崇永記   作:三寸法師

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▲5

〜1〜

 

 

 建武三年(延元元年)十二月二十八日、後醍醐天皇が京から遥か南方の大和国吉野へ辿り着き、高野山と対立する根来寺を除く、周辺の寺社の関係者たちは大いに沸き立ち、近国の武士たちも早速馳せ参じた。

 吉野臨幸という行動そのものが、かつて大友皇子との覇権争いの過程で一旦吉野へ逃れ、その後巻き返して壬申の乱で勝利を収めた古の天武天皇を想起させる吉兆であると受け取られたのである。

 とりわけ、軍神(楠木正成)の子の正行が意気盛んに隣国(河内国)から吉野へ赴いた。

 

 

「正行よ。汝の父(正成)の比類なき忠義は正史に残ろう。軍神の遺児たる汝にも大いに期待している。必ず京を朕の手に取り戻すのだ」

 

 

「は!」

 

 

「そもそも朕が誇りや意地に囚われず、端から比叡山に逃れてさえいれば、汝の父(正成)が湊川で死ぬことも今日の朝廷の艱難辛苦も無かったであろう。正成の遺言の件、相分かった。いっそ朕のお墨付きを与えよう。誰の耳目に左右されることなく、修練に励むが良い」

 

 

「滅相も無いことでございます。この正行、今は帝の御為戦うこと叶わずとも、時を迎えれば、父にも負けぬ忠節をお捧げします」

 

 

 意気込みを新たにする楠木正行であったが、かと言って直ぐに足利討伐のための軍事活動を始められるという訳ではなかった。

 未だ数百騎の兵を率いて本拠地(河内国)の隣に位置する(大和国吉野)へ赴く地力こそ備えていたものの、桜井宿で別れ際の正成(父親)に与えられた禁が尾を引いていた。すなわち、新たな楠木家当主の正行もその弟の正時も成熟するまで、前線での敵との戦闘を禁じられていたのである。

 坊門清忠の進言に流されて軍神を死地に送り出した負い目があったのだろう。後醍醐帝は楠木家の方針を歓迎する姿勢を示した。

 

 

「親房よ。正成や主力人員の多くを湊川で失った楠木党を今焦って使い潰すのは下策であろう。しかし、果たして彼らが父親(正成)の言い遺したという時を迎える頃には朕の寿命もとうに尽きておろうぞ」

 

 

「……帝のお望みは一日も早く京に戻ることにあると」

 

 

「然り。九州へ送った懐良(八宮)遠州(遠江国)で井伊家を頼る宗良(四宮)、奥州へ汝の(北畠)息子(顕家)と共に再下向した義良(七宮)、そして北陸で新田軍と共に抵抗しておる恒良(五宮)尊良(一宮)……楠木党を当てに出来ぬ今、彼ら(親王たち)が賊を撃破して京を奪還し、朕を迎えることに期待する他ないとは歯痒い限りよ」

 

 

 堅牢な山里の吉野で虎視眈々と京を狙いながらも、自ら思うように軍を率いることの叶わない後醍醐帝が駆使した存在こそ、大覚寺統に属す親王たちだった。彼らの名の元に、足利氏を快く思わない地方武士を勇気付けた上で、南朝の尖兵として用いるのである。

 しかし、直ぐに成果が上がるのであれば、苦労はしない。陸奥の北畠顕家ですら、足利方の奥州総大将にして関東執事の家長(斯波孫二郎)の戦略に四苦八苦した挙句、霊山城(伊達郡)に追い詰められる有り様だった。

 そのため、顕家は建武三年(延元元年)十二月に後醍醐帝から送られた京都奪還命令に対し、年が明けてから送付した奏申書において、即座の実現は困難という見解を示し、反攻の準備に追われることになる。

 

 

「帝。恐れながら、北陸のことで奏さねばならぬことが」

 

 

「恒良たちに何かあると申すか?親房よ」

 

 

「今も独自に綸旨を出しているようです。このままでは当国に帝が二柱ばかりか、三柱おられるようなもの。これでは幾ら足利や新田に渡した三種の神器が偽物に過ぎないと主張しようと、吉野から発する皇威に傷が。また、新田家が後の憂いになる可能性も排除できません。確かに恒良親王殿下は帝の皇太子であらせられますが」

 

 

「……」

 

 

 場当たり的に新田家に皇太子(恒良親王)一宮(尊良親王)、そして三種の神器(皇位の象徴)を与えて北陸へ送り出すという方策はここまで然程特筆する程の成果を出せなかったばかりか、親房の懸念通り、憂いの種となりつつある。

