「今度友達と舞台を見に行く」
そう告げる彼が妙に沈んでいてヘクトールは「いってらっしゃい?」と目を丸め首を傾げる。
そういうものを反対したことなどなかったと思うのだが。怯えているようにすら見える姿が不思議でならない。
長らく世界各地を駆け回り筆舌に尽くせない者たちと幾度となく死線を潜り日常的に交流を深めていた彼であるのだ。ちょっとやそっとの個性に気圧され困惑することもないだろう。ヘクトールが個人的に調べた限り、彼の交友関係に問題があるような者は見当たらなかったし。一体何があったのだろう。
ただ疑問符を浮かべるばかりのヘクトールに彼は珍しく、とても珍しくヘクトールの顔を見れないまま苦しげに口を開く。
「……トロイア戦争の舞台なんだ」
「ああ、そりゃあ、やることもあるでしょうなあ」
何せ座に記録されるくらい語り継がれている戦いのようだったらしいのだから。そういうこともあるだろう。「このほうが面白い、盛り上がる」と覚えのない脚色にまみれていたって思うことはない。それで飯が食えて楽しんでいる人がいるのならば好きにしたらいいと思う。
けれど彼にとっては思うことがいくらかあるらしい。
以前彼に言われたことがある。「あれだけあの国を、仲間を家族を愛して共に在った貴方を、たった独りでこんなところにまで連れてきてしまった」と。それを悪だと認識していてもなおその手を離したくない己の浅ましさを心底嫌悪するように泣いていた夜があった。
そんな風に思わなくていいのに。そう言ったところで今の彼の意識では門前払いだろう。だから何も言わずにただ抱き寄せた夜があった。そのまま明かした夜もあった。
けれどヘクトールには本当に思うことなどないのだ。自分でも驚くほどに他人事であるのだ。
現代に流通している書籍や映画。彼が持つチケットとは別の舞台に世界中に飛び交う研究や考察。『ヘクトール』やトロイア戦争についての様々なものに目を通した。しかしそれらから自分を感じ取れることなど一度もなかった。自分と同じ名と記録として同じ経位があるだけの全くの別人のそれを眺めているに過ぎなかった。どうやら自分はもう完全に『トロイアのヘクトール』ではないらしい。
それでもカルデアにいた頃ならば、弟や天敵や子孫やらと顔を合わせていたからいくらかの残滓はあったと思う。そしてそれに沿った言動は出来ていた気がするけれど今はもう。彼と出会い自分の奥底の何が軋み、それを修正する気もなく彼の手を離したくないまま過去の名残などどこにもない世界にい続ければそうもなる。それは彼の意思とは関係ない。まごうことなき自分の意思で決定された自分ひとりの責任だ。
けれどそんなことを言おうものなら彼はまた深刻に受け止めてしまう。だから絶対に言えないけれど、気にする必要なんてもうどこにもありはしないのだ。
「本当に嫌なら断ればいい。見たくないものは見なくていい。今回限りはそれで困る事態になんてなりはしないんだから」
「……」
無言で首を振られる。何でもかんでも真正面から受け止めればいいわけでもないと思うのだが。時には目を閉じ耳を塞いだって悪くはないと思うのだが。
彼の腰に手を回し引き寄せる。一瞬だけ震える身体には気付かぬふりをして包むように頭を撫でる。
「なら行っといで。どんな感想でもオジサンちゃんと聞きますから。ゆっくり噛み砕いて整理していけばいい。なーんにも心配しなくていいんですよ」
「……………………はい」
絞り出したかのようなか細い返事にヘクトールはまた優しく頭を撫でる。まるで迷子をあやしているかのようだったが、彼からしたらきっと、こちらのほうが余程迷子に見えているのだろう。