崇永記 作:三寸法師
〜1〜
近江国守護の千寿丸の頭を押さえつけながら、年若の上級貴族の顕家は勘案していた。このまま千寿丸を溺死させるべきか、それとも千寿丸の身柄を盾に佐々木軍を土壇場で寝返らせるべきか。
尊氏に心酔する千寿丸のことだ。盾にされようと、息を吹き返したならば、必ず自分ごと顕家を討つよう郎党に命じるだろう。
その時、幼い惣領の千寿丸を祀り上げる佐々木の一族郎党たちがどう出るものか。結局のところ、大事なのは
(迷いは不要だ。高経が鏑矢を放ったからには……)
「ッ!?顕家卿!大変です!」
「!」
「上流から水がグベベゴボ」
今にも千寿丸の命運を決めようとした顕家の元へ、濁流のような大水がやって来る。北畠軍だけでなく、高経軍や佐々木軍の将兵たちまで巻き込まれているが、顕家は直ぐに経緯を看破した。
すなわち、先程の高経の放った鏑矢で、川の上流の堰が切られたのである。当の高経は辛くも大水から逃れ、顔を顰めている。
(勝てる戦であったが……不安が的中したな。千寿丸の暴走癖がこれ程まで重篤だったとは。母親泣かせな武者の性よ。だが、尊氏を一蹴した顕家と五分なら、まずまずか。家長の面目も立とう)
(高経め!余と共倒れになるを是としたか!息子も息子だったが、親も親だ!
前の月には尊氏の大軍を僅か一刻で撃破した北畠顕家が意欲的にも官軍の第一陣を担ったこの豊島河原の合戦に関して、古典『太平記』に記述があるが、意外にも然程目立った活躍が見えない。
それどころか、直義麾下の軍勢に退けられたとされているのだ。
組み討ちの途中であったため、瞬時の退避が叶わず、顕家は大水に呑まれていく。その最中、波の狭間から見えた高経の姿に歯噛みしたが、間も無く高経どころでなくなる。身体を斬られたのだ。
(ッ!?千寿丸、何という
(水に流され、碌に腰の入っていない袈裟斬りで内臓まで傷つけるのは難しいか。仕方ない。だが、何とか六角の意地を示せたぞ)
初めて身体を切り裂かれた顕家の身柄を泳ぎの得意な奥州兵たちが川へ引き上げ、北畠軍執事の春日顕国の元へ運び出していく。
一方、今にも限界の千寿丸は力無く流されていった。
天下の公家将軍に傷を付けたことに満足し、諦めの境地に至った千寿丸を死の淵から引き戻したのは一人の怪力少女であった。
「殿様!」
「……あ、やこ」
(熱い……身体の内側で
得物の『四方獣』で行手を遮る敵兵や流される両軍の兵士たちの屍を払い除け、亜也子は片腕で千寿丸の身体を担ぎ上げた。
共に川の西岸に辿り着いた亜也子の元へと六角家の若党たちが駆け付け、態勢を整えた。しかし、消耗激しい千寿丸の呼吸は依然として弱々しい。最側近の青地重頼はその様子を見逃さなかった。
昏倒する千寿丸が木製の担架に乗せられると、重頼は叫んだ。
「粟生田殿、楢崎殿!」
「「応!」」
「「「亜也子殿、御免!」」」
「ッ!?何して!?」
あろうことか、主君の信頼篤い若武者三名に後ろから肩や背中を押さえ付けられた亜也子の顔は千寿丸の口元に寄せられる。
意識の朦朧とする主君に何をすべきか分からぬ亜也子ではない。
四の五の言えない状況である。必死の形相の六角家の郎党たちの熱意もあって、亜也子は今の主君の千寿丸の延命に一役買った。
〜2〜
すなわち、宮方は脇屋義助・宇都宮公綱の連合軍、武家方は仁木義長と細川顕氏の両名を従えた高師泰の率いる中軍部隊である。
「頼章の弟と細川の分家を連れて来たか、高師泰」
「脇屋義助か。仁木、お前が相手してやれ」
「応!」
敗戦の雪辱を晴らさんとする足利軍は脇屋義助の部隊と互角の戦いを演じた。確かに義貞の実弟の脇屋義助とて、前年の箱根竹下合戦における尊氏軍との戦いぶりで天下に知られた名将であった。
