崇永記   作:三寸法師

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▲8

〜1〜

 

 

 後に尊氏は是が非でも和議を纏めたい相手のために自らの寵童で容貌無双を謳われた饗庭命鶴丸を使者として派遣したという。

 建武三年、命鶴丸は数え二歳とまだ出仕を望める歳ではない。

 湊川の戦いも終幕を迎えようとしている頃、追い詰められた楠木兄弟は残った郎党たちと民家に最期の憩いの時間を求めていた。

 

 

「死に物狂いで戦いましたが……結局、及びませなんだな。兄上」

 

 

「まだ戦いたいか?弟よ」

 

 

「……いえ、もう十分にござる。強いて惜しむなら、前後で暴れこそすれ、此処一番の力を奮うべき場面で真価を発揮できず、不完全燃焼に終わったことにござるが……兄上は?如何でしょうか?」

 

 

「悔しゅうござるよ。負けたのだから、当然にござる」

 

 

「端から分かり切っていた結末でも?」

 

 

「弟よ。将たる者、負ける可能性や負けた際の身の振り方は常に頭に入れておくべきにござるが、いざ戦おうとするならば、必勝の志で臨まねばならぬものだ。信じてくれる仲間たちのためにな」

 

 

「……我らにとって、仲間とは何でござろう」

 

 

 やるせ無さの滲む正季の言葉からは兄の渾身の軍略を無に帰した坊門清忠や後醍醐の帝、まんまと見え透いた分断策に踊らさられ、遂に京へ撤退して行った新田義貞たち友軍への怒りが窺えた。

 しかし、兄の正成は首を横に振る。全て呑み込んでいたのだ。

 

 

「恨んではならぬ。恨んではならぬのだ」

 

 

「まこと……悔しゅうございますなぁ。兄上」

 

 

「そうだ。それで良い。戦の勝敗は天、地、人の三つの利に委ねられるが、詰まるところは己に勝てたどうかだ。此度、拙者が敗れたのは誰のせいでもござらん。自分に負けたからだ。己の信条を貫き通せなかったがために過ぎん。願わくば、あの少年には……」

 

 

(いや、言っても栓なきことにござろうな。最後の戦で、逃げ上手を切り裂く閃光を見た。如何なる者も時代の奔流には逆らえん)

 

 

 最後にポツリと言い掛けながら、首を横に振った兄の姿を弟は見据える。悪党とされていた頃から懸命に足掻き続けて軍神という称号さえ得た国家の英雄が今にその命を終えようとしている。

 正季は己の一生を振り返る。本当にこれで良かったのかと。

 

 

「何を考えておる?正季」

 

 

「これまでのことを思い出しておりました」

 

 

「左様か。弟よ、心して聞け。人の来世は最後に何を考えたかで決まると申す。極楽か地獄か。拙者はお前と同じ世界へ参りたい」

 

 

「兄上……」

 

 

 来世でも一緒に居よう。その言葉で正季は感極まって震え出す。

 軍の将ではなく、唯の兄として正成は弟の肩を軽くさすった。

 

 

「正成様!足利軍より使者が罷り越しました!」

 

 

「尊氏殿か。直義の考えではあるまいな」

 

 

「兄上……!」

 

 

「息子たちのためにも、浅慮に走ることは出来まい。通すのだ」

 

 

 楠木兄弟が最期に拠った民家に年若い二人の武将が現れる。

 一人は楠木党の主だった面々も把握する顔であり、もう一人は今はまだほぼ無名に等しい面を被った若武者である。だが、楠木正成はその若武者の持つ夕陽によく映えた銀髪に見覚えがあった。

 ふっと笑った正成は若者二人を招き入れる。さて、一体どんな話をしたものか。終戦間近にも関わらず、軍神の心は踊っていた。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 近江国守護から直々の指名を受けた吹雪、もとい師冬に拒否権は無かった。千寿丸が明言するや否や、尊氏に微笑まれたのである。

 そもそも昨年六月に逃若党の一員として京に潜入した際、正成の為人について師冬はある程度理解している。別離を済ませた息子たちへの報復リスクの観点からも、名門武家の千寿丸と一緒なら使者殺しという蛮行に見舞われる可能性も限りなく低い筈だった。

