崇永記   作:三寸法師

32 / 201
◆5

〜1〜

 

 

 三河国矢作川の足利軍先鋒部隊の陣営を慌ただしく後にした俺は魅摩や幾人かの家人たちを引き連れて東海道を下った。

 その道中に立ち寄ったのが、行軍の休息を取る総大将の直義に率いられた足利本軍である。建前上は本国である近江国に工作のため密かに戻っていたことになっている俺は人払いされた本陣で、律儀な性格らしい直義に情勢報告がてら食事を提供されていた。

 

 

「では此度の戦、先代の時信殿は出陣しないのだな?」

 

 

「はい。同じ佐々木一族の塩冶判官殿は参じたようですが、中先代の乱の折に従軍しなかった当家の面々で、新たに東征軍に参じたというような者はおりませぬ。悉くがこれまで通り留守居を」

 

 

 今なお近江国において留守を預かる六角家の者たちは、東進する新田勢の大軍が通過する際に求められる兵糧の提供を回避するのは難しかったようだが、新たな出兵は免れたらしい。

 今の佐々木荘では、幼い弟の四郎を臨時のトップとし、大江の血を受け継ぐ長井家の出である今世の俺の実母や病身である青地氏重らが協力して統括するという形が採られていた。

 

 

「これで不安要素が一つ消えた。時信殿はかつての六波羅軍の主力。鎌倉幕府健在の頃からの実力者だ。新田に味方していたなら、足利軍は間違いなく手痛い目に遭わされていた」

 

 

「どうでしょうか。足利軍には高兄弟に加え、尾張守殿をはじめとして驍将が数多くおられます。恐れながら、仰せのような脅威になり得たかどうか、この千寿丸には疑問です」

 

 

「……佐々木殿はお父上には殊の外手厳しいな。時信殿とて正面戦闘であれば、相当な強さの持ち主だったと思うが」

 

 

 足利直義という男には兄の尊氏に負けない魅力があるという話はよく耳にする。緻密な計算によって成果を残すのだとか。

 あの斯波家長が良い例である。直義のためなら迷いなく殉じられるだろうという人間は少なくないのだ。

 

 

「直義殿の仰る通り、先代の佐々木六角時信は確かに個人の武力で言えば西国有数でした。しかし、あくまでその一点張りに過ぎず、結果として何度も敗戦の恥辱を味わうことに」

 

 

「では、現当主殿は御先代とは違うと」

 

 

「はい。必ずや尊氏様を天下人に。未熟の身ではありますが、戦となれば誰が相手であろうと恐れはしません」

 

 

「……そうか。佐々木殿のその気概を買い、頼みたいことがあるのだが、聞いてくれるか?」

 

 

 自分の兵が箱根にいる今、それ程大変な命令は下されまいという読みの元、俺は直義の言うことに力強く頷いた。

 

 

「頼みたいのは私や高兄弟が新田軍に敗れた時のことだ」

 

 

「……」

 

 

「縁起でもないと思うか?私がこのようなことを言うのは」

 

 

「……いえ、人払い中でありますし、私も目下の情勢が源氏に不利であることは多少なりとも心得ているつもりです」

 

 

 当世に神力が存在しているからと言って言霊信仰に染まった覚えはないが、大将が軽率に悲観的なことを口にすれば、自ずと士気は下がるという道理は当然ながら理解している。

 とはいえ、かと言って状況を無視して良いというものではない。楽観的な考えは油断を招く。気丈に振る舞いつつも、内では冷静に状況を俯瞰することこそが肝要なのだ。

 

 

「ならば話は早い。仮に私と高兄弟が本当の意味で力を合わせて足利一門衆を率いることが出来れば、たとえ新田義貞が相手だろうと恐れることはない。しかし、実際はそうもいかないのだ」

 

 

「大敵を目前にしても、でございますか?」

 

 

 限られた日本史の知識しか持たない俺でも、観応の擾乱において足利直義と高師直が対立関係に陥ることは把握している。

 しかし、まさか建武政権を打ち倒す前から二人の足並みが揃わない有り様というのは幾ら何でも早過ぎやしないだろうか。

 