しかし、一方の仁木義長も後年における活躍目覚ましく、義詮政権下における内紛で、佐々木氏や土岐氏と渡り合うことになる。
「脇屋軍は僅か二千騎。仁木軍のみで事足りるな?師冬」
「はい。既に義長殿の弟・義任殿に対策をお伝えしてあります」
「師泰様、万一の場合は石塔頼房軍が援ける手筈にございます」
「……それなら心配要らねェな」
(
主君の傍らに控える師直に代わって高軍を率いる師泰には執事の山口入道の他、師直の猶子の師冬が軍師として付けられていた。
後の井伊谷侵攻然り、師冬は義理の叔父の師泰と共闘する機会に恵まれるが、二人は将来、
「で、問題は宇都宮の若ジジイだが、師冬。どう対処する?」
「叔父上。ここは顕氏殿に『豚カツ』になって頂くのが良いかと」
「聞いたな?豚……ん?そういや細川だったな。あまりに太過ぎるもんだから、忘れていたぜ。新田義貞と雑魚を間違えるお前でも、適当にブヒブヒ突っ込む位は出来るだろ。道草せずに早く行け」
「……ッ!」
先月二十七日の戦で、新田義貞を討ち取ったとして尊氏から褒美を預かり、糠喜びしていた顕氏だったが、状況は一変している。
結局、大将首と思われた屍は別人のものであり、新田義貞は他の官軍の大将たちと共に尊氏軍を京から撃退し、今もなお追討のため出張ってきている。そのせいで顕氏は本家の家人に過ぎない師直から散々に貶され、他の武将たちにまで白い目で見られる始末だ。
今や顕氏の鬱憤は抑えが効かない程、溜まりに溜まっていた。
(師泰に師冬まで!大体、『豚カツ』とは何だ!?六角の小僧の迷言を引きおって……そもそも、
「行くぞ、者ども!宇都宮など見かけ倒しだ!ヤツが本当に楠木に匹敵する強さなら、神岡山で敗けてはおるまい!恐れず進め!」
「「「応!」」」
高一族に尻を叩かれたも同然の顕氏は凄まじい勢いで宇都宮軍の隊列に突っ込んだ。薙刀を振るい、次々と敵を蹴散らしていく。
この顕氏の勇猛な攻めに対し、宇都宮公綱は悠然と構えている。
「去年、奥方を亡くされるも、宇都宮様の威厳は健在」
「昨日、奥方が亡くなられたことも食事したことも忘れて、『婆さんや、飯はまだかのう』と言っておられたが、まず大丈夫だろう」
「先月は山法師たちの奇襲に不覚を取ったが、此度こそ」
「影武者にまんまと引っ掛かる間抜けに負ける方ではあるまいよ」
果敢に攻め寄せる細川顕氏と天下の名将の宇都宮公綱の対決に豊島河原に集った武士たちの視線が敵味方を問わず集まった。
果たして「豚」と「痴呆老人」のどちらが勝利を収めたのか。
「おお、
「あっという間に、敵兵二百騎を討ち取った!」
「あの勇猛!影武者なくば、本当に新田を討っていただろうに!」
「なッ……マズい!主君をお連れし、退却するぞ!」
「芳賀殿の御命だ!さぁ、早く!師泰が加勢に来る前に!」
古典『太平記』によれば、豊島河原の戦いで第一陣を担った北畠顕家に引き続き、宇都宮公綱の軍勢は直義軍に退けられている。
名将・宇都宮公綱を撃退した細川顕氏の勇姿は足利軍の皆を奮起させた。高、細川、仁木、そして畠山までもが戦場で勢い付く。
数で及ばぬ自軍が強敵揃いとされた敵軍と互角の戦ぶりを演じていることに対して、表向きは真顔を貫く直義が困惑と感慨を覚える一方で、既に後方に下がっていた千寿丸は漸く目を覚ました。
「?……亜也子か。戦況は?」
「優勢だよ、殿様。北畠軍も宇都宮軍も退けたって」
「そうか……だが、その様子だと、北畠顕家を遂に討ち取れずか」
担架の上で、千寿丸は悔しげな顔を浮かべる。
