崇永記   作:三寸法師

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▲9

〜1〜

 

 

 数万の兵馬から成る四国武士たちを率いた定禅の他、頼春や顕氏といった細川氏の軍勢を次弟の高重茂の監督の元で派手に園城寺(三井寺)に入所させた足利家執事の高師直は近江国の勢多に布陣している。

 自らの主君でありこの世における唯一の神でもある足利尊氏の元に居たいと思う気持ちこそあれ、師直は足利軍の武将である。

 後醍醐の帝を今もなお主上と仰ぐ新田義貞や楠木正成、名和長年らの軍勢を比叡山またはその麓の坂本に追い込んだ今、南近江を確実に抑えなければならないという事情がある以上、東からやって来る敵方への援軍は必ず阻止しなければならない。

 そして、必要があるのであれば、尊氏の執事である師直は主君が口にする食事に関して別の郎党に気候などに配慮した細かな条件を伝えた上でその調理を任せ、敵の征伐に向かうのである。

 

 

「武蔵権守様!我が主君は佐々木城に在り、足利軍が体制を整え直す時間を稼ぐべく、果敢にも数千の兵力で北畠顕家率いる十万騎を相手に戦っておられます。どうか援軍をお出しください!」

 

 

「……青地とやら。六角殿からの書状はしかと確認した。お前は主君にここへ救援要請のため走るよう言われたのだな?」

 

 

「はい!我が君は齢十一と未だ幼少ながら、その気概は天を衝く程に高く、尊氏公の御為ならば、死をも辞さぬ覚悟!なれど、お願いでございます!何卒、一刻も早く救援の兵を!」

 

 

(救援要請のためと言わぬと動かぬ郎党とはな。道誉殿が六角家の郎党たちは面倒な者ばかりだと溢していたが、これは酷い)

 

 

「青地、兵を動かすにも今暫く時が必要だ。繖山から此処まで全速力で馬を飛ばし、疲れただろう。一先ず下がれ。息子のお替わり用のうどんがまだある筈だ。今はうどんを啜り、英気を養え」

 

 

「……はい」

 

 

(坂本に逃げた敵軍の息を吹き返させないため、付近での情報操作に注力していたが、尊氏様に殉じようとする千寿丸が夜間に焦土戦術を用いたからには最早無意味だ……しかし、返す返すも)

 

 

 表向きは体よく外様である六角家の郎党の青地重頼を高軍の本陣から下がらせた師直だったが、腑が煮え繰り返る思いだった。

 しかし、その矛先は西国武士の千寿丸に対してではなく、任された大役に伴う責務を果たし、北畠軍を奥州に釘付けにし続けることを足利家の重鎮たちに期待された斯波家長にであった。

 執事の師直は有力武将の佐々木道誉らによる人妻をはじめとする女たちを使った接待に絆されたのが悪い方に出たのか、足利にとって外様の西国武士にではなく、主君の弟である直義に近い足利に連なる武将たちに対して目くじらを立てるようになっていたのだ。

 

 

(斯波め。足利の麒麟児の二つ名が聞いて呆れる。老将の結城や勇将の南部が敵方に居るとはいえ、尊氏様が新田軍を追って東国を離れた途端、たかだか公家の蠢動を許す奴があるか。折角、常陸国の佐竹勢まで補佐に遣ったと申すに、何たるザマよ)

 

 

 そもそも師直が自らの派閥に属する仁木兄弟や畠山高国のような武将たちではなく、つい先日元服したばかりで直義麾下の旧関東庇番衆の寄騎だった家長が奥州総大将という重要な地位に就任することを座視したのは土地勘や足利流兵法への理解度は勿論、昨年に矢作宿で自身(師直)に焚き付けられたことによって奮起し、父親である高経と同様に良い働きをしてくれるに違いないと踏んでいたからだ。

 ただし、顕家以上に若輩である家長が仕損じる場合を想定していなかった訳ではない。師直はあくまで完璧執事なのだ。

 

 

「師泰、師久!」

 

 

「「応!」」

 

 

「お前たち二人が居れば、顕家を滅ぼすのは容易い。まして顕家の軍は一月未満で多賀から近江まで駆け抜け、疲労困憊。我が軍には五万に満たない兵しか居ないが、野戦での勝利に支障はない。川を渡って北畠軍を撃滅し、敵の反撃の芽を完全に摘み取るぞ」

