〜1〜
観応二年二月二十三日、直義派武将たちは丹波国の義詮の勢力に頭を悩ませていた。桃井直常や諏訪・上杉の連合部隊が撃退されただけではない。この日、何と山名時氏までも丹波国の北部に進出して荏原という場所で交戦に及んだ事が『三刀屋文書』に見える。
男山に戻り、直常は頭を掻き毟っていた。何故ここまでされても尊氏の嫡男の義詮を丁重に迎える姿勢を保たなければならないのか分からなくなっていたのである。直義の慰めも逆効果の様子だ。
「恵源サマ……負け惜しみに聞こえるやもしれませんが、あれは無理ですぜ。次期将軍の正当性に拘る余り、徒らに義詮公の顔を立て続けていたら、折角これまで集めた支持者たちの信頼を失う事態にもなりかねないでしょう。下手すりゃ打出浜の勝利が水の泡に」
「……つまり、全力で義詮殿を滅ぼせと言いたいのか?桃井」
「……忌憚なく申し上げるなら」
「論外だ。暫く山名が北から義詮殿を牽制する。お前の敗退で義詮殿の鬱憤も多少晴れた今、仁木頼章の慎重論が幅を効かせる筈だ。義詮殿がその進言を聞き入れて静観に徹する間、兄上の受け入れを済ませる。兄上が無事に上洛し、高一族の暗殺も上杉氏の暴走という体で終わらせれば、義詮殿とて音を上げざるを得んだろうよ」
直義の決意はどこまでも固かった。腹心たちが曲がりなりにも敵方の次期将軍・足利義詮の軍勢によって退けられて尚、あくまで予定通りの形で幕府内部の大規模抗争が閉幕する事に拘っていた。
一方、諏訪直頼は男山の麓において、やり切れない様子を隠し切れずに居た。ここ最近は義詮直属の猛将・細川元氏によって集中的に諏訪神党を痛め付けられ、疲労困憊の様相を呈していたのだ。
「笑うと良いです、時行。お前を見捨てて権威欲しさに恵源公と誼を結んだ挙句、このザマですよ。義詮公は凡愚という噂を耳にしていましたが、舐めて掛かるべき相手ではなかった。正しく次期将軍の器です。まさに足利尊氏の御嫡男、赤橋守時公の甥御でした」
「……直頼殿。一体何が」
「細川元氏という敵将にしてやられました。交渉を求める桃井殿の言葉に全く耳を貸さず、勢い任せに破ったまま、我が軍勢の方へ。保科と四宮を活かして防ごうとしましたが、とても止められない猪突猛進さでした。しかも、そのまま上杉勢まで狙うかと思いきや、義詮公から指示が出ていたらしく……要するに鎌倉で義詮公が上杉憲顕殿の世話になっておられた分、代わりに諏訪神党が犠牲に」
「そんな……直義はそれでもまだ義詮の顔を立てる気か」
「正しくは将軍父子ですよ、時行。実のところ、あの御方の気性は今も全く変わっていらっしゃらない。源氏が中心になって高一族を討とうという大看板に偽り無いのです。平氏のお前は早い内に逃げておいた方が良いかもしれませんよ?千葉殿のように幕府に仕える気なんて起きないでしょう?なら今は身を隠した方が賢明です」
「……せめて高兄弟暗殺は支援したい。八郎の悲願は助けないと」
中先代の乱において時行は主力武将の三浦時明を失っている。
その弟こそ三浦八郎だ。信濃国で潜伏していた時期に知り合い、正体を明かす前は面と向かって鼻を穿られる非礼を働かれた事もあったが、鎌倉残党の纏め役を務めてくれた紛れもない功労者だ。
今になっても時行は意気込んでいる。敗戦で無一文に等しくなって久しい身だが、どうにかして三浦八郎らの功労に報いたいと。
しかし、直頼は将軍兄弟間の密約を知る身として微かに呟いた。
「投降して丸腰の老人たち如き寄ってたからずとも」
「え?」
「何でもないです。それより我らの留守中に将軍邸が全焼したと聞きました。まさかとは思いますが、腹いせに京で付け火でも?」
「いや、無い!それは無い!玄蕃も同道していないんだ!」
