崇永記 作:三寸法師
本年もどうぞよろしくお願いします。
◆1
〜1〜
よくよく考えてみると少し可笑しいような気がする。一月二十七日の戦いで敵将たちの中でも別格の大将、新田義貞が戦死したという急報に触れた翌朝。俺は小首を傾げつつ、桶の水に手を触れた。
桶に入っている水は勿論、煮沸済みで元は近場の井戸水である。
手で水を掬った俺は小豆の粉が塗り込まれた肌を撫でるように洗う。終わると、乳兄弟にして最側近の青地重頼の手により、顔の余計な水分が布で拭われた。残る手入れは全て重頼に委ねられる。
勿論、如何なる施術をするかは俺の指示に基づく訳なのだが。
「本当に毎日まめだよね、殿様は。同じ年頃の男の子で、ここまで自発的に念を入れるなんてさ。魅摩だったら、全然分かるけど」
「何それ、俺が女々しいってこと?」
「違うよ、殿様。褒めてるの。殿様って京の武士でもあるもんね。お公家様との付き合いもあるだろうし、それに……尊氏様も」
「?」
はっきりと言えば良いものを、謎に言い淀んで小声を出した亜也子を訝しむも、次第に気心知れた重頼に髪を触られる気持ち良さに負けて、俺の思考力は鈍化していく。この感覚が堪らないのだ。
使われる洗髪剤が将兵たちのための食事を用意する際に出た米の研ぎ汁や灰汁というのが今一つ釈然としないところなのだが。
「うん。やっぱ身嗜みの手伝いは重頼にやって貰うに限るな」
「お褒め頂き、恐縮です」
「何を言う。執事の高宮も副執事の三井も、按摩や服選びのキレなどはかなりのものだが、お前のファーやファーには到底及ぶまい」
主君の俺が朗らかに笑う一方、便女の亜也子が唐突に笙を取り出しては奏でる。そんな奇行はさて置き、俺は将来に思いを馳せた。
これでも、青地重頼は将来の幹部候補だ。いつまでも気紛れに俺の身嗜みの世話を頼むことは出来ない。また、
では、誰に身の回りの世話を頼むべきか。いずれ正室になる予定の魅摩に頼むのは何か違う気がする。では、便女の亜也子に任せるのはどうか。悪くない選択肢だが、家中屈指の豪傑を目指して武芸に励む時間を優先させたいというのが正直なところだった。
大抵の人間のように独力で行うのも手だろうが、人に任せる癖がとうの昔に染み付いてしまった分、どうしても億劫になるのだ。
「俺もいずれ尊氏様に倣って少年部隊でも作ろうかの」
「「!?」」
ふと思ったことを呟いてみると、意外な反応が返ってくる。
亜也子も重頼も、口をあんぐりと開け、冷や汗を掻いていた。
「え?驚くことある?今ある側近衆に少し手を加えるだけなのに」
「殿様にもそういう願望あるんだ……」
「殿。お願いですから、他の郎党たちにはくれぐれも言わないでください。時期尚早です。家中で将来を見据えた品定めが始まる他、京極父娘にまで話が波及すれば、面倒なことになりかねませぬ故」
「お、おう」
後進育成の場としても機能するだろうから、元服後にそういった一族郎党の子弟、ないし拾ってきた子で才を秘めた者たちを集め、組織化して側に置くというのはナイスアイデアだと我ながら思ったのだが、どうやらまだ内々の話に留めるべきであるようだ。
何はともあれ、側近の手を借り、準備を終えた俺は最奥の間からの移動を開始する。向かう先は勿論、佐々木軍の諸将たちが控える空間だ。熱気に溢れ、勝利の余韻が充満しているように思えた。
「殿!」
「宗家!」
「千寿丸様!」
「「「おめでとうございます!」」」
「うむ。実にめでたいな」
甲賀忍軍の棟梁の山中道俊が持ち込んだ昨夜の新田義貞の戦死の報以外にも、続々と詳細を告げる知らせが届いていたが、深夜近くというタイミングを鑑みて、佐々木軍の主要メンバーに対しては夜襲への備えを改めて命じる以外に、特に何もしていなかった。
唯一、人を遣って塩冶家当主の高貞に詳細を知らせた程度だ。
つまり、昨日の戦で味方が勝利したと分かってから、顔を合わせるのは初めてなのだ。それにしても、彼らの顔は実に明るい。
「して、殿。これから京に戻られますか?それともこのまま」
「……俺は駐留を続けるのが良いと思うが、お前たちの考えは?」
「宗家。この塩冶判官が察するところ、宗家は京に戻った足利軍と勢多に移動済みの我々で掎角の勢を成すおつもりのようですね?」
「そうだ」