 

「先鋒大将の師泰に従う足利一門の武将で、私に親しい者は少なくない。そうした者の1人から報告があったのだ。師泰……否、先に合流した師直は総大将の私を待たずに速戦即決の構えだとな」

 

 

「……成る程」

 

 

「佐々木殿。佐渡判官を分家に持つ御主なら何か知っているのではあるまいか?師直の宴にも顔を出していると聞くが」

 

 

「お戯れを。道誉殿は分家と言えど、私に全てを逐一知らせる訳ではありません。まして師直殿は……あくまでも料理が美味しいから宴に顔を出しているまでにございます」

 

 

 観応の擾乱のことを踏まえれば、師直だけでなく尊氏とすら対立して南朝に降るという足利直義に取り込まれるのは避けたい。

 武士を武士とも思わない大覚寺統に再び属するなど御免被る。まして俺は京の背後あるいは喉元にある近江国の武将である。

 南朝に走れば、尊氏や二代将軍の義詮は容赦なく京極や大原、若しくは足利一族の誰かを代わりの近江国守護にと考える筈だ。

 それは何が何でも避けなければならない。三代将軍義満の時代を無事に迎えるためにも、直義とは距離を置くべきなのだ。

 

 

「まだまだ青いな。佐々木千寿丸。全くの嘘という訳ではないのだろうが、急に童のようなことを言ったところで、何かあると白状しているようなものではないか。君と同じ歳の北条時行とて、井出沢での開戦前の論戦では上手く詭弁を使ったぞ」

 

 

「……」

 

 

「まあ良い。師直の意思は明らかだ。明日までに開戦の報せが届くだろう。師直は知勇兼備で、従う武将も強者揃い。義貞相手と言えども、何とか持ち堪えられる筈だ。幸いにして朝廷軍が掲げていた錦の御旗が折れたことで、味方の士気は回復傾向にある。承久の乱を再現せむとな。速やかに進軍を再開せねばなるまい」

 

 

「それで……頼みとは一体何のことでございましょう?」

 

 

「大したことはない。ただの御使いだ。佐々木殿なら何ら支障なく果たすことが出来るだろう」

 

 

 足利直義の軍才を疑問視する声は少なくない。

 しかし、少なくとも政治については当代随一、それどころか北条泰時以来の逸材である可能性すらある俊才の持ち主らしい。

 一部では兄の尊氏に比肩するとさえ言われた直義による依頼は、俺にとって思いもよらないものだった。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 高師直が敗れた。しかも、矢作川と続く鷺坂の二度にわたって。

 この重大な情報は決して隠し通せるものではなく、すぐに各地の足利方の軍に伝わった。

 それは今なお尊氏が部屋で引き篭もり続けているため、代わりに足利軍を司っている直義からの待機命令に従い、赤松貞範の軍と連携して箱根に駐留し続けている六角軍も同様である。

 

 

「道俊、師直軍は鷺坂からも退却したそうだが、京極軍についてはどうだ?もう新田軍(向こう)に投降したか?」

 

 

「いえ、未だ足利軍に留まっているようです。それにしても、矢作川では率先して第一陣を担ったという話、未だ解せませぬ」

 

 

「全くだ。あれは一体どういうつもりだ?……ふんッ!」

 

 

 箱根一帯の地形の把握と昼食の御菜の調達を兼ね、側近や忍びたちを駆り出して狩りに出ている俺は、茂みの影から狙い澄まして矢を放つ。狩猟はこの時代では立派な軍事訓練の一つなのだ。

 勿論、久々に美味いものを食べたいというのもある。防御設備の整備は既に完了しており、残る仕事は武具の確認と兵の慰撫程度で暇なのだ。さもなくば、ただの遠駆けで済ませていただろう。

 昨夜降った雪のおかげで辺り一面が白銀に染まった山腹を屯する猪に矢が命中したことを視認した俺は再び冬の太陽の元に出た。

 

 

「ま、こんなものだろ。道誉殿のことだが、恐らくあの腹黒坊主はまだ新田軍の信頼を完全には得ていないと見た」

 

