崇永記 作:三寸法師
〜1〜
吉野臨幸という行動そのものが、かつて大友皇子との覇権争いの過程で一旦吉野へ逃れ、その後巻き返して壬申の乱で勝利を収めた古の天武天皇を想起させる吉兆であると受け取られたのである。
とりわけ、
「正行よ。
「は!」
「そもそも朕が誇りや意地に囚われず、端から比叡山に逃れてさえいれば、
「滅相も無いことでございます。この正行、今は帝の御為戦うこと叶わずとも、時を迎えれば、父にも負けぬ忠節をお捧げします」
意気込みを新たにする楠木正行であったが、かと言って直ぐに足利討伐のための軍事活動を始められるという訳ではなかった。
未だ数百騎の兵を率いて
坊門清忠の進言に流されて軍神を死地に送り出した負い目があったのだろう。後醍醐帝は楠木家の方針を歓迎する姿勢を示した。
「親房よ。正成や主力人員の多くを湊川で失った楠木党を今焦って使い潰すのは下策であろう。しかし、果たして彼らが
「……帝のお望みは一日も早く京に戻ることにあると」
「然り。九州へ送った
堅牢な山里の吉野で虎視眈々と京を狙いながらも、自ら思うように軍を率いることの叶わない後醍醐帝が駆使した存在こそ、大覚寺統に属す親王たちだった。彼らの名の元に、足利氏を快く思わない地方武士を勇気付けた上で、南朝の尖兵として用いるのである。
しかし、直ぐに成果が上がるのであれば、苦労はしない。陸奥の北畠顕家ですら、足利方の奥州総大将にして関東執事の
そのため、顕家は
「帝。恐れながら、北陸のことで奏さねばならぬことが」
「恒良たちに何かあると申すか?親房よ」
「今も独自に綸旨を出しているようです。このままでは当国に帝が二柱ばかりか、三柱おられるようなもの。これでは幾ら足利や新田に渡した三種の神器が偽物に過ぎないと主張しようと、吉野から発する皇威に傷が。また、新田家が後の憂いになる可能性も排除できません。確かに恒良親王殿下は帝の皇太子であらせられますが」
「……」
場当たり的に新田家に
後醍醐帝が自らを上皇ではなく天皇であるという姿勢を京から吉野に移った今も崩さない以上、先の十月上旬に
果たしてこの状況を独力では京を取り戻せない今、どう対処したものか。ここに来て、後醍醐帝は吉野の御簾の影で頭を捻った。
「今出来ることがあるとすれば、探りを入れる程度か」
「ご英断にございます。早速、人を金ヶ崎に派遣しましょう」
こうして送られたのが亘理新左衛門という名の武士であった。
〜2〜
壬申の乱における天武天皇を思わせる後醍醐天皇の吉野遷幸の一報が知れ渡ったことで、北陸の南朝軍は明らかに勢い付いた。
特に越前国杣山城で南朝方として挙兵し直した瓜生
「師泰殿。今回の不始末の責は私にあろうか。そもそもガサツな貴殿に将兵の脱走を防ぐ関所の管理を委ねたことが誤りだったか」
「……いえ。全てオ、拙者の責任です。
(高経の野郎……底意地が悪ィ。こんな時に
吉野朝廷が正式に成立するまでの間、着実に新田軍を追い詰めていた
しかし、師泰は師泰で性格の良し悪しは言うまでも無いだろう。
この時、足利方の北陸方面軍では抜群の家格と高い実力を誇る
(
(な、何だ?この殺伐とした足利軍の様子は……建武政権樹立直後と明らかに違う。天下が近くなると斯くも変質するものなのか)
「では、師泰殿。如何にして責任を取る心積りか、説明を」
「……軍を率いて瓜生どもを殲滅する。これで帳消しですぜ」
「良くぞ申された!皆の衆、今の言葉を聞かれましたな?師泰殿は能登国、加賀国、越中国の
「は」
(チッ。言われなくても……だが、軍功を挙げて挽回する丁度良い機会だ。もし
いち早く足利方北陸方面軍は越前国に向けて討伐隊を派遣した。
しかし、これこそ落とし穴であった。古典『太平記』によれば、杣山城の瓜生保は冷え込む気候の中、敢えて火を駆使した。
周辺の村々の殆どを焼き払い、足利軍が野宿による凍死を回避しようと谷底にある湯尾宿に泊まらざるを得なくした上で、更に火攻めを敢行し、味方の部隊を突入させ、大勝利を得たのである。
「師泰殿……貴殿は低い知力の割に
「ぐッッッ……」
憤る高経の剣幕を前に、師泰は悔しさで拳を握った。幾ら瓜生保が
事前の前評判で言えば、今まで数々の戦で軍功を挙げた師泰が敗れる筈のない相手に敗北を喫したのだ。せめて足利軍の正規部隊を率いていればと思うも、見苦しい言い訳は師泰の趣味ではない。
一方で、
「決めた。このままでは我が守護国の越前国が南朝の手に落ちる。私は北国勢三千騎を率い、瓜生軍対策のため、越前国府へ戻る」
「「「!?」」」
尾張国の国司にして越前国守護の
しかし、ここで血相を変えたのが日に日に老練さを帯びつつある小笠原貞宗だった。土岐頼遠が超然としていた一方、貞宗は今回の新田軍との戦を通じ、不意になった近江国における軍功を清算しようとしていた。徒らな総司令官の不在は歓迎しかねるのである。
「待たれよ、
(
「問題無い。寄せ手の総大将の任は師泰殿。代理をお頼みする」
「……応!」
(結局、こうなるか……)
