「オジサンこれで貧乏性だからさあ、あるものは全部使っておきたいって気持ちがあるんですよ。一回触っておけばいざという時にぼんやりと分かってなんとかなったのが分水嶺ってこともあるでしょう?」
「ああ……、まあ、言いたいことは分かるよ」
甘く香ばしい匂いをキッチン中に漂わせながらヘクトールはそう告げる。彼もそれにゆるやかに肯定しながらこの部屋の下見に来た時から備え付けられていたオーブンの説明書を開く。
確かにこの間鶏の丸焼きが夕飯に出てきたっけな。焼けるなら焼いてみたい。分かる。軽い設定ひとつで余分な油は綺麗に落とされ中はジューシー皮はパリパリの家庭で出来ていいのかと思うほどの素晴らしいものを堪能した覚えがある。カルデアの厨房でも何度か見た光景ではあったが、鶏が一羽丸々焼けていくのを見るのはそれだけで楽しいものがある。またクリスマスかいつかに奮発してやるのもいいかもしれない。
グラタンも良かったな。中に火が通る前に表面が焼けてしまう事態も珍しくないのにボタンひとつでちゃんと中まで熱々だった。きっとラザニアだって上手くいく。今度やろう。
ヘクトールが試す前には自分が試してみるのもありだろう。説明書によれば出来るらしいので煮物なんかも任せてみたい。自分で火加減を見ているよりも確実にパーフェクトな調整をしてくれるだろう。ああ、技術の進歩が人を駄目にする。味はあれでもやはりたまには自分でやらなくては。しかしせっかく極上に作れる機器があるのに駆使しないのは食材に対する不敬ではないだろうか。悩ましいところだ。ヘクトールがオーブンの機能をフル活用したがるのもきっとそういうところがある。と、思う。
そして鶏も焼けるのだから当然ケーキだって焼けるのだ。ふわふわでもちもちの大変美味しい仕上がりであった。中のクリームや果物も絶品で、瑞々しくも水分でスポンジをべちゃつかせておらず、互いの甘味を引き立てあう最高の塩梅で、おそらく相当いいとこの果物が使われていたのだろう。考えたくない。美味しかった。
そしてそういうケーキ類を作るための材料というのは一回分で売られていることは滅多にない。というか見たことない。なので一度では終わらせられない。
そしてそれら材料が全て同タイミングで使い切れるわけでもない。余らせて腐らせてしまうのももったいないしと余った分だけ買い足してしまう。そしてまた何らかが余る。
というわけで
「このままいけばオジサンケーキ屋さんになれちゃうかねえ」
「どうしてもって言うなら止めないけどヘクトールがこれ以上忙しくなるのはなあ」
「オジサンもマスターとの時間がこれ以上削れるのはなあ」
なんて軽口が出てくるほど調理回数になったりするのだ。
もちろん家庭用に家族分だけ作るのと利益も加味して不特定多数に量産するのとでは根本的に全く違うというのは理解している。そして臨時職員として彼の父の手伝いを不定期に就いている身として店なんて開けないのも重々理解している。ので、あくまでそういう軽口である。
焼き上がりの音がなり蓋を開ければ既に漂っていたふかふかの香ばしい香りが一気に広がる。今回も無事成功のようだ。安堵と期待と幸福にふたりの顔がわあと華やいだ。
今日の挟むジャムは半端に残っていたストロベリーとブルーベリーの半々で。焼きを待ちながら作っていた生クリームを塗りつければ立派なケーキの完成だ。フルーツもナッツも今日あいにくないけれど、貰いもののクッキーを砕いてばら撒けば食感も上がってとても良い。切り分けてお茶をいれていただきますをすれば至福の時間がやってくる。
「はあ〜。やっぱりケーキ屋になれますねこれ。これ一個でどこであろうと満員御礼長蛇の列」
「そこはふたりの秘伝にしておこう」
「マスターがそう言うのなら」
文明の利器に感謝の意を示しながら幸福そうに頬張るヘクトールを前に彼も幸福を噛みしめる。今日もふわふわのふかふかだ。おまけに自分の分はちょうどストロベリーとブルーベリーのジャムの境目で味の混ざりがとても美味しい。
さてこの甘やかで極楽な日々はいつまで続くのか。
見える在庫数と見えないヘクトールのオーブンへの興味期間を眺めながら彼はケーキを頬張り噛み締め、全てを身体に染みつかせるように熱くて濃いめのお茶をゆっくり身体に流していった。