 

 

「あの錚々たる面々からよくぞ私を選びましたね。千寿丸殿」

 

 

「ま、率直に言えば、貸しを作っておきたかったからな」

 

 

「貸し?貸しになるとお思いですか?」

 

 

「ああ。今日の一件で、お前は足利軍の若手武将の中でも完全に抜きん出た有望株と見做されよう。仮にも近江国守護が生死の懸かった場面で頼りにしたとお墨付きを得ることになるのだからな」

 

 

「言ってくれますね」

 

 

 ともすれば余計な気遣いであったが、足利軍に属す若手武将たちによる激しい武功争いを勝ち抜き、野心に敵う地位を欲する師冬にとってはある意味美味しい役回りであるのもまた事実だった。

 一方で、千寿丸からして見ても、この局面では師冬が最も適した人選だった。勿論、単なる腕利きであれば、他の武将の選択肢も豊富にあっただろうが、実際に追い詰められた敵を尋ねる場面で連れて行って角の立たぬ相手となると、かなり限られる。ただ、それだけが理由でないことを知性をも兼備する師冬は看破していた。

 

 

「しがらみ無く付き合える私なら、本気で説得せずとも、適当に時間を潰してから、口裏合わせて戻って来られる。そうしたお考えがあっての選出でしょう?土岐や長尾ではこうは行きませんから」

 

 

「うーん。鋭い」

 

 

(ガチで説得するなら、大覚寺統の仕打ちであったり結果的に楠木軍を見捨てて京に逃げる形になった新田軍であったりを(あげつら)うという手もあるかもしれないが……響かないだろうなァ。軍神には)

 

 

「ただ、この場合、本当に貸しを作れるのは私の方になりますね」

 

 

「おいおい、百歩譲って貸し借りゼロだろ」

 

 

「ゼロ?……ああ、帳消しという意味ですね。分かりました」

 

 

「よし、言質を取った」

 

 

「……まぁ、それで良いです」

 

 

 そうこうする内に、楠木たちの拠る民家の目の前へと辿り着く。

 声を掛けてから割と直ぐに、中へと通される。武器を預けるように求められることもない。ある種の余裕を感じることができた。

 

 

「六角殿か。先程振りでござるなぁ。それと……」

 

 

「足利家執事高師直の猶子、師冬です」

 

 

「左様か……これはお初にお目に掛かる。楠木正成と申す。土豪あがりのしがない小役人にござるよ。それはそうと、銀髪とは珍しゅうござるなぁ。あいや、失礼。どうしても目を引かれたもので」

 

 

(楠木のこの反応と名乗り方……私の正体を)

 

 

 途中からヘコヘコし出した正成の態度や視線から、師冬は自分がかつて正成に接触した稚児の仲間であったことに気付かれていると悟った。口に出さないのは直ぐ隣の六角家当主の存在のためか。

 実際は千寿丸も承知していることだが、その承知していることそれ自体は幾ら名高き軍神とはいえ、見破るのが困難なのだろう。

 

 

「して、お二人は風前の灯も同然の拙者に何をお望みかな?」

 

 

「尊氏様への言い訳をご教示頂きたく参上しました」

 

 

(なっ、そんな明け透けに)

 

 

「ぶははははは!」

 

 

 単刀直入な千寿丸の物言いに師冬が心の臓を掴まれたかのようにギョッとする一方で、正成はツボにハマったのか豪快に笑った。

 一頻り顔を綻ばせると、正成は使者としてやって来た筈の二人をジッと見据えた。今更隠し立てする必要のない軍神の眼を以て。

 

 

「尊氏殿が拙者を欲しがっている。そうでござるな?」

 

 

「はい。お察しの通り。直義殿も師直殿も聞き入れられる筈がないと知りながら、尊氏様お一人が貴方を引き入れたいらしく」

 

 

(だが、楠木正成の生存にもはや何の意味もない。ここはやはり死んで頂くのが無難だろう。これぞ尊氏様の、真の天下人の道だ)

 

 