 

 

「「!」」

 

 

(勢多で迎撃しないとは流石だ。古来、西の軍が勢多の橋を守って東の軍を負かした例がないことを兄者はよく知っている)

 

 

(定石に従えば川で防御すべきだが、尊氏様の御命があるからには東にいる大敵を撃破しに出向くべきだ。しかも、顕家軍が西に近付けば近付く程、坂本の新田軍や楠木軍と連携される危険も増す)

 

 

 常識を超える師直の戦術を弟の師泰と師久は度合いに差こそ認められたが、それぞれの出来る範囲で理解していた。

 しかし、疑問に思うことがないでもない。特に物覚えの良さで四兄弟においては師直に次ぐ程に優秀な師久が顕著だった。

 

 

「兄者。佐々木城に籠った千寿丸は如何しましょう?尊氏様は決して死なせるなと仰せでしたが、繖山の城に立て籠もって北畠の大軍に抵抗する気ならば、今頃は既に討ち取られ、手遅れやも」

 

 

「確かに加冠の儀を済ませていない千寿丸を死なせるのは尊氏様の御意思に反する。だが、対策は既に講じてある。また、千寿丸の近くに控えている豪傑の力があれば、脱出はいつでも可能だ」

 

 

 この時、師直の意を汲むことにかけては天下一品で味方の武将たちに詳しい師泰の脳裏には一人の猛者の姿が浮かび上がった。

 

 

(目賀田弾正忠か。我が軍の安保直実に劣らない勇猛さと義侠心を兼ね備えるヤツは六角には勿体無い郎党よ。予め目賀田を佐々木荘に送り返した兄者は顕家軍の襲来を想定していたな)

 

 

 師直、師泰、師久という尊氏の配下たちでも際立った能力を持つ兄弟の武将たちが勢多に集い、万を超える大軍を纏めている。

 足利尊氏を天下人に推し上げるため、決して新田、楠木、北畠の三者を一堂に会させまいと高軍は再び態勢を整え始めた。

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 一月中旬の朝は寒い。特に、琵琶湖のある近江国であれば、冷んやりという言葉では生易しいほどの風を感じるものだ。

 しかし、東北の地で少なくない時間を過ごした顕家は冷たい夜風を全く苦にすることなく、自軍の陣営にある高台に立ち、愛知川を挟んで西方にある繖山を切れ長の目で見つめていた。

 

 

「佐々木軍が気になられますか?顕家卿」

 

 

「春日か。周辺の伏兵の確認は済ませたか?」

 

 

「はい。異常ございません。それにしても」

 

 

 ちょび髭が特徴的で、公家でありながら北畠軍において執事を務める春日顕国は主人と仰ぐ顕家の見つめる方向に目を遣った。

 赤々と燃え、煙の立つ様子を遠目に確認した顕国は武経七書などを把握し、兵法に精通している。当然ながら、火攻めという戦法についてもその難易度を含めて熟知していた。

 

 

「報せによると、佐々木荘の街には数多くの柵が入るに易く出るに難いよう配備されているようです。それに、あの燃え方……予め大量の炭や油を配備していたのでしょう。あまりにも自由で大胆過ぎる発想ですが、それを実現させる指導力には驚嘆させられます」

 

 

「千寿丸の采配か。時信や郎党たちの発想ではなさそうだが」

 

 

 佐々木軍が百年を優に超える本貫である領地に火を放つというのは並々ならぬ出来事であり、顕家は顔に苦々しさを募らせた。

 こうした時、顕家の脳裏に浮かんだのは将来を嘱望されながら昨年この世を去った義兄弟と櫓の上で交わした会話である。

 

 

「春日」

 

 

「は」

 

 

「亡き護良親王(大塔宮)殿下は生前、余に仰せになった。尊氏の魔力は人を惹きつけ、人格まで変える。尊氏との戦は奴に惹かれた多彩な人材が最大の障壁だと。そして、こうも仰った」

 

 