 

「では、第一陣というのは」

 

 

()()だろう。今後、本格的に新田軍に転がり込むためのな。偽装投降をするためには、偽装と見抜かれないための仕込みが不可欠と聞く。まして今回、道誉は愛娘の魅摩を伴わず、敵軍に投降しようとしている。だからこそ常ならざる手段を用いたのだろうさ」

 

 

「敵からの疑いを避けるために、あえて渦中に飛び込んだと」

 

 

「そういうことだ。新田軍に予め自分が第一陣だと伝え、実際に程々に手を抜いて証を示すとか色々と手はありそうだがな」

 

 

 談笑しながら仕留めた獲物の方へと歩いた俺は腰に提げた笛を取り出し、指先を何の滞りなく動かして音を奏でる。

 程なくして亜也子を含む郎党数名が駆け付けて来た。

 

 

「御大将、獲物を仕留められましたか」

 

 

「ああ、太郎左。運搬の方を頼みたい。蒲生たちと共に宜しくやってくれ。重頼に亜也子、お前たちはこのまま俺と来い。猪だけでは些か物足りないというものだろう。熊を狩るぞ。思うに、別行動の美濃部たちがそろそろ見つけ出してくれた頃合いだ」

 

 

「「は!」」

 

 

 このご時世に生まれ落ちて初めて体感したことだが、ツキノワグマの肉というのは想像していたよりずっと美味である。

 甲賀の国人であるというだけでなく、忍軍の棟梁でもある道俊の案内に従い、巣を見つけ出した美濃部たちと落ち合った。

 

 

「殿。あれでございます。あそこに熊の巣穴が」

 

 

「良し。あの穴……熊もかなりの大きさだろうな」

 

 

「はい。途中追い掛けられましたが、一旦撒いて再び此処へ」

 

 

 一体何をしているんだと思ったが、六月に亜也子と弧次郎の二人に音もなく伸されていた頃のことを思えば、熊の追跡から逃げられるだけ彼らは成長していると言えるのかもしれない。

 それに、風の向きから彼らが熊の鋭い嗅覚にも気を配っていることが窺える。尤も、これは狩りの基本であるのだが。

 心の内の呆れを称賛で塗り替えた俺は菜食主義者でも現役の僧侶でもないので、躊躇なく熊を仕留める算段を立て始めた。

 

 

「良いか。煙で炙り出す。松明を使用するのだ。慌てて出たところを俺が矢で仕留める。万一、矢を外した際には亜也子。お前が時間を稼げ。俺が刀を構え次第、二人で確実に殺すぞ」

 

 

「はい!」

 

 

 二十一世紀であれば人間は熊に無闇矢鱈に近付かない方が賢明だろうが、生憎とこの時代の熊は死体漁りのせいで人肉の味を知っているため、人と熊との境界線とやらに気を配る必要がない。

 無論、その分獰猛なのだろうが、俺たちは武士である。その上、熊すら狩れない武士が新田軍の武将を仕留めるのは土台無理というものだろう。遠慮せず狩りに行くべきなのだ。

 

 

「では、殿。投げ込みます」

 

 

「ああ、頼む」

 

 

 この時代の人々は幼少より石合戦に馴染んでいるせいで平均値で言えば、後世の人間よりずっと肩が強いように思われる。

 現に、普段は一人の家人として過ごしている美濃部ですら、何十間以上も離れた距離から松明を熊の巣穴の目の前に投げ込んだ。

 

 

「ッ」

 

 

 直ぐ様、俺が火矢をその松明へと撃ち込み、煙が立ち始める。

 ただでさえ、前世において熊は嗅覚に優れているとニュースでよく耳にしていたのだから、ここまでして出て来ない筈がない。

 

 

「殿。出て来ました」

 

 

「……間抜けめが」

 

 

 矢は正確に熊の胸元を射抜いた。ここからが勝負である。

 何でも出血の痛みに晒された熊は錯乱し、凶暴になるという。

 現に、矢を受けた熊は悶えながらも、下手人を見つけて落とし前をつけようと、四方八方へ目を光らせようとしていた。

 

