「いやはや、何故もうここに?『黒狼』が剣の聖地に辿り着いたのは知ってましたが、剣神は止めると思ってましたし、道中にはかなり足止めを」
「教えてやろうか」
泥沼は背後から聞こえた声に全力で前に跳んだ。
同時鼠色のローブの端が切り裂かれた。
泥沼の背後には褐色猫耳の女、ギレーヌが剣を振り切って立っていた。
「今の私は『母猫』だからだ」
「うぉおおお!」
体勢の崩れた泥沼にエリオットが雄叫びをあげながら一足跳びに近接し、剣を振るう。
紙一重でかわすそこにギレーヌの一閃が走り、エリオットが既に次の一撃の為に身を低くし構えている。
完全に剣士の間合い、隙を潰し会うコンビネーション、あと数度閃けばどちらかの刃は泥沼を捉えるであろう。
泥沼は冷や汗をたらし、剣閃の一瞬の合間にそれぞれに手を向けた。
「『電撃』!」
「くっ!」
「あぐっ!」
瞬間走る電撃に、二人の動きが鈍る。
それを見て離脱しようと泥沼が足に力を入れた瞬間、少しだけ足が滑った。
ほんの少しだけ凍った地面に足を取られ硬直した泥沼に、気合いで体を動かしたエリオットとギレーヌの剣が襲いかかった。
「っちいっ…!」
エリオットの剣は泥沼の右腕を肘辺りから切り飛ばし、ギレーヌの剣は左脇腹を深く抉った。
そのまま硬直した二人から一気に離れつつ、切り飛ばされた腕を回収し、向き直った。
ダラダラと血が流れ、泥沼はふらりと足を縺れさせた。
「ははは…ここまでみたいですね、退かせて貰います」
傷や切り飛ばされた腕を凍りつかせながら、泥沼が言う。
「っ…ふざけんじゃねえ!ここまで好き勝手やって逃げれると思ってんのか!?」
エリオットが硬直からとかれ、一歩踏み出そうとした時、周囲が突然沼へと変貌した。
同時にボチャン、と背後で音がした。
視界の端でルーディアの姿が消え、波打つ沼の水面と右手だけが見えた。
人差し指に嵌められた指輪がチカリと光った。
「かなりゆるーくふかーく作ったのでそのままだと『氷狼』さん、溺れ死にますよ?」
「てめぇ!覚えとけよ!糞野郎が!陰湿塵滓根暗クズ虫がぁ!」
エリオットは罵倒だけして直ぐに振り返り、荷物を全て沼と化してないところに放り投げ、 既に波紋だけが残るルーディアがいた沼に躊躇なく飛び込んだ。
「口悪っ。…さて、それでは『母猫』さんも、僕はここらで」
「何故お前程の冒険者がこんな事をする?」
ギレーヌも同様に荷物を全て放り投げ、体をルーディアの元へと向けつつ、泥沼に問いかける。
「足止めの冒険者…相当金を積んだだろう、あたしに挑むなんて相当だ。そこまでしてルーディアを何故狙う」
「…まあー、昔の知り合いというよしみで一つだけ。もう少ししたらやってくる御仁と敵対してるから、ですよ」
その言葉とともに、いつの間にか集まっていた雨雲から激しい雨と風が発生する。
視界はあっという間に悪くなり、泥沼の姿はそれに隠され、すぐに見えなくなっていった。
「ちっ!最後まで最悪な奴だ!」
どうにかルーディアを担ぎ水面まで浮上したエリオットを手助けする為、ギレーヌも沼に飛び込んだ。
沼から引き上げ、雨の影響外まで移動した三人だったが、事態は深刻だった。
ルーディアは息もしてるし意識もあるが、血の気がない。
傷は塞がっている、額も胸もひどい傷痕ではあるが、出血はない。
それでも体を動かす力はなく、魔力が枯渇してるのだろう、魔術で治癒する様子もない。
浅い呼吸を繰り返すだけのルーディアに、エリオットが悔しそうに下唇を噛む。
「…危うい状況だ、急いでシャリーアに」
途端、ギレーヌは背筋に走った悪寒に、思わず振り返った。
そこにいた男に今まで感じたこともない恐怖を覚え、総毛立つ。
ルーディアを背後に庇い、剣に手を掛けた。
「…む…ルーディア・グレイラット…漸く呼んだと思えば、死にかけているのか」
銀髪の厳つい男、『龍神』オルステッドがそこにいた。
先刻の嵐の中を突っ切ってきたのか、全身びしょ濡れだ。
雑に髪を後ろに撫で付け、三人を見据えるとふむ、と呟いた。
「何があったかはわからんが、ひとまず治療しよう」
「近付くな!」
「寄るんじゃねぇ!」
オルステッドが一歩近づくだけて、ギレーヌとエリオットの全力の威嚇が放たれる。
それに片眉をあげたオルステッドは足を止めはするが、困ったように続ける。
「その様子では街までももたないだろう。お前達に治療出来るのか?俺ならば命を助ける事が出来る」
「っ…!信用出来ん!」
ギレーヌは今にも剣を抜き、臨戦態勢に入りそうだった。
オルステッドから感じる恐怖は勿論、ルーディアが死の淵にいる事が恐ろしくて仕方なかった。
ギレーヌと同じく臨戦態勢で睨み付けるエリオットの袖が不意に引っ張られた。
ルーディアは震える手でエリオットの袖を引き、目を見つめ、首を少しだけ縦に動かした。
その動作に伝えたい事を理解してしまったエリオットは、苦虫を噛み潰したような表情になり、ギリ、と歯を鳴らした。
「…ギレーヌ、頼もう」
「エリオット!何を言っている!」
「ルーディアの意思だ、それに俺達には背負って運ぶ以外何も出来ないのも事実だ…」
「っ……!」
ギレーヌは悔しそうに俯き、エリオットもルーディアから一歩離れる。
そんな二人に、オルステッドは内心だけで敬意を表した。
「治療したら離れる。危害はくわえん」
オルステッドはそう言ってルーディアへと近付く。
ルーディアはその様子を見て、小さく一度だけ頷き、目を閉じた。
オルステッドが手を翳すと、みるみるうちにルーディアの胸と額の傷痕が消えていき、肌の血色が良くなっていく。
一度大きく息を吸ったルーディアの呼吸がそこを境に穏やかに変わり、エリオットとギレーヌは安堵の息を吐いた。
「ルーディア・グレイラット、二週間後程度を目安にまた呼べ。近く、すぐ駆け付けられる場所にいよう。また、この腕輪を預ける。ヒトガミの干渉を弾く効果がある。奴の声が鬱陶しければつけてみるといい」
オルステッドは自分がしていた腕輪をルーディアの右手に握らせて、その場から離れていく。
ルーディアはそこまで聞き、意識を保とうとしていた気を緩め、意識を微睡みに委ねていった。
「っ…助かった!ありがとう!」
エリオットは内心の敵意と恐怖に蓋をして、オルステッドに頭を下げた。
オルステッドは思わず驚いて振り返り、頭を下げるエリオットに対して口角を上げて応えた。
「ではな、暫くは安静にするといい」
その様子に、少しだけ、ほんの少しだけオルステッドへの警戒が薄れたような気がしたエリオットだった。