これ以上の失態があってはならない。総大将代理となった師泰は噛み締めるように頷いた。一方、あるいは仮にも近江国で新田軍撃退の実績のある自分こそが、新たな足利方の北陸方面軍総司令官に任じられるのではと、淡い期待を抱いた貞宗は一瞬で項垂れた。
さて、本国帰還を決めた高経は諸将に呼び掛ける。越前国で南朝方が勢い付こうとしている今、北朝方にとっては試練の時だ。
「皆の者、くれぐれも軽挙妄動に走ること無きよう。今こそ正念場である。心して掛かろうぞ。来週には雪が解け、増援が参る!」
「「「は!」」」
しかし、瓜生保の強さは本物だった。態勢の整わぬ内にと高経軍の到着前後を狙った伏兵による奇襲攻撃を敢行し、更には三千騎の軍勢を以て、敵軍の籠る親善光寺をも攻め落としたのである。
そして、二月十六日。名将を連続撃破して越前国を南朝派に染め上げた瓜生保は五千騎にまで膨れ上がった軍勢を率い、満を持して金ヶ崎城へ向かった。目的は勿論、新田親子らの救出である。
〜3〜
近江国より大軍を率いて金ヶ崎城包囲網に加わった六角家当主の千寿丸は面食らっていた。師泰が寄せ手の総大将代理になっていたこと自体は到着前から把握していたものの、想定以上に包囲軍の者たちの顔付きが危機感に溢れていたのだ。原因は明白である。
北陸に居る足利方の諸将たちには
「正規軍を連れての行軍ではなかった師泰殿、到着早々十分に準備する間も無く襲われた高経殿……どちらも敗けるに足る理由はあったとは申せ、瓜生保。相当な実力者と見て間違いないだろうな」
(例えるなら姜伯約か?足利軍の誇る名将二人を撃破するとは只者ではあるまい。鋭い戦術眼はさることながら、機を見るに敏だ)
「宗家。瓜生だけではありません。金ヶ崎城に籠る新田軍もやはり強者揃いです。以前には小笠原殿の奇襲攻撃が新田四天王の栗生顕友の前に失敗。白兵戦に持ち込まれ、散々に撃ち破られました」
「ああ、塩冶殿。その話は聞いている。
「はい。未だ逆茂木の一本すら破れぬ状況でして」
古典『太平記』には金ヶ崎城に籠る新田軍の頑強な抵抗ぶりが生き生きと綴られている。終いに足利軍は小笠原貞宗や
つまり、攻め手を欠いたまま、日々を過ごしていたのである。
「……しかし、まさかこれ程とは。幾ら城に新田軍の名将たちの多くが集結しているとはいえ、土岐殿ですら上手く機能せぬか」
「城内に新田親子が揃っているので、土岐殿を下手に前線に出す訳にも参らなくなっているようです。仮に土岐殿を失えば、一気に新田軍が勢い付いて来るでしょうから、温存せざるを得ないと」
「むぅ。もし城内の新田軍と越前国の瓜生軍で挟み撃ちとなれば、幾ら包囲軍が増援で十万騎になったと言えど、油断ならないな」
「そのことですが……宗家。兵糧の準備は本当に万全なので?」
「ん?塩冶殿、不安なら今回従軍させた馬淵に確認してみるか?」
「……いえ、
現在、千寿丸は分家の塩冶軍の船の上に居る。六角軍そのものは陸に居る道誉の京極軍に合流させ、自ら海上視察に赴いたのだ。
そこへ急報が飛び込んで来る。話を聞き、二人は血相を変えた。
「遂に来たか!?瓜生軍!」
「宗家。急ぎ陸へお戻りを。我が郎党の八幡六郎に案内させます」
「ああ、塩冶殿!忝い!」
(今の師泰の側には優秀な軍師の師冬が居る。どうあっても一万騎に満たぬ援軍が我ら十万騎の包囲網を崩すのは難しい筈。しかし、それは城内からの出撃が無い場合……土岐軍と小笠原軍で食い止めるにしても、限度がある。ここは
金ヶ崎城の沖を封鎖中の塩冶軍の船団から急ぎ自軍に戻って前線へと駆け付けた千寿丸だったが、既に両軍の決着は着いていた。
「も、師泰殿」
「応。勝ったぜ。
「……平和偃月に大将首とは景気の良いことで。しかし、金ヶ崎城の新田軍は?てっきり新田親子が揃って出撃して来るものかと」
「それが何の動きもねェ。ま、バカ殿ってだけのことはあるわな」
建武四年二月十六日、師泰が総大将代理として率いる足利方北陸方面軍は押し寄せた瓜生保や新田一族の里見時成の軍勢を撃退し、そうした主だった敵将たちを討ち取るという大戦果を挙げた。
一方、城内の新田軍は一体何をしていたのか。本来、援軍が敵の包囲網に攻め掛かる時分こそ出撃する唯一の好機だった筈だ。
答えは簡単だ。もう新田軍には出撃する余力が無かったのだ。
もっと言えば、お腹が空き過ぎて完全に力が出なくなっていた。
「父上……我々が出撃できぬ間に援軍は壊滅し、城下の敵兵力は明らかに増大しています。事ここに至り、勝機は失われました」
「義顕、何を気弱なことを申す。父はまだ戦える……戦えるぞ?」
「……では、父上。義顕の一世一代の進言、お聞き入れください」
「?」
一時は吉野朝廷の動きを知って沸いた金ヶ崎城の新田軍は
親王たちがその様子を見詰める。
原作で登場する可能性がほぼ無いので、予め言うと、
ところで、次話以降「婆娑羅レベル」が更なる領域に突入します。予めご了承ください。また、今年度私生活で抱えるタスクが急増する見込みなので、投稿ペースがあまり期待出来そうになく……
GWどころかお盆に