〜1〜
結果として蓮華寺の宴で時行を一喝しておいて良かったと心の底から思った。あれから時行は型破り綸旨と睨めっこしながら弧次郎など少数の配下と共に大人しく我が六角領を通過したのである。
ひょっとすると甲賀三郎の身柄を返せ等と面倒な事を言い出すのではないかと訝しんでいたのだが、どうやら杞憂だったらしい。
流石に中々換えが効かない武力を会得し、当家の機密もそこそこ知っている存在ともなると、面子の問題もあって応じられない。
拍子抜けしたとばかりに俺は馬を止めた。勢多に到着したのだ。
「景忠殿。昨年末の戦禍に伴い、勢多の唐橋は焼け落ちて復旧工事も未だ碌にできておらず。なので、船で大河を渡って頂く事に」
「礼を申し上げる。氏頼殿」
「いえ、礼なら恵源公に申されよ。特に今回の勢多川を越えるための船は恵源公が自ら三井寺の衆徒に命じて用意させたもの故に」
「?……氏頼殿ではないのか」
「勿論、この氏頼とて近江国守護として三井寺を動かせるだけの力は持っておる訳なれど……今回ばかりは山法師どもの妨害があると面倒なので、恵源公の指図という形で要請する事になり申した」
比叡山延暦寺とかねてより不仲という点で、俺と三井寺の方向性は一致している。もし俺が今回も三井寺に命じ、上杉・諏訪連合軍数千余騎の兵馬を渡らせるための船を用意させていれば、比叡山延暦寺の碌でなし共はここぞとばかりに妨害していたに違いない。
それはそれで一興と思わなくともないが、肝心の俺が赤っ恥を掻く事になってしまう。故に直義の命という体裁を整えた。そうしておけば、山法師たちも軽々しく手を出せないという寸法である。
「京は左様な配慮ばかりだ。鎌倉の比ではない」
「如何にも。なので、鎌倉幕府のように武家が東国に政権を置くというのも一つの手ではあったと存ずる。足利幕府はこのまま京に政権を置く事になりましょうが、数百年後に時代が移り変わって新たな天下支配の体制が構築されれば、どのようになっているやら」
「……氏頼殿は一体どこまで時代の変化を見据えておられる?」
「正直、意外と目の前の変化で手一杯になっている自分が」
「ふ。誠の話か?」
「……さぁ?」
観応の擾乱の折り返し地点が見え始めている。重将・憲能兄弟の真価は今以て不明であるが、上杉家執事の長尾景忠という戦力が加わるのだ。直義派の勢力はいよいよ高兄弟の逆転の可能性を微塵も許さない強固なものと化した。だが、まだまだこれからなのだ。
師直が討たれて間も無く、真の尊氏様の信奉者が立ち上がる時がやって来る。要は君側の奸というレッテルが今度は他ならぬ直義に貼られるのだ。そうなり次第、足利直義の破滅のカウントダウンがスタートするに違いない。当然ながら俺も力を尽くすつもりだ。
「源氏対高……この対立構造が揺らぎかねぬ故、我が主君・上杉憲顕は恵源様に追い返される事になったのであろう?実のところ」
「まぁ……と言っても、恵源公傘下の源氏諸侯は足利一門を除いてしまえば、この私と小笠原殿のみ。京極道誉と土岐頼康は与しておらぬ状況につき、正確には足利対高が実質的な見方であるかと」
「将軍が高一族の側にお付きになっておられるのにか」
「緒戦はまだしも、決戦では戦場に姿をお見せにならない可能性が高いとだけ……恵源公も男山に籠られ続けるおつもりのようで」
「つまり、御兄弟間の全面戦争は無しか」
「代理戦争のようなものかと。お二人が戦場から離れた状態で高一族と足利一門その他の大名たちの軍勢が鎬を削るという意味で」
今は上杉家執事・長尾景忠に足利兄弟の対立は深刻ではないという印象を与えておく事が重要だ。むしろ両人は和睦したがっているとミスリードしても良い。師直が死に次第、直義をして急ぎ関東に戻らせておけば、そう簡単に西国へ戻って来る事はないだろう。
流石に尊氏様が本気を出して直義を討とうという段階で、上杉家の関係者が西国で彷徨いていれば、かなり邪魔になってしまう。
「もう直ぐ京だ。恵源様はどのような御顔をしておられるやら」
「……内侍原好専の事は既にお聞きか?」
「好専とは興福寺の重役の?恵源様との間で何かあったのか?」
