崇永記 作:三寸法師
〜1〜
彦部吹雪、改め高師冬にとって、
しかし、今は
一月前までは前の主君の時行への未練が透けて見えた筈の亜也子に如何なる心境の変化があったのか。今の主君の千寿丸に仕えることに何の躊躇もないどころか、楽しんでいるように見えたのだ。
「合言葉……主に夜番や夜襲時の常套手段ですね」
「昨夜の陣の合言葉を今から復活させるか?。だが、誰しもが既に敵軍に潜入されているのではないかという不安を抱いている当座にあたって、あやふやになっている者も多少はおるやもしれぬし……しかし、新たにというのもな。今の佐々木軍は一族の諸家が集まった混成部隊。前から全員に通じる秘密など心当たりがないぞ」
「ここ三日の間、殿様の軍の陣中であった出来事を質問する形なら良いんだよね?新田軍の武士がそんなこと知ってる訳ないし」
「そりゃ、新田軍が間諜を送り込むとしても、佐々木軍より足利軍本隊を狙うだろうしな。だが、足利軍本隊に居たかもしれない間諜が知らず、佐々木軍の皆が知る秘密など心当たりが……あ」
(いや、そんなのちょっと質問の意図を汲み取れば、何も知らない第三者でも割と当たりをつけられる。だが、今重要なのは合言葉の正解不正解でスパイを見つけ出すことより、佐々木軍の間に合言葉があることで、皆を安心させることと考えれば、あながち……?)
強張った千寿丸の顔から、師冬は何か合言葉に使える情報があったのだろうなと察した。勿論、千寿丸にとって面白くない話だったからこその表情なのだろうが、今の情勢は切羽詰まっている。
どのような弱味であれ、何が何でも教えて貰う必要性があると、師冬は被る面にある両の穴から、千寿丸に期待の視線を送った。
(待て待て待て。俺が魅摩と初めて同衾したのは何時のことかみたいな男子中学生でもしない馬鹿げた合言葉があってたまるか!)
「ごめん、本当に勘弁して。あれはマズい」
「殿様、別に恥ずかしがることないと思うよ。殿様って今、御年十一でしょ?むしろ人に早さを自慢して良いくらいだと思うけど」
「そんなの自慢になるかァ……」
二人のやり取りから、頭を抱えている千寿丸以外の佐々木軍の主な面々もまた、亜也子の言わんとすることを察したようである。
加えて、察しをつけた彼らがむしろ主君の千寿丸に生暖かい視線を送り始めたことから、話の大筋を頭脳明晰な師冬は推察した。
「亜也子。貴女の主殿は迷っておられるようですが、今は一刻も早く軍を落ち着かせたい。早く合言葉を決めるべきです。塩冶殿はどう思われますか?貴方の言葉なら、千寿丸殿も耳を傾ける筈」
「……この塩冶判官からは何とも。伊庭殿や目賀田殿は如何か?」
「あくまで殿が判断されるべきこととは存じますが、やはり判断が早いに越したことはないかと。殿、亜也子殿が良いと申されているのですから、躊躇う理由は無い筈です。やはり、ここで余計な時間を使ったがため、戦に負けるということは絶対に避けなければ」
「殿。私は殿の御判断に従います」
「むぅ」
分家の当主として塩冶高貞は一歩引いた一方、千寿丸は六角党の主力の将たちの言葉を聞くも、未だ踏ん切りがつかないようだ。
ここまで来ると、師冬も焦ったくなってくる。尊氏の元で自分が天下に号令したいという野心を抱く身として、ここでの失態は許されない。また、今の師冬は派遣軍師という名目ではあるが、実質的な佐々木軍への目付けとして叔父の師泰に背中を押された身だ。
多少、強引な手も辞するべきではないと、師冬は以前より知った間柄で、食事まで世話になった千寿丸に近付き、耳元で囁いた。
「千寿丸殿。友ではなく、足利家執事の猶子としてお尋ねします。貴方の一時の恥と尊氏様の勝利のどちらが大事なのですか?」
「ッ!」
