崇永記 作:三寸法師
〜1〜
駿河国手越河原で敗戦を喫した足利直義率いる軍勢の箱根の山々への再配置が終わり、赤松軍と共に防御拠点の整備を担当していた六角軍の総大将である千寿丸は、直義と同じ敗軍の将となった高師直らと共に、朝敵と見做されたことにショックを受けて部屋に引き篭もってしまった足利尊氏の元へと向かっている。
「そうですか。義貞の執事・船田義昌にそのような力が……」
「ああ。だが、ヤツの才覚ではやはり限界があるようだ。仮に俺がヤツの立場にあったなら、確実に追撃軍を間髪置かず発している。洞院軍、しかも二条為冬率いる分隊との合流とかいう下らんことのために時機を逸するとは見下げたヤツよ」
矢作川の合戦を皮切りに始まった新田軍と足利軍の戦は、意外にも新田軍の知略による連勝という形で進行している。
『あの三軍のうち最弱は吉良満義だ!狙え!』
『ちょ!?オレ狙い!?www』
新田軍の先陣を任された堀口貞満は名将である。天下に聞こえた将である道誉や超人級の武力を持つ頼遠ではなく、草を生え散らかした満義こそ最も戦い易い敵であると即座に判断した。
『吉良軍を土岐軍の方に追い立てろ!敵の足並みを乱せ!』
『……チッ』
『吉良殿。ここはお退がりを。後は拙僧らで保たせましょう』
堀口軍の集中攻撃で吉良軍が崩れたことによる自軍の戦列の乱れを嫌った頼遠の圧力や道誉の勧めを受けて、満義は潔く両軍の邪魔にならないようにと自軍を纏めて東岸へと退却した。
とはいえ、吉良軍の死者は三百騎。負傷者数は更に多い。事実上の総大将である師直はこれに対応する必要に迫られた。
『師久、師冬。行け。追って我々も前線に出る』
『『は!』』
(地の利を頼みに
万を超す高軍が戦に出ると、義貞も負けじと最前線に現れた。
第一陣の不利から、かくなる上は自分たちを置いて他に相手になるのは居ないと高軍の兵たちは果敢に義貞の首級を狙った。
『ワハハハハハ!物足りないぞ!もっと来い!』
『……流石に強い。簡単には討ち取れん』
『師直様!横から敵の新手が!』
『問題ない。宗継の隊に対処させる』
(上流は掌握済み。好きな時に堰を切って大水を流せる。義貞を正面から討てない場合の策は用意していたが、やむを得まい)
義貞を討ち取ること叶わずとも、引き摺り出そうと師直は自らの掌中にある精鋭部隊を率いて接近を試みたが、額田ら七千騎に横槍を入れさせた義昌の戦術により、容易には近付けなかった。
この様子を見て痺れを切らしたのが仁木、細川、今川ら足利一門衆である。まずは足利魂の旗を揺らした細川勢が勇んだ。
『高兄弟は何を手間取っている!もう待てん!掛かれぇ!』
『顕氏殿に遅れるな!我らも続くぞ!』
『『『ウォォォォォ!!!』』』
(……これでは次善策に切り替えることは出来ん)
『師冬、初戦は負けだ。退くぞ』
『は』
『兄者、あいつらはどうしましょう?』
『暫くは好きにさせておけ。師久、頃合いを見て、お前が上流の堰を切らせろ。次戦以降のためには義貞の勢いを削がねばならん』
結局、師直はこの地での戦を諦めた。
主君が不在である今、宗家当主の執事を務める自分の
しかし、そこからは新田義貞の独壇場であった。
新田義貞という武将は一度勢いに乗ったら、たとえ大水に襲われようと止まらないのである。結果、師直は不意打ちを喰らった。
『師直!その姿はどうした!?』
『直義様、申し訳ございません。川の堰を切った後、鷺坂まで退き軍を纏め直していたところに夜襲を受け、味方は総崩れに』
『そうか……お前はもうゆっくり休め。後は私が』
所々に傷を受けて返り血の付いた師直に労りの言葉を懸けた直義だったが、程なくして自身もその二の舞と成り果てた。
十二月五日。矢作川や鷺坂で吸収した降参兵の他、後続の宇都宮軍や熱田軍と共に手越の地に現れた八万騎もの新田軍の前に、直義は為す術なく敗れ去ったのである。
「敵軍の中に案の定、塩冶もおったぞ。お前の所の分家だな」
「申し訳ありません。塩冶殿は後醍醐の帝に従って今や鎌倉の頃を凌ぐ栄達を得ました故に、こちらには靡かぬものと」
