崇永記 作:三寸法師
〜1〜
諏訪大社の大祝として東国武士たちの信仰を集めて来た筈の
左手を挙げてまるで御仏のように微笑む尊氏の姿が、彼を北条一族にとっての仇敵とみなして憎む時行の目には、あたかも仏のように佇む怪物であるかのように映っていた。
「大漁。大漁。一万騎は降参したか。流石は尊氏殿の御人徳よ」
「師泰!敵の戦力はガタガタだ!残兵を殲滅しろ!」
ほくそ笑む道誉と、包帯を手に取って首を負傷した尊氏の手当てをする師直は、敵兵たちがフラフラと投降しに歩いて来ることに微塵も疑いを抱いていない様子である。
一方、吹雪さえもが尊氏に魅了されて対岸へ歩いて行く様子に唖然としていた千寿丸は、唐形大薙刀「平和偃月」を手にする師泰を先頭に開始された足利軍の逆襲を見て、即座に思考を切り替えた。
「皆の者!北条時行の首を獲るぞ!俺に続け!」
「「「御意ッッッ!」」」
本来、急遽南から攻め寄せる六角軍への備えとして吹雪によって指揮される筈だった部隊は、頭を欠いて機能不全に陥った。
幼い当主に率いられた六角軍はこれを簡単に蹴散らした。伝来の宝刀を振るう千寿丸が、猛将顔負けのスピードで手早く立ち塞がる北条軍の武士たちを切り捌いていった。
主人に負けじと、六角軍の将兵たちも敵を倒し続ける。
「六角め!北条の多大なる恩を忘れたか!ましてお前は──」
「喧しいわ!特にその額!さっさと楽になりやがれ!」
「泰家様!ここは危険です!お退がりを!」
あまりに不可解な尊氏の力によって一万騎を失おうとも、まだ多くの兵馬を擁する筈の北条軍だったが、この差し迫った事態において著しく統率を欠いていた。
後に、『太平記』でその戦上手ぶりを描かれることになる千寿丸の指揮により、六角軍は着々と北条の陣地を侵食していく。
大混乱に陥った北条軍は、最早雁首を並べて斬らせているのと変わりがないようなどうしようもない有り様であった。
程なくして北からも仁木軍が、北条軍による南よりも厚い防御網を突き破り、今にも北条軍本営へと雪崩れ込もうとする勢いだ。
勿論、西からは師泰率いる足利本軍が攻め寄せており、諏訪頼重は万感の思いでこの戦を諦めることを決意した。
「若!早く!」
「若様!」
「あ、ああ……」
弧次郎と亜也子に急かされ、今一つ事態を飲み込めずにいた時行は訳のわからないまま敵に背を向けようとした。
そこへ、数多の防壁を突破した六角軍大将が視界の隅に現れる。
「あの髪が綺麗で、小っこいのが時行だ!多分!殺せ!」
「「「応ッ!!!」」」
「あの裏切り
「ていうか髪、褒めちゃってるし」
「千寿……君も私を」
逃若党の構成員である弧次郎と亜也子が、平時と違い猛々しく吠える千寿丸の発言に困惑する一方、時行は喪失感と共にかつての友人の姿を目に焼き付けていた。
「兄様、六角軍が来たということは……吹雪君は」
「……吹雪」
確かに、奇襲を狙った六角軍の動きは、鷹使いである根津頼直による捕捉を免れてはいなかった。
しかし、それでも六角軍が姿を現したということは、影の薄い剣士である諏訪時継がまず単騎で牽制し、万が一それでも襲撃しに来た場合に備え、知勇兼備の吹雪を左翼に派遣するという対応が失敗に終わったことを意味する。
勿論、吹雪が戦死したかあるいは他の兵たちと一緒に投降しに対岸へ渡ったのか確たる証はないが、いずれにせよ今の状況において吹雪が戻って来そうにないことは、時行が大将として理解しなければならないことである。
一方、頼重は幼いながら向かって来る北条軍の将兵たちを奇声と共に切り結ぶ千寿丸の姿を見て衝撃を受けていた。
ただし、驚いたのは千寿丸の武勇とはまた別のものである。
(神力を持っているとは聞いていたが……まさか。道理で六角家四代当主の未来が見えない訳だ)
神力とは何たるかを熟知する頼重は、ここに来てようやく千寿丸の姿を視認出来たのだが、時既に遅しであった。
「全軍、撤退を。多くの投降兵を迎え入れる足利軍は、今日だけは追撃し続けることが出来ない。さぁ、時行様」
「……はい。逃げましょう」
それはこよなく逃げを愛する時行の人生において、最も悲惨な逃げが開始された瞬間だったと言えるかもしれない。
