻い潜る言い分を思い付いたらしい。
要するに中央政治への介入ではなく亡き重能の養子たちの仇討ちという性質を強調するのだ。これなら万騎を超えるような軍勢の通過は許されずとも、一定の兵力を援軍として直義に送り込める。
さて、どうしたものか。捕らえ損ねてしまった忍びが居るかもしれない以上、ここで握り潰すのは逆にリスキーだ。あまり強引に拒絶して、後の関東管領一族との仲を拗らせるのも気が進まない。
決断を迫られる。まだ観応の擾乱は途中である。一部とはいえ、関東の上杉氏を畿内に引き入れて良いものか。近江国守護としても佐々木惣領としても一つのターニングポイントのように思えた。