「塩冶のおかげでこちらは大損害だ。だが、ある意味助かった」
「はて。助かったとは如何なる意味でございましょう?」
「道誉殿の偽装投降は知っているな?弟御が討ち取られ、揉める危険があったが、塩冶の仲介で上手く話は纏まったようだ」
「何と……」
千寿丸は愕然とした。道誉の動向については概ね把握していたつもりだったが、道誉の弟の戦死は完全に初耳だったのである。
とはいえ、夜襲のために敵味方の区別が付きにくく、新田軍が配慮し切れなかったのだろうと直ぐに察しをつけた。
(こうなると、魅摩を俺の元に寄越して来たのも頷ける。かなりの乱戦になっていた筈だ。もし道誉が魅摩を手元に残したままだったなら、無事に済んだという保証はない。これを見越していたのか)
人知れず肝を冷やした千寿丸に、仏頂面の師直は話を続けた。
「喜べ。塩冶や道誉殿、更には尊良の取り計らいで、新田が勝とうと近江国守護や佐々木惣領の座は変わらずお前のものだ。向こうに転がり込むなら今のうちだが、さぁどうする?」
「お戯れを。皮算用とはまさにこのこと。最後に勝つのは尊氏様を置いて他におられません。まぁ、ご自分のお部屋から出て来て頂かないことには、それも些か危ういのですが」
「案ずるな。道誉殿の謀略により、足利と後醍醐の帝は完全に手切れとなった。この上、弟の直義様の命が危険だと知れば、その気になって下さる筈だ。しかも、この戦況かつ殿がご不在のせいで士気はドン底だ。最早お出にならない理由がない」
果たして引き籠った尊氏の姿は将軍御所の自室にはなく、足利氏と縁の深い寺である浄明光寺にあった。
尊氏の近侍が言うには、自ら謹慎して後醍醐帝に怒りを収めて頂くためであるということである。
「殿下がお亡くなりになったからには、寺で謹慎した程度で帝がお赦しになるとはとても思えませんが、これは一体……」
「それだけ殿の京へのお気持ちが強いと言うことだ。千寿丸殿は俺の隣に。お前たち一門衆は殿のお側に控え申し上げるのだ。殿が服を脱がれたら、即座にお止め申せ。兵たちは中に入れるな」
「「は」」
かくして尊氏を説得せんと師直や千寿丸をはじめ足利方の名のある武将たちが寺の御堂に入って行った。
兵たちが固唾を呑む中、一世一代の説得が始まったのである。
〜2〜
一番槍を入れたのは足利にとっては外様でありながら、本家に迫り得る家格を持つ六角家の幼当主千寿丸だった。
皆の視線が集まるのに構わず、千寿丸は懐から十数枚もの書状を取り出し、尊氏の前にざっと並べた。
「……これは何だ?千寿丸」
「はい。我が弓術の師たる貞宗殿をはじめ小笠原や武田の一族に届いた綸旨だそうにございます。帝が仰せになることには、鎌倉殿や直義殿以下の者たちを征罰し、必ず殺せと」
「うわあああん。やだよおぉぉ。帝おぉぉぉ。どうじてえぇぇ」
発狂した尊氏は髪を掻き毟り、衣を開いて短刀を取り出した。
即刻、主君を死なせてはならないと顕氏らが止めに入る。
(これはまた……いや、諦めるにはまだ早い)
尊氏の狼狽ぶりを間近で見て動揺した千寿丸は、声の震えを抑えようと努め、幼児に問い掛けるように優しく説いた。
「尊氏様……朝敵認定されてしまったものは、最早どうしようもないとお考えになられませ。武士としてここはやはり」
「大恩ある帝と戦いたくないのだ!もう死んでお詫びするうぅ!」
(こ、これじゃ意思疎通が成り立たない……話が違うぞ、直義)
箱根の六角軍に合流するより前に直義と会った際、千寿丸は敗戦の折の策を託された。すなわち、偽綸旨の活用である。
尊氏に心を決めさせるべく、後醍醐帝の怒りが手の付けられないところまで来ていると知らしめるために能書家の手を借りてまで用意された偽綸旨だったが、完全な骨折り損に終わった。
やはり直義の方策では駄目だと今度は師直が切り出した。
「殿……朝敵にされた今、我々が如何に手を尽くそうと、兵たちの戦意高揚には限界が。やはり殿に御出陣頂かないことには」
師直は主君相手に語弊を恐れず、簡潔に状況を説明する。
長年執事を勤めた経験を基に、どうすれば尊氏の意欲を引き出せるかを師直なりに考えてのことである。