「さて、尊氏殿の狙いは拙者にも察しかねるが……恐らく本当に拙者を引き入れるつもりではないのでござろう。拙者と二人が此処で顔を合わせる。そのことに何か意味があるのでござろうな」

 

 

 虚空を見上げながら呟く正成の言葉に使者の二人は目を細める。

 遠くで烏の群れの鳴き声がすると、千寿丸が徐に口を開いた。

 

 

「一つ、心当たりがございます。尊氏様は三柱の現人神を超越する唯一無二のお方であられます。此度、表向き私が使者に指名され、私が同伴者として師冬殿を選ばせて頂いたのでありますが、実際のところ、全て尊氏様の計算の内に過ぎないのでありましょう」

 

 

(((何と言う逆賊根性)))

 

 

「千寿丸殿?」

 

 

(足利尊氏、一年足らずで近江国守護を……)

 

 

 唐突極まりない千寿丸の語りで、場にある人々は戸惑った。

 しかし、存外にも千寿丸は鋭く()()()に切り込んでいく。

 

 

「楠木殿。此方にお控えの高師冬殿……いえ、昨年八月まで中先代こと北条時行に仕えていた彦部吹雪と面識がありますね?銀髪を強調しながら、仮面に言及しない貴方の言葉から確信しました」

 

 

「「……」」

 

 

「沈黙は肯定と受け取りますよ?お二方」

 

 

「これは……参りましたね」

 

 

「将として必要な観察眼……時信殿のご子息だ。気性に多少の問題があるものの、やはり大国を治める反逆児。並ではござらぬな」

 

 

 師冬にしろ、正成にしろ、両者の間に程度に差こそあれ、並外れた頭脳を持つ身でありながらも、この場で嘘を吐く意味を見出せなかったのか、遠回しに千寿丸の疑念を肯定する言葉を口にする。

 すると、如何にも我慢がならない様子の正季が震え出した。

 

 

「兄上、差し出がましい口をお許しくだされ……中先代(北条時行)と申せば、帝の世を乱して結果的に尊氏の行き過ぎた台頭を招いた張本人にござろう。その中先代に仕えていたという者と、ずっと畿内に居られた兄上が何故に顔見知りということになっているのですか?」

 

 

「そう言えば、多聞丸(正行)には兎も角、お前には言っておらなんだか」

 

 

「兄上……」

 

 

 俄かに信じ難い兄の言動に、正季は閉口せざるを得ない。

 尊氏も尊氏であるが、正成も正成で型枠に縛られない人物であると知ってはいたが、幾ら何でも限度というものが存在するのだ。

 

 

「楠木殿、その様子だとまさか……」

 

 

「そのまさかにござるよ。中先代とも面識がござる。と言っても、現政権への敵意こそ見抜きこそすれ、まさか正体が平相州(北条高時)の遺児だったとは……京に潜入した事実然り、拙者も酷く驚いたものだ」

 

 

「楠木殿。貴殿や楠木家の名誉のため、その話、私も師冬殿も墓場まで持って行きましょう。正季(帯刀)殿、それで宜しゅうござるか?」

 

 

「……忝い。六角殿」

 

 

「千寿丸殿、楠木殿。この話はここまでで。千寿丸殿の派遣を尊氏様が望まれた理由、既に分かりました故。もう時間稼ぎも頃合いでしょう。楠木殿、最後に尊氏様への断り文句、お教えください」

 

 

 もはや正成の拒絶は暗黙どころか公然の了解と化している。

 しかし、敢えて理由を挙げるとすれば何だろうか。単に自らが死ぬだけなく、仲間ごと足利の誘いを断り、帝に殉ずる理由とは。

 

 

(忠義から逃れられなかった……果たしてこれを()()の結論にして良いのだろうか。息子たちを復讐に駆り立てはしないだろうか)

 

 

「兄上……何も悩むことはございますまい」

 

 

「正季?」

 

 

「決まっているではありませんか。我らは七度生まれ変わってでも国に報いなければなりませぬ。それ故、逆賊とは相容れぬと」

 

 

「……そうだな」

 

 

