雨水が跳ねる夜の国道。雨のカーテンを潜りながら走る白のロータス・エスプリ。路面に溜まった雨水を跳ね飛ばしながら進むその運転はどこか荒く、運転者の心情を反映しているかのようだった。
「どうにも、ならねえのか……志保は」
エスプリのハンドルを握りながら言うその男は、まだ年若い青年だった。二十、いや、高校を卒業したばかりのような、それこそ幼さの僅かに残る十代の外見。
短く切り揃えられた茶髪に深い翠の瞳。モデルでも簡単に通用してしまいそうな端正な顔の持ち主だったが、今、その顔は焦燥と不安で歪んでいた。
「残念だけど、どうにもならないわよ。彼女は組織に反発した。彼女がその意志を翻さない限り、組織の姿勢が変わることはない」
苛立ちに声を振るわせる青年とは対照的に、助手席に座る女は、落ち着いた様子でその美しいプラチナの髪を指先で弄っていた。
女性の甘く深いローズの香水が、荒ぶる青年の心を落ち着かせるように鼻を撫でる。
「アドニス。この子を急かしたって、何も出来やしないわ。組織に仇なせば、囚われの姫と貴方がどうなるかくらいその沸騰した頭でも理解できているでしょう。貴方が一人でどうこうできる程、脆弱な組織じゃないわ」
女性は、車のダッシュボードを撫でながら、『アドニス』と呼ぶ青年を諭した。
その言葉に、アドニスのアクセルを踏んでいた足が緩む。唸っていたエンジンが徐々に静まっていく。
「それに、貴方が施設に乗り込もうとするのなら、私は貴方を止めるために銃口を向けるしかない。そんなつまらないこと、させないで頂戴」
そして、ハンドルを握る彼の手に女性が自らの手を重ねると、エスプリは、その火照ったボディを停止させた。
車体を打ちつける雨音が車内に響く。
暫く無言でいたアドニスだったが、重ねられた彼女の手をとり、白く美しい陶器のようなそれを両手で握ると、その甲に額を付けて、空の涙の音にかき消されてしまいそうな、か細い声を漏らした。
「頼む……ベルモット。志保を……シェリーを、助けてくれ……」
女性─ベルモットは、先程とは一変して、その触れれば今にでも崩れ去ってしまいそうなアドニスの姿に、憐れむような視線を向けながらも、その問いに対して、カシスレッドの唇を開くことは無かった。
雨脚が益々強くなる。ベルモットは自分の手に熱い雫が触れたのを感じて、目を閉じた。
ジャラリと、鎖が触れ合う音が響く。窓のない、コンクリートの簡素な部屋。
赤みがかった茶髪を揺らし、手錠の嵌められた腕を引く。しかし、パイプに繋がれたそれが外れることはなく、ただ部屋に金属音を反響させるだけ。
宮野志保─シェリーは、その音にただただ不快感を感じていた。
喉も乾き、視界も揺らぐ。もうどれだけの時間此処に繋がれているのだろう。薄汚れた白衣に視線を落とす。
「……ふふ、出来損ないのシェリーは廃棄される運命ってことかしらね」
漏れ出る弱音。力は強くない。周りには針の一本すら落ちていない。そして、誰よりも信頼する男が今、側に居ない。
「
ポツリと、その男の名前が口から溢れる。周りの目がある組織の研究所では、彼のことをコードネームで呼んでいたが、どうにも志保はそれが、彼のコードネームが好みではなかった。
だから、一人の時、彼と二人きりの時、彼女は彼をアドニスではなく、本名の『怜』と呼んでいた。
何度も、何度も、この監禁生活の中で、その名前は彼女の希望の灯火となっていた。消えそうな火に薪を焚べるように、志保は、怜の名を口にしていた。時間が経つにつれてその頻度は増え、もう、彼と出会ってからの日々を何周と思い返した。その度に気力が、意志が湧いてきた。
しかし、もうその暗示も効果の無いところまで来てしまった。精神が擦れ切った訳では無い。物理的な制限時間が来てしまった。肉体が、この環境に耐えられない状態にまで疲弊してしまっていた。
「……ここまで、かしら」
部屋に響いた諦めの言葉。
しかし、志保のそれは生命を放棄するという意味ではなかった。命の蝋燭が溶け切る寸前でもなお、志保は彼の顔を思い浮かべ、彼がかつて掛けてくれた言葉を反芻する。
「『志保が死んだら、俺はお前と同じ死に方で後を追ってやる』……ふふ、まるで呪いね」
自分が死ねば、彼も死ぬ。だからこそ、死を受け入れることはしない。彼がいなければ、とっくに志保は自死を選んでいただろう。だが、その言葉が志保を生の方向へと向け続けていた。
「けど、ここが限界。後は、天に任せるとしましょう」
とはいえ、白馬の王子様を待つ時間の余裕は無い。
だから、志保は懐から一粒の錠剤を取り出した。密かに忍ばせておいた毒薬『APTX4869』。
「幼児化現象。あくまで仮説だけど、もし工藤新一と同様の効果が現れれば……」
カプセルを天井に掲げて呟く志保。実験段階のマウスで確認されたその現象。しかし、その効果が現れたのは一匹だけで、同様の効果が現れたと予測している投与者工藤新一の存在も推測にすぎず、実際に観測したわけではない。
それでも、もう生き延びるためにはこれしか選択肢は無い。若返りという奇跡を体現させるしか方法はないのだ。
「まあ、引き当てられなかったら、彼も私の作ったこの薬を飲んで死ぬわけだし……」
どうせ後追いをするのなら、餓死、衰弱死よりも、私の手で殺されて頂戴。
そんな思いで、志保はカプセルを舌に置いた。
「……また会いましょう、怜」
目を閉じ、喉を鳴らす。
直後、骨を溶かすような激痛が、彼女の身体を歪ませた。