 中先代の乱の最中、足利直義麾下の武士であった淵辺義博に暗殺された護良親王は正室に北畠親房の娘を据えていた。

 つまり、護良親王と北畠顕家は義兄弟という間柄だったのだ。

 

 

『顕家。元六波羅軍の武将、佐々木時信は知っているな?』

 

 

『はい。現体制でも継続して近江国守護を務め、結城親光や高師泰と同じく雑訴決断所の四番の奉行人に選ばれたと』

 

 

『そうだ。その時信の跡継ぎに千寿丸という幼子が居る。余の兄君であられる尊良親王(一宮)殿下は和歌を通じて親しくされていらっしゃるようだが、実際のところは尊氏と相通ずる魔に魅入られた者だ』

 

 

 かつて天台座主として延暦寺の僧兵たちに時信を含む六波羅軍を撃破せしめたという実績を持つ護良親王は新政開始以来、余人に危険視されることを厭わず、幾度も足利尊氏を襲撃していた。

 あくまで本人としては将来的な後醍醐天皇(父帝)の脅威を排除することを目的とした度重なる襲撃の最中、護良親王は見たのだ。

 鎌倉幕府の忠臣だった六角時信の息子である筈の千寿丸があたかも足利の身内であるかのように尊氏と会話する様子を。

 

 

「春日、佐々木軍は繖山に籠ったということだったな」

 

 

「はい。故に、まず愛知川沿いの和田山に千葉勢を、繖山と対になる重要拠点の箕作山に新田勢と宇都宮勢を派兵しました」

 

 

 弱冠の公家でありながら、当世において五指に入り得る名将である北畠顕家だが、緒戦の方略は執事の春日顕国に委ね、兵法に基づいて粛々と戦を始めるというのが常である。

 そして、場が温まってきた頃に、春日の策を超えた顕家による状況に適したやり方で敵を撃ち破るものなのだが、どうやら今回の繖山の佐々木六角軍との戦は普段と趣向が違うようである。

 

 

『『顕家卿!』』

 

 

『芳賀に大舘か。どうした?』

 

 

『この戦、我ら関東勢にお任せ頂きたく』

 

 

『見れば、奥州の兵たちは長距離の移動でお疲れの様子。今は京での足利軍との戦に備え、お休みくだされ。佐々木六角の鼻垂れ小僧ごときに顕家卿を煩わせることはありますまい』

 

 

『……』

 

 

 当初は自ら軍を率いて佐々木軍を瞬時に捻るつもりだった顕家は彼らの申し出を受けることにし、幾つかの条件を付け、春日顕国の立てた兵法に依拠した策の元、関東勢を出動させた。

 子どもだからと千寿丸を侮る猛将の大舘幸氏の言動には一抹の不安を覚えたものの、顕家は多賀国府から絶えず全速力で移動してきた奥州の兵団に蓄積した疲労を無視出来なかったのだ。

 

 

「千寿丸は狂信者だ。余程尊氏に心酔しているらしい。奴は本拠地の民たちが火攻めで家を失い、路頭に迷う危険性を承知で、我が獣どもを業火で焼き尽くし、あの尊氏に報いようとしているのだ」

 

 

「顕家卿、如何されますか?」

 

 

「火が収まるまでは徒らに総攻撃を仕掛ける訳にはいかぬ。今暫く様子を見るしかない。ただ、殿下の身の回りが心配だ」

 

 

「……顕家卿は佐々木六角の別働隊が恐れ多くも義良親王殿下の御身を狙うと案じておいでなのですか。まさかそのような」

 

 

「佐々木六角は元々、持明院統の方々と繋がりがある。まして今の奴らは何をしでかすか分からぬ。警戒をより厳重にされるよう父上に伝えよ。後方から京極勢が奇襲を仕掛けて来ぬとも限らん」

 

 

 顕家は気になっていたのだ。東近江を通過する際、京極領において抵抗らしい抵抗がこれと言って無かったことに。

 ただ、一刻でも早く帝の元に駆け付けるためにも、愛知川を越えたいのは山々だったが、北畠軍は奥州出身の兵だけでも五万騎を遥かに超える莫大な人員を抱え、疲労は極致に近い。