幾ら仇敵・尊氏の首を虎視眈々と狙う時行であろうとも、その屋敷を何の意味もなく留守の間に燃やすほど落ちぶれてはいない。
諏訪直頼の素朴な疑念に対し、時行は必死の弁明を繰り返した。
「なら良いのです。現恵源派の間でも今なお将軍に心を寄せる者は決して少なくない。下手に刺激すると幾ら逃げ上手の時行でも身を危うくしますよ?今度はファーを失うだけでは済まなくなるかも」
「分かってる。雫にも口酸っぱく諌められた」
「……南朝派熱田大宮司の娘が亡き叔母と同じ諱を名乗ってお前と一緒にいる事、兎や角言うつもりはありませんが……そう言えば、姿が見えませんね?てっきりお前と共に見舞いに来るものかと」
「ああ、何でも確かめたい事があるとかで夏以下化け狐団と──」
「全員そこに直られよ!直頼殿、お疲れのところ恐縮だが、恵源公が火急のお召しとの事だ!そこの時行を連れて疾く参られよ!」
「「!?」」
直義の側近・斎藤利泰の声が響く。不思議と時行は猛烈に嫌な予感に襲われ、同時に狂信者としての氏頼の顔が脳裏を過ぎった。
程なく源氏諸侯の侮蔑の視線に晒される。鎌倉時代末期から観応の擾乱ファーストステージを生き抜いた足利・源氏一門にとって、北条時行はどこまで行っても忌むべき鼠輩に過ぎなかったのだ。
〜2〜
将軍御所の炎上により、直義派の間では武家の棟梁・足利尊氏との和睦を受け入れるにせよ、どこへ住まわせるかという議題が持ち上がった。勿論、それ相応の在所を用意しなければ、尊氏を軽んじるという意思表示になってしまい、直義の本意に反してしまう。
日記『観応二年日次記』によれば、二月二十四日付けで尊氏に迎えの使者が派遣される頃には、手配の目処が立っていたようだ。
「して、恵源公。今川殿は何と?」
「上杉重能の旧宅を推薦するとの事だ。つまり三条富小路だな」
「……少しあからさま過ぎるのでは?高一族の暗殺は亡き重能殿の義息たちに任せたのでしょう?場合によって将軍の虫の居所が悪くなってしまうやも。上杉は上杉でも他の者の屋敷にされては?」
「氏頼。まだまだ詰めが甘いな。土壇場になって重能の旧宅から上杉朝定の屋敷に兄上の仮御所を変更すれば良い。さすれば、高一族暗殺は我々の預かり知らぬ能憲たちの暴走と示せるではないか」
「成る程……そういう事ですか」
(まだ政治感覚は衰えていないか。既に高兄弟も段取りを整えて出家している頃だ。果たして仇討ちの華で老僧殺しの非道を塗り潰せるか否か。見ものであるな。直義の破滅のカウントダウン開始だ)
生真面目な筈の直義が密約を嵩に暗殺計画を着実に進めていると知ってか知らずか、高兄弟は和睦条件に沿って粛々と剃髪した。
日記『観応二年日次記』によれば、高兄弟と一族郎党の百二十余名が出家したという。同じく観応二年二月二十四日の出来事だ。
「将軍。見ての通り、頭を下ろしてございます」
「……して、法名は何としたのだ?二人とも」
「は。高師直改め入道道常」
「並びに高師泰改め入道道勝」
「「これからも誠心誠意、将軍にお仕え申し上げます」」
「……常勝を志すか。凄まじい気概だな」
出家しても幕臣として仕える道がある事は既に京極道誉が証明している通りである。高兄弟の闘志はこの期に及んで健在だった。
一方、男山の麓では時行がかつてなく塞ぎ込んでいた。臨時の土牢に閉じ込められている。諏訪直頼ですら庇いようが無かった。
というより直義の無言の圧力を受け、直頼が時行を捕らえさせ、弧次郎を別の場所に隔離した格好だ。時行は茫然自失の状態だ。
「どうして……どうしてこうなった」
「熱りが冷めたら赦しも出ると思うのです。ここは我が諏訪神党の兵が護衛しているので、むしろ他より安全だと考えるべきです」