「……ま、瑣末な話なので気に留めずとも。どうしても引っ掛かるようであれば、男山に着き次第、信州武士の知久某に詳細を尋ねてみるも良うござろう……恵源公は覇者の氣を手にしておられる」
「覇者の氣?あの御方が……?」
如何にも長尾景忠は戸惑っているが、こればかりは現地に足を踏み入れてから確かめて貰う方が言葉を尽くすより手っ取り早い。
元狼少年の重将・能憲兄弟のお守りが大変とはいえ、今し方の示唆が俺にできる精一杯の援護だ。後の関東管領家の執事として直義との付き合い方を見直して貰う良き契機にして貰いたいものだ。
観応二年二月九日、上杉憲顕の息子たちが一定数の坂東武者たちを率いて京に入り、男山近辺の善法寺の敷地に駐屯し始めた。
〜2〜
はっきり言って擾乱において北条時行の存在は邪魔で邪魔で仕方が無い。元々まるで眼中に入れていなかった小物だが、よくよく考えてみると高兄弟を討たむという現段階なら兎も角、その次の尊氏様が真の天下人に羽化するステージにおいて、要らぬ事をしてくれる可能性が充分過ぎる程に考えられるのだ。対処が必要である。
とはいえ、では即抹殺と考えるだけなら簡単だが、そう上手く実行できるとは限らない。確かに例の型破り綸旨の文言を考えれば、酒席の怨恨でカッとなって殺したと言い張ったところで、吉野朝廷から特に抗議されるとは考え難いものの、直義も同様に黙殺してくれるだろうか。有力武将たちへの事前の根回しが不可欠である。
「という事で、この高経殿を頼られたか。氏頼殿」
「はい。高経殿、お忘れではあるまい。北条時行はかつて家長殿の死戦において北畠顕家の軍勢に加担した敵将です。幾ら呉越同舟という格言が世間にあると申せ、御子息の仇を見過ごせますか?」
「ん。承知した」
後になって実感するのだが、守護大名という生き物は自身がターゲットになると即座に被害者意識を強める割に、誰かに危害を加えようとする時は生き生きし始める存在だ。当然この俺を含めて。
北陸から洛中守護の役目で戻った高経の他、直義傘下の大名たちに次々と声を掛ける。中先代の乱において身内を失った者が少なからず居たせいだろうか。当初の想定より随分と数が多くなった。
「いや、こんなに居ても困るのですが……高経殿」
「何を弱気になっておる?心強いと思わぬか?氏頼殿」
「しかし、師直が討たれぬ間から斯くも徒党を組むとなると」
「案ずるな。既に高兄弟を成敗に参った者ども、石塔殿や畠山殿も内々に時行排除に賛同しておる。恵源殿とて兎や角は申すまい」
「……分かりました。ではまず手始めに──」
ここまで大名たちへの根回しがスムーズに運んだなら、逆に本命の直義に直球勝負を仕掛けるべきだ。その方が将軍決起の前に余計な勘繰りをされずに済む。高経たちと共に直義の帷幕を訪れた。
幸いな事に予想通り時行は男山に到着早々直義の不興を買うような事を言っていたらしい。兄を討つ気がないという直義の告白に反発するどころか、南朝を軽視する姿勢に業を煮やし、北条家は朝廷を道具扱いしなかったというトンデモ発言までしていたという。
直義本人の口から時行の醜態を聞き、俺は態とらしく失笑した。
「何と。御人払いされていた間に左様な事があったとは」
「この高経も長らく様々な人物にお会いしましたが、時行程の戯け者は初めてかもしれませぬ。複数の南朝皇族を死に追いやった我々に今更何を申しておるのやら……そもそも北条一族とて承久の乱の前後や親王将軍、両統迭立の弊害などを見るに、朝廷を道具として扱わなかったというのは如何にも無理な言説ではありませぬか」
「全くその通りだ。かつて諏訪頼重は井出沢の論戦で、さも北条政権の修正点を時行に仕込んだかのような振る舞いだったが、嘘八百であったようだ。思い返して見れば、時行は当時、情の政治には謀反して滅ぼすが足利氏の正義なら、何故に北条家より遥かに偏りのある建武の悪政に触れぬのかと叫んでおったが、自分たちが帝と同等の存在と慢心しておった故の妄言であろう。全く呆れた話よ」
「はァ。開いた口が塞がらぬとは、まさにこの事ですな」