 後醍醐帝が自らを上皇ではなく天皇であるという姿勢を京から吉野に移った今も崩さない以上、先の十月上旬に皇太子(恒良親王)に位を譲ったこと自体が消したい過去と化していた。しかし、恒良親王を御輿に担ぐ新田軍の北陸王朝は現在も「公」を自負して活動中である。

 果たしてこの状況を独力では京を取り戻せない今、どう対処したものか。ここに来て、後醍醐帝は吉野の御簾の影で頭を捻った。

 

 

「今出来ることがあるとすれば、探りを入れる程度か」

 

 

「ご英断にございます。早速、人を金ヶ崎に派遣しましょう」

 

 

 こうして送られたのが亘理新左衛門という名の武士であった。

 建武四年(延元二年)一月二日、髻に吉野朝廷の綸旨を結び付けた亘理は泳いで金ヶ崎城に入った。突然の使者に驚いた城内の人々は話を知り、今に諸国の援軍が寄せ手を追い払うだろうと喜び合ったという。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 壬申の乱における天武天皇を思わせる後醍醐天皇の吉野遷幸の一報が知れ渡ったことで、北陸の南朝軍は明らかに勢い付いた。

 特に越前国杣山城で南朝方として挙兵し直した瓜生(たもつ)の存在は隣の若狭国で金ヶ崎城を囲む足利軍にとって喫緊の課題となった。

 

 

「師泰殿。今回の不始末の責は私にあろうか。そもそもガサツな貴殿に将兵の脱走を防ぐ関所の管理を委ねたことが誤りだったか」

 

 

「……いえ。全てオ、拙者の責任です。尾張(斯波)様」

 

 

(高経の野郎……底意地が悪ィ。こんな時に長男(斯波孫二郎)を揶揄った兄者(足利家執事)の意趣返しをするヤツがあるか!奇襲に対応し切れず、たった十六騎の小勢(義顕たち)をむざむざ再入城させた咎は高経(お前)にだってあるだろうが)

 

 

 吉野朝廷が正式に成立するまでの間、着実に新田軍を追い詰めていた尾張(斯波)高経は決して控えめな武将ではない。観応の擾乱以降は二つの陣営を幾度も行き来し、義詮政権で実権を握ると、執事職などの確執から道誉と本格的な権力闘争を繰り広げ、遂に当時の幕府軍最強を自負していた武将が手勢を率いて入京する事態に至った。

 しかし、師泰は師泰で性格の良し悪しは言うまでも無いだろう。

 この時、足利方の北陸方面軍では抜群の家格と高い実力を誇る()()高経と最強兄弟の片割れたる婆娑羅武将の高師泰による主導権争いが繰り広げられていた。勿論、道誉や貞宗たち諸将の面前で。

 

 

(尾張(斯波)高経……千寿丸殿とは長井(大江)家が間に立っている分、比較的友好的なようだが、確執のある相手には容赦がない御仁のようだ)

 

 

(な、何だ?この殺伐とした足利軍の様子は……建武政権樹立直後と明らかに違う。天下が近くなると斯くも変質するものなのか)

 

 

「では、師泰殿。如何にして責任を取る心積りか、説明を」

 

 

「……軍を率いて瓜生どもを殲滅する。これで帳消しですぜ」

 

 

「良くぞ申された!皆の衆、今の言葉を聞かれましたな?師泰殿は能登国、加賀国、越中国の武士たち(兵六千騎)を率い、杣山城の瓜生軍を全滅させる!直ぐに発たれよ。お分かりであろう?早急に後顧の憂いを断つべし。瓜生軍が剣や白山の衆徒共と合流しては流石に厄介だ」

 

 

「は」

 

 

(チッ。言われなくても……だが、軍功を挙げて挽回する丁度良い機会だ。もし今回の話(瓜生の関所破り)が京に伝われば、高師泰(オレ)の名に傷が付く)

 

 

 いち早く足利方北陸方面軍は越前国に向けて討伐隊を派遣した。

 しかし、これこそ落とし穴であった。古典『太平記』によれば、杣山城の瓜生保は冷え込む気候の中、敢えて火を駆使した。

 周辺の村々の殆どを焼き払い、足利軍が野宿による凍死を回避しようと谷底にある湯尾宿に泊まらざるを得なくした上で、更に火攻めを敢行し、味方の部隊を突入させ、大勝利を得たのである。

 

 

「師泰殿……貴殿は低い知力の割に(師直殿)の戦術を良く理解し、瓜生軍が相手でも問題無いと思っていた……だが、今度という今度は笑えまいぞ。敵の戦術にまんまと嵌った。被捕縛者は三百余名。死傷者数は甚大。挙句、武器まで数多く奪われるとは何たる仕儀だ!」

 

 

「ぐッッッ……」

 

 