「でも雫が!直義所縁の寺社に引き渡されて調伏されたなんて!」
「……氏頼殿が諸将に景気付けの秘酒を配って回っていたところ、女人が因縁を付けて口論になり、このままでは世界が滅ぶと戯言を吐いた挙句、家時公の自害は悪戯によるものという暴言まで発したとなれば、如何なる罰も致し方ないでしょう。恵源公の耳に入って足利一門の逆鱗に触れたのです。悪魔に憑かれているのだから御祓を受けさせ、身体には危害を加えないというだけ逆に温情です」
後の今川貞世著『難太平記』によれば、足利家時の自害はそのまた先祖・源義家が七代先の子孫に自らが生まれ変わって天下を取る事を予見したという伝承が達成されそうに無い事を嘆き、寿命短縮を代償に三代以内の天下獲りを八幡大菩薩に祈っての出来事と位置付けられている。しかも、尊氏ばかりか直義まで今日の足利氏の天下は家時の発願のお陰と説いたというのだから意味深長である。
おまけに家時の自害当時、霜月騒動の影響で反乱因子を警戒する北条得宗家の猜疑心があったのだから、事態はより深刻なのだ。
それを悪戯呼ばわりとあっては、直義たちが激怒するのも当然の帰結だ。直頼がそう理性的に判ずる一方、時行は不満げだった。
「欺瞞だ。氏頼の奴に陥れられたに決まってる!」
「……彼女が本当に叔母の霊に憑かれていたというなら、相応の思慮深さは備えていた筈。それでいて有り得べからざる失言をしたとなると氏頼殿の態度がどうしようもなく腹に据えかねたのやも」
「こうなったら!親房卿に相談して──」
「楠木ならまだしも、ここ何年もずっと戦わなかった貴方のために南朝が何をすると言うのです?恵源公は、世間知らずの娘による先祖の愚弄に対する怒りに震えながら処断を決められました。身分を考慮した上で、あの娘に罰を与えたのです。我慢してください」
「我慢なんて……出来る筈がない!」
「兎に角、彼女の事はお忘れを。そもそも熱田大宮司の娘と一緒に等と贅沢過ぎる話だったのですよ。御祓が済めば恵源公の管轄で元通り尾張国に返す手配が整えられます。時行が二度と近付かない事こそ残滓に取り憑かれる前の彼女にとって本望というものかと」
「現諏訪大祝の君も……彼女を残り滓と貶めるのか」
「……そもそも事の成り行き自体、終わってから聞かされたようなものです。半分すら理解できているとは言い難い。忍たちも吉良勢に捕まり、それぞれ手足一本ずつ切り落とされたと聞きました。下級従者とは大体そんな扱いですが、心優しい貴方には耐え難い事態でしょう。ただ、我が諏訪家としても斯くなる以上、北条家に過度な肩入れはできません。信濃国守護の話が消えかねないので」
「ッ……」
「だから前に言ったのです。また憂き目に遭うかもと……もう考えても詮なき事です。御懸念の上杉勢五百余騎が高兄弟の一味を殲滅する件ですが、時行。お前の加勢は要らないでしょう。三浦八郎たちで充分に果たせます。高兄弟は全盛期を過ぎ、今や武勇による強引さより巧緻性が売りの老将たちです。天狗衆も元味方相手に効果を発揮できると思われていない以上、余計な手出しは無用かと」
いよいよ観応の擾乱の第一ラウンドが終わろうとしている。高兄弟暗殺という終止符を打つための手配は完璧に整えられていた。
しかし、直義を襲う真の悲劇はここからだった。観応二年二月二十五日、男山で一人の幼子が息を引き取った。直義の一粒種こと如意丸である。当然、その母・渋川頼子をはじめ家の者たちは悲嘆に暮れた。勝利の美酒に酔う暇すら殆ど許されなかったのである。
〜3〜
観応二年二月二十六日、如意丸の弔問で多くの人々が善法寺を訪れている頃、湊川では尊氏の小勢が上洛の旅路を開始していた。