 

「亜也子、出るぞ。重頼は他の獣が寄って来ないか警戒を」

 

 

 狩りというのに情けは無用だ。特に、目の前の熊は俺たちの血となり肉となって貰うために是が非でも欲しいところだ。

 乱れるように繰り出された熊の爪を俺が太刀で余裕を持って防ぐ間に、背後から亜也子が四方獣で殴り裂き、熊は遂に息絶えた。

 

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 狩りの成果は上々である。これで兵糧が少しは節約できるというものであり、度重なる敗戦の不安も紛れるというものだろう。

 しかし、多くの郎党たちが上質なたんぱく質を前に沸き立つ中、亜也子は一歩引いているような落ち着きぶりである。

 他所よりずっと狩りに積極的な諏訪神党の出身で快活な傾向にある彼女にしてはやけに神妙な態度を俺は不審に思った。

 

 

「諏訪明神は狩りを認めているんだろう?お前だって何回も肉を口にして来たのに、何か不都合でもあったか?」

 

 

「……そんなことないよ。むしろ待ちきれないくらい。私もお肉はかなり好きだしさ」

 

 

「ほーん……そういや、お前は残る決断をしたんだな。これまで口には出さなかった訳だけどさ」

 

 

「逃げないよ。殿様、私にはもう()()しかないから」

 

 

 俺が魅摩に伴って密かに上京する間、伊豆国は北条にとって縁深い地であるのだから、六角軍が近江国に戻ることになる前にと考えた亜也子が隙を見て逃げ出すかもしれないと予測し、重頼らに密かに警戒させていたが、実際にはそうはならなかった。

 今はまだ致命的な情報は持っていないし、ダメージは最小限に抑えられるが、それでも戦力が流出しないに越したことはない。

 

 

「そうだ。近江国に一時帰国したついでに甲賀望月家に話をつけておいた。これが意味するところは説明するまでもないな?」

 

 

「うん……分かってる」

 

 

「ならば良い。ま、玄蕃ならあるいは来るかと思ったが、来ないということは()()()()()()なのだろうしな。それが賢明だ。さあ、肉を喰おう。牡丹鍋に熊鍋とは戦前の景気付けには持ってこいだ」

 

 

 蓋を開けてみれば、鹿もあった。というのはさて置き、俺は六角家の重臣たちと共に一つの大鍋を共有していた。

 普段は滅多にしないことだが、どことなく微妙そうな顔をする執事に対し、戦の前に同じ鍋の食事を食べて一致団結しておくのも悪くないだろうと押し切ってのことだった。

 何気なく食べ始めようとしていると、六角家の家臣の一人である儀俄から思ってもみなかった反応が返って来た。

 

 

「もしや殿は……意外と焦っておられる?」

 

 

「これ、儀俄殿」

 

 

「……いや、馬淵。構わぬ。儀俄よ。何故にそう思った?」

 

 

「その……状況が芳しくない故、かようなことをお命じになるのではないかと。出過ぎた真似を致しました。申し訳ございません」

 

 

「……ふむ」

 

 

 師直敗戦の報せは既に家臣たちにも伝わっている。

 一応、師直が流れが悪いなりに上手く敗軍を纏めて駿河国に居た直義と合流したという話も知られてはいるものの、直義の軍才に関する噂話が災いしているのだろうか。

 いよいよ彼らに不安の芽が芽生え始めているらしい。

 

 

「いやいや、儀俄殿。実を言えば、殿は此度の高師直の敗戦を見越しておられたぞ」

 

 

「伊庭殿。それは真で?」

 

 

「そうでございましたな。殿」

 

 

「……まあな。当たって欲しくはなかったが」

 

 

 北条軍や三浦軍との戦ぶりを考えても、高兄弟の強さは抜群かつ天下という広いスケールにおいても指折りだと断言出来る。

 とはいえ、それにしては矢作川にしろ鷺坂にしろあっさりと負けたのだが、理由については割と容易に想像が出来るのだ。

 

 