「いやはや。我ら源氏ならいざ知らず、自称平氏の北条一門の出身者が申すには分不相応としか申せませんなァ。そもそも不当に鎌倉幕府を牛耳っておきながら、謀反呼ばわりとは盗人猛々しいにも程がありましょう。大体、偏りで申せば、鎌倉幕府より建武政権の方が幾分もマシでした。確かに建武政権下では赤松氏のような不遇を喰らう者も居りましたが、様々な武家や公家を積極的に登用していたという点では、昨今の高一族以上の専横ぶりの北条政権よりまだ評価できるというものです。むしろ中先代の乱の後に新田氏が讒言を繰り返しておらねば、将軍は覇道を進まれておらなんだやも」
「あの後醍醐先帝贔屓振りを見れば、氏頼殿の仮定もあながち間違いと言い切れないのが怖いところよ……して、恵源殿。これから時行の処遇は如何様に?それを懸念して、斯く参上した次第にて」
「うむ。そこなのだ、高経殿」
あくまで足利幕府がこれからも源氏政権であるべく、近頃の高兄弟の一強状態に待ったを掛ける事こそ今回の討伐の目標である。
しかし、往年は源氏を虐げて高一族のような振る舞いだった北条得宗家の後継者・時行の参加を許しては、直義派の軍事行動の妥当性がボヤけかねない。そうなってしまえば、何のために上杉憲顕を鎌倉に帰したのか分からなくなってしまうというものであった。
「しかし、南朝の目がある。時行の前で南朝を歯牙にも掛けぬ様を見せ付けるだけなら、告発されても時行の発言力の低さでどうとでもなる。ただ、時行を我が軍営から追い出せば、その時点で奴の言葉に説得力が生まれてしまいかねん。これでは先日、南朝に贈った銭一万疋が無駄になってしまう。要するに今は二律背反なのだ」
「……弱りましたな」
「とはいえ、本当に南朝の威を借り、将軍を倒してしまったという事になると私としても困ります。尊氏様の烏帽子子として、北朝の武官として……失策でした。不破関にて独断という体で、時行を追い返しておけば良かった……さすれば、不遜にも将軍に敵意を燃やす南朝武将もどきを西国に入れず、皆を煩わせる事も無かった」
「氏頼殿……」
「過ぎた事だ。それより氏頼、何か策があるのではないか?」
「……よくぞ聞いてくださいました」
そもそも時行は弱い立場にある。型破り綸旨という少数勢力の枷が嵌められている以上、ぞんざいに扱っても支障は限りなく生まれ得ない。時行は南朝としても軍功を稼いで勢力を伸ばすと困る警戒対象という事だからだ。ましてや「建武五年」付けという南朝発給文書として有り得ない形式なのだから、握り潰しは容易である。
足利幕府の内輪揉めを見て火事場泥棒を企む輩に鉄槌を下すチャンスなのだ。まずはジリジリと追い詰めよう。昔ならいざ知らず、今の直義なら必ず同意する筈だ。尊氏様の勝利のため、面倒な要素は除いておくに限る。モノの次いでにやってやろうではないか。
〜3〜
シカト作戦は順調である。これなら特に物資を消耗せずに済む。
要するにコスパ良く時行の心身を疲弊させるのだ。諏訪直頼経由で話が伝わっているのか、気丈な振る舞いにも無理が出ていた。
そうこうする内に痺れを切らしたのだろうか。祢津弧次郎が遂に突っ掛かって来た。どうも再び時行の忠臣面をしている様子だ。
「おい、待てよ!六角!」
「……おや。祢津弧次郎ではないか。何の用で?」
「惚けるな!小狡い真似しやがって!それでも名門武将かよ!?」
「んん?どういう事だ?」
「ネチネチと陰湿な真似は止めろっていう事だ!恵源様の御指図という話だが、俺には分かる!お前が余計な進言をしたんだろ!」
「……帰れ。下郎と話す程、暇ではないのだ」
陰湿という言い回しをしてくれたが、宮中を見渡せば割とこんなものである。大事な糧秣を時行のために無駄遣いする訳にもいかない以上、これが最もコスパの良い追い詰め方だと判断したのだ。
そして、効果はちゃんとあったらしい。留守番を命じられた訳でもないのに、今も祢津弧次郎がここに居る事こそが答えである。
「大体、お前こそ石塔殿の援軍に参加せずとも良いのか?また別の上杉一族の武将が北陸道経由で京に参るのを待っている訳でもあるまいに。それともあれか?時行の巻き添えで拒絶された口か?」