分家当主の高貞による意思の確認に頷くと、居合わせる他の一族郎党たちは感服の意味での唸りを発する。思わず鼻を高くしてしまいそうだが、自制をしないと後が大変そうなので、注意する。
とはいえ、どうやら高貞は他の者たちと違う様子であった。
「何かあるようだな、高貞殿。奇譚なく申されよ」
「はい。恐らくですが、数が足りぬように思われます」
「数……」
「昨日までの戦の影響もあり、京極勢を欠く我ら佐々木軍の数は一万騎を下回っております。これでは、新田義貞を失った敵の死に物狂いの集中攻撃を受ければ、勢多の橋を利用したとて、必ずしも勝てるとは限りません。甲賀郡油日に駐屯しておられるという馬淵殿を呼び寄せるといった手を講じませんと、些か厳しいかと」
「ふむ」
傾聴の価値ありと踏んで尋ねてみたが、やはりその通りだった。
あの細川顕氏の手によって、新田義貞こそ死んだというものの、依然として敵には数多くの実力ある主力武将たちが健在である。
彼らが京の足利本軍に情報が渡らぬよう注意した上で、総攻撃を仕掛けられれば、地の利が危ないというのは漫然たる事実だ。
「高貞の申されることは尤もだ。数を補充する必要がある。ただ、再び馬淵の手を借りるというのは如何なものか。二週間前にも無理を言って連れ出したのに、また頼めば、それは朝令暮改も同じ」
「……宗家。では、どうするべきだと?」
「総攻撃に失敗し、本当に義貞を失ったというならば、敵軍は軽々しく動けまい。逆に京の足利軍は総攻撃を受けたことで、溜め込んでいた兵糧を失った可能性が高い。再調達する必要がある筈だ」
ここまで聞き、この場に居る皆は俺の言わんとすることを察したようである。すなわち、京の足利本軍に援軍を頼むのである。
俺の考えは即座に実行される。勢多の佐々木軍からの要請を快諾した尊氏様はおよそ二千騎弱の兵を京より援軍として派遣した。
果たして遣わされた援軍の将は予想通りの人物だった。
〜2〜
援軍の将というのは即ち、高師冬である。俺の予想に半信半疑であったらしいその元同僚の亜也子もこれには驚いている。
相変わらず仮面を付けている師冬を見て、十六日の戦で共闘した佐々木軍の将兵たちは何やら俺に隠れて、密かに囁き合った。
「あの仮面の将、何かあるのか?亜也子殿とも知人のようだが」
「何故か殿様と亜也子殿の前でのみ、大っぴらに仮面を外しているらしいぞ。それで、暴飲暴食だと以前、
「仮面を外す?素顔は如何様な?」
「それがエラくイケ面だったらしい。何やら道誉の娘とも知り合いのようだとか。甲賀衆に聞いてみたが、あからさまに濁された」
「……どうやら只事ではないようだ。旧来の主従として振る舞うべき我々の邪推すべきことではないだろう。だが、毒蛇のように危ないという高一族に、ああも胸襟を開いてしまわれるとは心配だ」
「然り。才能は確かなようだが、師直や師泰が
世に言う井戸端会議のような会話を一昔前の主婦でもない佐々木軍の面々がしていた頃、俺は将として来た師冬を歓迎していた。
元同僚の亜也子も傍らに控える中での食事の席である。
「これだけ食べさせて貰って言うのも何ですが、よく僅かな間に一万騎を養い、ご馳走を用意する程の兵糧を整えましたね。やはり長年にわたって近江国を本拠地としているだけのことはあります」
「殆ど郎党たちの手柄だ。地盤ならではの結果なのは確かだがな」
かの延喜式で、全国六十六ヶ国のうち、最高ランクである大国の一つとして、越前国や上総国、陸奥国など他の十二ヶ国と同様に位置付けられた近江国を百年以上も治めてきたのが佐々木一族だ。
物資を手配しようとすれば、当主自ら動かずとも、郎党たちが動くだけで事足りる。一万騎と言わず、三万騎でも良い程なのだ。
「師冬殿。質問なんだが、お前が派遣されたのは能力の他、足利本軍に今では兵糧の余裕が無く、足利家執事の猶子でさえ、大喰らい出来なくなり、奪還した京を離れざるを得なくなったからでは?」
「千寿丸殿は全てお察しのようですね。それはもう大変でしたよ。お腹が空いて力が出ませんし、冬の寒さで凍えそうでした」
「アハハ……安心してくれ。京に多少回すだけの余剰分はある」
今頃は直義と共に失われた兵糧の工面に手を焼いているであろう師直も、勢多からの軍の補充希望は渡りに船だったに違いない。
何せ、聞いたところによれば、敵軍に兵糧まで焼かれたという今の足利軍には大軍を賄うだけの余裕が無く、千〜二千騎程度の軍団を各地に遣り、現地で徴収させることで誤魔化す有り様らしい。