「やはり矢作川で師直殿の傘下にあった先鋒部隊のみでは数が足りなかったように思う。何せ敵軍には義貞や新田一門衆に加え、河内判官と同格と言われる宇都宮公綱や我が同族である塩冶高貞といった他家の名将たちも居る。彼らと戦うには、もう一万騎は欲しかったところだ。士気の問題も無くは無かったのかもしれないが」

 

 

 当初の見込みでは朝敵認定されたことによる足利軍の士気の低下が深刻になるのではと思われていたが、新田軍もまた魅摩が神力で錦の御旗を折ったことで良いとは言えなかった筈である。

 だが、結果は結果。足利軍の戦線は十日も経たない間に、新田義貞によって三河国から駿河国まで押し込まれてしまった。

 

 

「殿の仰る通りかと。しかし、もう終わってしまった戦ですが、先陣を切った京極軍がもし我ら六角軍であったならと口惜しくてなりませぬ。土岐軍や吉良軍と共に第一陣を任されながら、堀口軍五千余騎に追い返されるとは、情け無いにも程があります」

 

 

「止せ。新田軍は知者こそ少ないものの、猛者の数は足利軍に引けを取らない。特に堀口美濃守と言えば、船田入道と共に新田義貞の両腕とも称せられる程の良将だ。徒らには責められまい」

 

 

 どうせ負けるのだからと考え、周りからバレないよう上手く手を抜いたのだろうかという疑念を抑え、俺は道誉を庇った。

 毎度のことだが、彼らの京極家への敵愾心も困ったものだ。道誉の顔に影が差していなければ、こうはならなかったのだろうか。

 

 

「ですが、殿。兵力不足のために高師直が連敗し、戦線が当初の矢作川から駿河国の手越まで一気に後退したとなると、我らも三河国まで赴いて戦った方が良かったのではありませんか?」

 

 

「さて、どうかな。木村。仮に我らが矢作川に参陣し、義貞率いる大軍に勝てたとしても、別の問題が浮上する」

 

 

「と申されますと?」

 

 

「東山道を進む洞院実世の軍。あれが面倒だ」

 

 

 仮に矢作川の戦いで勝って尾張国や美濃国まで攻め込むことが出来たと考えた時、厄介になるのが洞院実世の軍である。

 一見したところでは大して恐れるに足りない公家の軍だが、内訳を見れば、新田家家臣の江田行義や大舘氏義の他に、島津や小田といった武家が加わっており、中々どうして侮り難い。

 もし、美濃まで誘い込まれた上で新田義貞の軍と引き返した洞院実世の軍で挟撃されれば、壊滅の危険性は否定できない。

 リスクを抑えるためにも、直義の本軍より更に後ろに軍を配備する必要があり、これに適しているとされたのが、かつての六波羅軍主力の六角軍並びに少数精鋭を誇る赤松軍なのである。

 

 

「……ま、敗れてしまったからには挟撃の心配をしても仕方がないんだがな。洞院軍も一度(ひとたび)信濃国に入れば、小笠原軍の餌食になるだろうし、先の戦で朝廷に叛逆した諏訪勢にも歓迎されまいよ」

 

 

「やはり殿は小笠原殿を相当買っておいでなのですな」

 

 

「それはもう。弓の腕は勿論だが、武士としての在り方含め尊敬できるお人だ。きっと一万騎の洞院軍を防いでくれる」

 

 

 小笠原軍の数は多く見積もっても三千だろう。しかし、信濃国には山が多く、小勢が奇襲を以て大軍を破り易い筈だ。

 また、こういう手もある。歓迎する振りをして酒宴を開き、その席で大将格の者たちを召し捕えるのだ。尤も、この手の汚いやり口は貞宗よりは道誉に向いていそうな発想なのだが。

 

 

「だが、結局のところこの戦で肝要なのは尊氏様の出陣だ。それさえ成れば、風向きは一気に変わる。さて、食事を魅摩のところまで届けて来る。お前たちは気にせずそのまま食べておれ」

 

 

「「「は!」」」

 

 

 護衛を兼ねる亜也子たちを引き連れて本陣の傍にある小堂に控えさせた魅摩の様子を見に行くと、未知の刺激が鼻を襲った。

 