「新田義貞は勢いに乗せると、手がつけられない。直義様が防戦するも戦死寸前です。手越では敵の夜襲に遭い、今は決死の覚悟で箱根に陣を張っておられますが、いつまで保つことか」
「直義は我が愛する分身だ!死なせることは断じて出来ん!だがやはり帝に弓引く訳には……」
色々な意味でこの男は今更一体何を言い出すのかと思った千寿丸だったが、幾許もなく尊氏の異変に気付いた。
急に黙った尊氏が執事師直の髪をじっと見つめていたのである。
「話は変わるが、師直。何でお前いつも髪を結わないんだ?」
「髪を結う時間が煩わしく……執事は多忙故」
なお、その割に師直はしっかりと女遊びをしている。
尤も、その女遊びも時間が惜しいのか複数人同時に相手していると屋敷の者の間でまことしやかに囁かれる程なのだが。
しかし、尊氏には関係ない。気が変わったのか、腹を刺し続けていた短刀を構え直し、笑顔で自らの髷を持ち上げた。
「いいな、それ!我も煩わしさから解放されたい!」
(何なんだ。この天下人)
突然の散髪劇に呆然とする千寿丸はさて置き、尊氏と師直の主従は堂々と境内にいる足利兵の前に姿を現した。
時代が時代である。足利兵たちはすぐに尊氏の髷が落とされている事に気が付き、そして早合点した。
「髷を落とすというのはつまり、帝と戦うからには例え勝っても武士を辞めて
「殿がそんなお覚悟なのに、俺らは……情けなや。情けなや」
「戦うぞ!俺たちも同じ覚悟で!」
兵たちの士気は瞬く間に最高潮に達した。
それと同時に、こうとなっては仕方がないと天下取りを決意した尊氏の神力もまた眩いばかりの光を発する。
「我らも髷を切ろう、顕氏殿」
「応」
(待て。これ、俺はどうすれば……)
堂の中に残った将たちもまた髷を切り出す様を見て、千寿丸は日本人らしく空気を読んだ方が良いのかと狼狽えた。
しかし、まだ元服を済ませていない千寿丸は前髪姿だ。幾ら既に当主の座にあると言えども、勝手に切って良いものではない。
「千寿丸」
「ッ!はい!尊氏様」
「天下を獲った暁には、我が千寿丸の髪を切ってやろう。それまではその髪、誰にも切らせてはならんぞ」
「……御意のままに!」
その時、暗い堂の中に居た千寿丸に、尊氏の姿はまさしく曇天の空に差し込んだ一筋の陽光であるかのように見えた。
鎌倉殿と呼ばれ、いずれ名実ともに武士の頂きに立つ男が口にした言葉の意味を千寿丸は肌で感じ取ったのである。
「尊氏様、師直殿!献策しても宜しいでしょうか?」
「ん。何だ?千寿丸。聞こう」
「はい!新田軍を嵌め殺す良き策があるのですが──」
十二月八日、尊氏が遂に立った。各方面に散った逃走兵たちはこれを聞いて慌てて鎌倉に集結し、一日と経たない間に尊氏軍は十万騎をも優に超えた大軍勢へと膨れ上がったと云う。
〜3〜
出陣の折に突風によって錦の御旗が折れるという事態こそ起こったものの、新田軍を主力とする討伐軍は連戦連勝のおかげで不安の色など綺麗さっぱり消え去っている様子である。
現在、討伐軍は伊豆国府に駐留し、洞院実世の指示で急遽東海道へと進路を変更した二条為冬の部隊を受け入れ、明日にも再編作業を終えて箱根へ攻め掛かろうとしていた。
「堀口殿。淵辺義博の身柄は無事捕らえられたか?」
「いえ、執事殿。申し訳ござらぬ。首や死体を検分しても、それらしきものは無く。依然追手を放ってはおりますが……」
「さもありなん。凄まじい戦いぶりであったからな」
かつて若き親王将軍として一世を風靡した護良親王を弑殺した件が明るみになった事で、淵辺義博は天下に名を上げた。
しかし、それは同時に護良親王に近しかった者たちの恨み、引いては天下万民の義憤を一身に受けたことを意味する。
『直義様!お逃げを!』
『くっ!師直に続き二度までも夜襲の餌食になるとは……』
『直義様。ここはこの淵辺甲斐守にお任せをぉ』
どこにでも居そうな中年男性らしい風貌の義博は、手越河原の合戦において直義を逃そうと決死の奮戦を演じたのだと云う。
『居たぞ!淵辺義博だ!』
『総大将の命令だ!必ず捕えろ!』
『あれは大塔宮殿下を弑した大罪人ぞ!決して逃すな!』