 古典『太平記』には奥州から近江国への長距離遠征を果たした北畠顕家の軍勢に伸し掛かった疲労について記述がある。

 空同然の鎌倉を突破して以降、目立った戦は東海道における吉良貞家との一戦のみだが、稲妻のような速度の進軍が顕家軍の威光を示しながらも、影を落としていたのは確かであった。

 

 

「春日、奴等が余に自分たちによる佐々木軍の攻略を申し出たのは疲れの溜まった奥州勢への気配りだけではないだろうな」

 

 

「……自分が佐々木軍の大将の首を獲れば、主君に近江国守護の芽が生まれる。そうした下心がないということはないでしょう」

 

 

「ああ、実に見上げた忠義心よ。だが、それで足元を掬われなければよいが……新田勢は既に砦への攻撃を開始したのだな?」

 

 

「はい。ただ、芳賀らの紀清両党が気になります」

 

 

「どういうことだ?春日」

 

 

 宇都宮家当主である公綱が足利軍に投降したという情報こそ北畠軍はこの時はまだ掴んでいなかったが、芳賀禅可ら宇都宮軍の動きの急な鈍化自体はそう時を置かずに入って来ていた。

 ここで、顕家は打開策を講じる必要に迫られる。大舘幸氏の武勇こそ把握すれど、新田勢だけでは危ういと感じたのである。

 

 

「顕家卿。献策致します」

 

 

「聞こう」

 

 

「目賀田山に入るよう紀清両党に伝えます。芳賀の真意をはっきりさせられる上、成功すれば、繖山に立て篭もる敵方にとってこれ以上ない圧力となり、向こうから降伏させる芽も生まれます」

 

 

「……任せる。いずれにせよ夜明け迄には佐々木六角の籠った繖山の砦を落とさなければ。今は一刻も早く帝の元に駆け付けたい」

 

 

 夜間かつ対岸で火が燃え広がっている今、尋常でない大軍で疲弊の色が濃厚である北畠軍に採れる選択肢は限られている。

 だが、近江国で時間を食い潰す訳にはいかない。戦が長引けば、その分だけ足利軍に備えさせる暇を与えてしまうのだ。

 躊躇う由はないと顕家が決断しようとしたその時だった。

 

 

「顕家卿!春日卿!報告です!新田勢、繖山に築かれた敵の砦の第一の陣営を突破したとのことにございます!」

 

 

「……存外早いな。大舘の怪力が活きたのか」

 

 

 新田軍の所属ながら、上洛する北畠軍に付き従っている武将である大舘幸氏について、総大将の顕家はよく把握していた。

 ただ、この時代において大舘幸氏よりも、その父親である宗氏の方が著名な武将であると言って間違いないだろう。

 何を隠そう、大舘宗氏は先の鎌倉攻めで義兄弟の義貞よりも前に稲村ヶ崎の海岸線からの侵攻を試みた武将なのだ。尤も、大仏勢や諏訪勢、長崎勢の前に結局敗死してしまったのであるが。

 閑話休題。北畠顕家という武将は大舘幸氏に一定の信任を与えていたのである。故に、佐々木攻めの大将に起用したのだ。

 

 

「顕家卿。近江国守護の佐々木千寿丸を捕縛し、足利軍の情報を吐かせた後、処分は如何になされるおつもりでしょうか?」

 

 

「千寿丸は幼くとも佐々木一族の惣領だ。箱根や竹下で畏れ多くも尊良親王殿下の官軍を裏切ったと云う京極道誉や塩冶高貞への人質として有用性がある。間違っても結城に渡すなよ?」

 

 

「は。再度、念入りに通達しておきましょう」

 

 

 北畠軍でも指折りの実力を持つ老将の結城宗広が持つ特殊な癖については主人の顕家も執事の春日顕国もよく知っている。

 人質を傷物にされては敵わないという意味こそあれ、この場においては小粋な冗談であり、二人の顔には小さな笑みが浮かんだ。

 

 

「「!?」」

 

 

 その時だった。繖山に閃光が発生するのを二人が察知したのは。

 同時に、奥州軍の象徴である義良親王の傍近くで控える親房がよもや神が降臨されたかと繖山を睨み付ける。天下を震撼させる北畠軍の再始動まで残る時間は刻々と少なくなっていた。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 新たな鎮守府将軍の北畠顕家に従う関東新田党の猛将である大舘幸氏が討ち取られたことで、繖山に構えられた佐々木六角の城郭に攻め込んでいた朝廷軍は勢いを失い、一気に押し返された。