 憤る高経の剣幕を前に、師泰は悔しさで拳を握った。幾ら瓜生保が中先代の乱で活躍した(北陸で敵軍を討伐した)とは言っても、所詮は地方豪族である。

 事前の前評判で言えば、今まで数々の戦で軍功を挙げた師泰が敗れる筈のない相手に敗北を喫したのだ。せめて足利軍の正規部隊を率いていればと思うも、見苦しい言い訳は師泰の趣味ではない。

 一方で、嫡男(斯波家長)が麒麟児と呼ばれるだけあって、自身も知将の高経は思案した。天下屈指の猛将が負けたという唯ならぬ結果を見て、瓜生軍の脅威に対する認識を何段階も引き上げたのである。

 

 

「決めた。このままでは我が守護国の越前国が南朝の手に落ちる。私は北国勢三千騎を率い、瓜生軍対策のため、越前国府へ戻る」

 

 

「「「!?」」」

 

 

 尾張国の国司にして越前国守護の足利(斯波)高経の決断は早かった。

 しかし、ここで血相を変えたのが日に日に老練さを帯びつつある小笠原貞宗だった。土岐頼遠が超然としていた一方、貞宗は今回の新田軍との戦を通じ、不意になった近江国における軍功を清算しようとしていた。徒らな総司令官の不在は歓迎しかねるのである。

 

 

「待たれよ、尾張(斯波)殿。確かに越前国が陥ちれば、我々は窮地に陥るだろう。だが、最も脅威たる存在はやはり新田親子だ。総司令たるそなた抜きで、どうやって我ら連合軍が新田親子に勝てようか」

 

 

(尾張(尾張)め……まさかとは思うが、総司令官の交代を?ならば!)

 

 

「問題無い。寄せ手の総大将の任は師泰殿。代理をお頼みする」

 

 

「……応!」

 

 

(結局、こうなるか……)

 

 

 これ以上の失態があってはならない。総大将代理となった師泰は噛み締めるように頷いた。一方、あるいは仮にも近江国で新田軍撃退の実績のある自分こそが、新たな足利方の北陸方面軍総司令官に任じられるのではと、淡い期待を抱いた貞宗は一瞬で項垂れた。

 さて、本国帰還を決めた高経は諸将に呼び掛ける。越前国で南朝方が勢い付こうとしている今、北朝方にとっては試練の時だ。

 

 

「皆の者、くれぐれも軽挙妄動に走ること無きよう。今こそ正念場である。心して掛かろうぞ。来週には雪が解け、増援が参る!」

 

 

「「「は!」」」

 

 

 しかし、瓜生保の強さは本物だった。態勢の整わぬ内にと高経軍の到着前後を狙った伏兵による奇襲攻撃を敢行し、更には三千騎の軍勢を以て、敵軍の籠る親善光寺をも攻め落としたのである。

 そして、二月十六日。名将を連続撃破して越前国を南朝派に染め上げた瓜生保は五千騎にまで膨れ上がった軍勢を率い、満を持して金ヶ崎城へ向かった。目的は勿論、新田親子らの救出である。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 近江国より大軍を率いて金ヶ崎城包囲網に加わった六角家当主の千寿丸は面食らっていた。師泰が寄せ手の総大将代理になっていたこと自体は到着前から把握していたものの、想定以上に包囲軍の者たちの顔付きが危機感に溢れていたのだ。原因は明白である。

 北陸に居る足利方の諸将たちには高経(総司令官)敗戦の報により、瓜生保という武将は前評判より遥かに優れた名将であるという認識が植え付けられていた。他ならぬ千寿丸も詳しい話を聞き、眉を顰めた。

 

 

「正規軍を連れての行軍ではなかった師泰殿、到着早々十分に準備する間も無く襲われた高経殿……どちらも敗けるに足る理由はあったとは申せ、瓜生保。相当な実力者と見て間違いないだろうな」

 

 

(例えるなら姜伯約か?足利軍の誇る名将二人を撃破するとは只者ではあるまい。鋭い戦術眼はさることながら、機を見るに敏だ)

 

 

「宗家。瓜生だけではありません。金ヶ崎城に籠る新田軍もやはり強者揃いです。以前には小笠原殿の奇襲攻撃が新田四天王の栗生顕友の前に失敗。白兵戦に持ち込まれ、散々に撃ち破られました」

 

 

「ああ、塩冶殿。その話は聞いている。師匠(貞宗殿)の精鋭八百騎による攻撃が失敗した翌日には今川軍も敗れ、追い返されたらしいとも」

 

 

「はい。未だ逆茂木の一本すら破れぬ状況でして」

 

 