「貴方が本当に尊氏様に忠義を尽くされるのなら、答えは明白」
「……そうだ。俺は一体何を迷っていたのか」
泳いでいた目が一転してスッと据わった千寿丸は便女の亜也子の他にも、自身に仕える若く将来有望とされる近臣たちに命じた。
火急の事態につき、亜也子の提案を受け入れる。合言葉を急ぎ布告せよ。これを以て、軍を落ち着かせ、同士討ちを防ぐべしと。
〜2〜
敬愛する主君の勝利のためにと恥を偲んだ千寿丸は程なくして、軍中の様子を訝しんだ。何やら口論が起こったようで、やけに騒がしいのだ。すぐに副執事の三井に原因を調べるように命じた。
あの合言葉で、六角党や塩冶党らの間で口論になる要素が果たしてあったかと、不審がる千寿丸の元に報告結果が齎される。
「我が君、大変です!我が君がいつ貞操を捨てられたのかという論争が軍中に生じています!ある者は十三日の夜に亜也子殿だと申す一方で、別の者が昨日の朝までに魅摩殿だと申しております!」
「はァ!?どうしてそうなるのだ!?」
「また、更に先月の手越河原で道誉が敵軍に降った後、魅摩殿を手篭めにしたのだという者が現れれば、果ては去年の八月に髪を振り乱した
「馬鹿を申すな!我が軍の一兵卒は一体、何を考えておる!」
事もあろうに、足利軍の中で同士討ちが発生している状況下で、取るに足らない内輪揉めが発生したことに千寿丸は憤慨した。
佐々木軍の奇怪さに師冬は堪らず、惣領の便女となっている亜也子の方を見るが、亜也子も今となっては首を横に振るしかない。
古典『太平記』には佐々木氏の関わる女性問題が複数回にわたって記載される。そのことをまだ知らない千寿丸は嘆き、喚いた。
「ああ、もう!これでは合言葉の意味がない!むしろ逆効果だ!」
「宗家、事は急を要します。足利軍に兵たちを潜入させている新田軍が別に少数精鋭の部隊を用意している可能性もあり、今そうした部隊に突入されては一溜まりもありません。どうかご裁断を」
「高貞殿の言にも一理あろうが……伊庭はどう思う?」
「殿。私も目賀田殿も同じ思いです」
「左様か」
一族郎党の直言を受け、惣領の千寿丸は深く息を吸い込んだ。
主君の勝利のためなら、如何なる恥辱も乗り越える。便女の亜也子や派遣軍師の師冬が見つめる中、憔然とした千寿丸は騒めく自軍の郎党たちに聞こえるように、よく通る声で大きく叫んだ。
「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ!齢十一の我が身体は未だ女性と通じることが叶わぬ!よって、今のお前たちがしているような口論は一切無駄であると知れ!金輪際するな!」
「「「は!!!」」」
幼い惣領に一喝され、佐々木軍の混乱は瞬く間に収まった。
佐々木一族内における千寿丸の発言力に師冬が刮目する一方で、戦場で俗世のしがらみを実感した千寿丸は深くため息を吐いた。
「全く……」
「大変そうだな。千寿丸」
「ッ!?尊氏様!?」
先月の竹下の合戦以来、またも千寿丸の元へひょっこり現れた尊氏の姿に、塩冶軍の他、元時行党の亜也子や師冬も驚いている。
よりにもよって主君に恥ずかしい宣言を聞かれたと千寿丸はしどろもどろになっているが、尊氏は微笑を浮かべるばかりだった。
「あの、その……竹下で頂戴した矢は佐々木城陥落後も、ちゃんと持ってきておりますので、ご安心ください。ほら、太郎左衛門」
「は。ここにあります」
「うん。よく使っているようで、我は嬉しいぞ」
「滅相もございません……して、尊氏様。戦況が混沌とする目下、局面を打開するため、此方へお越しになったのでしょう?」
「ふふ。察しが良いな、千寿丸」
弟の直義を叔父の上杉憲房に託し、足利軍の本陣から佐々木軍の元まで単騎駆けしてきたという尊氏は柔和な笑顔で首肯した。