『そう。俺はあの無敵の護良親王を倒した男。さぁ、新田に従う
この二年後、淵辺義博は鎌倉の朝夷奈切通にて、とある少年剣士と対峙することになるのだが、それはまだ先の話である。
閑話休題。義博を取り逃したという報告は新田家の家中でも三指に入る程の知恵者である船田義昌の顔を渋くさせた。
「こうなると、残るは
「は」
「今のうちに殿下のお気持ちを掴んでおかねば、この後の新田家の繁栄に支障をきたす恐れがある。全く困ったものよ。長らく待ち侘びた足利との戦の最中に、かようなことにまで考えを巡らせなければならないとは。直義さえ捕えられれば、尊氏は自ずと降伏するであろうから、戦略的にもあながち間違いではないのが幸いだな」
「心中、お察しします」
既に義昌は戦後のことを見据えている。今後の新田家の行く末に思いを馳せれば、関東の管領に任じられた帝の第一皇子たる尊良親王の心象を良くしておかなければならない。
義昌が優れた執事である分、幸か不幸か尊良親王の弟の死の真相究明を願う心は余すとこなく汲まれることになった。
「船田様。京極殿並びに塩冶殿がお越しになりました」
「そうか。通しなさい」
「は」
討伐軍に参加している近江源氏佐々木氏の大物として天下に広く知られた両名の登場で、義昌の表情は引き締まる。
何のための訪問だろうかという義昌の疑問の訳は、今も変わらず顔にドス黒い影が差し込む道誉が持つ一枚の書状にあった。
「京極殿。それは一体……?」
「我々の本家、六角家の家臣筆頭にして近江国守護代馬淵義綱からの文でございます。お改め下さい」
道誉から提出された書状を手に取った義昌は、何度も何度も読み返す。らしくもない振る舞いを不審に思った貞満が尋ねた。
「船田殿。もしやそれは」
「ああ……足利直義の命運、今ここに尽きたぞ」
明くる日、数にして五千騎を優に超えた軍勢が箱根の北側にある竹下の地へと差し掛かっている。軍を率いているのは──
「治部大輔。為冬を先遣隊として遣わしても構わぬか?」
「為冬卿を?我らの手の者で十分なのでは?」
「いや、為冬の方が千寿丸も安心出来よう。二人は互いを知っている故な。それに、余が来ていることも分かり易い筈だ。無論、搦手の軍の指揮は汝に任せている故、最終的な判断は任せるが」
「……いえ、殿下のお望みとあらば」
新田家当主である義貞の弟の脇屋義助こそ、正面から兄が大軍で攻め込む間に迂回路を通過することで、箱根を死守せんとする足利直義の背後に回ろうと目論む搦手軍の事実上の総司令官である。
今後のため、帝に関東の管理を任された尊良親王に忖度しようという舩田義昌の思惑に、この男もまた同調していた。
「為冬。では任せたぞ」
「はい。お任せを」
気心知れた親王の御意を受けた二条為冬は、錦の御旗を掲げた手勢の数にして五百余騎を引き連れ、勇壮な面持ちで先行しては向かう先にある軍馬の列を目指して進んでいった。
その軍馬が立てる旗には四つ目結の紋が記されている。今ここに五摂家の一つである二条家の軍と武家においては指折りの名門である佐々木惣領家として知られる六角家の軍が対峙した。
「お待ち申しておりました。為冬卿。お久しぶりでございます」
「そうなるかな、千寿丸。最後に会ったのは夏より前であったか」
「はい。あれから公宗卿の帝暗殺未遂、北条時行の乱、そして現在行われている足利討伐……思い返すだけでも様々なことが」
「千寿丸。この日の本において帝に弓引く者は必ず滅びる。この理を今から汝も世に示すのだ。中務卿殿下の元に参じ、逆賊たる足利兄弟を討つは、九条家家礼の血を引く汝の責務と心得よ」
「殿下がここに来られているのですか?」
「左様。ほら、あそこに……」
親王殿下の居場所は今どの辺りだろうかと為冬は馬の上から後ろに振り向き、幼い千寿丸のため手で指し示そうと脇屋や塩冶、大友といった軍勢で固められた搦手軍を見渡した。
藤原定家の血を玄孫として受け継いだ歌の名手で、建武の動乱によって天下に知られた公家大将の一人にまでなった為冬が、最後の晴れ舞台に立っている。そのことを当の本人はまだ知らない。