大喰いの師冬の派遣先を考えているところへ、元同僚の誼があるからか師冬が出入りしている六角軍から援軍を乞われたのだ。
断る理由が無いと師直は自らの猶子の抜擢を主君に掛け合った。
そして、総大将として采配を握る尊氏様は今月十六日の戦いで師冬の戦ぶりを見ていたことから、ゴーサインを出したのだ。
「しかし、師冬殿。お前も出世街道まっしぐらだな。師直殿から才能を認められ、尊氏様の覚えもめでたいと来た。時行に天下を取らせずとも、尊氏様の元で十分に活躍できるなら言うこと無しだろ」
「まだまだですよ。千寿丸殿、尊氏様より貴方にお言伝が」
「聞かせてくれ」
「此度の逆転勝利に細川一族の活躍があったのは確かだが、その裏には千寿丸の決死の東進あり。楠木軍や北畠軍が後ろ髪を引かれ、新田軍が孤立したからこそ、新田義貞の戦死に繋がったことを我は承知している。今後もその力を我に捧げよ……だそうです。また、褒美は次の謁見の際、直接渡すつもりだと尊氏様は仰せでした」
「!」
食事の手を止める。思わず箸を落としそうになったが、握る手に力を込め直す。しかし、勢い余って、うっかり折ってしまった。
驚いた亜也子と師冬の様子を無視し、折れた箸ごと拳を握って、小さくガッツポーズする。正直、これでも控えめなくらいだった。
ミュージカルであれば、このまま歌い出し、踊り狂って当然の状況なのだ。尤も、実際にそれをやれば、絶対零度の視線を喰らいかねないので、やらないが。仮にやるとしても、人払いした後だ。
「そうだ。和歌を詠もう。
「あ、そういうの結構です」
「……はい」
そう言えばこの時代には丁度良いコンテンツがあったではないかと思い、今にも和歌を詠もうとしたところで、あからさまに面倒くさそうに言った師冬から制止され、俺はガックリ肩を落とした。
便女の亜也子に凝視される中、気を取り直した俺はうっかり忘れそうになっていた疑問を念頭に置く。とはいえ、今となっては杞憂であるように思われる疑問なのだが、笑い話には丁度良い。
「それにしてもだ。もう新田義貞が死ぬとはな。もう少し先のことかと思ってた。そりゃ、割と早い時期に死ぬヤツだったけどさ」
「……千寿丸殿は義貞の死期が何時のことだと?」
「え?大体、二、三年先くらいだと。あ、でも尊氏様が正式に征夷大将軍になられるよりは早い筈だから、二年以内か?ま、顕氏殿に討たれた以上、新田義貞の命運はここまでだったということで」
茶碗を手に持つ俺は笑い飛ばした。何故かはよく分からないが、新田義貞の頭にクエスチョンマークが浮かんでいた以上、討ち取った首が実は影武者のものでしたという線は限り無く薄いだろう。
勿論、義顕にもクエスチョンマークはあったが、新田義貞は嫡男を身代わりにする人物ではない。
「でも、殿様。顕氏様って、そんなに強い武将なの?御当主の和氏様とか最近だと定禅様が強いのは知ってたけど、顕氏様がまさか新田義貞を討ち取るような猛将だなんて考えたこともなかった」
「その点は同意見だな。実力者だとは思っていたが、武力での真っ向勝負で義貞を討ち取るとしたら、土岐殿や山名殿だとばかり」
勿論、射殺するなら、弓上手の小笠原貞宗や強弓の高師久といったところだろうし、用兵で破るなら、赤松円心や足利高経、細川定禅などが有望だろう。しかし、実際には細川顕氏が武勇で新田義貞を下したというのだから何と言うべきか。分からないものだ。
外見至上主義ではないが、どうにも珍妙な「絵」が浮かぶ。
精悍な顔付きで如何にもアスリートといった身体付きの義貞がまるで
それなら、仁木義長あたりの方が腑に落ちるというものだろう。
「尊氏様は?」
「さぁ?一騎討ちしても負けることはないと思うが、尊氏様に一騎討ちさせてる時点でダメだと俺は思う。俺程度の将なら最前線も望むところだが、尊氏様は格別だ。後ろの方で見物して頂かねば」
勿論、足利尊氏公と新田義貞の一騎討ちというのは一人の武人として興味深いところだが、臣下として御方が一か八かの場に出ることは看過できない。それなら、内輪で土岐頼遠とでも手合わせをして頂いた方が、まだ安全であり、見応えもあるというものだ。
ここで、師冬が口を開く。徐々に足利の中枢に喰い込む気配のある師冬の意見は貴重だ。ある意味、道誉の見識より期待できる。