あいも変わらず、大胆不敵な尊氏にますます千寿丸は信服を深めていたが、道誉の献策によるものだと聞き、顔色を変えた。
「道誉殿が……?」
(そうか!訛りか!失念していた。関東や北陸の武士で固められている新田党では近江国や山陰の佐々木兵の間に潜り込めない)
「ああ。道誉殿が申すに、新田軍が我が軍に入り込み、東国武士が当てにならない今、西国武士の力を以て勝つしかない。大友や赤松らもいるが、西国武士と言えば、やはり佐々木。つまり、君だ」
「過分なお言葉、恐悦至極に存じます」
参謀的な存在として尊氏の傍に侍る道誉の進言由来という話に、今一つ釈然としなかった千寿丸だったが、尊氏に佐々木氏惣領として重んじられていると言外に告げられたせいだろうか。いつに無く目を輝かせ、便女の亜也子に構わず、頬が緩み切っている。
澄んだ泉のような千寿丸の双眸を凝視した尊氏は改めて命じる。
「うむ。という訳で、千寿丸。佐々木の一族郎党たちはやはり惣領の君が指揮するのが良い。我はここで見ているから、思う存分戦ってくれ。必要ならば、手を貸すぞ。さぁ、君の力を見せてくれ」
「え゛」
「ああ、我の姿を見て、新田軍の決死隊が我先にと攻めて来るぞ。五千に満たない軍だから千寿丸でも問題ないと思うが……ん?」
佐々木軍の中にいる武家方の首魁を目指し、土煙を立てて迫り来る数千程度の騎馬武者の隊列の中に尊氏は一人の男の姿を見た。
旗を担いで、馬を飛ばす男はよく日焼けしており、頭のすぐ近くには後世で言うところのクエスチョンマークが浮かんでいる。
短い顎髭を生やした武者の叫びで、尊氏は瞬く間に固まった。
「見つけたぞ、尊氏!小細工の時間はもう終わりだ!さぁ、今こそ決着を着けよう!俺とお前のどちらが強くてエラいのか!」
「……」
(マズい!新田義貞が来るとは最悪だ!しかも、最精鋭の部隊を連れて来たな。脇屋に四天王の二人も居る。それに、結城まで!)
数こそ少ないが、新田軍や結城軍の最精鋭たちが押し寄せて来たことに、佐々木軍を率いる千寿丸は危機感を覚えざるを得ない。
せめて道誉の部隊が居れば、何とか勝負できただろうが、塩冶高貞や目賀田弾正忠を擁そうと、豪傑の枚数でどうしても圧し切れない状況では、どう足掻いても尊氏を危険に晒してしまうだろう。
(いや、泣き言を言っている場合ではない。腹は括った。数では此方が有利。どんな手段を使ってでも、新田・結城連合軍に勝つ!)
「尊氏様、ご安心を。今に必ず……さぁ、佐々木の兵ども!」
「自害しかない」
「え?」
一族伝来の宝刀である「綱切」を抜いた千寿丸が今まさに自軍に号令を掛けようとしたその瞬間、尊氏は短刀で自らの首を貫く。
訳の分からない尊氏の行動で、武家の棟梁を迎えた佐々木軍との接敵を後僅かで達しようとしていた新田軍の動きが止まった。
〜3〜
地獄絵図だった。足利軍でも同士討ち。新田・結城連合軍でも同士討ちである。右も左も同士討ちという混迷した状況に、佐々木軍は幼い惣領の千寿丸も含めて、困惑の色を隠し切れない。
一方、武家の棟梁である尊氏は安心したのか一息吐き、機嫌をすこぶる良くして、千寿丸自らの手で行われる治療を受けていた。
「ふふ。見よ、千寿丸。新田義貞も結城宗広も他の武将たちも気心知れた同胞の精鋭兵との交戦で、対処に困っているようだぞ」
「そのようですね……治療、完了しました」
新田・結城連合軍に迫られ、頭に血が上った千寿丸の気付かないうちに、自害を試みた尊氏だったが、勿論これで死にはしない。
後の『梅松論』では、この戦の終盤における新田義貞や結城宗広による突撃の他、同族間での鍔迫り合いについて記されている。