かくして相模川の戦いは終結する。結局は足利尊氏による完全勝利という形で戦いは幕を下ろしたのである。
〜2〜
日が暮れた頃になると、足利軍は追撃の手を止めていた。頼重が予想した通り、多数の投降兵を抱えたおかげで軍を再編する必要に迫られ、身動きが取れなくなったのである。
こうなると、忙しいのは直義である。机に向かいながら書類に落書きをすることもある尊氏の代わりに、諸々の調整を行わなければならないからだ。
「孫二郎、直義様は」
「頭を抱えていらした。恐らく普通の追撃は出来まいよ」
「直義様かわいそ」
「お前が言うのもな……それより聞いたぞ。千寿丸。あと一歩のところで時行を逃したんだって?」
「逃したというか、追撃不可になったというか。見ろよこの傷」
不機嫌そうな顔を浮かべる千寿丸は袖を捲って、右の手首に出来た傷跡を見せた。
驚くべきことに、世代を超えた強さを持っている筈の千寿丸は時行が持つ技術の一つである鬼心仏刀にしてやられたのである。
「時行の郎党……剣士の方とデカい方を勢い任せに突破して、時行の命脈を断とうとしたところまでは良かったんだが、いざ斬りつけようとした瞬間に手首ヤられてこのザマだ」
「うわ、止血しなかったらヤバいやつだ。威力こそ低いが、正確に狙い澄ました動脈斬りか。面倒だな」
「ああ。おかげで綱切落としかけるわ、落馬しかけるわで本当散々な目に遭った。帰陣したら師直殿に敵陣の目前でボサっとすんなとか、だから時行を取り逃すんだとか雷落とされたし」
「……当たり前過ぎる。しかも、名越、三浦に続いて三度目だろ?敵将を取り逃したのは。たとえそれぞれ事情があるにせよだ」
二度あることは三度あるとは良く言うが、戦場において三度も同じ失態を犯して、叱責では済まされるだけまだ温情だ。
まして師直は手厳しい。先日、時行が鎌倉を奪取した件で孫二郎相手に「関東庇番は見掛け倒し」だの「関東の田舎侍」だの言いたい放題だったのが良い例である。
「幸い、尊氏様は師直殿を嗜められた上、私の働きを褒めて下さったが、内心どう思われているのやら。明日の戦で何かしらの手柄を立てないと本当に不味い。冗談抜きで」
「手柄……まー、時行以外はそれなりに討ち取っただろうから大丈夫じゃないのか?敵の将兵十人くらいは殺っただろ?」
「数えてないし、討ち捨てにしちゃったから証明する手段がない」
「あちゃー」
六角軍の将兵たちは「まぁこの敵なら良いか」と妥協し、各々それなりの格を持つ敵の首を持ち帰ることが出来た。
しかし、千寿丸に関しては時行や頼重のような本物の大将首に拘泥したせいで、血塗れになって帰って来るので精一杯だったのだ。
「折角調子良かったのに、これはな……ちょい凹む」
大将としての統率、個人としての武力。今回の戦の最中、千寿丸はどちらにおいても確実な手応えを感じていた。
しかし、結局は時行を取り逃す結果に終わってしまった。下手に手応えがあった分、味わった衝撃の大きさは計り知れない。
「そうだ。千寿丸、聞いたか?兆若党から投降者が出た話」
「……何それ。詳しく」
場を明るくしようと孫二郎が切り出した話題が、露骨に落ち込んでいた千寿丸の興味を誘った。
「いや、僕も詳しくは把握出来ていないんだが、北条から投降して来た兵たちの中に、一際顔が良くて若い奴が居てな。それが兆若党の吹雪なんじゃないかって話だ」
「……吹雪。成る程」
また一仕事増えそうだと、千寿丸は途方に暮れた。
勿論、気を引けたと思った途端にこれなので、孫二郎は千寿丸がかなりの重症であると思い、ここは生来の性である無遠慮を抑え、そっとしておくのが良いだろうと考えを改めた。
(吹雪か……はー。やってらんない。探し出すにしても、一万騎の中から見つけるのか?グズグズしてるとあの才覚だ。出世街道真っしぐらだろうし。あーそれもこれも)
肩を酷く落とした千寿丸は孫二郎と別れて自陣へ戻る。
こうなる位ならいっそ小夜中山で、仇撃ちを目指す残兵たちからの反撃を受けることを覚悟し、名越高邦を討ち取っておくべきだったと今更ながら深い後悔の念に襲われていた。
〜3〜