古典『太平記』によれば、高兄弟は将軍と一緒で僧侶たちに紛れて春雨が降り頻る中、筈の葉笠と袖で顔を隠して進んだという。
上杉勢以外にも畠山国清などの数万余騎が街道の両脇において控えている。武庫川を渡る矢先、「すはや執事よ」と声が通った。
「分断する気か。七十余騎で割り込みおって」
「兄者。あれは鷹角一揆だ。確か上杉氏の配下だ」
「ほう……ん?」
「いつかの戦振りである!我こそは秋山光政!高兄弟が将軍に供奉していては見苦しき限り故、離れて歩かれよと伝えに参った!」
「……以前の戦で一騎打ちを強制終了した恨みか?けったいな」
暗殺の決行が近付いている。程なく将軍・尊氏が粛々と川向こうを進んでいるというのに高兄弟はまだ隣村の道を歩いているという不恰好な状態が出来上がる。そうする間にも割り込む者──専ら無名の田舎武士や雑兵たち──は野次馬式に増えるばかりだった。
雨は降り止むところを知らない。畠山国清はほくそ笑み、上杉家執事の長尾景忠に相鎚を打った。景忠は会釈して持ち場に戻る。
「さて、後は我らの関知せぬ事だ。存分にやって貰おう」
「国清様。本当に宜しいのですな?」
「無論。本音を申せば重能の仇討ちなど心底どうでも良い。ただ、彼らが仮にも約定破りの行いをすれば、恵源様が上杉家に関東執事の領分以上の褒美をやる事も出来なくなろう?高兄弟の莫大な遺領が正しく山分けされるのだ。それこそ、この国清の本望である」
「御意。国清様が軍功第一です。貴方様の執事として新たな仕事を楽しみにしております。尤も……更なる波乱もありそうですが」
「おや、遊佐よ。これは奇遇であるな。考えが一致しておる」
「は。如意丸様の死で確信できました」
観応の擾乱の新たなステージを見据える者が増えつつあるとは露知らず、暗殺決行部隊が本懐を遂げるべく動いた。高兄弟が武庫川を渡り切り、堤の上に現れたところをすかさず狙ったのである。
古典『太平記』によれば、三浦八郎の中間たちが走り寄って遁世者が姿を隠すとは何事かと笠を投げ捨て、正体を暴いたという。
「師直入道!この三浦八郎の長刀を受けろ!」
「小癪な……ウォエ。ゲプ」
(このような時に……吐き気だと!?)
「兄者!?今……グェ」
「師泰入道!越後国の武者・吉江小四郎の槍だ!篤と味わえ!」
高一族の被害は各種史料において克明に記録されている。高兄弟だけでなく齢十三の師夏や二代将軍執事の師世も犠牲になった。
亡き高師久の遺児・師景なども討たれた他、梶原兄弟や鹿目平次左衛門もそれぞれ討たれた事が古典『太平記』に見える。少し前の合戦で重症の河津氏明もまた命運を悟り、輿を止めて切腹した。
「一方的だな。上杉勢は。遠目の見物でも面白い」
「は。この雨では樹上の天狗たちも……」
「遊佐。どうした事か汚物を撒き散らしながら落ちていくぞ」
「帰りましょう、国清様。長居は無用です」
「ああ。とばっちりで祟りでも喰らっては詰まらん」
日記『園太暦』によれば、高軍主力の高橋英光も切腹で最期を遂げており、文阿弥陀仏や正阿弥陀仏という時衆の僧たちも一緒に殺されたらしい。直義派の討ち手の激烈極まる殺意が察せられる。
今ここに時代を築いた梟雄たちが滅んだ。古典『太平記』は兵の在り方について「仁義の勇者」と「血気の勇者」という語を用いて論評している。当然、高兄弟は後者に分類され、降参も出家もせず戦死して後世に名前を残せば良かったのにと酷評された。
断っておくが、観応の擾乱はまだ途中だ。世は未だ乱世である。
ここからだ。ここからなのだ。室町幕府初代将軍・足利尊氏の覇業は終わっていない。真の幕府政治樹立に向け、畠山国清や仁木兄弟のような幕臣たちが蓄えていた実力を発揮していく事になる。