相模川の戦いの時と同じく、単なる
「うん。千寿丸の治療は的確だな。やったことがあるのか?」
「いえ。初めてですが、上手く出来たようで、安心しております」
「!……手に我の血が付いているな」
幼い千寿丸が遠慮する間も無く、その手を取った尊氏は新たに布を取り出し、ゆっくりと時間を掛けて血を拭き取っていく。
六角家当主の千寿丸が感激する一方、六角党で便女を務めている亜也子は一体自分は何を見せられているのかと白眼視していた。
「宗家!赤松軍、並びに土岐軍と連絡を取りました!」
「高貞か。それで!」
「ご覧ください!あれを!」
塩冶高貞の一声により、佐々木氏惣領の千寿丸は歓喜し、鎌倉殿を名乗る尊氏もまた、新田軍への勝利を確信して口元を緩める。
勇猛な息子たちを伴う知将の赤松円心の他、態勢を立て直したと思しき、圧倒的な武力を持つ土岐頼遠の軍勢がやって来たのだ。
「赤松、土岐。よくぞ同士討ちする我が軍の合間を縫い、軍勢を率いてやって来てくれた。今、まさに敵軍もあそこで同士討ちをしているところだ。だが、構わず全て蹴散らせ。義貞の首を我が前に」
「「は」」
掃討戦が始まる。赤松軍や土岐軍の前に、混乱していた新田軍や結城軍の精鋭部隊は本来の力を発揮できず、着実に崩される。
十分に場が温まった頃、決断した尊氏が傍らの千寿丸に告げた。
「千寿丸、我と共に満を持して突撃するぞ」
「はい!……我が一族郎党たちよ!攻撃開始!!!」
「「「応!!!」」」
足利家に代々伝わる薙刀である「骨喰」を携えた尊氏に、名刀の「綱切」を手に待ち、佐々木軍を引き連れた千寿丸が続いた。
赤松円心、土岐頼遠、そして千寿丸と高貞の佐々木の両将を従える足利尊氏の前に、新田義貞とその郎党たちは追い込まれて行く。
「新田殿、結城殿。我の勝利だ」
「?」
「……」
「今の君たちの手元に残った兵は僅か千騎。突出した傑物の楠木殿ならまだしも、今日の戦で疲弊し切った君たちでは勝負にならん」
決死隊に従った新田家や結城家の郎党たちの多くが諏訪の大祝の頼重が生前言ったところの悪しき神力に呑み込まれた者たち共々、赤松軍や土岐軍の前に討たれていった。ようやく残った力ある郎党たちの数は尊氏の従えている軍に比べ、明らかに劣っている。
箱根では今よりも僅かな兵力で十数万騎の尊氏軍を正面突破し、撤退した新田義貞だったが、そうは問屋が卸しそうになかった。
赤松、土岐、佐々木で構成された今の尊氏軍は精鋭揃い。少数で大軍を破るのに必要不可欠な突破口を見出すのは困難だった。
(粟田口から逃げようと、すぐに追い付く。逢坂山で対師直軍に残した軍勢との再合流は距離的にまず無理……尊氏様の勝ちだ)
「兄上、あれを」
「?……尊氏、俺の兵は千騎だけではないぞ」
弟の義助が指差した方角を見た義貞は満足気に表情を崩した。
不審に思った尊氏と同様に、千寿丸は嫌な予感を覚える。
他軍の目があるため、アイコンタクトで甲賀忍軍に周囲の再偵察を命じたが、既に後の祭り。あったのは自軍の郎党からの報だ。
「なっ、それは真か!?あいつ、また……!尊氏様!後方より敵が!」
「父上!お助けに参りました!」
「ッ!?」
「尊氏!お前と違って、俺には勇猛な息子が居る!お前たちの墓場はここだ!親子合わせて三千騎!先週のように八万騎の兵たちを使えないお前と、お前に従う大名たちを全て討ち取れる数だ!」
犬歯を露わにし、精悍そのものな義貞の言葉が足利方の将兵たちを戦慄させる。赤松軍からの追撃を逃れ、再度息を整え直した新田義顕が混戦の中から集めた新田党を率いて、駆け付けたのだ。
一月十六日の戦も最終盤である。顔の引き攣る千寿丸は不安そうに主君の尊氏を見る。更なる波乱が巻き起ころうとしていた。