この二人が機能する限り、楠木正成の戦死は望むべくもない。
せめて再戦早々に二人のどちらかを討っておきたいという目論見があったからこそ、直義は足利方屈指の名将の高経を前軍の大将に選んだのだ。しかし、結果は高経と顕家の引き分けに終わった。
「高経殿は実力者だが、定禅殿と同様に全ての機密を知らされてはおらぬ。故に、無理に勝ちに拘り、
「……殿様」
「残念だが、そうした大局観は高経殿の方が……ん?」
眉を顰めた千寿丸が違和感のある口を袖で押さえた。
勿論、六角家の若党たちは素知らぬ顔をすることにする。
「何だろう……口元がやけにベタつくような」
「と、殿様。それより、伊庭様が気になることがあるって」
「……そうなのか?伊庭」
「……は。これをご覧ください。今現在の戦局図です」
六角家の重臣の一人の伊庭は図面を広げ、担架の上で若党たちの支えを受けて、起き上がった千寿丸に詳しく戦局を説明する。
現在、直義軍の中軍大将を務める高師泰の指揮による猛攻に晒されている官軍は脇屋義助の軍勢に、大舘氏の他、江田氏、里見氏、鳥山氏といった新田家の一族郎党たちを付け、応戦させていた。
「何故未だ新田親子も四天王も出て来ぬ?堀口貞満まで姿を見せぬではないか。
「殿、そこなのでございます。この奇怪な状況、何かの策では?」
「……我々が気付けることを直義殿は勿論、細川定禅殿や高師冬殿らが見逃すとは思えん。だが、このままでは危うい気がするな」
(そもそも直義軍六万騎に対し、北畠・新田連合軍は京を出る時には十万騎であった。高経の前軍と師泰の中軍で、顕家や公綱を破った上に、脇屋と互角以上なのは分かるが、既に直義軍は多くの戦力を費やしている状況だ。対して、新田軍にはまだ投入されていない戦力が多い。底力を出されれば、流石に危うくなってしまうぞ)
再びの前線への投入に備え、側近たちの手を借りて早着替えをする千寿丸は今後の戦が決して楽に進まないことを予感していた。
濡れた衣を脱ぎ捨て、予備の衣装の上に鎧を付け直す。千寿丸が息を整え直す最中、師泰たちは着実に敵陣を突き崩していた。
〜3〜
戦の先行きに千寿丸が不安を覚えた一方、前軍の大将を担うも、遂に撤退させられた高経が惣領実弟の直義の元を訪れていた。
前々より「足利の麒麟児」とまで謳われる程に稀有な才覚を認められていた長男の斯波家長を預けただけあってか、高経の直義に対する信頼はそれこそ当主・尊氏に対するもの以上に篤かった。
「
「ふっ。佐々木六角の手綱を握りきれなかったか」
「母親のことを持ち出して言い含めれば、流石の千寿丸も自重するだろうと思ったのですが、どうやら見通しが甘かったようです」
「案外、そうとも言えないぞ。高経殿」
「……どういうことです?」
訝しむ高経に対し、彼に全く劣らぬ知恵者の直義は説いた。
京を奪い返してもなお、足利軍の討滅を狙う宮方は未だに北畠顕家を奥州に戻そうとしない。先月の十六日や二十七日の戦で勝ちきれなかった分、敵も躍起になっているところがあるのだろう。
「今回の戦で北畠顕家は我が前軍に退けられた上に、粘り腰の千寿丸によって手傷まで負わされたという。敵に潜む内通者からの情報によれば、致命傷ではなかったらしいが、川で負った傷は悪化する恐れがあり、穢れを過敏に避けがちな公家の忌み嫌うところだ」
「成る程、得心しました。本人はともかく、他の公家たちは顕家の怪我に良い顔をせず、手柄を立てさせ、堂々と宮中に凱旋させたくないと思う筈。負傷の報を耳にした公家たちは即刻、態勢を立て直した家長の跋扈する奥州に顕家軍を戻すよう上奏するでしょう」