 

「魅摩姉、また新しい香木試してんの?」

 

 

「まぁね。結構いい感じでしょ?あ、器はそこ置いといて」

 

 

「ああ。魅摩姉、俺はもう行くよ。食事を摂り終わり次第、投石に使う石の確認をしに行くからさ。前線の兵たちの慰撫も兼ねて」

 

 

「ふーん。それで、駿河の戦局はどう?勝てそう?」

 

 

「どうだかな。戦は時の運によるとも言うし。矢作川の時と違って向こうとの兵力差がかなりある上、直義殿には高経殿ら良将たちも多く従っているから、そう簡単に負けることはないと思うが」

 

 

「急報!殿、大変なことになりました!」

 

 

 折良く……と言って良いのか分からないが、何やら報せを告げに近臣の一人である粟生田小太郎が入って来た。

 報せと言っても、その剣幕から大体の内容は察せられたが。

 

 

「負けたか。直義殿の軍は」

 

 

「……はい。惨敗です。またしても敵の夜襲を受け、お味方の死者は数知れずとのこと。間も無く敗残兵がこちらに」

 

 

「相分かった。重頼、直ぐに皆に伝えに参れ。既定通り、味方の敗軍を迎え入れる用意と追撃軍への歓迎をと」

 

 

「は!」

 

 

「殿、それと……」

 

 

 続く言葉を言い淀んだ小太郎が気不味さを感じているかのように魅摩を一瞥し、再び当主である俺に目を向けて来る。

 無論、魅摩が道誉の娘であることは周知の事実である。

 

 

「亜也子」

 

 

「は!」

 

 

「ぐへっ!」

 

 

 俺の声にすかさず反応した亜也子が示し合わせていた通り、魅摩の身体に掴み掛かるや否や体術を使って床に押さえつける。

 仮にも裏切り者の娘となれば、相応の仕置きが必要なのだ。

 

 

「……我が君。これは」

 

 

「問題ない。お前たちは暫し控えていろ」

 

 

 居合わせた郎党たちが急転直下の出来事に瞠目する中、俺と魅摩の目が合う。世間一般の令嬢とはまるで毛色の違う魅摩が、まず最初に吐こうとしたのは俺に対する恨み節だった。

 

 

「あんたねぇ……」

 

 

「分かるだろ?魅摩。皆への示しだ。暫く拘束させて貰う」

 

 

「はっ、拘束か。別に手打ちにしてくれても良いんだけど?」

 

 

「安心しろ。今のお前は身も心も力も()()()()だ。故に殺さぬし、足利軍や他の源氏軍の誰にも手出しさせるつもりはない」

 

 

「……へぇ。言うじゃんか、三郎」

 

 

 その気になれば素手で人を殺せる程の膂力を持つ亜也子に拘束されていながら、魅摩は強気の態度を崩さない。

 流石は道誉の娘と言うべきか。胆力だけではない。この状況において感情の昂りを抑え、適切に言葉の裏を読んでいる。

 

 

「亜也子、魅摩をこのまま頼む。お前が側についてやれ。皆にも厳しく命じておくが、俺が居ぬ間に勝手に処分してはならんぞ」

 

 

「……殿様は?居ぬ間って、もしかしてまた何処かに?」

 

 

「そうだ。再び鎌倉にな。というのも、直義殿より敗戦の折の策は賜ってあるのだ。これに従い、必ずや尊氏様に御出馬頂き、この劣勢を覆さん!……と、つまりはこう言うことだ」

 

 

 幾枚もの書状が入った懐に手を当て、俺は堂々と宣言した。

 しかし、この時の俺は失念していたのだ。足利尊氏という人物がしばしば誰にも予測出来ない行動に出る男であることを。




登場人物目録(旧登場人物紹介)において千寿丸(1335)のステータスを確定させました。"軍功抜群"六角氏頼としてのポテンシャルや将来性は勿論、"前世の記憶"を有しているという事情から知力など各能力値が年齢離れしていることを踏まえた上で、お納めください。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。