「……若を蔑ろにする奴と沓は並べられねェ。そういう事だ」
いい加減、一体いつまで時行は若と呼称されているんだと呆れてやりたいところだったが、今それは些細な事に過ぎないだろう。
そもそも南朝から新田義興と共同で関東支配を目指すよう命じられていた筈なのに、時行はやる事なす事があまりにも頓珍漢だ。
「あっそう。なら直ぐに東国に帰って新田義興と連絡して、鎌倉攻めの用意でもしたら良いんでね?ま、時行が今の憲顕殿に挑むなんて夢物語にも程がある話だがな。この俺でも簡単ではない訳で」
「だから憲顕様を追い返したのか?お前の口八丁で」
「これは……酷く語弊のある物言いをしてくれる」
「桃井から聞いたんだよ。お前の降伏の条件は。ふてェ野郎だぜ」
「おいおい、太いというのは顕氏殿のための言葉だぞ?」
「その太いじゃねェよ!?不逞だろ!分かってる癖しやがって!」
「はン……祢津よ、刃を交さずとも分かる。今のお前の武力は俺から見ても大したものだ。だからこそ時行なんぞのために使い減らすのは金輪際やめておくべきだ。あれはもう終わったんだよ。お前の武力を活かすに値しない。まだ道誉殿にでも仕えた方がマシだ」
弧次郎の目が細くなる。我が物言いに憮然としているようだ。
ただ、俺は武人の誼で言ってやりたかった。はっきり言って惜しいのである。中先代の乱も北畠顕家の夢幻も今は昔だ。祢津弧次郎という武人が諏訪神党出身者として観応の擾乱で直義のために死ぬならまだ意義があると言える。しかし、時行のために死ぬのは絶対に違うだろう。殉ずる対象を間違えるべきではない。差し詰め世界大戦の最中、徳川家のために死ぬと言っているような論外さだ。
「忠臣は二君に仕えず。この格言もお前には響かねェか」
「……なら尚更だ。諏訪直頼に尽くせ。さもなくば、お前の磨き上げた武力が全て水の泡だぞ。祢津弧次郎、それでも良いのか?」
「お前なら亜也子から多少は……六角。あまり余所者に話す事じゃねェが、お前には明かしてやんよ。俺は祢津小次郎じゃない」
「……では何者だと申すのだ?」
「それは──」
続け様の弧次郎の言葉を聞いて俺は思った。これでは芯から鎌倉政権の亡霊ではないかと。必ずや討ち倒しておくべき存在だと。
ただ単に本物の「祢津小次郎」の影武者がどうだといった次元の話ではない。機会さえ巡ってくれば、決して逃さず討ち果たさなければならない相手である。俺は顔を引き攣らせ、天命を呪った。
その矢先であった。後ろから透き通るような声がする。どこかで聞き覚えが有るような無いような。そんな薄気味悪さを感じた。
「弧次郎君。あまりペラペラ喋らないで。利用されるから」
「……応」
「女人?頼子殿の侍女か?なぜ祢津弧次郎と親しげに?まさか」
「酷い誤解をするな!六角!京の好いた腫れたじゃねェんだよ!」
「では、どこぞから連れ込んだのか?ええ……?」
「違うっつの……説明してやれよ。奥方様よ」
「うん。これで六角を牽制できるなら」
「ん?んん?」
「お初にお目に掛かります。熱田大宮司・昌能の娘にございます。今まで時行様の陣奥に居させておりました。以後お見知り置きを」
「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛?」
何の因果で宦官擬きの時行の陣所に女人が隠れ潜んでいたというのだろうか。否、宦官であれば女人と一緒なのは、ある意味で正しいのであるが。当然ながら今は全くそれどころの問題ではない。
ここ近日の南朝軍絡みの噂──特に昨秋の土岐周靖の反乱に尾張国の南朝勢が関与していたというもの──が脳裏に駆け巡った。
また、南朝の宗良親王が四年前、大河原を一時脱出した後に尾張国熱田に立ち寄っていたという話も聞いた覚えがある。頭の中で情報が錯綜する。何より我が武将としての耳はかなり優れている。
一体全体「奥方様」というのは如何なる事であろうか。祢津弧次郎どころか、今の時行では元が源氏の外戚・熱田大宮司家の息女が相手となると流石に身分違いの筈だ。有り得べからざる事態に直面している。観応の擾乱の最中、我が混乱は最高潮に達していた。