明くる八月十九日。直義の精力的な活動により、投降者への措置に目処が付いた足利軍は、北条軍にとっての最後の防衛戦である片瀬・辻堂付近に差し掛かっていた。
「道俊、苦労だった。手間だが、引き続き探ってくれ」
「承知!」
(敵は諏訪軍だけか……仕方ない)
大量の投降者が出たことやそもそもの戦による戦死者、そして勝ち馬に非ずと判断した脱走者が続出したことで、北条軍はその数を著しく減少させていた。
夜が明ける頃、子どもらしく泣き叫ぶ時行を喧嘩別れのような形を取ってでも引き離した頼重は、諏訪大社を存続させるため自身は息子時継と共に、この戦場において死ぬ覚悟を決めていた。
「あれが諏訪頼重……?昨日の今日で結構老けたな」
「殿。どうされます?我らも前線に向かいますか?」
「……いや、もう良い。我らにはまだまだこの先、大きな戦いが待ち受けている。いたずらに損耗してはならん」
「御意」
「ただ、何もしないというのも都合が悪い。俺は味方の兵の陰から頼重を狙撃してみる。だが、他軍の者たちに邪魔に思われても面倒だから、そなたたちは離れたところで固まっていろ。命令あるまで決して動くべからずだ」
「承知しました。ただ、せめて護衛を一人お連れ下さい」
「ああ、分かった。重頼、着いてこい」
「は!」
結論から言えば、青地重頼を伴って前線に着いた千寿丸は、諏訪頼重の命を奪うことは終ぞ果たせなかった。
ただし、放った矢が頼重の肩に命中したことで、後にこれを聞いた頼重の好敵手であり、千寿丸にとっては弓の師匠である信濃国守護小笠原貞宗の鼻を高くさせることとなる。
閑話休題。足利尊氏自ら率いた高兄弟を主力とする軍は遂に戦神との呼び声高かった諏訪頼重を袋小路に追い詰めた。
東国の武神と呼ばれた男の身体は、千寿丸のもの以外にも複数の矢を受けており、まさに満身創痍である。
「戦神の名に違わぬ戦いぶり。御見事でした。諏訪明神」
(ホントだよ。アイツら連れて来ないで正解だった)
今や天下に名を轟かせる頼重が用いた軍勢は、最後の抵抗とばかりに足利軍の将兵を数多葬った。しかし、諏訪軍の兵力は尊氏が想定していた数を遥かに下回っていた。
謂わゆる無駄死にを忌避し、大半の兵を自身の孫にして現在の大祝である頼継に託すため、信濃国へ向かわせたのである。
「彼等と歩むは一切の穢れなく、新しき神。我と時継はこの戦の責任を負い、この戦場で散りまする」
瞬間、尊氏は背後より迫る脅威を感知した。
すなわち、諏訪時継が後世における暗殺のプロフェッショナルにも劣らぬ程に気配を消して尊氏を暗殺せんとしたのである。
しかし、尊氏は逆に時継の首を一撃で貫いた。
「か……はっ」
「残念です。諏訪明神。それがしも少しですが未来が分かる」
我が国がこれから辿る大まかな顛末を"前世の記憶"より知る千寿丸は尊氏が言うことに息を呑んだ。
尊氏は言う。か弱い傀儡を大将として担いだ乱は、その大将ではなく首謀者本人の名前を基に名付けられると。
「この乱は"諏訪頼重の乱"と呼ばれるでしょう。遥か遠い昔の"恵美押勝の乱"のように」
(何言ってんだあの人。いや、室町時代では"諏訪頼重の乱"と呼ばれてたのが、二十一世紀には既に"中先代の乱"と呼称されるように変化していたとかそういう話か?)
限りある未来知識を持つ千寿丸が、淡々と話す尊氏の言葉を測りかねて悶々としていると、どこからともなく鈴の音が木霊する。
童謡の一節のようなフレーズを唄う声は、千寿丸にとって聞き覚えがあるものだった。
「この戦の主が、この戦に決まりを定める」
後世、日本に生きる人々の中には西暦1335年を次のように記憶する者たちが居る。すなわち、最後の得宗高時が嫡子北条時行による中先代の乱が勃発した年であると。
(ああ……北条時行。やはりお前は)
今は建武二年に生きる武士であると自認する千寿丸もまた、"中先代の乱"の首謀者を北条時行とみなす者の一人である。
だからこそ──
「重頼。急ぎ我が軍に伝えよ。これより、金蝉脱殻計を用いし北条時行を討ち取ると。よりて、選り抜きの精鋭を腰越に派遣せよと」
「は。承知しました」
かつての現代人も、今は乱世に生きる怪物の一人。六角千寿丸に千載一遇の好機を逃すつもりは微塵もない。