ホテルの入り口へと消えて行ったコナンたちを見送った後、新名由依─怜はホテルを出て、近くの駐車場へと戻った。
もう、偲ぶ会の来場者の殆どが去ってしまい、ほぼ車の残っていないそこで、エンジンを鳴らして待つ1台の車、ロータス・エスプリV8-SE。
怜は、その運転席に乗り込むと、既に助手席に座っていたベルモットに懐から取り出した缶コーヒーを手渡した。
「あら、ホテルの自販機に行っただけにしては、随分と時間がかかったみたいね」
それを受け取り、揶揄うような笑みを浮かべて、咥えていた煙草の火を消すベルモット。
「……ああ、コーヒーにするかお汁粉にするかでずっと悩んでた」
怜は、自分の顔を覆っていた変装を剥がすと、座席下に置いていた靴に履き替え、ハイヒールを後部座席へと放り投げた。
「……ピスコは?」
「ジンが始末したわ」
「……そうか」
ハンドルを握り、アクセルを踏む。
サイレンを鳴り響かせる消防車とすれ違いながら、エスプリを走らせて今夜宿泊予定のホテルへと向かう。随分とチェックイン時間は過ぎてしまったが、事前に連絡は済ませているので問題ないだろう。
「……それで?シェリーとは会えたのかしら?」
「何の話だ?」
車を走らせる怜の顔を眺めながら、ベルモットが怜にそう尋ねる。怜は誤魔化すが、付き合いの長いベルモットに見抜けぬはずもなく。
「嘘をつくとき、左手の小指が僅かに上がる癖、直り切ってないわよ。それに、ジンとウォッカから聞いてるわ。謎の男がシェリーの逃亡を手助けしたって。貴方のことでしょう?」
「……いや、ハンカチをピスコに渡したときにアイツのことを聞かされて急いだものの、結局、間に合ったのは幕が降りる寸前。俺は王子様役にちょっと手を貸しただけだよ」
すっ、と左手の小指を元の位置に戻して、怜はコーヒーを一口含む。
「あら、残念ね。王子様役、ほかの男に取られてしまって」
「……?なんでだ。別にアイツが助かるなら何でもいいだろ」
ベルモットは少しの悪戯心から、彼の嫉妬心を煽るが、怜は何とも思っていないように言葉を返す。
「あら、てっきり貴方は彼女のことを独占したいと思っているものだと……」
「それこそなんでだよ。別に俺はアイツが平穏に、幸せに生きれれば何でもいいんだ。味方なんて、男女問わずどんどん増えていって欲しいね」
ベルモットは彼の目、手、息遣いに目を向けて観察するが、特に変化は見られない。彼が、本心でそう思っていることに笑みを溢す。
「あらそう、なら良いわ」
その笑みを缶コーヒーで隠しながら、ベルモットは窓の外の雪に視線を投げる。
「それより、夕食、どうする?レストランの予約はキャンセルしちゃったわよ」
「ん、あー、ホテルのルームサービスで適当に済ませれば問題ないだろ」
チェックインを済ませた後で再び出かける気にもなれない。大女優にそんな扱いは失礼かもしれないけどさ、と彼は言った。
「……いえ問題ないわ、それで」
月明かりが照らす杯戸町。ベルモットが車内のオーディオを弄ると、落ち着いたジャズが流れ始める。
その音が、彼女らの心を落ち着かせていく。そこからホテルまでは、その曲とエンジンの音だけが彼女らの鼓膜を震わせていた。
暗闇を走るもう一つの車。フォルクスワーゲン・タイプ1、通称ビートル。
こちらの車内では、対照的に緊迫した空気が流れ続けていた。
麻酔銃を受けてなお動けたジンのこと、それに灰原の行動が読まれ過ぎていたこと。それに、謎の狙撃者。コナンの脳内には未だ多くの謎が残っていた。
「それに、ピスコは、ベルモットの他にいたもう一人の仲間と接触してる。その時、奴が灰原のことを伝えていたとしたら……」
「私が此処に留まっていれば、再び捕まるのも時間の問題ね……安心しなさい。明日にでも出て行ってあげるから……」
傷と薬の負荷。それに治りきっていない風邪で眠らずにいるのもやっとな灰原が、そう、途切れ途切れの声でコナンたちに伝える。
しかし、それを二人が素直に受け入れる事もなく、阿笠博士は声を荒らげ、コナンは馬鹿なこと言うなと口を止めさせる。
「待ってろ、直ぐに策を考えっから……」
そうは言うものの、組織が幼児化のことを知った以上、見つかるのも時間の問題だ。
シェリーがこの街に止まり続けることはないとジンたちには考えられているだろうとはいえ、幼児化のことを知っているのと知っていないのとでは、捜索の手段も範囲も全く異なってくる。それに、幼児化の線で再度薬の投与者を調べられたら、工藤新一に辿り着かれるのもそう遠くはない。
「くっそ……」
良い考えが思い浮かばず、座席の背に倒れ込むコナン。
「……ん?」
その際、ぐしゃりと首の後ろから音がしたのに気がつき、パーカーを脱いでフードの中を漁ると、一枚の紙が出てきた。
白い手のひらほどのサイズのその紙には、筆跡が分からないようにわざと文字の崩された英文が書いてあった。
「何だ、この紙……『The secret is in the fire.』……?」
「秘密は炎の中に……どういう意味じゃ?」
「それに、文章の後にもう一つ、小さく単語が……って、こいつは!?」
紙に書かれた文字を読むコナン。そして、その文に添えられるようにして書かれたその単語に、コナンは目を見開く。
「『Adonis』……これは……っ!」
「アドニス?そんな単語、聞いたことがないのお……」
コナンは深刻そうな表情を浮かべるが、阿笠博士はその単語の意味が分からず、首を捻っている。それを見たコナンは重々しい声で博士に伝える。