 弟の言葉に頷いた正成は改めて使者の二人に向かい合い、疲れ果てた身体で頭を下げた。千寿丸や師冬も、正成の礼に応える。

 いよいよお開きとなり、千寿丸が民家の扉に近付いた時、不意に楠木兄弟に振り返って視線を送ると、迷いがちに口を開いた。

 

 

「ご子息たちに何か言い残したことがあれば、お伝えします」

 

 

「……言うべきことは既に伝えた。お気遣い痛み入る」

 

 

「兄上と同じく。次の世代の戦い、楽しみにしているぞ」

 

 

 何も言わず、千寿丸は黙って二人に頭を下げて会釈した。

 すると、正成が何か急に思い立った様子で、言葉を掛けた。

 

 

「千寿丸殿と中先代は同年齢でござったな?」

 

 

「はぁ。それが何か?」

 

 

「佐々木の宗家と北条の宗家だ。二人の間には何かしらの因縁がござろう。気を付けよ。同じ逃げ上手だったから分かるのだ。あの子は再び必ず立ち上がる。天下の舞台にまた登って来るだろう」

 

 

「……軍神の御言葉、頭の片隅にでも留め置きましょう」

 

 

(六角殿……まるで拙者の言葉を信じておられぬ様子だ)

 

 

 幼い武将の後ろ姿を見送った軍神は半ば呆れて息を漏らす。

 今度こそ千寿丸と師冬は窓から夕陽の差す民家を後にした。

 

 

「自害するのだろうな。力を尽くした軍神が場末の民家で」

 

 

「ええ。恐らく兄弟で刺し違えて」

 

 

「まさに手本だ。武将として彼らの如き最期を迎えたいものぞ」

 

 

「……そうですね」

 

 

(それにしても、吹雪(師冬)、違う。時行と楠木が知り合いだったことを裏取りさせる意図が仮に尊氏様にあったとして、何故態々。師冬に直接聞けば良かった話だ。よもや九州の降兵と同じように師冬を信用していないのか?それとも前提条件が違っていたとか……まさか本気で、俺が楠木正成を説得することを期待しておられたとか)

 

 

 さて、二人が去った後、楠木党たちは静まり返っていた。

 皆が揃って死の旅へと赴く覚悟を固めているのである。

 そんな中、正季が突如としてカラカラと笑い出した。

 

 

「兄上、思い出しました。北条泰家や西園寺公宗の帝暗殺未遂事件の直前に、帝へ提出する軍略書の草稿を紛失したと申されておりましたが、中先代の手に渡ったのですな?可笑しいと思いましたよ!齢十の人の子が庇護者の諏訪明神を差し置き、小笠原貞宗や足利直義を破った英雄として謳われている。兄上の軍略書でもなければ、到底成し得ぬことです。本当に我が兄上は自由が過ぎまする!」

 

 

「流石にお前は見破るな……素性不明の稚児に同じ逃げ上手の誼から渡した我が戦の記録が何の因果か、中先代という英雄を育てることになった。だが、それが巡り巡って足利兄弟による政権崩壊に繋がったことに、弁解の余地はあるまい。兄を恨むか?弟よ」

 

 

「いいえ」

 

 

 どこか不安の滲み出た兄の言葉を弟はキッパリと否定する。

 確かに中先代の乱がなければ、今日の楠木家や大覚寺統の困難は無かったかもしれない。今も足利氏や佐々木氏、土岐氏といった武家方の者たちと共に、朝廷で勤める日々を送っていただろう。

 しかし、正季は今になって誰かを恨む気にはなれなかった。

 

 

「されど、兄上には何としてでも、次の人生にご一緒して頂かねばなりませぬ。七度生まれ変わっても、朝敵を滅ぼしましょうぞ」

 

 

「罪滅ぼしのため、更なる罪業を重ねるか……是非も無し。弟よ、共に参ろう!新たな人生もお前と歩み、本懐を成し遂げん!」

 

 

 古典『太平記』に記された二人の来世に救済を求めず、逆賊を討ち果たすことを誓い合った言葉はその後、多くの勤王家たちや戦前の人々の心を駆り立て、日本国の歴史を戦禍で彩ることになる。