足利方では尊氏を信奉し、実力主義や合理主義に染まった師直の派閥と、既得権益に一定の配慮をし、名族の嫡流筋からの受けの良い直義の派閥に分かれる気配があるが、敵もまた一枚岩でない。
特に、北畠顕家は新進気鋭の若き公家将軍である分、却って普通の武将よりも他の公家たちから足を引っ張られ易い立場にある。
そして、後醍醐天皇は彼らを抑え、北畠顕家の思うがままに戦える環境を整えることより、抜きん出た功労者の出現を回避することを重視するタイプの君主だと直義と高経の両名は見抜いていた。
「楠木正成、新田義貞、北畠顕家……彼らは三者三様の名将だが、はっきり言って後醍醐の帝には宝の持ち腐れだ。彼らを亡き者にするには単に足利方の誇る知将や勇将を当たらせるより、無茶苦茶な勅命が下されるように仕向ける方が有効なのかもしれん」
「お気遣いに感謝します。その面で私や千寿丸殿の前軍の戦に意味があったと申されるのですね。我らの働きで、北畠顕家は遠からず畿内より去ると。ところで、
「ああ。だが、新田親子や四天王の動向までは情報が伝わってきていない。探らせているが、いつまでも悠長に構えてはおられん」
(師泰の傍らに控える師冬は相当の切れ者だと噂だが、
目下、吉良満義が敵の布陣を暴き出そうと草を掻き分けて奔走しているが、それ以上に脇屋軍を力押しで攻める師泰たちの勢いが凄まじい。このまま直義軍の中軍部隊が脇屋や大舘らを押し切れば、分断を避けるため、直義たち本隊も続かざるを得ないだろう。
果たして直義の懸念は当たっていた。新田軍の策略に引き摺り込まれたのである。漫然とした不安を抱え、表情を曇らせながらも、やむを得ず、敵軍を押し切った師泰軍に続こうとした時だった。
(戦では勢いが肝心なことを熟知する師泰を止められず、遂に私まで川を渡り切った。このままだと追撃戦に移ることになるが……)
「直義様!大変です!川の上流から敵が筏で!」
「後詰めの軍と分断されました!」
「!?」
味方の叫び声で直義が振り返って見ると、俄かには信じ難い光景が広がっていた。無数の敵の乗る筏が押し寄せていたのである。
いつ足利軍の抑えていた筈の上流やそこに配置した筏を押さえられたのか、考える暇は無い。まさに窮地である。六万騎もの軍勢を率いる将として迅速な対応が求められるシチュエーションだ。
(あまりに歯応えが無さ過ぎる故、誘引策に最大限警戒し、吉良らに周囲の偵察を念入りにさせていたが……
「我こそは新田四天王が一人、栗生顕友!ここに見参!」
「同じく由良具滋!直義の首、獲りに参った!」
(そうか!顕家軍の二の舞を演じまいと上流を抑えた流れで!)
察しをつけた直義だったが、後方だけでなく前方でも異変が生じていた。遂に新田親子が残る郎党たちと共に前線に現れたのだ。
満を持しての本軍の加勢で、脇屋軍はこれ以上なく勢い付いた。
「直義様、
「
「申し上げます!細川
「報告!後方に回っておられる
(マズい、このままでは……)
四方八方で新田軍が蠢動し、打つ手が尽く空回りしている。
やはり自分は弱将なのか。直義は空を見上げて、呟いた。
「折角、北畠顕家や宇都宮公綱を退けたが……もはや退却する他」
結局、古典『太平記』に直義軍の躍動が描かれることはなかった。北畠顕家軍や宇都宮公綱軍との死闘に全てを出し尽くした足利直義軍は続く三回戦、新田義貞軍にウソのようにボロ負けした──
「我が来たぞ、直義」
「兄上……」
──というようなことにはならなかった。この日の戦で、足利軍と新田軍は日暮れまで戦を繰り広げ、互いに休息を取り始める。
しかし、このままで済む筈がなかった。昨夜より行方を眩ましていた楠木軍が夕刻になり、遂に本命の策を実行したのである。