 これにより、幼い主君である千寿丸を総大将として繖山の佐々木城に籠った六角軍は束の間の休息を得ることになった。

 

 

「……疲れた」

 

 

「殿。何故、その強弓で大舘を射抜いたのです?一射だけでも著しく体力を奪われることは分かっておられた筈でしょうに」

 

 

 修練を始めた当初より得意としていた馬術だけでなく、貞宗の指導を糧にして年齢離れした領域にまで到達した弓術の腕をも持つ六角佐々木家の当主の千寿丸は竹下での脇屋義助との合戦以来再び尊氏より頂戴した強弓を単独で放つことに成功させていた。

 しかし、その代償は大きい。顕家が愛知川を渡河するよりも前に総大将の千寿丸が肩で息をする程に疲れ果ててしまったのだ。

 

 

「何と言うべきか……盛り上がってしまったのだ。ほら、昔あっただろう?石合戦をしていたと思ったら、気が付いた時には枝切れを持って対岸の子らを伸していたような。あれと同じだ」

 

 

「「「……」」」

 

 

 要領を得ない千寿丸の説明に、居合わせた郎党たちは肩の力が抜けてしまった。しかし、生まれた感情は邪なものではない。

 この城に残った郎党たちは千寿丸を彼が赤子の頃から知っている者ばかりなのだ。皆一様に仕方の無い主君だと半ば呆れながらも、命を張って守るべき幼い主君であることを再認識していた。

 

 

「殿!山中殿よりご報告をお持ちしました!」

 

 

「美濃部!首尾は!?」

 

 

「成功です!愛知川宿の北畠軍は夜討ちや火元の注意ばかりに気を取られ、宿の馬草にまでは十分な警戒が及ばなかった模様!」

 

 

「良ぉし!!」

 

 

 忍軍の一員である美濃部が持ち込んだ知らせは千寿丸の極度の疲労を吹き飛ばした上、力強いガッツポーズをさせた。

 また、主君である千寿丸の策の詳細を知る重臣の青地氏重も病を患った身でありながら、小さいながら握り拳を作った。

 とはいえ、全ての郎党が主君の策を知っている訳ではない。

 

 

「殿、山中殿は一体何を為したのです?」

 

 

「聞いて喜べ。北方の兵たちを強者たらしめる奥州軍の南部馬は今日より数えて十日は使い物になるまいぞ!北畠顕家に待っているのは義兄の大塔宮より悲惨な楚の項羽の如き末路であろう!」

 

 

 千寿丸は確信していた。この置き土産があれば、高師直は大軍を率いて近畿地方に到達した奥州軍を確実に撃破出来ると。

 宵の口に始まった官軍との戦端が開いてより三刻が経過しようとしていた。千寿丸は自分たちの死を厭わない。全てを懸けるに値するものを千寿丸は齢十一にして既に見つけていたのである。

 

 

 その頃、繖山の近くにて。

 

 

「う、うわぁ!」

 

 

「何だこの坊さん!?強過ぎる!」

 

 

 関東からここまで自分たちを牽引して来た猛者の大舘幸氏を失った新田兵たちは愛知川東岸にいる顕家からの指示を待っていた。

 弟の幸氏と違って冷静沈着な兄である氏明の取り敢えず繖山の城郭に拠った六角軍から距離を取れば良いという判断によるものだったが、関東新田党は思いもよらない襲撃を後方より受けていた。

 

 

「くっ、退け!退けぇ!」

 

 

(新田軍も義貞を欠いては赤松党に及ばずか……しかし、少し見ぬ間に繖山にあれほど見事な防御設備を整えるとは。それだけの力を持ちながら、なぜ命を捨てる?そんなに足利殿が好きなのか?)

 

 

 あと一刻もせずに日付を跨ごうとしていた時分、佐々木城を虎視眈々と狙う官軍の隊列を一人の僧侶が錫杖を以て突破した。

 北畠の本軍と六角軍の死兵たちが干戈を交えるまで、あと少し。

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