 こうして、建武三年五月二十五日の湊川合戦は幕を下ろした。

 逃げ込んだ先の民家で、楠木兄弟が刺し違えると、ここまで生き残っていた楠木一族の十六名や兵五十余名、偵察中に居合わせた菊池武朝たちが思い思いに腹を掻き切って、命を落としていった。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 軍神が落命した湊川の戦いが終わろうと、足利軍には直ぐに次の戦いが待っていた。まだ健在の闘将・新田義貞が京に戻り、比叡山延暦寺と手を組んで、足利軍に対抗する構えであったのだ。

 にも関わらず、湊川合戦から日が経った今、無事に任務を終えた筈の千寿丸と師冬の二人は主命で新たな()()へと赴いていた。

 

 

「なぁ、本当にヤバくないか?流石に今回ばかりは御心がまるで見当付かない。俺、もう辞世の句を自陣に残して来ちゃったよ」

 

 

「……いえ、多分大丈夫な筈です。多分」

 

 

「自信無さげだな!おい」

 

 

 どうして千寿丸だけでなく、師冬までも動揺しているのか。

 ()()の発端は先の湊川で任務終了後に戻った足利本陣にあった。

 

 

『そうか……天下の鬼才が左様なことを。何と無益な』

 

 

『兄上……?』

 

 

(慈悲深い御方だ。足利軍の誰よりも涙している)

 

 

 弟に呆れられる尊氏に対し、千寿丸が尊敬の念を心中で抱く。

 ここまでは()()良かった。問題は続く尊氏の言葉だった。

 

 

『そうだ!奥方の料理を食べに行こう!』

 

 

『『『?』』』

 

 

『……え?』

 

 

 諸将たちに遅れて反応した千寿丸の呟き虚しく、尊氏は軍神の首が十分に晒し終わるのを待って楠木家への土産とし、出発した。

 使者として足利方で最後に楠木兄弟と顔を合わせた千寿丸と師冬も同行させられている。尊氏の召還には応じざるを得ないのだ。

 

 

「忠臣・楠木正成の死を惜しむ声は多いが、まさか恐ろしく字が汚いために非常に読み難いとはいえ、己の軍略を書いた紙束を敵の総大将にただで譲っていたとは誰も思うまいな。なぁ、師冬殿」

 

 

「まだ根に持っているんですか?私が足利軍に投降して半年以上が経ってから、楠木正成手製の覚え書きについて明かしたことを」

 

 

「いいや、別に。軍神はああ言ったが、今更頼れる皇統の宛がなく再起不能のヤツが何を持っていようと、興味が無いし、何より居場所すら分からないんだから、奪いようがない。要は腐った宝だ」

 

 

「例え方の癖が相変わらずですね」

 

 

「何はともあれ……俺たちは今日を乗り切らなければ明日がない」

 

 

「そうでした。美味しいうどんは魅力的ですが……」

 

 

 何も本来は大食漢の師冬だけではない。久々に奥方の料理が食べられるとウキウキしていた尊氏を除き、誰もが憂慮していた。

 さて、生き残った楠木党の心中は如何ばかりか。櫻井宿で離別した後、父親の命運を悟っていながら、その帰りを毎日毎日祈願し続けていた長男の楠木正行の狼狽ぶりは傍目にも明らかだった。

 

 

「千寿丸殿。これが本当に拙者の父上の首なのか?」

 

 

「そうだ。多聞……いや、正行殿。間違いなく貴殿の父君の首だ」

 

 

「父上……」

 

 

「ん〜、奥方のうどんはやはり美味いな!」

 

 

(((((この武家の棟梁……)))))

 

 

 軍神の奥方であった久子が何の文句も言わずに用意したうどんを尊氏が何の憂いも無く、上機嫌で啜る目と鼻の先で、正行は父親の目を閉じて変色した首を抱き上げ、堪え切れず涙を流していた。

 千寿丸は気が気でない。いつ正行が恨みを晴らそうと尊氏を狙うか知れたものではないからだ。足利軍の皆が尊氏の胆力に畏怖の念を覚える中、正行は首を抱えたままトボトボと部屋を出た。