 古典『太平記』には金ヶ崎城に籠る新田軍の頑強な抵抗ぶりが生き生きと綴られている。終いに足利軍は小笠原貞宗や今川頼貞(頼国の息子)を以てしても攻め落とせぬことから、矢戦をするしかなくなった。

 つまり、攻め手を欠いたまま、日々を過ごしていたのである。

 

 

「……しかし、まさかこれ程とは。幾ら城に新田軍の名将たちの多くが集結しているとはいえ、土岐殿ですら上手く機能せぬか」

 

 

「城内に新田親子が揃っているので、土岐殿を下手に前線に出す訳にも参らなくなっているようです。仮に土岐殿を失えば、一気に新田軍が勢い付いて来るでしょうから、温存せざるを得ないと」

 

 

「むぅ。もし城内の新田軍と越前国の瓜生軍で挟み撃ちとなれば、幾ら包囲軍が増援で十万騎になったと言えど、油断ならないな」

 

 

「そのことですが……宗家。兵糧の準備は本当に万全なので?」

 

 

「ん?塩冶殿、不安なら今回従軍させた馬淵に確認してみるか?」

 

 

「……いえ、馬淵殿(近江国守護代)が居られるなら、安心です。この戦は長期戦となって兵糧の重要性が目に見えて増しています。金ヶ崎城内の者たちに残りどれだけの兵糧があるものかは分かりかねまするが」

 

 

 現在、千寿丸は分家の塩冶軍の船の上に居る。六角軍そのものは陸に居る道誉の京極軍に合流させ、自ら海上視察に赴いたのだ。

 そこへ急報が飛び込んで来る。話を聞き、二人は血相を変えた。

 

 

「遂に来たか!?瓜生軍!」

 

 

「宗家。急ぎ陸へお戻りを。我が郎党の八幡六郎に案内させます」

 

 

「ああ、塩冶殿!忝い!」

 

 

(今の師泰の側には優秀な軍師の師冬が居る。どうあっても一万騎に満たぬ援軍が我ら十万騎の包囲網を崩すのは難しい筈。しかし、それは城内からの出撃が無い場合……土岐軍と小笠原軍で食い止めるにしても、限度がある。ここは六角軍(我々)が気張らないことには)

 

 

 金ヶ崎城の沖を封鎖中の塩冶軍の船団から急ぎ自軍に戻って前線へと駆け付けた千寿丸だったが、既に両軍の決着は着いていた。

 得物(平和偃月)に首を括り付ける師泰の笑みに千寿丸は目を丸くした。

 

 

「も、師泰殿」

 

 

「応。勝ったぜ。時信のガキ(六角千寿丸)

 

 

「……平和偃月に大将首とは景気の良いことで。しかし、金ヶ崎城の新田軍は?てっきり新田親子が揃って出撃して来るものかと」

 

 

「それが何の動きもねェ。ま、バカ殿ってだけのことはあるわな」

 

 

 建武四年二月十六日、師泰が総大将代理として率いる足利方北陸方面軍は押し寄せた瓜生保や新田一族の里見時成の軍勢を撃退し、そうした主だった敵将たちを討ち取るという大戦果を挙げた。

 一方、城内の新田軍は一体何をしていたのか。本来、援軍が敵の包囲網に攻め掛かる時分こそ出撃する唯一の好機だった筈だ。

 答えは簡単だ。もう新田軍には出撃する余力が無かったのだ。

 もっと言えば、お腹が空き過ぎて完全に力が出なくなっていた。

 

 

「父上……我々が出撃できぬ間に援軍は壊滅し、城下の敵兵力は明らかに増大しています。事ここに至り、勝機は失われました」

 

 

「義顕、何を気弱なことを申す。父はまだ戦える……戦えるぞ?」

 

 

「……では、父上。義顕の一世一代の進言、お聞き入れください」

 

 

「?」

 

 

 一時は吉野朝廷の動きを知って沸いた金ヶ崎城の新田軍は瓜生ら(援軍の将たち)の戦死で、最終局面を迎えようとしている。嫡男(義顕)の提言を耳にし、(義貞)は頭のすぐ側に浮かぶクエスチョンマークを巨大化させた。

 親王たちがその様子を見詰める。建武四年(延元二年)春、新田家が()を奉じて天下に号令を掛ける北陸王朝の夢は幻に終わろうとしていた。




原作で登場する可能性がほぼ無いので、予め言うと、斯波義将(第伍章▲10の注を参照)は亡き長兄の家長の生き写しという造形でお出しするつもりです。
ところで、次話以降「婆娑羅レベル」が更なる領域に突入します。予めご了承ください。また、今年度私生活で抱えるタスクが急増する見込みなので、投稿ペースがあまり期待出来そうになく……
GWどころかお盆に顕家軍再西征(次章の途中から)が始まれば万々歳だと思います。
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