「二人とも顕氏殿の戦果を疑っておられるようですが、我が養父の高武蔵権守は認めておられましたよ。兵部少輔顕氏殿の底力を」
「へぇ、意外だな。豚とか太いとか馬鹿にするのではなく?」
「満足げでしたね。奴は鬱憤が最高潮の時は良い仕事をすると」
「ほう。それはまた景気の良い」
とはいえ、二十七日の戦での顕氏の功労は「良い仕事」どころではない。他の軍が四方八方に逃げる中、天下に聞こえた闘将の新田義貞を討ち取った上、弟の定禅と力を合わせ、全て足しても五万騎を遥かに超える敵軍を京から駆逐し、比叡山へ追い返したのだ。
大金星にも程があると言いたいが、「男子三日会わざれば刮目して見よ」という格言がある。その語源であるという呂蒙は元は文字も読めなかった身でありながら、軍神関羽を倒して荊州を得た。
本朝では、散々に蔑まれた細川顕氏が新田義貞を討ち取って京を奪い返したのだ。後世の細川氏の活躍を思えば、道理であろう。
「!……すまん、少し席を外す」
「千寿丸殿。何かあったのですか?」
「厠だ。付いて来るなよ」
「当たり前です」
陣中で他家の人間と会っている際に、甲賀忍軍からの急の報告がある場合の取り決めである合図が発されたのを確信した俺は用を出しに行くと偽り、流れるような冗談を師冬らに残して離席した。
所定の場所に行くと、甲賀忍軍の道俊と美濃部が一緒になっていた上に、如何にも半信半疑というような風で待ち構えていた。
「どうした?お前たち。余程重大なことがあったと見えるが」
「は。その通りにございます……美濃部」
「殿。京の街に敵の占拠地から律僧たちがやって来たそうです」
「律僧?……ああ、新田家に依頼され、義貞の供養か」
当主の亡骸が交戦相手である足利軍の手に渡っているために採られた措置だろう。鎮魂のため、新田家が僧たちを遣わしたのだ。
律僧なのは武家との親和性以外に、比叡山延暦寺の関係者でないことが明らかなため、追い返されにくいと判断したのだろう。
「いえ、義貞だけではありません」
「何?」
「足利軍が各地に小隊や中隊を派遣した後、京に来た律僧たちが供養のためだと新田義貞だけでなく、楠木正成や北畠顕家ら他の主将たちの首まで求めたと。殿。京では噂が噂を呼んでおりまする」
「師冬のヤツ、何故言わない?話を聞いて、俺がまた独断専行するとでも思ったのか?いや、出立した後の京の出来事まで把握出来るほど、師冬も万能ではな……待て。今、楠木の首と申したか?」
「は。加えて、昨夜遅く敵軍が逃げたとも話が広まっております。比叡山から小原や鞍馬の方に移動する松明が数多見えたそうで」
後に作られる軍記物語『太平記』には、戦場のあちこちに律僧たちが現れ、号泣しながら宮方の主将七人の亡骸を搜索し、高軍や上杉軍も不思議がりつつ、首を探し始めたことが記されている。
現在、仕える忍びから話を耳にした六角佐々木家当主である俺は身体の震えを抑え切れなかった。猛烈な悪寒を感じたのである。
「謀られた……」
「殿?」
「楠木正成が京で死ぬ筈がない。奴が死ぬのは湊川だ!」
「「!?」」
呆然とした俺の呟きに甲賀忍軍の主力たちは耳を疑った。
程なくして、一周回って冷静になった俺は感電したかのような錯覚を覚える。再び動揺したせいか、その感覚は直ぐに霧散した。
「そう言えば、新田義貞が死ぬのは北陸のどこかだった」
「殿?」
「まさか……」
「美濃部!お前は十六日の戦で義貞の顔を見たな?義貞の首とやらは既に晒されている筈だ。至急、確認しに行け!烏に啄まれたり投石で壊されたりしていない限り、耳含め全ての形を確認せよ」
「はっ、ははあ!」
「道俊、敵の軍の配置を洗い直せ。マズいことになるやもしれん」
「承知」
命令を受諾した二人は直ぐに陣中から駆け出した。取り残された俺は息を荒くし、北西の空に向かって震える指を突き出した。
仔細まで論理的に推察することまで能わずとも、直感的に悟ったのである。軍神の策が施され、足利軍は術中に嵌ったのだと。
「正成ェ。お前、やってくれたな」
何とか手を打とうとした俺だったが、一万騎のみの兵で、勢多に駐屯していてはどうにもならず、そもそも手遅れであった。
一月末の未明。各方面に兵糧調達の部隊を派遣していたために、大した兵数を抱えていなかった京の足利本軍は二条河原での放火から始まる三方からの敵軍の猛攻に耐え切れず、敗走を開始した。