 

 

「足利様、失礼します……正行、待ちなさい」

 

 

「あ……」

 

 

「千寿丸は食べぬのか?うどん」

 

 

「その……本当に言い難いのですが、私は本来蕎麦派で」

 

 

「蕎麦?あの蕎麦か?面白いな!蕎麦をうどんのようにして食べると申すか。うん、きっと美味しい。今度師直に作って貰うか」

 

 

「……当世の蕎麦粉だと、師直殿でも美味しく作るのは困難かと」

 

 

「そうか?なら、良いや!」

 

 

(遺族の前でこの豪胆さ。到底真似できん。まさに神のお振舞いだ)

 

 

 とてもではないが、両統が歪み合う今、楠木家で食事をご馳走になる気の起こらない千寿丸はどこか気が滅入った様子だった。

 今か今かとタイミングを伺い、やっとのことで切り出した。

 

 

「申し訳ありません。暫し席を外します」

 

 

「厠か?千寿丸。早く済ませて来るのだぞ」

 

 

「……は」

 

 

 やっとのことで他の者に警護を任せ、居心地の悪い空間から抜け出した千寿丸は恐る恐る同年代の正行の行き先を家人に尋ねた。

 希少な楠木正成の最期の様子の証言者ということで、何とか聞き出した次第である。千寿丸はおよそ生きた心地がしなかった。

 行った先には母親に背中をさすられている正行の姿があった。

 

 

「正行……」

 

 

「もう大丈夫。大丈夫だ。千寿丸」

 

 

「さっきも話した通り、お父上は」

 

 

「七度生まれ変わってでも国に報いる……七生報国の志を抱いて、父上は叔父上と共に旅立たれたんだ。()しきを()く私に亡き父上の御心が分からない筈がない。必ず父上のような国家の忠臣に」

 

 

「……戦うつもりなのか?俺たち源氏と」

 

 

「当然だ!今日のところは父上の威名を守るため、手を出さない。だが、いつか一族郎党と共に再び義兵を挙げ、戦で朝敵を滅ぼす。それが帝への忠節を示し、父上の無念を晴らす唯一の道だ!」

 

 

「分かった。お前の言葉、我が胸に仕舞っておこう」

 

 

(正行め。一見足元を掬えそうでも、意外と強かだ。尊氏様があの調子では今讒言してみたところで、誰も楠木潰しに走れない)

 

 

 後に楠木正行は若くして世に出て、大楠公と呼ばれた父親と対になる小楠公という異名を得る程、鮮烈な活躍をすることになる。

 そして、その楠木正行と交戦した武将こそ他でもない──

 

 

「佐々木六角。名族の誇りを忘れ、史上最悪の逆賊に媚び諂うお前にいつの日か必ず拙者が土をつけ、武士の名誉を示して見せる」

 

 

「……やれるものならやってみよ、とだけ言っておく」

 

 

「死んでも忘れるなよ、その言葉」

 

 

「いずれ戦場で会おう。楠木」

 

 

 南朝、北朝でそれぞれ有望株と見做された新進気鋭の若手武将同士が初めて戦場で衝突するのはまだまだずっと先の話である。

 生涯で戦った武将たちの中でも指折りの強敵となる楠木正行が舞台から離れて爪を研ぎ始めた頃、六角千寿丸は足利方の佐々木惣領として京周辺で跋扈する後醍醐天皇方の征討へと乗り出した。




江戸時代から戦前にかけての楠木親子の人気ぶりを調べてみると、かなり興味深いです。思っていたよりずっと人々に認知されていたみたいです。ところで、逃げ若二次を書くにあたり、道誉の婿三人から軽い気持ちで六角氏頼を主人公に選んで、今本当に良かったと思っている理由の一つに、複数回にわたる楠木正行軍との交戦歴があります。恐らくこの作品の描写だと楠木正行は簡潔に纏められた原作のそれより遥かに強く感じられることになると思います。
湊川の戦いまで消化できたことにとても満足している自分がいる。ここまでの達成感は中先代の乱を終わらせた時以来かもしれない。
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