「アドニスは、ギリシャ神話、アフロディーテに愛された人間の名前だ。英語では美少年とか色男なんかの意味で使われる事もあるけど……それとは別に、この名前を冠する─」
「カクテルがあるのよ。「アドニス」って名前のね」
コナンの説明を遮って、灰原が簡潔にそう告げる。
それを聞いた阿笠博士は、途端に慌てた様子を見せる。
「カクテルって、まさか……!」
「ああ、組織の、恐らくピスコの奴にハンカチを渡した奴のコードネームだ」
コナンの背に冷や汗が流れる。やはり、ホテルの入り口で会った新名由依は組織の人間だったのだ。あの接触の際に、フードにこの紙を仕込まれたのだろう。
「その紙……見せてくれるかしら」
何か、この紙から得ることのできる情報はないかと手元で見つめるコナンに、後ろから灰原がそう頼んでくる。コナンが振り返ると、灰原はボロボロの身体を起こして、座席の隙間からコナンの手元を覗き込んでいた。
「お、おい、お前はまだ寝てなきゃだめだろーが」
「いいから、貸して」
貸して、と言いつつふんだくるようにコナンの手から紙を取った灰原は、じっとそれを見つめると、納得した様子で紙を自分の懐へと仕舞った。
「……安心しなさい。ピスコ、幼児化のことは組織には話してないみたいよ」
再び灰原は、後部座席に寝転がると、妙に確信めいた口調でコナンに言う。
「はあ?確かに、ピスコがお前の幼児化という秘密を持ったまま火の中で死んだ、そう読み取れなくはねーけど。組織の奴が渡してきた紙だぞ」
そう、これは組織の人間がコナンに仕込んだものだ。油断を誘う罠である可能性が高い。そうコナンは灰原を睨むが、灰原はそれを否定するようにゆっくりと首を振った。
「アドニスは、私が組織の中で、お姉ちゃんと同じくらい信頼していた人のコードネームよ。その彼がそう言っているのなら、事実。彼が私に嘘を吐くことはあり得ないもの」
「……そう言われてもなあ」
怪訝な顔で灰原を見るコナンだが、確かに灰原からはこのアドニスとかいうメンバーに対しての信頼が見受けられるし、普段、組織に対しては過剰なまでに不安を感じている彼女が、この紙を見ただけで、安心したような表情さえ見せている。
信憑性は兎も角、灰原がこの送り主と親しい関係にあったことは事実のようだ。
「はあ……オメーがそう言うなら信じっけどよ。後で、そのアドニスとかいう奴について教えろよな」
渋々納得してジト目でそう言うと、灰原はコクリと頷いて瞳を閉じ、直ぐに寝息をたて始めた。
コナンはそれを見届けると、座席に座り直し、『アドニス』へと思考を向けた。
新名由依は女性だったが、灰原が彼と呼んでいるので男なのだろう。会場では、変装のスペシャリストだというベルモットに変装を施されていたと考えて良い。
一瞬の遭遇だったが、あの短いやりとりを思い返し、彼の癖や特徴的な部分はなかったかと記憶を探る。
「(……そういえば、アドニスのレシピって──)」
「シェリー2/3、スイートベルモット1/3、そしてオレンジビターズを1dash……」
ミキシンググラスに酒が注がれていく。窓から注ぐ街の明かりが、グラス内の琥珀色に反射して美しく光る。
ベルモットはその美しい裸体を露わにしたまま、ホテルのソファに座り、側にある机で酒瓶と道具を広げ、それを作っていた。
「これが、現代的なアドニスのレシピ……。私がボスに進言した彼のコードネーム。シェリーを追って組織に辿り着き、私、ベルモットがメンバーに推薦して一員となった彼にピッタリのカクテル……」
ベルモットはその琥珀色を見つめて微笑むと、ソファの背後にあるベッドへと目を向ける。
ベッドはスイートルームに相応しいキングサイズ。その上には寝息を立てる怜の姿。ベルモットと同様、生まれたままの姿で乱れたシーツに包まっていた。
「……でも、私が好きなアドニスは1913年、ジャック・ストローブが記したレシピ」
ベルモットは、ミキシンググラスに更に追加でベルモットを注ぐ。愛おしそうに、丁寧に。
「シェリー1/3、スイートベルモット2/3、オレンジビターズ2dash……」
そうして、バースプーンを手に取り、ステアする。注がれた酒が混じり合い、一つになっていく。
完成したそれをカクテルグラスに注ぐと、ベルモットはそれを手にアドニスの眠るベッドへと向かう。
そして、彼の隣に腰を下ろし、彼の頬へ唇を落とすと、満足そうにグラスに口を付けた。
「そう、シェリーよりもベルモットの比率が大きいこのレシピが、私のお気に入り……」
甘いベルモットとシェリーの程よい酸味、それとオレンジビターズの爽やかで豊かな香りが口内に広がる。
もう、何度と作り、何度と口にした味。しかし、一向に飽きはこない。
「……ねえ、逃げてばかりなのも構わないけれど、もたもたしていると、彼を私色に染めてしまうわよ?今は『アドニス』かもしれないけれど、いずれは、ただの『ベルモット』に……」
ぐっとグラスを煽る。酒には強いが、今は何だか早く酔ってしまいたかった。
空になったグラス越しに、彼の顔を見る。警戒心も一切なく熟睡している彼を。
「ねえ、シェリー?」
思いつきのまま、特に設定の煮詰めもなく書き殴った作品ですので、以降の更新は予定しておりません。また気が向いた時にでも、徐々に文字を重ねていければなと。
ここまでお読みいただきありがとうございました。この作品が貴方の暇つぶしの一助になれたのなら幸いです。